艦つく ap弾。 【艦つく】9月末に実施予定のVer.1.0.8のアップデートについて【考察】

【艦つく】9月末に実施予定のVer.1.0.8のアップデートについて【考察】

艦つく ap弾

結論から言ってしまうと、巡洋艦には強く、駆逐艦には弱い。 巡洋艦は手数の多さで攻める艦だが、戦艦は一撃がとにかく重い。 巡洋艦クラスなら数発で沈めてしまうほどだ。 戦艦は巡洋艦の射程外から一方的に攻撃できるため、敵の接近を許さなければ無傷で戦える。 当然、駆逐艦にも同じことが当てはまるのだが、駆逐艦は近づかなければ発見できないため、戦艦自慢の射程を活かせない。 しかも、駆逐艦は超強力な魚雷を持っているので、発見できる距離まで近づいてしまうと、今度はこちらが魚雷の餌食になってしまう。 さらに、駆逐艦は船体が小型なうえに高速なので、主砲を外すとリロードしている間に接近される危険性も。 そうならないためにも、戦艦は攻撃準備中に敵の駆逐艦から守ってくれる巡洋艦と行動する必要があるわけだ。 HEは命中すれば堅実にダメージを与えられ、さらに火災を発生させる可能性がある弾。 APは貫通力に優れており、当たりどころがよければ大ダメージを与えられる弾だ。 弾種の切り替えにはリロードと同じ時間がかかるため、戦況を先読みして切り替える必要がある。 HEとAPは敵の装甲厚に合わせて選ぶと効果的。 自分が戦艦を使っている場合は、相手が戦艦と巡洋艦の場合ならAP、それ以外の場合はHEと覚えておくといいだろう。 状況によっては例外もあり得るものの、使いながら徐々に慣れていけばオーケーだ。 とはいえ、『』は標的が遠いほどテクニックが必要になる。 もちろん相手もこちらに狙われていることに気付くと回避行動を取るため、先読みが重要だ。 遠距離射撃が苦手な人は、狙う場所を変えて撃つのがポイント。 敵を発見しても焦って一斉射撃せず、少しずつ照準を動かして1発ずつ撃つ。 すると弾を広範囲にばら撒けるので、少しくらいは命中するだろう。 当然、全弾命中させるのがベストだが、すべて外すくらいなら1発でも当てることを心がけよう。

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艦つく攻略 戦役12

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今、WoWs World Of Warships の無課金艦クリーブランドが面白い。 今まで紙装甲といわれ対空強いけど、他ダメダメっていうことでクリーブランド使ってなかったんだけど、 クリーブランドって課金艦ベルファースト並みにいろいろできる。 ヨイドレさんのいうところのベルファーストは「でっかい駆逐」の無課金艦版といったところだろうか。 対空が、そこそこ強いクリーブランド 8. 3以前ほどではないが、とりあえずクリーブランドの対空は強い。 最も対空防御放火を焚いたときの話だが、まぁ対空防御放火を焚かなくてもそこそこ高い。 ネプチューンぐらいあったらもっといいんだけどw とりあえず、しのげるし、知ってる艦長はクリーブランドに艦載機を飛ばしてこない。 なので序盤は、駆逐が近ければ、駆逐に同伴して駆逐を敵艦載機から守るお仕事。 岩場のある場所ならレーダーで敵駆逐を威嚇して駆逐の占領を助けてあげる。 駆逐の占領援護だけじゃない。 自ら占領までできちゃうクリーブランド クリーブランドの素敵なところは隠蔽が10kmほど。 レーダーが10キロ弱なので「発見」されたら駆逐がそばにいるってはっきりわかる。 逆にいえば、占領領域にはいっていれば、駆逐を追いかけてレーダーを投射する必要がないってこと。 レーダーの使いどころがわからないとか以前いわれていたけど、クリーブのレーダーは、追いかけて使うんじゃなくて誘い込んで使うものではなかろうか? そういう発想に切り替えるとレーダーが生きてくる場面の多いこと多いこと。 もちろん巡洋艦相手にもレーダーは生きてくる。 岩陰に隠れて味方戦艦からの射線が通るだろう巡洋艦にレーダーぽち。 隠れていたはずの自分がいきなり白日の下。 あわてて戦艦に砲を向ける。 場面によるけど、そしたら鼻先だして戦艦の攻撃支援。 隠蔽がいいからじろじろのお仕事にも最適 砲を撃つことだけがクリーブのお仕事ではない。 隠蔽がいいから砲を撃たずにじろじろしてあげるだけで味方の助けになる。 ティア8なのでどっちにしてもボコられる未来。 開き直ってヘイト集めをやってあげても案外楽しい。 アップグレードに「くねくね装置」を付けてあげるとお尻向けて逃げながらヘイト集めができるわけ。 速力はそんなすごいってほど早くはないけど、くねくね逃げは、速度ってあんまし関係ない。 敵との距離が10kmそこそこならくねるだけで砲をかわすことができる。 しかも隠蔽に入ったり砲撃したりを繰り返すことで相手のイライラは、加速する。 