本当に 強い 戦国 武将。 まるで漫画だぜ!戦国武将『最強は誰?』ベスト5でランキング!

【いちばん強い戦国武将は誰なのか? 】

本当に 強い 戦国 武将

戦国最強の甲斐の虎・武田信玄 武田信玄 1512年~1573年 は、甲斐 現在の山梨県 出身の武将です。 戦国最強と謳われた「武田の騎馬隊」を率いて戦い、信長や家康を恐れさせ、甲斐の虎と呼ばれた信玄。 信玄は単に強いだけではなく、人望や知性も併せ持った知将としての一面も持っていました。 信玄は、父の信虎が甲斐を統一した前年に誕生しました。 幼いころから賢く、頭角を現していた信玄を信虎は嫌っており、武田家の次男であった信繫に家督を継がせようと考えていたそうです。 この父と子は相性が良くなかったようで、信玄も信虎のような乱暴な人間がいると内部に問題が起こると考え、家臣たちと反乱を起こして信虎を追放、これにより21歳で武田家の当主となりました。 一見冷酷に見える行為ですが、信玄は信虎を殺害したわけではなく、駿河に追放したものの十分に生活できるだけの金子を毎年送っており、これは親兄弟であっても殺しあうことが珍しくなかった戦国時代において、異例の恩情といえます。 信玄は非常に合理的な考え方をする人物で、重大な決断をする時には必ず家臣を集めて意見を求める「合議制」を採用したと言います。 武田24将という24人の家臣団をつくり、決選前には必ず集まって緻密な戦略を立てたと言います。 このために武田軍は一糸乱れぬ戦いを展開できたのですが、その片鱗は家督を継ぐ時から見られていたというわけです。 また、父とは不仲であった信玄ですが、弟達とは仲が良く、弟の信繫と信廉は信玄が党首となった後の武田家を支えたと言います。 特に信繫は武田軍のナンバー2として生涯信玄を支え、骨格が似ていたことから信玄の影武者を務めたともされます。 信玄の領土であった甲斐は石高があまり高くなかったため、領土を拡大する必要があったのですが、忍者を使って事前に情報を集め、緻密に戦略を立ててから戦いを挑んだために負け知らずとして知られるようになり、信濃、諏訪と領土を広げながらも、家臣の疲弊を最小限に食い止めたとされます。 信玄の有名な言葉に「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」という言葉があります。 これは信頼できる人の集まりは頑丈な城に等しく、情けは人の心を動かして味方を作るが、恨みは敵を作るという意味です。 これは信玄が生涯にわたって信条とした言葉で、彼の生き方そのものともいえるでしょう。 信玄は生涯、70回の合戦に出撃しているのですが、情報戦で無血開城に成功したことも複数あり、実は武力での全面戦争をしたことはあまり多くありません。 また、ライバルとされる上杉謙信との「川中島の戦い 1553年~1564年 」も、約12年に渡って続いたうえに5回の戦いが繰り広げられたものの、信玄と謙信が正面衝突したのは1度だけでした。 霧の中で一騎打ちをしたという2人の猛将は、この時は謙信の先制攻撃を信玄の軍配が防ぎ、決着がつくには至りませんでした。 謙信との決着がつかないまま、1570年に信長の天下統一を阻止するために京都に入った信玄でしたが、その最中に病状が悪化。 信長と同盟を組んでいた家康軍を撃退することに成功したものの、1573年に享年52歳で駒場で病死しています。 信玄は自分の湯治のため、そして傷を負った兵士や馬を癒すために各地に「隠し湯」を持っていました。 これは「信玄の隠し湯」として、現在も湯治場として愛されています。 戦の神様・上杉謙信 上杉謙信 1530年~1578年 は、越後 現在の新潟県 出身の武将です。 