大艦巨砲。 【歴史事件簿】マレー沖海戦(下) チャーチル絶句させた英不沈艦撃沈…「大艦巨砲」から「航空主兵」へ、先鞭つけたのは皮肉にも日本だった(1/5ページ)

【歴史事件簿】マレー沖海戦(下) チャーチル絶句させた英不沈艦撃沈…「大艦巨砲」から「航空主兵」へ、先鞭つけたのは皮肉にも日本だった(1/5ページ)

大艦巨砲

大艦巨砲主義(たいかんきょほうしゅぎ)とは、大きいことはということである。 概要 の技術発展に伴い、威力が増してくると、に多数のを並べることがむしろ弱点を晒すことになるため、その数を減らし、一門あたりの威力をあげることが重視されるようになる。 一方で敵艦砲の攻撃に耐えるため、艦船全体に装甲を施すようになる。 の始まりである。 さらにの役割分岐が進んでゆき、大型の戦艦と小型のに分岐していく。 その内の大型戦艦に用いられた設計思想がこれである。 技術が発展し、大砲の威力と大きさがほぼ比例するようになった事もこれを推し進める結果となった。 ここから転じて特定の方向性に一点特化(そしてそれ自体によってしばしば機能不全に陥る)することを比喩もしくは揶揄する意味でも使われる。 現実では第二次世界大戦で航空機とそれを搭載した空母の方がより重要という事実が判明し、実戦でその戦力の高さを示し、機動性・汎用性・コストパフォーマンスの面で劣る戦艦が重視されなくなった結果、現在は「戦艦」というジャンルごと廃れてしまっている。 (一応、ロシアのは「巡洋戦艦」と呼ばれることもあるが、厳密には装甲を備えた大型のミサイル艦である)... と思いきや、 大艦巨砲主義が現代によみがえる可能性が出てきた。 その理由は「 」である。 レールガンとは「電磁気力で弾丸を射出する」砲熕兵器であり、弾速は既存の火器を遥かに上回る。 アメリカ軍が開発中のものでは試験射撃で マッハ6を記録したとされ、2016年に試験運用が開始されるところまでこぎつけた。 何故これが大艦巨砲主義の復活に関わるかというと、前述の通りレールガンは弾速が桁外れな程高速である。 つまり「高速で動く目標にも対応しやすい」ため、 「砲熕兵器でありながら対艦ミサイル等を迎撃できる」可能性が高いのだ。 さらにさらに高弾速のため射程はそこらの大砲より長い(というかミサイル並み)上、命中した際に相手に与えるダメージも大きいとされる。 つまり実用化すれば、「砲熕兵器であるレールガンが対艦戦闘の主役になる」可能性があるのだ。 大艦巨砲主義の部分的な復活と言えるだろう。 とはいえ現代では 艦隊戦自体が完全な時代錯誤の代物であるため意味はないが。 しかしこうなるとイージス艦のやられる前にやるから装甲は薄くても良いという前提が覆される可能性もないわけではなく、砲弾に砲弾を当てて迎撃できれば問題はないのだがレールガンほどの高速飛翔体ともなるとどうなるか分からない。 レールガンが実用化するかどうかはともかく、タンカーとの衝突も増えてきた昨今、多少なりとも被弾を考えた装甲が必要になっている…のかもしれない。 pixivでは 上記の意味通り、戦艦のイラストに使われる以外に、 「大きければ大きいほど良い」というようなイラストに使われることがある。 特に「」のブレイク以降、派生タグ「」の使用頻度が増加している。 ちなみに艦隊これくしょん関連のイラストにではなく当タグが付けられる場合、を主とした砲撃艦の艤装が印象的なイラストである場合が多いようだ。 関連タグ 関連記事 親記事.