撃とうと思って砲塔向けるといなくなる。 とりあえず撃ってもほとんど当たらない。 撃ってきたかとおもったら、そっちかよ! アメリカのふんわり弾道は、岩場を超して隠蔽射撃 ご存知とはおもいますが、アメリカの船の弾道はふんわり弾道。 そのためAP弾よりもHE弾の方が使い勝手がいい。 バイタルを抜いたときの気持ちよさより、よく燃やすことに特化する。 案外クリーブランドの弾って戦艦燃やすんだよね。 そんで、予ダメカウンターが「じわじわ、じわじわ」って上がるのを楽しむwww アメリカ版でっかい駆逐艦、クリーブランド つまり、クリーブランドの運用としては忍者的な使い方。 意表を突いた作戦ではじめてクリーブランドが生きてくる。 ヨイドレさんのところでクリーブ面白そうだけどねぇ~。 という無課金派の艦長さんには、是非クリーブランドを試してほしいと思います。 ちなみに艦長経験値10ぐらいあれば、かなり楽しく遊べます。 なので簡単にとっかかれる。 13まで上げて上級をとって装填時間を上げてやると対空も10%上がって、さらに使いやすくなります。 こういう人でもありとおもったけど、フレッチャーにのせてしまってますorz フレッチャーは、8. 3になってかなりしんどい船になったので現在フレッチャーはお休み状態。 17レベまで上げて無線探知がつくとさらに使いやすいことになるので移動させようかちょっとお悩み中。

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「World of Warships: Legends」,2020年7月4日からアメリカ巡洋艦の「ダラス」と「ヘレナ」がアーリーアクセスとして登場

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艦歴 発注 起工 進水 就役 退役 除籍 その後 に戦没() 性能諸元 9,950 全長 588 ft 179 m 全幅 61 ft 9 in 18. 8 m 吃水 19 ft 5 in 5. 9 m 機関 製水管缶8基 製ギヤードタービン4基、4軸推進、107,000hp 最大速 32. の2番艦。 艦名はに因む。 その名を持つ艦としては2隻目。 ニューオーリンズ級重巡洋艦は、もともとはアストリアがネームシップとなる予定だった。 しかし、アストリアの竣工が USS New Orleans, CA-32 より遅れたため、ネームシップの座もニューオーリンズに譲らざるを得なかった。 概要 [ ] 一等巡洋艦 アストリアは、アメリカ海軍の重巡洋艦で、1934年(昭和9年)4月末に就役した。 1939年(昭和14年)4月 、アメリカで客死した大使のを日本に送り届けた。 緒戦では空母やと行動を共にし、として1942年(昭和17年)3月のやに参加した。 6月上旬のでヨークタウンが航行不能になると、提督はアストリアに移乗した。 8月上旬のでは、僚艦とともに輸送船団を護衛してに進出する。 未明、突入してきた三川艦隊のと交戦し 、アストリアはで沈没した()。 艦歴 [ ] 大戦前 [ ] アストリアは1930年(昭和5年)9月1日にので起工する。 1931年(昭和6年)7月1日に CL-34 (軽巡洋艦)から CA-34 (重巡洋艦)に艦種変更され、1933年(昭和8年)12月16日にレイラ・C・マッカイ(オレゴン州アストリアを創立した遠征隊のメンバーであるアレクサンダー・マッカイの子孫)によって命名、進水し、1934年(昭和9年)4月28日に艦長エドマンド・S・ルート大佐の指揮下就役した。 1934年の夏にアストリアはで長距離整調巡航を行う。 に加え、、、の、のを訪問し、1934年9月26日にに帰還した。 1934年秋から1937年2月までの間にアストリアはの第7巡洋艦分艦隊の一部としてを拠点として作戦活動に従事した。 1937年2月に第6巡洋艦分艦隊に配属され、活動を継続する。 両艦隊での活動の間、アストリアは平時の通常任務を行った。 この頃、後に大将に昇進する大佐が、昇進目当てで航海局への手紙作戦の末、アストリア艦長に就任した。 斎藤大使遺骨の礼送 [ ] 斎藤博 1939年(昭和14年)初め、アストリアは ()に参加するためにに向かった。 演習終了後、アストリアはを艦隊とともに出港し、3月3日にに到着した。 で燃料を補給した後、アストリアはに入港した。 これより先の、日本の・前駐米がワシントンで死去した。 1925年に当時のエドガー・A・バングロフト駐日大使が日本で客死した際、で遺体を礼送した返礼として 、アメリカ側はの火消しにも奔走した斎藤大使の遺骨を軍艦で礼送することとなった。 斎藤大使の遺骨はの付きの二等書記官に護られてアストリアに乗せられ、アストリアは3月18日にアナポリスを出港した。 3月24日にを通過する頃、アストリアは「在日本人団より、故斎藤大使の遺骨に対し哀悼の意を捧げます」というメッセージを受け取った。 