もともとは上杉家を補佐していた長尾家に誕生しましたが、29歳の時にその力量を買われて上杉家を相続することになりました。 謙信は長尾為景の末男として誕生しました。 家督は長男の晴景が継ぐことになっていたため、信玄は7歳で寺に入って僧侶になる修行を開始します。 しかし、寺で兵法を学ぶようになると夢中になり、寺を出る際には「この子は僧侶には向かない」という旨の手紙を持たされたと言います。 その後、14歳で元服した謙信は「長尾景虎」と名乗り、栃尾城を任せられます。 しかし、父が亡き後に新当主となった長子の晴景には武将としての才覚が無く、長尾家は周囲から侮られるようになり、景虎 謙信 の城もしょせん僧侶が守っている城と下に見られて、周辺の豪族たちから攻め込まれます。 景虎はこれを見事に撃退し、名を上げたのでした。 その後も兄に代わって謀反を起こした黒田秀忠を討つなどの活躍をみせた景虎を晴景に代わって当主にしようという動きがあり、1548年に19歳で晴景と養子縁組をしたうえで長尾家を相続、長尾家の当主となります。 戦国時代の武将たちは、皆自分の一族のためや、自分の野心のために戦っていましたが、謙信は少し変わった人物であり、自分に助けを求めてきた人物のために戦う武将でした。 生涯のライバルとされる武田信玄との衝突も、謙信が望んだものではなく、隣国の信濃に信玄が攻め入ってきた際に信濃の領主が謙信に助けを求めてきたため、それに応じただけというきっかけでした。 そして、後に上杉家の家督を継いだ際も、自らの野心ではなく北条家の制圧に苦しんでいた上杉家を助けるため、上杉憲政に要請されてのものだったと言います。 travel. 特に謙信が得意とした戦術は「車かがりの陣」というもので、謙信を中心として車の輪のように放射状に陣を配置するというものです。 そして、回りながら攻撃を仕掛け、前にいた隊が退くと次の隊が前に出ることを繰り返し、絶え間なく敵を攻撃できたとされます。 頼られると断れない性格をしていたことから、他の武将のために北条氏や信玄、信長といった列強と死闘を広げた謙信ですが、1587年に享年49歳で春日山城で倒れて永眠。 死因は脳卒中と考えられています。 謙信は武将の中で一番の大酒飲みであったとされ、どんぶりで酒を飲んでいたとも言われています。 1人で静かに飲むことが多かったそうで、酒を飲まないと手が震えるというようなアルコール中毒の症状も出ていたのだとか。 この辺の事情も、脳卒中で突然死を迎えたことと関係があったのかもしれません。 生涯独身を貫いた謙信に実子がおらず、養子の景虎と景勝のどちらかが家督を継ぐこととなりましたが、戦前に謙信が遺言を残していなかったこともあり内乱が起こり、弱体化したところを織田家に攻め入られて、謙信亡き後の上杉家は滅亡寸前まで力をなくしてしまいました。 内政に優れた最強武将・織田信長 織田信長 1534年~1582年 は、尾張 現在の愛知県 出身の武将です。 言わずと知れた天下統一を目指して駆け抜けた日本史上に残る名将ですが、信長は戦術に長けただけではなく、経済政策などにも力を入れ、政治家としても高い能力を持っていました。 織田信長は織田信秀の三男として誕生しました。 母親が正室であったことから、織田家の家督を継ぐ運命にありましたが、良く知られるように幼いころから奇抜な言動が多く、変わり者であった信長は「うつけ者」と呼ばれていました。 また、使用人であろうと腹心であろうと、気に入らないことがあれば斬り捨てるという気性の荒さで知られる信長ですが、乳児の頃からこの気性は見られていたようで、何人もの乳母の乳首を噛みちぎってきたと言います。 1551年に父の信秀が急死したことによって18歳で当主となった信長は、26歳で尾張を統一。 