関東 大震災 写真。 【関東大震災の3年後】大正15年頃の東京の映像が凄い

関東大震災の奇跡 100周年写真レポート 山村武彦 関東大震災の概要

関東 大震災 写真

記載された文章を拾ってみよう。 焼け残った吾妻橋。 この橋は橋板が焼けただけで、残ったその後へ、早速工兵が板を渡して修理したので数万の群衆が詰めかけている。 折れた十二階。 浅草名物のひとつ十二階が地震で第八階目からポッキリ折れた。 上にいた見物人は生きた者はない。 吉原の焼け跡。 東京一の歓楽境、名物の吉原もたびたび火災に見舞われたが、今度は地震と火事の両方で遊君の死者1500名とは何たる惨事であろう。 恐るべき猛火の前には何物もない。 わずか前の時間まで轟然たる響きを立てて走っていた電車も、哀れに骨を残して焼けてしまった。 涙をさそう迷子の群れ 警視庁に八百余名 今回の大災害に際し親に捨てられたあわれな迷子が現在警視庁に34名、管下各署に803名、計837名が保護されているが、うち20名ばかりは10日夕刻までに身元が判明して、それぞれ母の手に渡された。 なかにはほとんど半狂乱となり、親の名前や住所を忘れてしまった者が多く、10日夕刻済生会から警視庁に送られた鎌倉生まれの沢本しづ子(28)の如きは、可愛い我が子の顔を見て何ら感ずる様子もなく、行く先も解らないでいる。 このほか衛生不良に陥って死亡する憐れな小児が多い。 辛うじて火を逃れた電車は、焼け出された人々の立ち退き所として屈強のものであった 踏み越えた死体は 娘夫婦と孫 わが家族のゆくえもわからぬ清政技師 損害100億円か 建築のみで35億 恢復には20年を要する 仮小屋で芝居 20日杉に万事決定 焼残った歌舞伎座は工事を進め 人心を和らげる娯楽物 記事を拾ってみる。 稀有のしんさいの魔の手に呪われた神奈川県下の惨害は、調査の進むにしたがってますます酸鼻の極に達し、到底筆紙のよくするところではない。 累々たる死体の山、茫漠なる焼け野原にさ迷う飢民の群れ。 宛として(あたかも)この世ながらの修羅地である。 8日朝までに達した各地の情報は左のとおり。 横浜の死者3万余 郡部の死者4千余 横浜市の死傷者は所轄警察署の調査(8日)するところによれば左のごとし。 満足の家は一軒もない.