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大艦巨砲主義とは (タイカンキョホウシュギとは) [単語記事]

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大艦巨砲の旅 大艦巨砲の旅 第15回 「ぶらり鹿児島本線途中下車の旅、夏の九州の旅」九州 ACT1;オリンピック作戦発動! あしかけ5年にわたるビッグプロジェクトも無事カットオーバーし(本業のこと)ようやく、ちょっとは人間らしい生活(って毎晩、飲み歩くことかい!)に戻りつつある今日この頃、今の会社に入社して初めての夏休みをとることになったミンダナオ会長。 結婚相談所の調査票には「趣味:旅行と読書(本当の趣味は模型製作であることは秘密!)」と書き続けていながら、最近は出張はあっても旅行らしい旅行をしていないぢゃないか!というわけで、今回はついに九州上陸作戦なんである。 最高速度ならソードフィッシュにゃ負けねーぜ!てなわけで11時前には小倉到着。 ここでさっそくぶらり途中下車、在来線の鹿児島本線に乗り換えて折尾へ。 さらに筑豊本線に乗り換えて若松駅に着く。 筑豊炭田から産出される石炭をを全国に送り出す為にかつては巨大な操車場があった駅だが、石炭産業の衰退により、今はその面影を偲ばせるのは駅舎の傍に屋外展示されている9600型蒸気機関車 19633 と駅構内に保存されている石炭運搬貨車くらいである。 で、なんで最初の訪問地なのかというと・・・。 駆逐艦「柳」は大正6年5月5日に佐世保海軍工廠にて竣工した「桃」型二等駆逐艦である。 同年6月には第24駆逐隊に他の同型艦3隻と共に編入され、装甲巡洋艦「出雲」ともども第2特務艦隊の増援として地中海に進出した。 同艦隊は連合国側の船団護衛に大きな功績を残し「日本駆逐艦隊は地中海の守り神」とまで称されたという。 そして昭和15年4月には除籍された。 廃船となって太平洋戦争を過ごし、解体を待つ身であったが、戦い終わって再びこの老艦に出番が回ってきたのである。 洞海湾を響灘の荒波から守る為の防波堤として払い下げられた「柳」は昭和23年3月に上構を撤去し、 同年9月、「秋月」型駆逐艦の「冬月」、「涼月」と共に若松港口に沈設された。 その後洞海湾の埋め立てが進み、「冬月」、「涼月」は姿を消し、「柳」のみがわずかにその姿を留めている。 これがいわゆる「軍艦防波堤」で、初めて九州を訪れたときも若松までは来たのだが、結局その場所がわからず無念の撤退をした遺恨の地なのである。 あれから12年の歳月が経ち、少しは賢くなったミンダナオ会長は駅を出るとすぐにタクシーに乗り込む。 これなら間違いなし。 駅から20分ほど行くと・・・いましたよ!「柳」(写真)が!周囲をコンクリートで補強しているので艦体の露出している部分はあまり多くないのだが、明らかに「フネ」の形を留めている。 本来の甲板が失われている為、上から見ると船の水平面の輪切りを見ているような感じだ。 船体中央部の二重構造(船体外板と内側の仕切り)の間に重油や石炭を搭載したのであろう。 艦首材は当時の軍艦特有のスプーンバウを彷彿とさせる。 また、舷側は意外と強いタンブルホームになっているのに驚かされる。 大正時代の国産艦船として、例えこのような形にしても保存されていることはありがたいことと思う。 今まで保存・修復に力を入れてこられた北九州市港湾局に感謝するとともに、今後とも是非、貴重な文化遺産の維持をお願いします。 それにしても「こじま」解体してしまった千葉市の馬鹿役人とはエラい違い。 やはり「海の男」は違うのかな。 今回は行けなかったが、駅から車で15分くらいの高塔山中腹には「冬月」、「涼月」、「柳」の戦没者慰霊碑があり、そこにも「柳」のボラードが保存されている。 但し前述のように若松の「柳」は太平洋戦争は戦っていない。 襲名した「松」型駆逐艦の「柳」は大湊で大破した状態で終戦を迎えたが・・・。 そういえば、冒頭で紹介した9600型蒸気機関車は大正6年に製造されたもので「柳」と同期なのだ。 この旅行ではもう1両の9600型と出会うことになるが、やはり船という建造物は保存が難しいんだなぁ。 すぐ錆びるし。 