そしてその翌年の1560年には「桶狭間の戦い」で「海道一の弓取り」と称された今川義元を退けることに成功しています。 この時、京都入りを目指して攻め入ってきた今川軍は2万5000人、迎え撃つ信長軍は3000人程度でした。 そのため、誰もが義元の勝利を確信しましたが、敵の本陣がある桶狭間に狙いを絞って奇襲をかけました。 この時、幸運にも大雨が降って視界が悪くなったこともあり、信長は義元の首を取ることに成功したのです。 この勝利をきっかけに信長の勢力は急成長していきました。 ちなみに信長は、多勢に無勢と大騒ぎになる家臣たちをよそに、昼寝をしたり舞を踊ったりと全く動じる様子が見られなかったと言います。 その後信長は34歳で美濃を支配、40歳の時に足利義満を追放して室町幕府を滅ぼしました。 そして1575年の「長篠の戦い」では武田軍に勝って、信長の象徴となる安土城を建てました。 これまで兵士といっても普段は農民で、合戦時だけ武器を取るのが普通でした。 しかし信長は武士と農民を分け、訓練された集団をつくりました。 また、才能のある者は身分に関係なく引き立てて出世させ、能力の高いものだけを集めるようにしたのです。 また、少年時代から鉄砲の術を学んでいた信長は、戦いを有利に進めるには鉄砲が必要であると考え、早くから買い集めていたと言います。 鉄砲は強力な武器でしたが、弾を込めるのに時間が掛かるという難点があったため、信長は「三段がまえ」という戦法を編み出しました。 これは、3列に並んだ鉄砲隊が交代で前に出て攻撃をするという方法で、これによって時間が空くことなく攻撃し続けることができたのです。 また、信長は経済政策にも力を入れており、その政策の1つとして「楽市楽座の法」の発令が挙げられます。 それまでは商人組合の者しか市で商売ができなかったものを、場所代さえ払えば誰でも自由に商売ができるように変更したのです。 おかげで城下町は大変賑わい、潤いました。 このように内政にも優れた信長は、市民や弱い者に対しては温情的な面を見せることもあったとされますが、広く知られているように部下に対して冷酷であったことから家内に敵が多く、1582年に明智光秀の謀反により、自ら建物に火を放って切腹しています。 享年49歳でした。 光秀は「本能寺の変」の一週間前の連歌の回で「時は今 天が下知る 五月かな」という歌を詠んでいます。 この歌の「時」は光秀の出身である「土岐」、「天が下知る」は「天下を取る」ことを意味し、謀反を示す意思表示として読んだのではないか?という考察されています。 策にも優れた知将・島津義弘 島津義弘 1535年~1619年 は、薩摩 現在の鹿児島県 出身の武将です。 「鬼島津」とも呼ばれた猛将で、祖父の島津忠良からは「勇武英略をもって他に傑出する」と称えられた程、武力にも知力にも優れたことで知られます。 1554年に初陣を飾った後、兄の義久が家督を継いだ後はこれを補佐するようになり、1572年の木崎原の戦いでは3000の敵兵に対して300の兵で奇襲をかけ、見事に勝利を収めています。 そして1587年には根白坂の戦いで豊臣秀吉軍と戦い、豊臣軍8万、島津軍3万5000という圧倒的な戦力の差を前に義弘自ら敵軍に斬り込んで奮闘したとされますが、敗北。 この後は羽柴の名字と豊臣の本姓を与えられて、島津家は豊臣秀吉の配下となりました。 豊臣家の配下に加わった後の義弘の活躍として知られるのが「泗川の戦い」です。 秀吉の朝鮮出兵により朝鮮の泗川城を任されていた島津義弘・忠恒の元に、明と朝鮮の連合軍数万人が攻め込んできたことにより勃発した戦いで、1598年に起こりました。 この戦いで義弘は僅か6000の兵で5倍以上の兵を迎え撃ち、鉄砲を用いて敵軍を攪乱させた後に義弘・忠恒親子が討って出て、明と朝鮮の連合軍を蹴散らしたのです。 