アストリアは4月4日にハワイに到着し、その同じ日には斎藤大使夫人と2人の娘が(、16,955トン)でに到着した。 2日後、アストリアは先に出港した龍田丸に続いてホノルルを出港し、日本に向かった。 4月17日、アストリアは3隻(、、)に先導され、出迎えの軽巡洋艦と21発の礼砲をかわし、とをに掲げてに入港した。 午後、斎藤大使のの引渡し式が行われた。 斎藤大使の葬儀はにに於て行われた。 葬儀の後、日本側はアストリア乗組員に対し最大限のおもてなしを行った。 4月24日、大佐(アストリア艦長)とポール・シーマー・シース中佐(アストリア副長)とは駐日大使等と共にと謁見する。 駐日アメリカ大使館付け海軍武官ハロルド・M・ビームスは後に、「ターナー艦長がアメリカ側の最大限の誠意の表れとしてこの大任を果たしたことは、最も晴れがましいことだ」と回想した。 後刻、斎藤大使夫人と娘からアメリカ側に塔が贈られ、その塔は構内、ルース・ホールの正面に現存している。 アストリアは4月26日にに向けて出港し、29日に到着。 5月1日まで滞在し、その間に ()司令長官ハリー・E・ヤーネル大将の訪問を受けた。 アストリアは、を経て5月21日朝にに到着。 同地でアストリアは、 USS Penguin, AM-33 および雑役艦 USS Robert L. Barnes, AG-27 とともにした陸軍輸送船の救助にあたった。 作業後、アストリアはから「シードラゴン」でを横断し香港に向かっている途中で消息を絶った ()の捜索に参加し、およそ42万平方キロメートルの範囲を捜索したがハルバートンを発見することはできず、捜索は5月29日に打ち切られた。 真珠湾攻撃まで [ ] 10月、アストリアの母港はサンペドロからに移った。 1940年春、アストリアは第21次フリート・プロブレムに参加してハワイ水域で訓練を行った。 1941年4月2日、アストリアは真珠湾を出港し、4月8日にに到着後、13日にに入渠して ()とレーダーを装備した。 アストリアは7月11日に出渠し、ロングビーチ、サンペドロを経て7月24日に真珠湾に向けて出港した。 7月31日に真珠湾に戻ったアストリアは、9月前半までととの間で哨戒を行った。 その後、太平洋に出没するのに備えてグアムおよびフィリピン行きのアメリカ船舶に護衛がつくこととなった。 アストリアは輸送船 USS Henderson, AP-1 を護衛し、グアムとに寄港した後、10月29日に真珠湾に帰投。 アストリアは局地的な哨戒任務に戻り、事が平和なまま5週間が過ぎ去った。 太平洋戦争 [ ] この頃、司令長官大将は、険悪になっていく日米情勢に呼応し、ミッドウェー島とにの飛行機を増援として輸送することとした。 アストリアは12月5日に USS Lexington, CV-2 基幹の第12任務部隊( ()少将、旗艦)とともに出港し、ミッドウェー島に18機のと第231海兵飛行群の要員を輸送することになった。 12月7日(日本時間)の当日、アストリアの属する第12任務部隊はハワイの西方1,100キロの地点にあり 、既述のように航空機輸送任務のためミッドウェー島に向かっている途中だった。 中将の旗艦( USS Indianapolis, CA-35)もでの演習を終えた帰り道だったので、第12任務部隊に合流した。 第12任務部隊(空母レキシントン、重巡インディアナポリス、シカゴ、ポートランド、アストリア、駆逐艦5隻)は・・を結ぶ三角形内で敵の捜索を開始した。 南雲機動部隊と遭遇する機会はなく、13日(日本時間14日)に真珠湾へ戻った。 太平洋艦隊司令長官代理の中将は、に晒されているのを救援するため、空母機動部隊を派遣することにした。 3つの任務部隊のほかに、給油艦( USS Neches, AO—5)および USS Tangier, AV-8 を加えて16日に出撃してウェーク島に急行したが、パイ中将は22日に第11任務部隊(レキシントン)と第14任務部隊(サラトガ)に対し作戦中止を命じた。 23日にウェーク島の海兵隊は日本軍に降伏し、空母機動部隊は救援に失敗した。 12月29日、アストリアは真珠湾に帰投したが、その際アストリアに40名の船客が乗ってきた。 彼らは( USS California, BB-44)の乗組員で、真珠湾攻撃でカリフォルニアが着底した際の、一等整備兵曹マーティン・W・ベンダーを含む生存者だった。 アストリアは空母( USS Saratoga, CV-3)を基幹とするに合流し、12月31日に真珠湾を出港した。 1942年(昭和17年)(日本時間午後2時40分) 、日本の潜水艦の雷撃によりサラトガが損傷したため 、アストリアは僚艦とともにサラトガを護衛して引き返した。 サラトガは約5ヶ月間も戦線を離脱した。 