ちなみに「桃」型ネームシップの「桃」のマストは戦後もしばらくは墨田公園に保存されていたらしいのだが、どこへ行ってしまったのか・・・。 ACT2;北九州、戦艦三昧! さて、鹿児島本線に戻って東郷駅に下車。 車で10分ほどのところに「宗像大社」があって、その境内にある「神宝館」では同社の宝物を展示されている。 何せ歴史のある神社なので古代から近代までいろいろな歴史的資料が展示されているが、その中でも変り種は戦艦「三笠」の磁気羅針儀であろう。 同艦が退役する際に外したものを大正13年に海軍省から納められたものだそうである。 しかし、銘板を見ると東京計器製作所合名会社と書いてある。 建造当初は英国製のものを装備していたはずだが、何かの際に国産品に換装されたのであろうか。 館内は写真撮影禁止なので、気になる方は肉眼で確かめられたし。 そのまま、鹿児島本線に戻って福間駅に行くつもりだったが雲行きが怪しそうだったので宗像大社からそのままタクシーで「東郷神社」へ。 名前からしてわかるように東郷平八郎元帥を祭神とした神社である。 ここには戦艦「三笠」の30サンチ主砲の先端1メートル程(写真)が保存されている。 また、同社宝物館には同艦の探照灯もあるらしいが、行った日は閉まっていたので見られなかった。 東郷元帥は昭和9年に没し、神社は同10年に創建されている。 各種の砲が7門展示されていたが、敗戦に伴い撤去されることになった。 が、せめて三笠主砲の一部だけでも、ということで地中に埋めて保存していたとの逸話がある。 社から坂を上っていくと海に向かって開けた広場になっており、「三笠」を模したにしてはえらく近代美術っぽいシルエットの艦橋とマストの大きなモニュメントがある。 また日本海海戦の状況を図示した八幡製鉄所製の金属板も置かれている。 なんてこといってたら、ついに土砂降りになってしまった。 日本海海戦のときも沖ノ島あたりでは砲声が遠雷のように轟いていたそうだが、このときも雷鳴がすさまじく、臨場感たっぷり。 とはいえ、そんなところに留まっていたら風邪をひいてしまうので早々に退散し、福間駅へと向かう。 (この3ヶ月後、東郷神社に再び訪れることができた。 そのときの顛末はを是非ご覧あれ。 鹿児島本線に戻ってきて今度は香椎で乗り換えて香椎線に入り香椎神宮駅で下車。 「香椎神宮」には戦艦「摂津」の12サンチ砲の砲身(写真)が保存されている。 大正11年3月に時の皇后陛下がこの香椎神宮に参拝されたことを記念して大正12年5月21日に参拝の御召艦を務めた「摂津」の砲が佐世保鎮守府から献上されたとのこと。 同艦はワシントン海軍軍縮条約により大正12年に標的艦に類別変更され、武装が撤去されている。 太平洋戦争まで各種訓練の標的を務めるなど地道に活躍を続けたが、昭和20年7月24日の呉方面の空襲にて大破着底、戦後解体された。 もう夕方ということで境内には人影もなく、古びた砲身相手にシャッターを押しまくる怪しい妖怪の姿がそこにあったとかなかったとか・・・。 munakata-taisha. odn. 佐世保に鎮守府が開庁したのが明治22年7月。 昭和20年の日本海軍消滅とともに廃止されるが、同28年9月には海上警備隊(現在の海上自衛隊)佐世保地方隊が開隊し、現在は第2護衛隊群の根拠地でもある。 海軍士官の懇親、宿泊施設であった佐世保水交社は明治31年に谷郷町から上町に移転、昭和20年の敗戦に伴いその建物は米軍に接収され将校クラブとして使われたが、同57年に日本に返還され、平成6年には防衛庁に移管された。 この往時の建物を修復し、さらに新しい展示スペースを追加してオープンしたのが海上自衛隊佐世保史料館「セイルタワー」である。 ここが素晴らしいのは幕末や日本海軍黎明期の展示に1フロア、日清・日露戦争の展示に1フロアを使っていることで、特にこの時期の艦船の模型(主に洋上模型)がこのようにたくさん見られるのはここか、ミンダナオ会の展示会くらいしかない。 ディスプレイや映像展示も今風で「お金かかってるなぁ」という感じ。 もちろん、海上自衛隊関連の展示も充実しているが、護衛艦「かえで」(前身はタコマ級パトロールフリゲート)の磁気羅針儀や操舵装置(写真)が保存展示されている。 マスプロ艦らしいシンプルながらも実用的な感じがアメリカっぽい?