この時の敗戦が原因となり、明も朝鮮も島津軍を「石蔓子 シーマンツー 」と呼び、恐れるようになったと言います。 また、秀吉の死後に家康軍と秀吉に忠誠を誓った石田三成軍が激突したことで起こった関ケ原の戦いでは、島津軍は西軍 三成軍 について敗戦しましたが、見事に敵中突破を果たして薩摩への退却に成功しました。 この時の戦法は義弘の甥・豊久や家老のいる一隊が犠牲となって全滅するまで戦い、大将を逃がすという壮絶なもので「島津の退き口」と呼ばれました。 このように戦局に応じて様々な策略を立てた義弘は、医術知識にも長けていたと言います。 外科医並みの知識を持ち、戦場では負傷者の診察に自ら出向くことも多かったとそうです。 また、褒め上手で若い家臣には「父親に似て勇敢そうだ」といったように、一番本人が喜ぶ言葉をかけることで士気を高めたと言います。 そのため家臣に非常に慕われており、享年85歳で義弘が死去した際には、13名もの家臣が後を追いました。 徳川四天王・本多忠勝 本多忠勝 1548年~1610年 は、三河 現在の愛知県 出身の武将です。 徳川家につかえる最古参の武将であった本多氏の末裔として生まれ、幼少時から徳川家に仕えていました。 そんな忠勝の初陣は、僅か13歳の時でした。 この戦いの後に元服した忠勝は、14歳の時に叔父の忠真とともに出兵し、ここで初めて敵の首をあげています。 その後、50回以上の合戦に参加したとされますが、一度も傷を負うことが無かったという逸話を持つほどの強者です。 かすり傷1つ負うことがなかったという伝承が後世に残されるほど、突出した強さを誇っていました。 徳川・織田の連合軍と、浅井・朝倉の連合軍が激突した姉川の戦いでは、朝倉軍1万人に対して単騎駆けを行って徳川軍の士気を上げるのに成功し、その後の武田軍との戦いの中でも、武田四天王と呼ばれる信玄の腹心であった馬場信春の軍を相手に奮闘を見せ、無事に戦場から家康を逃がすなどの功績を上げたことで知られます。 このような忠一の働きは周囲からも高く評価され、織田信長は「花も実も兼ね備えた勇士」、豊臣秀吉は「日本第一、古今独歩の勇士」と称したと言います。 また、何度となく刃を合わせてきた武田信玄の側近からも「家康に過ぎたるものは2つあり、唐の兜に本多平八 忠勝の通称 」と称され、家康にはもったいない名将だと称賛されたていました。 sanobi. また、彼が武器としていたのは、天下三名槍の一つに数えられる「蜻蛉切」です。 刃長43. 8cmという長大さを誇るこの槍は、刃先にとまった蜻蛉の羽さえ斬ることができるという逸話を持つほど、切れ味の優れた逸品でした。 現在は静岡県三島市にある佐野美術館に収蔵されています。 最期は病により享年63歳で命を落とした本多忠勝はでしたが、亡くなる前に小刀で指に傷を負い「本多忠勝も傷を負ったら終いだな」と呟き、その直後に永眠したという話も残されています。 さすらいの一匹狼・可児才三 可児才三 1554年~1631年 は、美濃 現在の岐阜県 出身の武将です。 領土を持つことが無く、大名となることはなかった才三ですが傭兵として多数の主君のもとを渡り歩き、戦国最強とも呼ばれました。 hatenablog. 才三には「笹の才三」という2つ名があり、これは弟の蘭丸と共に信長に仕えた森長可の元にいた時のエピソードによるものです。 戦に出た才三は、16人もの敵の首を取り、全てを持って帰ることもできなかったため、取り合えず3個だけ手にして城に戻ったと言います。 当時は持ち帰った敵の首の数によって、手柄が判断されていたのですが、長可に16人を討ったという旨を報告したところ、首の数が足りないために嘘をついていると訝しがられてしまいます。 