第11任務部隊はレキシントンを中枢に据え、重巡アストリア、 USS Chicago, CA-29 、 USS Minneapolis, CA-36 および9隻の駆逐艦とともにとの間を哨戒する予定だった。 しかし、1月21日午後に計画が改められ、中将(旗艦)が企図するへの一撃に呼応してウェーク島を攻撃することとなった。 第11任務部隊はナチェスを加えて23日に真珠湾を出撃した。 しかし、出撃直後にナチェスがに撃沈される。 燃料不足が懸念されたことと代わりのタンカーがいなかったこともあって、第11任務部隊のウェーク島への奇襲作戦は中止された。 1月24日、第11任務部隊は真珠湾に帰投した。 南西太平洋での戦い [ ] 2月16日(日本時間2月17日) 、アストリアは空母 USS Yorktown, CV-5 を基幹とする ()(少将)に参加し、 USS Louisville, CA-28 、駆逐艦 USS Sims, DD-409 、 USS Anderson, DD-411 、 USS Hammann, DD-412 および USS Walke, DD-416 、給油艦 USS Guadalupe, AO-32 とともに出撃し、初めは方面に向かった。 ところが攻撃に向かったブラウン中将の第11任務部隊が、ラバウルから飛来した日本海軍のと交戦する。 被害はなかったものの奇襲の効果が失われ、燃料が乏しくなって空襲が中止された ()。 ブラウン中将が増援を要請していたのに応えて、第17任務部隊は第11任務部隊と合流することになった。 両任務部隊は3月6日に近海で合流した。 「」も参照 空母2隻(レキシントン、ヨークタウン)を基幹とする任務部隊は、ラバウル攻撃を企図していた。 珊瑚海を西進中の3月8日、攻略の前段階として日本軍がのとに上陸した。 空母機動部隊は、攻撃目標をラエとサラモアに切り替えた。 奇襲作戦中、重巡アストリア、ルイビル、シカゴ、 HMAS Australia, D84 および駆逐艦アンダーソン、ハムマン、 USS Hughes, DD-410 とともにの ()少将(旗艦「オーストラリア」)の指揮下に入り、ロッセル島近海で空母部隊の間接護衛にあたる一方で、から向かう陸軍部隊を援護した。 3月10日、空母2隻(レキシントン、ヨークタウン)は攻撃隊を発進させ、またアメリカ陸軍のも出撃した。 104機の艦載機による南からのを越えた攻撃は奇襲となったが、期待されたほどの戦果ではなかった。 それでも(旗艦)が護衛する日本軍諸艦船に大きな損害を与えた。 この攻撃により日本軍のに狂いが生じた。 作戦を担当する南洋部隊(司令長官中将)は、に大型空母の派遣を要望する。 交渉と調整の結果、ポートモレスビー攻略作戦 MO作戦に (司令官少将:、)と軽空母が参加することになった。 珊瑚海海戦 [ ] 「」も参照 3月14日、アストリアは第17任務部隊に再合流した。 、レキシントンと随伴艦は真珠湾に帰投した。 ヨークタウンと護衛部隊は、3月の残りの期間をで哨戒に費やした。 フレッチャー少将の命により、重巡アストリア、 ( USS Portland, CA-33)、駆逐艦ヒューズおよびウォークとともに給糧艦 USS Bridge, AF-1 のいるヌメアに向かい、4月1日に到着した。 翌日出撃し、珊瑚海の第17任務部隊に合流。 2週間余りの哨戒の後、4月20日から27日までに滞在した。 この頃、アメリカ軍は暗号解読により日本軍によるポートモレスビー占領作戦(MO作戦)を察知した。 太平洋艦隊司令長官大将は日本軍のMO作戦を粉砕すべく、レキシントンを中核とする第11任務部隊の新司令官に少将を任命し、空母ヨークタウンと合同して珊瑚海に向かうよう命じた。 また重巡シカゴがのから、クレース少将の重巡オーストラリアと軽巡( HMAS Hobart)が豪州からかけつけた。 アストリアは4月27日に第17任務部隊とともに出撃し、に2つの任務部隊は合流した。 先任のフレッチャー少将が両方の任務部隊を指揮する。 5月3日、フレッチャー少将は日本軍がを占領したとの報に接した。 フレッチャー少将は同地に空襲を仕掛けて、同時にヨークタウンの直衛にあたっていた重巡アストリアと USS Chester, CA-27 をツラギ島に送り込んで、動けなくなった艦船を片付ける腹であったが異議が出て、最終的には空襲のみが行われた。 ヨークタウン攻撃隊の戦果は期待はずれだったが 、それでも駆逐艦や特設艦艇3隻を撃沈し、敷設艦や駆逐艦等に小被害を与えた。 5月6日、ポートモレスビーへ進撃する日本軍輸送船団を撃滅するため、フレッチャー提督は指揮下戦力からクレース隊(重巡オーストラリア、重巡シカゴ、軽巡ホバート、駆逐艦3隻)を編成した。 また給油艦 USS Neosho, AO-23 と駆逐艦 USS Sims, DD-409 を南方に避退させた。 朝、フレッチャー提督はクレース隊を分離し 、日本軍輸送船団にむけ進撃させた。 