他にも退役して既に見ることのできなくなったオールドタイマー達の舵輪や号鐘などが貴重である。 1階以外は写真撮影禁止なのが残念なのだが、これらは1階にあるので撮影可能だ。 といってもあまり模型製作の参考にはならないかもしれないが・・・。 佐世保駅から長崎本線で鳥栖を経由し、基山を始発とする甘木鉄道に乗換える。 今は無人駅となっている太刀洗駅だが、かつての駅舎を活用した大刀洗平和記念館がそこにある。 軍民共用の飛行場が大刀洗に設立されたの大正8年というから航空史の草分け的存在であり、太平洋戦争中は主に教育等の後方支援にあたっていたが昭和20年3月から5月の断続的な空襲によりその機能を失った。 末期には同飛行場からも特攻で出撃した部隊もあり、同館には遺品の数々や戦時中、戦後まもなくの物資が不足していた時代の日常品(パラシュートの布で作ったワンピースや国民学校の机、椅子など)が展示されている一方、91式航空魚雷、97式艦上攻撃機の発動機(栄11型)、89式活動写真銃、零戦の各種構造材、各種無線機などが展示されている。 また駅舎に隣接して増設された展示室には世界唯一の97式戦闘機(写真)が展示されている。 平成8年9月博多湾で発見されたこの97式戦闘機は昭和20年、特攻出撃の為に満州から知覧に向う途中雁の巣沖で不時着した機体で搭乗員は救助されたが別の機体に乗換え、数日後知覧から出撃し戦死されたという。 発見された機体は甘木市、三輪町、大刀洗町により復元、同記念館で保存されている。 失われている外板などは薄い布状の部材があてがわれていて完全な復元はされていないがオリジナルの保存状況が良かったため外形などは往時の名戦闘機のそれを良く伝えている。 塗装はあまりよく残っておらず鈍い銀色になっている(元々は暗緑色だった?)が日の丸の赤ははっきり残っている。 館内は写真撮影禁止だが、記念館の方に許可を得れば97式戦闘機のみは撮影可能だ。 他に、戦後米兵が大濠公園でボート代わりにして遊んでいた旧糸島水上飛行場の零式水上偵察機の浮舟(フロート)と航空自衛隊で活躍した練習機T-33が屋外に展示されている。 大刀洗平和記念館は私設の記念館であるが、このように展示品は多岐にわたり、かつ充実している。 日本にもこのように素晴らしい篤志家がまだいるのだなぁ、と関心することしきりの貧乏旅人であった。 「海上自衛隊佐世保史料館 セイルタワー」 郵便番号857-0058 長崎県佐世保市上町114-2 電話:0956-22-3040 開館時間:午前9時30分から午後5時まで 休館日:毎月第3木曜日、年末・年始(12月28日〜1月4日) 入館料:無料 JR佐世保駅から市営・西肥バスで10分元町バス停下車徒歩2分 「大刀洗平和記念館」 福岡県朝倉郡三輪町高田417-3 甘木鉄道(株)太刀洗駅舎内 電話:0946-23-1227 開館時間:午前9時30分から午後5時まで 休館日:年中無休(但し都合により休館することあり) 入館料:大人:500円、小人300円 甘木鉄道 太刀洗駅下車すぐ ACT4;鹿屋も海軍カレー? 伝統の特急「つばめ」の名は当然のように九州新幹線に受け継がれた。 今はまだ新八代-鹿児島中央間しか開通していないが新八代より北は在来線の「リレーつばめ」に同じホームですぐに乗換えられるので九州の南北を往来するのに要する時間は大幅に短縮されている。 というわけで九州新幹線初体験のミンダナオ会長は鹿児島中央駅へ到着(12年前の旅行ガイドブックを頼りに旅行計画をたてたんで西鹿児島駅が鹿児島中央駅に駅名変更されたことを知ったのも旅行前日!まさにぎりぎりで間に合った浅深度航空魚雷のような騒ぎである)。 木目調の座席がおしゃれだが、走行時間が短いためか車内販売がないようなので缶ビールは事前に調達しておくほうがよい。 翌朝は朝早く出発し鴨池港から大隅交通のフェリーで垂水港へ。 流石尚武のお国柄、平時にあってもフェリーも外舷1号色と2号色とおぼしき濃淡の緑色で迷彩されている。 しかも舷側にはドイツ第三帝国のアフリカ軍団のようなやしの木の絵が大きく描かれていてカッコイイ。 垂水からバスで向かうは海上自衛隊鹿屋基地。 ゲートを入るとすぐに目に入るのは、お台場に行く度に「いつかはオレもこれくらい大きなヤツになってやるぞぉ!」