そこで才三は、残してきた13の首の口には笹の葉を含ませてきたので、確認して欲しいと長可に言い、実際に戦場に戻ると笹を咥えた首が13落ちていたのです。 この時に行動から才三は「笹の才三」と呼ばれて、16もの首を取ったというエピソードとともに笹を咥えさせて「自分の獲物」という証拠を残すという冷静な判断力を称賛されるようになりました。 ちなみに、笹を咥えさせるという行為は「酒を口に含ませる」ことから来ている行為とされ、討取った相手への才三の手向けであったとも言われています。 また、才三は「関ヶ原の戦い」において一番首を上げた武将とされます。 この時、才三は生涯にわたって仕えることとなる福島正則の元にいたのですが、抜け駆けを禁じるという軍則を破ったことから合戦への参加を禁じられ、謹慎処分を命じられていました。 しかし、暇を持て余した才三は見張りの目をかいくぐって勝手に戦場に赴いていたのです。 このことは後に才三の噂を聞いていた徳川家康が、今回の戦はどうだったのか才三に尋ねたところ「謹慎を命じられましたが、抜け出して17の首を取りました」と答えたことで発覚しました。 実際に戦場からは17の笹の葉を咥えた首が出てきたことから、家康に称えられたと言います。 生涯現役として馬を乗り回した才三ですが、関ケ原の戦い以降は出陣する回数も減っていきました。 そして、かねてから自分を愛宕権現の化身だと称していた才三は「俺は権現の縁日 6月24日 に死ぬ」と予言していたと言います。 そして1613年の6月24日、甲冑を着込んだ才三は畳の上にどっかりと腰を下ろし、そのまま息絶えたとされます。 予言通りに権現の縁日、享年60歳でした。 日本一のつわもの・真田幸村 真田幸村 1567年~1615年 は、信濃 現在の長野県 出身の武将です。 本名は真田信繫と言い、10代後半から20代にかけては滝川一益ら織田信長軍の人質として過ごしていたことから、戦績を上げることができませんでした。 art-kensin. 冬の陣では大阪城に出城「真田丸」を築き、徳川家の兵士を数多く討取りました。 そして夏の陣では、不利な状況を押して徳川軍の本陣に攻め入り、あと一歩というところまで家康を追い詰めました。 この時、あまりの真田軍の勢いに、家康は2度も自害を試みようとしたとさえ言われています。 最終的には家康軍に援軍が到着したことにより、真田軍は退却を余儀なくされ、その最中に幸村は戦死したとされます。 しかし、戦のあとに幸村の首とされるものが多数上がっており、かつて真田家に仕えたという人物の証言から、その中の1つが本人のものと断定されたものの、本当に幸村が死んだのかどうかは分かっていません。 真田幸村は名を上げた武将の割に不明な点が多いのですが、そのことが魅力の一つとされており、立川文庫の『真田十勇士』などの創作物に登場することも数多く見られます。 travel. 部隊の士気を高めるために全員が同じ赤い鎧を身につけたとされ、これは「真田の赤備え」として、戦場でも大変に目を引いたとされます。 また、真田家の家紋は六文銭であり、これは三途の川の渡し賃に由来し、死ぬ準備はできているという覚悟の表れであったとされます。 1つの戦いで華々しく咲いて散る、そのような幸村本人の生き様を表すような家紋と言えるでしょう。 東国最強の武将・立花宗茂 立花宗茂 1567年~1642年 は、筑前 現在の福岡県 出身の武将です。 大友氏の重臣であった吉弘鎮理 後の高橋紹運 の長男として生まれ、後に同じく大友氏に仕えた立花道雪の養子となりました。 道雪の養子となった1581年に宗茂は初陣を飾り、実父の紹運と養父の道雪とともに出陣するようになり敵首をあげてきました。 