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関東大震災 学ぶべき教訓:朝日新聞デジタル

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関東大震災の奇跡 100周年写真レポート 山村武彦 関東大震災の概要 関東大震災のちょっといい話 関東大震災 100周年・写真レポート/山村武彦 関東大震災の概要 関東大震災からの100年間に日本で100人以上の犠牲者を出す地震が16回発生している。 つまり、日本は平均6年に1度は大規模地震に襲われている地震多発国である。 首都直下地震(30年以内発生確率70%)、南海トラフ地震(30年以内発生確率70~80%)、日本海溝・千島海溝地震(30年以内発生確率70%)など、日本中いつどこで巨大地震が発生しても不思議ではない。 100年前の史上最悪地震・関東大震災の教訓を、日頃からの準備と対策に利活用しなければならない。 震源断層は相模湾から東京湾方向へ20度~30度で傾く領域に広がり、その上を関東地方が乗ったブロックが平均して約7mのし上がったと考えられている。 すべりは、午前11時58分32秒に白い矢印方向へ松田付近から始まり房総半島南部方向に向かって秒速2. 5~3㎞の破壊伝搬速度で広がった。 断層すべりに要した時間は30秒~40秒程度とみられている。 上盤側の房総半島から三浦半島さらには伊豆半島の付け根にかけて、最大で2m近くも土地が隆起した。 一方で丹沢山地を中心に東京湾奥や下盤側の伊豆半島ではやや沈降したところもある。 相模湾から伊豆半島にかけて津波が襲来し1000人以上の犠牲者など大きな被害を出したが、東京沿岸では最大1m程度の波高で津波による被害はなかった。 9 (本震:9月1日11時58分32秒)M7. 9 (余震:9月1日12時02分)M73 (余震:9月1日12時03分)M7. ただし、当時の復旧・復興事業については、基本的には緊縮財政路線を堅持しつつ行われたという点が特徴的である。 一方、金融面では、被災企業が振り出した手形(震災手形)の日銀による再割引等の対応がなされた。 しかし、これらの政策的対応には、経営不振企業やそこに融資していた銀行の整理を先送りするとともに、旧平価による金本位制復帰に向けた環境を整えたという点で、その後の金融恐慌、昭和恐慌、軍部台頭への道を開くことになる 大正12(1923)年9 月下旬に震災からの復興のために帝都復興院が設けられたが、その総裁に任命された後藤新平は、同年11 月に予算規模40 億円の「帝都復興計画」(東京・横浜を対象とした都市計画)を打ち出した。 財政緊縮路線下では後藤の提案はそのままの形では受け入れられず、同年末に発表された同計画に関する経費の予算規模は、政府案の段階で約6 億円に縮減された。 この約6 億円は、大正12(1923)年度以降6 年間の継続費として扱われ、総額のうち初年度分の年割額である約1,500 万円が、大正12(1923)年度の追加予算に計上された。 6年間にわたる継続費の総額は、国会で与野党が対立するなかで4. 7 億円に減額修正されたものの、その後の更なる追加予算で1 億円強が増額されたことから、最終的には政府案とほぼ同額の予算規模(6億円)が確保された。 この帝都復興を主眼とした経費のほかにも、各省の営造物等の復旧に必要な経費(総額約7. 1 億円)が、大正13(1924)年度以降10 年間の継続費として扱われ、総額のうち初年度分の年割額である約1. 2 億円が、大正13(1924)年度の追加予算に計上された。 震災復興に関連した経費が巨額に上ったことから、我が国の財政状況は急速に悪化していく。 政府は、復興対策のための財源不足分は国債(「震災善後公債」10)で賄うことにした上で、新規の国債発行は震災対策関係のみに限定するとともに、一般会計における既定の国債発行計画を当分中止するとの方針を示した。 「震災善後公債」については、帝都復興対策の予算(当初は、大正12(1923)年度以降の6 年間にわたる継続費として総額で約4. 7 億円とされ、それに見合った金額として約4. 7 億円の発行が法定された。 そして、新規国債の発行が増加した結果、震災発生直前の大正11(1922)年度に約1. 1 億円であった国債費は、大正13(1924)年度にはその2 倍近くの約1. 9 億円にまで膨らむこととなった。 加えて、政府は約5. 5 億円の外債(「震災外債」)を発行した。 その背景には、被災地の復興を進めるために外国資材の輸入が必要であったものの、当時は我が国が保有する正貨(金本位制の裏付けとなる金貨や金地金等の資産)が減少傾向に陥っていたことから、政府が国外から新たな借入れを行わなければならないという事情があった。 ただし、国内産業の被災状況が深刻さを極めるなか、この外債の発行条件は我が国にとって不利なものとなり、その利回りは8%と、日露戦争当時に日本が発行した外債の利回り(5%強~6%)を上回った。 このため、当時発行された外債は「国辱公債」であるとの批判を受けた。 下記データは武村雅之氏著「未曾有の大災害と地震学-関東大震災」より引用 府県 住家被害棟数(棟) 死者数 (名)(行方不明者数を含む) 全半壊 焼失 流失・埋没 合計 住家全壊 火災 流失・埋没 工場等 合計 神奈川県 89,668 35,412 497 125,577 5,796 25,201 836 1,006 32,838 東京府 29,073 176,505 2 205,580 3,546 66,521 6 314 70,387 千葉県 19,474 431 71 19,976 1,255 59 0 32 1,346 埼玉県 8,845 0 0 8,845 315 0 0 28 343 山梨県 2,802 0 0 2,802 20 0 0 2 22 静岡県 8,523 5 731 9,259 150 0 171 123 444 茨城県 483 0 0 483 5 0 0 0 5 長野県 88 0 0 88 0 0 0 0 0 栃木県 4 0 0 4 0 0 0 0 0 群馬県 45 0 0 45 0 0 0 0 0 合計 159,005 212,353 1,301 372,659 11,086 91,781 1,013 1,505 105,387 災害史上最悪の犠牲者を出した背景には、複数の悪条件が重なっていたことがあげられる。 