と尊敬の眼差しで見上げた笹川良一、じゃなくて二式大艇!今年(平成16年)春に船の科学館からこちらに引越してきたのだ(写真)。 専用の広いスペースが充てられており周囲どんなアングルでも写真撮影可能だ。 また史料館の敷地のほうには二式大艇の子孫にあたるPS-1対潜飛行艇を始めとする海自が使用した懐かしい機体が屋外展示されている。 ざっとあげるとP2V-7、P2-J、S2-F(以上対潜哨戒機)、HSS-2A対潜ヘリ、SNJ、SNB、R4D-6Q、メンター、B-65、KM-2(以上練習機)、ベル47、OH6-J(以上練習ヘリ)、V-107掃海ヘリ。 そして珍しいところでは戦艦「比叡」の主錨が野外展示されている。 栃木県宇都宮基地に保管されていたものを昭和47年8月に移管されてきたもので重量6トンである。 他に89式53サンチ魚雷、92式53サンチ魚雷も屋外展示されている。 昭和11年、鹿屋海軍航空隊が創設された。 陸上攻撃機を主力とする同隊は太平洋戦争では開戦劈頭のマレー沖開戦では新鋭の一式陸攻を繰り出し、英戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」、同巡洋戦艦「レパルス」撃沈に一役かっている。 しかし同20年米軍が沖縄に上陸すると鹿屋基地は陸軍の知覧と共に特攻の最前線となってゆく。 戦後昭和28年12月、海上警備隊初の固定翼機運用部隊として鹿屋航空隊が発足した。 先ほど挙げた機体はまさに冷戦時代の安全保障の担い手達であったのだ。 そして史料館館内には海軍航空隊の栄光と挫折を象徴するにはこれ以上ないうってつけの機体が展示されている。 平成4年3月24から27日にかけて垂水市まさかり海岸で零式艦上戦闘機21型の残骸が海底から回収された。 ついで同年8月3日加世田市吹上浜で同52型が海底引き揚げられ、折りよく、新史料館の建設を検討していた海自鹿屋基地がこれを引き取り、いわゆる「ニコイチ」で1機の52型を復元することになった。 零戦は生まれ故郷ともいえる三菱重工名古屋航空工作所にて鹿屋基地隊員と共に修復作業が施され、新史料館が開館した同5年より同館2階で公開(写真)されている。 機体強度の劣化を考慮して栄21型発動機は外した状態で展示されており、また復元時に使用されなかった機材も展示されている。 20ミリ機銃は1号も2号も新品のように整備された状態で展示されていて流石に自衛隊だな、と思わせる。 また機尾のコーン部は木製のものが展示されており、大戦後期の物資不足になか零戦も木製化が進んでいたことを物語っている。 他、艦上爆撃機「彗星」の主輪や機上作業練習機「白菊」の座席、特殊攻撃機「桜花」のロケットエンジンも展示されているが、このフロアは零戦以外は撮影禁止となっている。 階下は海自航空部隊の歴史と任務を展示するスペースになっていて、実機部品を使った資料が圧巻。 P2-Jのレドームの輪切りの中にモノホンのレーダーがぐりぐり回っていたり、同機の対潜オペレーション機材が実機同様の配置で並べられていたり、となかなか視覚効果の高い展示方法に感心。 館を出るとすぐ傍に観光物産総合センターがあり、地元の名産品などを売っているが、見逃してはならないのが「鹿屋海軍航空カレー」だ。 お土産として知り合いに配ってしまったので味はわからないが鹿児島きもつき黒毛和牛使用なので地元名産の「海軍カレー」であることにはまちがいない。 さて、フェリーのデッキで初夏の心地よい風に吹かれながら再度鹿児島湾を横断し、バスで加世田市平和祈念館に向かう。 上記の零戦が引き揚げられた直後の平成4年8月25日、同じく加世田市吹上浜で零式水上偵察機11型乙が海底から回収された。 この機体は海軍第634航空隊、偵察302飛行隊の所属機で昭和20年6月4日沖縄方面に夜間索敵に出撃、米軍夜間戦闘機と交戦し、振切ったものの燃料不足となって加世田市吹上浜沖に不時着したものであった。 この時の搭乗員は全て海岸まで泳ぎつき、戦後もそれぞれの分野で活躍されたそうである。 さてこの機体は同館にて発見された当時の海底での状態をそのまま再現するかのように人工砂の上に横たわるように保存、展示(写真)されている。 そのため、欠損した部品の再現は行われていないが充分に零式水偵の流麗なシルエットは残されている。 