つづいて錯誤と幸運の末に第17任務部隊攻撃隊がMO主隊の6隻を捕捉し 、軽空母を撃沈した。 一方、日本側の飛行機もをネオショーを空母と誤認して攻撃し 、護衛のシムスと共に撃沈した。 五航戦攻撃隊の薄暮攻撃を撃退したあと、第17任務部隊は夜戦を検討したが、実施されなかった。 朝、日米双方の機動部隊は攻撃隊を発進させた。 巡洋艦(アストリア、ポートランド、ニューオーリンズ、ミネアポリス)は敵襲に備えて対空陣形を取り、攻撃隊はMO機動部隊を捜し求めた。 11時ごろ、第17任務部隊に五航戦(瑞鶴、翔鶴)から飛来した69機 の攻撃隊が襲いかかり、これと同時に第17任務部隊の攻撃隊もMO機動部隊 を発見し、米空母2隻の攻撃隊は翔鶴に爆弾と魚雷多数を命中させて「撃沈」したと錯覚した(実際は爆弾3発命中、大破)。 ヨークタウン部隊とレキシントン部隊の距離はおおよそ9. 7キロから13キロ離れており、これは海戦終了まで変わらなかった。 アストリアのチョーンシー・R・クルッチャー艦長は「短くも激しい対空砲火を撃ち上げた」と回想したように、アストリアはレキシントン上空に猛烈な対空弾幕を張り、任務部隊が分離するとヨークタウンの防衛に回った。 アストリアの射手は一連の攻撃を「始まったかと思えば、すぐに終わった」と振り返り、少なくとも4機の日本機を撃墜したであろうと主張した。 この戦闘で日本軍攻撃隊69機(零戦18、艦爆32、艦攻18)のうち、瑞鶴(艦爆2、艦攻3)、翔鶴(零戦3、艦爆7、艦攻5)を失った。 一方、レキシントンに爆弾2発と魚雷2本が命中し、ヨークタウンに爆弾1発が命中した。 レキシントンは沈没を免れるかに見えたが、やがて激しい爆発を起こし、消火しきれないほど炎上した。 16時30分までに航行不能となり、レキシントンの艦長は艦の放棄を決意し、総員退艦を令した。 救助活動を終え、レキシントンは駆逐艦 USS Phelps, DD-360 の魚雷により処分された。 第17任務部隊はレキシントンを失い、ヨークタウンも損傷したが、日本軍のポートモレスビー侵攻を断念させた。 珊瑚海海戦は、連合軍側の戦略的勝利で終わった。 重巡アストリア、ミネアポリス、 USS New Orleans, CA-32 、駆逐艦アンダーソン、ハムマン、 USS Morris, DD-417 および USS Russell, DD-414 とともにヌメアに向かった。 5月12日に到着。 翌13日、アストリアと僚艦はヌメアを出港してトンガタプ島を経由し、5月27日に真珠湾に帰投した。 ミッドウェー海戦 [ ] 「」も参照 重巡洋艦群は遅くとも5月30日まで真珠湾で整備を行い、突貫工事で修理を終えたヨークタウンとともに 、に接近する日本艦隊に打撃を与えるべく出撃した。 第17任務部隊は、空母ヨークタウン、重巡2隻、駆逐艦部隊であった。 先任のフレッチャー少将(旗艦ヨークタウン)が、少将の空母2隻(、)を併せて指揮することになった。 連合軍時間(日本時間)の時点で、哨戒機は日本の輸送船、および2隻の水上機母艦、そして司令長官中将率いる南雲機動部隊を発見した。 連合軍時間(日本時間)、ヨークタウンは攻撃隊を発進させ、アストリアは予想される日本機の攻撃に備えた。 米空母3隻の攻撃隊は、南雲機動部隊の主力空母3隻(、、)に致命傷を与えた。 やがて第17任務部隊(ヨークタウン、アストリア、ポートランド、ハムマン、アンダーソン、ラッセル、モーリス、ヒューズ)に 、司令官少将が指揮する空母を発進した攻撃隊が襲いかかってきた。 4機(発進時6機中、2機が途中で分離) と18機を 、第3戦闘任務群のが邀撃し、艦爆10機と零戦3機を撃墜した。 残る艦爆8機のうち、2機を空母と護衛艦艇の対空砲火で撃墜した。 しかし、残りの艦爆6機がヨークタウンに対して投弾した(投弾後に1機墜落)。 爆弾3発がヨークタウンに命中し、激しく炎上した。 飛龍第一次攻撃隊は零戦3と艦爆13を喪失した。 フレッチャー少将は13時10分に自身、幕僚および将旗をヨークタウンからアストリアに移し 、ポートランドにヨークタウン曳航を命じた。 また航空戦の指揮をスプルーアンス少将に委ねた。 ヨークタウンの被害対策班の働きにより、13時40分までにはヨークタウンは応急修理を終え、航行可能になった。 しかし、程なくして大尉率いる10機のと、護衛の6機のがやってきた。 第16任務部隊から重巡2隻(、)と駆逐艦2隻(、)が応援のため合流し、戦闘機隊も加わった。 アストリアは海中に向けて砲火を撃ち込み、水柱の壁を作って雷撃を阻止しようとした。 にもかかわらず、九七式艦攻のうちの2機がヨークタウンに魚雷を命中させ、ヨークタウンは航行不能になった。 飛龍第二次攻撃隊は零戦2と艦攻5を喪失し、友永隊長も戦死した。 ヨークタウンは放棄されることとなり、アストリアや随伴駆逐艦はヨークタウンの乗組員を救助した。 その後、アストリアは僚艦と共に東方へ移動を開始した。 