1、地震発生時刻: 午前11時58分という昼食の支度をしている最中(火を使っていた)で、136カ所から同時出火したこと。 2、気象状況: 台風が通過し能登半島付近を北上中で、吹き返しの強風が吹き出火した火災が短時間に延焼拡大していったこと。 3、広域大規模地震: 建物倒壊による被害が10府県にまたがる広域の大規模地震であって、倒壊家屋から出火し延焼しやすかったこと 4、消防設備: 地震の揺れで消火栓(消防水利)が使用不能、消防ポンプ車は東京府で38台しかなかった消防設備の未整備だったこと 5、木造密集地域: 東京府下町の人口密度は極めて高く、木造密集地域が多かったこと 6、情報伝達手段: 当時電話は一般家庭に普及しておらず、テレビはもちろんラジオ放送も実用化されていなかった。 通常の情報取得手段は電報と新聞が主なものであった。 しかし、東京にあった新聞社は地震発生により活字ケースなどが倒壊し印刷機能を失っていた。 さらに広範囲な火災により東京日日新聞、報知新聞、都新聞を除く新聞社13社は焼失してしまっていた。 最も早く復旧した東京日日新聞が夕刊を発行するのは9月5日で、発災後4日かかっている。 報道機能を失っただけでなく、通信、交通手段も断絶していたため、正しい情報を伝えることができず、根も葉もないデマ、風評、流言飛語が飛び交い、混乱を招き、無実の朝鮮人等を多数殺戮してしまうなど痛ましく取り返しのつかない事件を誘発していく。 「東京(関東)全域が壊滅・水没」「津波、赤城山山麓にまで達する」「政府首脳の全滅」「伊豆諸島の大噴火による消滅」「三浦半島の陥没」などと、被災地以外の新聞が憶測や伝聞に基づいた記事で混乱をさらに助長させた。 こうしたデマなどに基づく情報の中には「朝鮮人が暴徒化した」「井戸に毒を入れ、放火して回っている」というものまであり、情報の無い民衆を不安に陥れるだけでなく、虐殺を招く要因ともなった。 7、指揮命令: 加藤友三郎内閣総理大臣は、震災の8日前(8月24日)に病気で急逝していた。 そのため、大震災発生時は内田康哉が内閣総理大臣臨時代理として職務を代行していた。 そのため、指揮命令、情報伝達等が適切でなく震災翌日(2日)に戒厳令が発令されるが、それまで適切な情報や対策を打ち出すことができず、結果としてデマや風評に惑わされた自警団等の暴走、罪なき朝鮮人殺戮を防ぐことはできなかった。 その一方で奇跡としか思えない出来事やほっとするエピソードが伝えられている。 2013年9月1日で関東大震災90周年を迎えるにあたり、災害と教訓を風化させないためにいくつかのエピソードを紹介する。 調査を進めれば進めるほど、奇跡的なことの背景には、ある共通の法則が隠されていると思うようになった。 それは「 奇跡は一夜にして起こらず、適切な準備・覚悟・行動があってこそ奇跡が起きる」である。 国道1号線酒匂川橋落橋(神奈川県小田原市) 鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市) 東海道線馬入川鉄橋(神奈川県平塚市~茅ケ崎市) 炎上する横浜方面 横浜正金銀行(現神奈川県立近代博物館) 横浜駅 横浜市山下町付近(この瓦礫を埋め立ててできたのが現在の山下公園) 中央気象台の時計が止まった(地震発生の11時58分) 東京・日本電気三田工場 銀座四丁目 浅草方面(奥の建物は浅草十二階) 隅田川(向こうに見えるのが国技館といわれる) 本所被服廠跡(ここだけで約38000人が死亡) 被服廠跡で亡くなった約38000人分と集められた犠牲者のお骨合計約40000人分 被服廠跡に建てられた震災記念堂 上野駅前広場に避難した人々 上野公園にはピーク時約50万人もの避難者が押し寄せ、トイレ対策も間に合わず衛生状態が悪化 埼玉・千葉などの農家に汚物を肥料として引き取りを要請するも費用が折り合わず 東京湾沖合まで船を出し廃棄せざるを得なかった 10月に入って赤痢・チフスなどの伝染病が発生した 焼け落ちた万世橋駅(駅舎は一時遺体置き場になった) アメリカは大震災の報道が伝わると同時に日本救済のために全米で義捐金募集運動が行われた 日本人移民への排斥 運動が激化していたが、当時のクーリッジ大統領の命により アメリカ赤十字社に「日本 救済事務所本部」が設置された 「 1分 早ければ、 1人多く 助かる(Minutes Make Lives)」が募金運動の合い言だった 集められた日本 救済募金は約5000万ドルを超えた さらに 米国救済団は、麻布の高松宮邸(現港区)にテント病院を建てて、負傷者の救護にあたった アメリカや中国から救助隊や救護隊が駆けつけた 関東大震災のちょっといい話 リンクはフリーですが、画像等の無断転載はご遠慮願います.

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災害の概要• 地震名称:大正関東地震• 発生日:1923(大正12)年9月1日• 発生時刻:11時58分31. 震央:35゜19. 8'N 139゜8. 1'E ,深さ23㎞(図1)• 震源域:神奈川県西部から房総半島南東沖• 被害概要• 死者:約10万5400人(うち火災:約9万2000人,津波:325人,土砂災害:688人)• 全壊家屋:約29万4000戸(うち焼失家屋:約21万2400戸)• 地震による地殻変動• 隆起:2m(房総半島布良)• 沈降:0. 8m(丹沢山地)• 宇佐美龍夫(2003):「最新版 日本被害地震総覧[416]-2001」,東京大学出版会,全605頁• Blank(2006): Blank• 諸井孝文・武村雅之(2004):関東地震(1923年9月1日)による被害要因別死者数の推定, 『日本地震工学会論文集』,第4巻,第4号,21-45. 災害の解説• 水谷武司客員研究員による防災に関する解説です.• 地震による火災について解説したページです.大災害の主因が火災による被害であった関東大震災を例に解説をしています.• 地震動の増幅度を決め,地震被害の規模を規定する基本的な要因である地盤条件について,関東大震災を例に解説をしています.•

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