このような展示方法のため、機体下面の状況は見ることはかなわないが、照明を暗くするなど保存に気を遣っていることもあり、上面の暗緑色や白フチつきの日の丸など60年も昔の塗装とは思えないほどきれいに残っている。 また機載電探の八木アンテナ取り付け基部も両舷ともしっかり残っておりまた水平、垂直尾翼の桁が木製になっていることもよくわかる非常に貴重な歴史的資料といえる。 フロートは失われているが、昨日大刀洗平和祈念館で見たし、この旅で零式水偵に出会うのは2回目ということになる。 昭和18年7月、陸軍は加世田市吹上浜に飛行場の建設を開始した。 同19年末に万世陸軍飛行場としてほぼ竣工、春にかけて第66戦隊(99式襲撃機)、第55戦隊(3式戦闘機「飛燕」)が進出する一方、同20年4月に沖縄戦が始まると特攻の基地になっていく。 もともとが砂丘であった上に当時セメントすら不足していたため周囲の山から山土、スイセイ岩を敷き詰めた不整地飛行場であったため、構造が頑丈な固定脚機でないと運用が難しかったらしく99式襲撃機、2式高等練習機を中心に121機が特攻機として散った。 同じく陸軍の知覧のほうが出撃した特攻機の数が多く、万世陸軍飛行場は機能していた期間が短かったこともあり、「幻の特攻基地」と言われている。 加世田市平和祈念館は同飛行場から出撃し、還らなかった方々の遺品を展示し、その遺志を伝えている。 零式水偵は海軍機であるが、後世にあの戦争の記憶を引き継ぐ物言わぬ語り部として安住の地を得たというべきであろう。 他に昭和59年1月に茨城県鹿島灘沖から回収された98式直協機の発動機、プロペラ、機関砲も展示されている。 なお館内は撮影禁止である。 (今回は筆者は祈念館の方に来意を告げて零式水偵のみ数枚、ということで写真を撮らせていただいる。 ) 知覧特攻平和会館は以前行ったこともあり、今回は残念ながらオミットした。 ここには以前、嵐山美術館にあった4式戦闘機「疾風」や薩摩半島沖こしき島近海から引き揚げられた零戦52型丙の胴体前部などが展示されているはずだが、ここも館内撮影は禁止のようだ。 夕方、鹿児島中央駅に戻り、熊本に向かう「つばめ」を待つが、同駅の新幹線用ロビーにはなんと焼酎のショットバーがある。 ここで水割りなんて頼んだらカウンターのきれいなお姉さんの視線が痛い。 「お、おいどんもロックでよか!」。 かろうじて面目を保ったかに見えたミンダナオ会長だったが、くだんのおばちゃん、ぐっと飲み干して「もう一杯!」。 薩摩のおなごはこわか・・・。 「海上自衛隊鹿屋航空基地史料館」 鹿児島県鹿屋市西原3丁目11-2 電話:0994-42-0233 開館時間:午前9時から午後4時30分まで(入館は4時まで) 休館日:年末・年始(12月29日〜1月3日) 入館料:無料 鹿児島空港よりリムジンバスで100分、鹿児島市内よりフェリーと車で75分 鴨池港から垂水港までフェリーで約50分、 垂水港から鹿屋バスセンター行きバスで約50分、航空隊バス停下車 「加世田市平和記念館」 鹿児島県加世田市高橋1955番地3 電話:0993-52-3979 開館時間:午前9時から午後5時まで(入館は4時30分まで) 休館日:年末・年始(12月31日〜1月1日) 入館料:大人:300円、小人200円 鹿児島中央駅から加世田市内へバスで80分、伊集院駅から加世田市内へバスで60分 ACT5;軍神の郷 明治37年3月27日夜、旅順港口に接近した日本海軍第2回旅順港閉塞隊はロシア軍の旅順砲台から猛烈な砲撃を受けていた。 まさに沈没に瀕する福井丸船上で行方不明の杉野兵曹長を指揮官広瀬武夫少佐(戦死後中佐)は一人残って捜索中、敵弾を受けて壮烈な戦死を遂げた。 この美談は語り継がれて、軍神として崇められ昭和10年、生まれ故郷の竹田に広瀬神社が創建された。 熊本から豊肥本線の始発に乗り豊後竹田駅へ。 かつての岡藩7万石の城下町でホームに降りると滝廉太郎の「荒城の月」のメロディーが流れる。 既に廃城となっていた岡城をイメージして滝はこの名曲を作曲したといわれており、かつて滝が竹田で暮らした屋敷は記念館となっている。 駅のすぐ裏手は断崖になっていて滝が落ちているとても風流な駅だ。 駅舎を出るとまだ8月になったばかりだというのにトンボが飛び交っている。 