放棄されたヨークタウンには、駆逐艦ヒューズが監視役としてつけられた。 その後、空母ヨークタウンと駆逐艦ハムマンは日本時間午前10時頃にの雷撃を受ける。 ハムマンは轟沈、ヨークタウンは夜明けに沈没した。 アストリアは第17任務部隊の旗艦としてミッドウェー島北方を行動し、6月8日正午に空母を中核とする第11任務部隊と合流した。 6月11日、フレッチャー少将はサラトガに将旗を移し、部隊は6月13日に真珠湾に帰投。 アストリアはしばらくの間、修理と訓練を行った。 第一次ソロモン海戦 [ ] 戦没3日前の1942年8月6日に撮影されたアストリア 8月初め、アストリアは第62. 3任務群に加わり、を支援することとなった。 上陸作戦部隊司令官は元アストリア艦長の中将 、上陸部隊総指揮官は少将、掩護部隊指揮官は ()少将であった。 上陸作戦をフレッチャー提督が指揮する空母3隻(サラトガ、エンタープライズ、ワスプ)と戦艦が支援していた。 朝、アストリア以下の巡洋艦群はガダルカナル島沖に到着し、、()など島嶼に対する上陸作戦全般を支援した (、)。 上陸作戦が開始されるとラバウルから日本海軍の攻撃隊(27、零戦17、艦爆9)が飛来した。 連合軍側は、フレッチャー機動部隊から派遣されたと、各艦の対空砲火で応戦した。 連合軍側は戦闘機11と急降下爆撃機1を失った。 日本側は陸攻5、零戦2、艦爆9を失った。 その後、クラッチレー提督が指揮する掩護部隊は3つのグループ(北方隊、南方隊、東方隊)に分かれて哨戒をおこなう計画であった。 ガダルカナル島ルンガ泊地とフロリダ諸島の連合軍輸送船団に対する敵襲に備えたが、8月7日夜~8月8日朝にかけては平穏無事にすぎた。 昼間になると、ラバウルから再び一式陸攻23機と零戦15機がやってきた。 空襲で ()( USS George F. Elliott, AP-13)が炎上して雷撃処分され(三川艦隊襲撃時点では炎上中) 、北方部隊の駆逐艦( USS Jarvis, DD-393)が中破した。 F4Fは9機が失われた。 日本側は陸攻18と零戦1を失い、帰投した陸攻5も被弾していた。 フレッチャー提督の機動部部隊(空母3、戦艦1、重巡6、駆逐艦16)は、「燃料不足」のために引き揚げていった。 連合軍輸送船団の揚陸作業中止と撤退を迫られたターナー提督は、ガ島陸上にいたヴァンデクリフト少将と、重巡オーストラリア艦上のクラッチレー少将を輸送船(旗艦)マコーレー号に召喚した。 連合軍の指揮官たちは前後策を協議し、撤退の方針を決めた。 同夜の北方隊は、重巡 USS Vincennes, CA-44 、重巡 USS Quincy, CA-39 、重巡アストリア、駆逐艦( USS Helm,DD-388)、駆逐艦( USS Wilson,DD-408)(ジャービスの代艦) 、駆逐艦( USS Ralph Talbot,DD-390)であり 、サボ島と間の海域にいた。 同8日深夜から未明にかけて、(司令長官中将、参謀長少将、先任参謀大佐)が率いる8隻 が、西方からガダルカナル島沖に入ってきた。 三川艦隊はサボ島西方を進み、まず南方部隊に襲いかかった。 砲撃と雷撃により豪州重巡 HMAS Canberra, D33 は航行不能となり、後に沈没した。 重巡 USS Chicago, CA-29 は艦首部に魚雷が1本命中して戦線を離脱した。 駆逐艦 USS Patterson, DD-392 は損傷し 、駆逐艦 USS Bagley, DD-386 は何もできなかった。 南方部隊は警報を発しなかったか 、他のグループの受信状態が芳しくなかったか 、ともかく異変を周囲に知らしめることはなかった。 三川艦隊は些細なミスから鳥海隊(鳥海、青葉、衣笠、加古)、古鷹隊(古鷹、天龍、夕張)、駆逐艦に三分割され、このうち鳥海隊と古鷹隊が北方隊(ヴィンセンス、クインシー、アストリア、)に迫りつつあった。 襲撃前、グリーマン大佐(アストリア艦長)は就寝中であった。 突然、ヴィンセンスがに捉えられ、起床したリーフコール艦長は「照射をやめよ、われら味方なり」と打電しようとした。 まもなく20㎝砲弾が命中して炎上した。 クインシーも砲撃により炎上し、周囲を明るく照らし出して良い目標となった。 前から3番目を航行していたアストリアは、水上機からの照明弾投下をみて砲術長が戦闘配置を命じ、前方艦(ヴィンセンス、クインシー)に対する弾着を見て「」に対し主砲の斉射を開始した。 ところが起床して艦橋にかけつけたグリーマン艦長は、同士討ちと判断して射撃中止を命じた。 相手を確認して再び砲撃を再開したが 、三川艦隊からの第五斉射がアストリアの中央部に命中し、飛行機格納庫を炎上させた。 そこからは一方的に撃たれ始めた。 1番砲塔が破壊され、機関部も破壊されて乗組員多数が戦死、速力が低下した。 