マリー アントワネット 肖像画。 輿入れ前のマリー・アントワネットを描いた18世紀フランスの画家ジョゼフ・デュクルー

マリー・アントワネット

マリー アントワネット 肖像画

新しいシリーズのスタートです。 ご覧いただきまして、 ご評価(いいねマーク)を選んでいただけますと 今後の配信の参考になりますので、大変嬉しいです。 Eugenie de Montijo France Marie Antoinette Departure to the future1770 beautiful royal dress マリー・アントワネットといえば、高くそびえたつ奇抜なヘアスタイルが象徴的です。 そして、マリー・アントワネットが王妃になって、しばらくした頃(1775年頃)、登場したのが、駝鳥の羽です。 マリー・アントワネットは駝鳥の羽を頭につけるスタイルが大のお気に入りだったので、マリー・アントワネットといえば、駝鳥の羽というイメージすらありますよね。 元々は、男性の装飾品だった駝鳥の羽が、その時代(18世紀末)、宮廷の権威ある女性たちの頭を飾る、主流の髪飾りとなったのです。 ところが、フランス革命が勃発し、マリー・アントワネットが断頭台の露と消え、しばらく経った頃・・・ 18世紀末~20世紀初頭において、身分の高い女性の最も象徴的な髪飾りは『ティアラ』になりました。 『ティアラ』が流行り始めたのには、理由があります。 その仕掛け人たる人物が存在していたのです。 その、仕掛け人とは・・・あのナポレオン(・ボナパルト)です。 つまり、マリー・アントワネットは、『ティアラ』の流行の前に亡くなってしまったので、 マリー・アントワネットが『ティアラ』をつけたことはないでしょうし、また、『ティアラ』姿のマリーアントワネットの肖像画も存在しないでしょう。 それでは、今日は、ナポレオンはどんな思惑があって、『ティアラ』を流行させたのか?! そんなお話をしたいと思います。

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ポリニャック夫人とは?天使の顔と悪魔の心?革命でマリーアントワネットを見捨てた美女

マリー アントワネット 肖像画

革命の時代を生きた画家 典型的な新古典主義の画家、ダヴィッドの記念碑的な作品は、おそらく伝統的歴史画の最後の勝利だったといえる。 ファッショナブルなグレコ・ローマン様式を採用したダヴィッドは、こうした古風な主題を啓蒙主義の哲学と混ぜ合わせ、道徳的な模範を作り出した。 彼の直線は、当時の政治を反映した物語を劇的に描いた。 ダヴィッドは当時の最高の画家として、ルイ16世の君主制、革命後の政府、およびナポレオン・ボナパルトに仕えた。 これらの治世には根本的な違いがあったにも関わらず、である。 ダヴィッドはまた、ドミニク・アングルやフランソワ・ジェラールといった弟子を抱えた重要なアトリエを運営した。 王妃の最後の姿 ダヴィッドの芸術は、革命殉教者の英雄主義と愛国心との著しい対照をなす、無慈悲で熱狂的な傾向をも示している。 1793年10月16日に行われた処刑へ向かう道中のマリー・アントワネットの簡潔な描写の中には、ダヴィッドの最も残酷な部分が現われている。 窓から観察して描かれた女王の横顔は、残酷なまでに率直である。 マリー・アントワネットは37歳であったが、1年の禁固は彼女の見た目を年齢よりも老いたものへと変えていた。 髪は白くなり、入れ歯やかつら、コルセットは奪われ、死刑囚護送車の後ろの木製の厚板に座るその姿は、哀れなものに見えた。 しかし彼女は尊厳を保ったまま落ち着きはらい、不屈の精神でその最期を迎えた。 彼女は、死刑執行者の足を偶然踏んでしまったことを謝りさえしたという。

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【マリー・アントワネットの宮廷画家】ヴィジェ・ルブラン①【美術番組まとめ】

マリー アントワネット 肖像画

家族の肖像 この肖像画にはマリー・アントワネットの他に、左から長女のマリー・テレーズ、次男ルイ・シャルル(ルイ17世)、長男ルイ=ジョゼフが描かれている。 ルイ=ジョゼフがつかまっている空のゆりかごは、絵画の制作中に天然痘で死去した次女ソフィーを暗示している。 また、三角形の構図は、ルネサンス期の聖家族の絵画を思わせる。 マリー・アントワネットが着ている赤いドレスは、夫ルイ16世の祖母マリー・レクザンスカが肖像画の中で着ているドレスへのオマージュと思われる。 彼女の表情が晴れないのは、娘の死を受けてのことかもしれない。 しかしながら、全体としては、シンプルな中にも暖かな色調や子供たちと寄り添う姿が映える美しい作品となっている。 高まる批判の中で この絵が描かれた頃、人々の王妃への不満はかなり高まっていた。 1787年のサロンのオープニングで展示される予定だった本作品は、当時「首飾り事件」という事件をきっかけにして世論がアントワネットにあまりに批判的だったために、発表を見送ったとされている。 アントワネットお気に入りの宮廷画家であったヴィジェ=ルブランは、王妃のイメージを良くするため、この絵の中で王妃を母性に満ちた人間味ある女性として描いた。 また、宗教的・歴史的モチーフが随所にちりばめられているのも、フランス人好みであった。 この作品が描かれた2年後にはフランス革命が始まり、マリー・アントワネットは1793年に処刑。 二人の息子も幼くして亡くなっている。

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