広瀬神社は駅から歩いて15分くらいのところにある。 広瀬武夫は任官時「比叡」(コルベット、初代)乗組になったことから2代目「比叡」(戦艦)のマスト(写真)が、戦死時は戦艦「朝日」の水雷長であったことから「朝日」のカッター(写真)が保存されている。 マストのほうは近代化改装前の後檣上半分の部分で、昔はトップとヤードもあったそうだが、今は支持用の金具しか残っていない。 木製なのでいつまで維持できるか心配ではある。 そういえば昨日、「比叡」の主錨を見たっけなぁ。 カッターのほうは一応屋根はあるところに置かれていて、思ったより保存状態は良いようだ。 昭和12年に海軍から奉納されたものということで、少なくとも戦艦時代の「朝日」のものとは考えにくいが艇首には金属製の「アサヒ」という銘板が残っており 右舷側のみ)、実際に旧海軍の「朝日」で使われていたものと思われる。 2階には広瀬の手紙など生前の様子を伝える資料を展示しており、「軍神」といういかつい言葉から想像されるそれとは違った明治人の生き様が感じられる。 また、社務所に行けば広瀬の絶筆を300円で頒布してもらえる。 ちなみに終戦時の陸軍大臣阿南惟幾大将も竹田市が本籍地ということで境内には顕彰碑が建立されている。 竹田というところ、全般にこじんまりした、落ち着きのある雰囲気のよい町並みで時間があれば数日滞在してゆっくりとしたくなるような趣がある。 が、いつも時間に追われるこの旅のこと。 雄大な阿蘇山を眺めながら熊本に戻り、鹿児島本線を北上し、大牟田で西鉄に乗換えて目指すは太宰府天満宮。 表参道右側の案内所の近くに「定遠館」がある。 明治28年2月5日夜半、清国北洋海軍が篭る威海衛に対し日本海軍は海戦史上初めての水雷艇による夜襲を敢行、清国艦隊旗艦「定遠」(装甲砲塔艦)は被雷、沈没を避けるため自ら浅瀬に乗り上げ、後に自爆した。 万策尽きた丁汝昌提督は日本側に降伏を申し入れ自決、この1週間後に下関で講和会議が始まる。 この「定遠」を解体する際に得た艦材を用いて建築されたのが「定遠館」であり、鉄製の門扉(写真)には砲弾が命中した後が生々しく残っている。 「定遠館」自体は普通の民家みたいな作りで、入口の木製の装飾が「定遠」から持ってきたのかなぁ?という程度でありし日を偲ばせる痕跡はあまりわからない。 実は佐世保で訪れたセイルタワーにも「定遠」の号鐘のレプリカが展示されている。 また、姉妹艦で後日本海軍戦艦となった「鎮遠」の錨はでご紹介済みなのでそちらも参照していただきたい。 そしていよいよ最後の訪問地門司港へ。 歴史的な建築物が多く残るここは「門司港レトロ」というテーマで観光に力を入れている。 まず門司港駅からして駅舎として初めて国の重要文化財に選ばれたという趣のある建物である。 まず向かったのは旧大阪商船でドームを持ったおしゃれな洋館造りである。 ここの2階は「わたせせいぞうと海のギャラリー」となっている。 船をモチーフにした絵葉書なども売っており、氏の作品はあまり読んだことがなかったのだが、なかなかいい感じの雰囲気だ。 またフロアの一画にはかつて大阪商船で活躍した船の模型や記念品が展示されている。 模型のほうの出来はまちまちだが、興味深いものもある。 そしていよいよ最後の目的地、九州鉄道記念館へ。 旧九州鉄道会社本社屋を流用した記念館で、九州における鉄道の歴史や活躍した車両が展示されている。 九州では戦後も長らく蒸気機関車が活躍したこともあり、9600型 59634 とC59型 C59 1 が保存されている。 流石にJRキモイリの施設なので(というか有料施設なので)若松の9600型とはくらべものにならないくらい保存状態は良好だ。 夕日に黒光りするC59のボイラーが眩しかったぜ!そしてここには大事なものがもう一つ。 旧0哩(ゼロマイル)標、明治24年の九州鉄道開業時、ここを鹿児島本線は起点としていたのであり、九州の鉄道はここから全て始まったのである。 というわけで九州縦断、鹿児島本線の旅もいよいよ終着点。 久々に充実した旅行ができたことを訪れた様々の神さまに感謝しつつ、帰りはビール片手に「のぞみ」に乗込むミンダナオ会長であった。 dazaifutenmangu. 19 「大艦巨砲の旅」(大艦巨砲主義者の部屋) 質問・問い合わせは、 E-Mail:.