アストリアが、前方でのた打ち回っているクインシーを避けて追い越したその時、のサーチライトがアストリアを捉え、猛然と砲撃してきた。 さらに被害が増えたアストリアは最後の反撃を行い、これはの第一砲塔に命中した。 三川艦隊は高速で去っていき、アストリアはコントロールを失いつつ南に向かったが、やがてすべての動力が止まった。 3時ごろまでには、70名の負傷者を含む約400名の乗組員が船首楼甲板に集まった。 アストリアはおよそ65発も被弾しており、依然炎上していた。 乗組員はで消火にあたり、負傷者は艦長室に移送された。 駆逐艦 USS Bagley, DD-386 が接近し、アストリア艦長をふくむ大半の乗組員を収容した。 バッグレイがアストリアから離れた瞬間に、アストリアの艦尾で懐中電灯の信号がつけられ、生存者が残っていることがわかった。 明かりに照らされた、ヴィンセンスの生存者が乗ったを発見した。 いかだを収容したバッグレイは再びアストリアの傍らに戻り、グリーンマン艦長、シャウプ副長、ヘイズ機関長がアストリアに移乗して損傷具合を確かめた。 助かる見込みがあると判断し、グリーンマン艦長は決死隊を募った。 約300名のアストリア乗組員がバケツリレーの援軍として志願し、アストリアに乗り移ると消火作業の一方で排水を行ったり戦死者をにする準備も行った。 7時ごろ、掃海駆逐艦 USS Hopkins, DMS-13 もかけつけ、アストリアを曳航する準備に取り掛かった。 USS Wilson, DD-408 も9時ごろから消火と排水の手伝いを行い、10時過ぎにホプキンスとウィルソンはアストリアの曳航を開始した。 最期 [ ] ところがアストリアを曳航していたホプキンスは橋頭堡の警戒任務を命じられ、曳航を中止した。 ウィルソンは生存者を輸送船に移すために離れた。 かわりに駆逐艦 USS Buchanan, DD-484 が消火作業を引き継いだ。 曳航のため、 USS Alchiba, AKA-6 が派遣されることになった。 午前11時頃、火薬庫で爆発がおこり、傾斜が増加した。 水線下に開いた穴の補強が壊れ、傾斜を改善させる試みは全て無駄に終わった。 ブキャナンはアストリアの右舷に位置し、アストリア乗組員は艦後部に集中した。 ところがブキャナンは日本軍潜水艦(とがガ島に急行していた) を追跡するため救援作業を中断し、救命筏と、2隻の動力艦載艇をのこして去った。 アルキバが到着して救助作業を引き継いだ。 アストリアは転覆し、12時15分に完全に沈没した。 アストリア乗組員(士官83名、兵員989名)のうち、戦死者は216名、負傷者は186名だった。 ちなみに、ガダルカナル島上陸作戦の総指揮を執っていたのはターナー提督である。 前述のように、かつて斎藤大使の遺骨を日本に送り届けた時点でのアストリア艦長がターナーであった。 アストリアはの戦功で3個の従軍星章を受章した。 2019年1月30日にサボ島に眠る本艦を故・ポール・アレンの調査チームがヴィンセンスともに発見したことが明らかになった。 出典 [ ] 注 [ ]• 94米、幅20. 42米、平均喫水5. 94米、上記備砲の外に小砲10門、高角機關銃8門。 魚雷發射管は装備せず。 以下略• 0節 備砲20糎砲9門 12. 94米、幅20. 42米、平均吃水5. 94米。 上記備砲の外に小砲10門、高角機銃8門。 魚雷發射管は装備せず。 /魚雷發射管を全く捨てたこの變則的重巡のカタパルトはもう窮屈な煙突の間にゐる必要はないので發射管の位置に移り、後檣中心に大きな屯所を造りあげた。 同時に高角砲臺も前に移動し、前檣も愈々高く列國の重巡に近づいて來た。 司令長官中将を指揮官とする外南洋部隊 :重巡〈第八艦隊旗艦〉、重巡、重巡、重巡、重巡、軽巡、軽巡、駆逐艦。 第六戦隊司令官少将を指揮官とするMO主隊 :第六戦隊(青葉、加古、衣笠、古鷹)、軽空母祥鳳、駆逐艦。 翔鶴飛行隊長少佐が指揮する69機(瑞鶴:零戦9、艦爆14)(翔鶴:零戦9、艦爆19、艦攻10)。 MO機動部隊指揮官は、第五戦隊司令官中将。 第五戦隊(、)、第五航空戦隊(司令官少将:、)、第7駆逐隊(、)、第27駆逐隊(、、、)、祥鳳沈没後に合流した第六戦隊第2小隊(、)。 飛龍に帰投したのは零戦1と艦爆5にすぎず、この艦爆5のうち被弾使用不能1、修理後使用可能2だった。 駆逐艦ラルフタルボットは、南方部隊の駆逐艦と共に、掩護部隊の一番西側に配備されて哨戒をおこなっていた。 高雄型重巡洋艦(第八艦隊旗艦) 、第六戦隊(司令官少将:、、、)、天龍型軽巡(第十八戦隊司令官少将)、(軽巡、駆逐艦)。 豪州重巡洋艦(クラッチレー提督旗艦)は作戦会議のため哨戒海域を離れており 、南方部隊の指揮を重巡シカゴ艦長(ボード大佐)に委任していた。 脚注 [ ]• , p. 130原本246-247ページ 一等巡洋艦アストリア• , p. 114原本210-211ページ 一等巡洋艦アストリア• 330. 403. 474-476ガダルカナル泊地における連合軍の配備• 464-465. 谷光, 383ページ• 6〔 アストリアの結ぶ日米親善 〕• 7〔 午後一時十五分、アストリア號の艦載艇は静かに舷梯に横付され、遺骨を納めた白木造りの御堂は武装の米國水兵に捧持されて艇に移された。 外部リンク "That pagoda"• , pp. 374-375開戦時の海上兵力配備• , p. 393. , p. 394. , p. 203aウェーク第二次作戦 日、米機動部隊行動図• , pp. 203b-204太平洋艦隊司令部ならびに救援任務部隊の状況• , p. 204. , p. 214a撤収、救援の時期を失した米太平洋艦隊司令部• , p. 214b米守備隊の抵抗• , pp. 92-94開戦後の米太平洋艦隊の動静• , p. 332「伊六潜」、レキシントン型空母撃沈確実と報告• , pp. 111-112サラトガを雷撃• , p. , p. 377. , p. 114. 『38』377、414ページ、石橋、244ページ、• , pp. 128a-129米機動部隊の作戦• , p. 102. , pp. 437-439ラバウル空襲の断念と次期作戦への準備• , p. , p. , p. 128b. , pp. 118-120SR方面攻略部隊の作戦• , p. , pp. 71-72. , p. 486ブラウン、フレッチャー両合同部隊のラエ、サラモア空襲• , p. 479南洋部隊、空母二隻の増派要請• , p. , p. , p. , pp. 225-226MO作戦開始直前における連合軍側の態勢• , p. , p. , pp. 235-237連合軍側の作戦• , p. , p. 237. , p. , pp. 230-233ツラギ攻略部隊の戦闘• , p. , p. , pp. 281-282米攻撃隊の発進• , p. , pp. 104-105. , p. 195. , pp. 282-285「祥鳳」の沈没• , p. 102. , pp. 114-115. , pp. 294-295米空母部隊の状況• , p. , p. 307. 「」 Ref. C13072112000• , pp. 313-315MO機動部隊の邀撃• , p. 319. , p. 309. , pp. 320-322レキシントンの沈没と米機動部隊の引き揚げ• 143-145. , p. 146. , p. , p. 147. , p. 156. , p. 160. , p. , p. 163. , p. 390空母部隊邀撃配備につく• , pp. 389-390日本軍船団発見と攻撃• , pp. 83-85. , p. 201. , pp. 86-87「ヨークタウン」攻撃を受く 六月四日• , p. 351. , p. 338. , p. 206. 402. , p. 208. , pp. 436-437わが見事な攻撃• , pp. 347-354「飛龍」の第一次強襲成功• , p. 220. , p. 404. , pp. 355-362二次攻撃、さらに敵空母一隻撃破• , pp. 229-232. , p. 340. , p. 237. , p. 248. , p. 249. , pp. 520-524ヨークタウンの撃沈• , pp. 150-152ヨークタウンの撃沈• , pp. 98-99「ヨークタウン」の最後 六月七日• , pp. 82-84. , pp. 73-74. , p. 110. , p. , pp. 92-94. , pp. , p. 108. , p. 452. 312-314サボ島沖海戦にける連合軍掩護部隊勢力 司令官Victor A. 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A10113310500。 『写真週報62号 4月26日』。 Ref. A06031065700。 『外務次官『故齋藤大使遺骨礼送艦「アストリア」号来朝ニ関スル件』(故斉藤大使遣骨礼送艦「アストリア」号来朝に関する件)』。 Ref. C01001773600。 『外務次官『故齋藤大使葬儀並ニ「アストリア」号乗組員ニ対スル便宜供与ニ関シ謝意表明方ノ件』(故斎藤大使葬儀並「アストリア」号乗組員に対する便宜供与に関し謝意表明方の件)』。 Ref. C04014732600。 海軍研究社編輯部 編『』海軍研究社、1935年5月。 海軍研究社編輯部 編『』海軍研究社、1937年2月。 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ]• - (2010年1月1日アーカイブ分)• この記事はであるに由来する文章を含んでいます。

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