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大艦巨砲主義 (たいかんきょほうしゅぎ)とは【ピクシブ百科事典】

大艦巨砲

大艦巨砲主義(たいかんきょほうしゅぎ)とは、大きいことはということである。 概要 の技術発展に伴い、威力が増してくると、に多数のを並べることがむしろ弱点を晒すことになるため、その数を減らし、一門あたりの威力をあげることが重視されるようになる。 一方で敵艦砲の攻撃に耐えるため、艦船全体に装甲を施すようになる。 の始まりである。 さらにの役割分岐が進んでゆき、大型の戦艦と小型のに分岐していく。 その内の大型戦艦に用いられた設計思想がこれである。 技術が発展し、大砲の威力と大きさがほぼ比例するようになった事もこれを推し進める結果となった。 ここから転じて特定の方向性に一点特化(そしてそれ自体によってしばしば機能不全に陥る)することを比喩もしくは揶揄する意味でも使われる。 現実では第二次世界大戦で航空機とそれを搭載した空母の方がより重要という事実が判明し、実戦でその戦力の高さを示し、機動性・汎用性・コストパフォーマンスの面で劣る戦艦が重視されなくなった結果、現在は「戦艦」というジャンルごと廃れてしまっている。 (一応、ロシアのは「巡洋戦艦」と呼ばれることもあるが、厳密には装甲を備えた大型のミサイル艦である)... と思いきや、 大艦巨砲主義が現代によみがえる可能性が出てきた。 その理由は「 」である。 レールガンとは「電磁気力で弾丸を射出する」砲熕兵器であり、弾速は既存の火器を遥かに上回る。 アメリカ軍が開発中のものでは試験射撃で マッハ6を記録したとされ、2016年に試験運用が開始されるところまでこぎつけた。 何故これが大艦巨砲主義の復活に関わるかというと、前述の通りレールガンは弾速が桁外れな程高速である。 つまり「高速で動く目標にも対応しやすい」ため、 「砲熕兵器でありながら対艦ミサイル等を迎撃できる」可能性が高いのだ。 さらにさらに高弾速のため射程はそこらの大砲より長い(というかミサイル並み)上、命中した際に相手に与えるダメージも大きいとされる。 つまり実用化すれば、「砲熕兵器であるレールガンが対艦戦闘の主役になる」可能性があるのだ。 大艦巨砲主義の部分的な復活と言えるだろう。 とはいえ現代では 艦隊戦自体が完全な時代錯誤の代物であるため意味はないが。 しかしこうなるとイージス艦のやられる前にやるから装甲は薄くても良いという前提が覆される可能性もないわけではなく、砲弾に砲弾を当てて迎撃できれば問題はないのだがレールガンほどの高速飛翔体ともなるとどうなるか分からない。 レールガンが実用化するかどうかはともかく、タンカーとの衝突も増えてきた昨今、多少なりとも被弾を考えた装甲が必要になっている…のかもしれない。 pixivでは 上記の意味通り、戦艦のイラストに使われる以外に、 「大きければ大きいほど良い」というようなイラストに使われることがある。 特に「」のブレイク以降、派生タグ「」の使用頻度が増加している。 ちなみに艦隊これくしょん関連のイラストにではなく当タグが付けられる場合、を主とした砲撃艦の艤装が印象的なイラストである場合が多いようだ。 関連タグ 関連記事 親記事.

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