道雪が出陣している折には立花山城を守り、8000人もの敵兵が攻めてきた際にも、1000名の兵を率いて奇襲や火計を用いて敵を攪乱して同士討ちを誘い、見事に城を守り切ったと言います。 その後1585年に養父の道雪、1586年に実父の紹運を立て続けに失くした宗茂は、1686年の島津軍との戦いの後に豊臣秀吉の配下になります。 そして秀吉の九州平定に貢献したことで、立花家は大友氏から独立した大名の地位を獲得し、秀吉からも「九州の逸物」という賛辞を贈られました。 1600年の関ケ原の戦いでは、徳川家康の誘いを断って西軍にとどまりました。 そして関ケ原の戦いで西軍が敗戦した後、九州へ戻る道中で実父の紹運の仇であった島津義弘と遭遇、同じく西軍で善戦したものの大きく兵を欠いていた義弘の軍を見た宗茂の家臣は「今こそ義弘の首を取るべきだ」と勢いづきましたが、宗茂はこれを卑怯者のすることと一蹴し、義弘へ護衛を申し出たと言います。 この申し出に心を動かされた義弘は、九州に戻った後、宗茂の籠城した柳川城が東軍に襲われた際には援軍を送ったとされます。 残念なことに援軍の到着は間に合わなかったのですが、このエピソードは、宗茂、義弘の両勇の人柄を感じさせるものとして語り継がれています。 関ヶ原での敗戦が原因で領土を没収されて浪人となってしまった宗茂。 一説には食べるものにも困るほどの極貧生活を強いられたとも言われ、加藤清正や本多忠勝の世話を受けながら食いつないでいたとも言われています。 しかし、1603年にはかねてから宗茂の実力を高く評価していた徳川家康により再び大名に取り立てられ、大阪夏の陣・冬の陣に参加。 徳川秀忠の参謀として徳川家勝利に導いた功績が認められ、再び柳川城の城主として返り咲くことに成功しました。 関ケ原の戦いで西軍についた武将の中で、領地を回復できたのは宗茂ただ一人と言われています。 かつては敵対関係にあったにも関わらず、ここまで家康に優遇されたという事実からも、宗茂の強さがうかがえるでしょう。 齢70歳を過ぎてからも島原の乱に参加し「武神再来」と謳われるなど、生涯に渡って数々の戦に参加した宗茂。 享年76歳で永眠した後は、柳川城内の三柱神社に祭神として祀られています。 まとめ 歴史にifは禁物ですが、この他にももう少し早く生まれていれば天下を取れていたと称される伊達政宗や、戦国最強の水軍を率いた海軍大名・九鬼義孝、元忍者とも言われる鉄砲の名手・滝川一益など、強豪で知られる武将は多数存在します。 また、逆に戦国最弱と呼ばれる小田氏治などのエピドートにも面白いものが多くあります。 武将たちの戦歴だけではなく、好んだ食べ物や服装などについても調べてみると、生きた人間として戦国武将が身近に感じられて興味深いですよ。

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強さで比較!本当に強い戦国武将ランキングベスト15!【Qさま】統率力・知力・政治力・武力・人望で比較 ! 最強 戦国武将ランキング!

本当に 強い 戦国 武将

・前田利家「」・・天下5剣の一つ! ・「歌仙兼定(かせんかねさだ)」・・手打ちにした人数36人にちなんだ名! ・結城秀康「御手杵(おてぎね)」・・天下3名槍の一つ! ・真柄直隆「太郎太刀(たろうだち)」・・5尺3寸(1.6m)の大太刀! ・蒲生氏郷「会津正宗(あいずまさむね) 」・・天皇に献上! ・母里太兵衛「日本号(にほんごう)」・・福島正則から飲みとった槍! ・前田慶次「 平三角造直槍 (ひらさんかくづくりすぐやり)」・・3m以上ある朱柄の大槍! ・「鞍切景秀(くらきりかげひで)」・・鞍まで斬った刀! ・立花道雪「雷切(らいきり)」・・雷を斬った刀! ・森長可「人間無骨(にんげんむこつ)」・・人間が骨の無いように斬れる槍! ズラッと並ぶと、かっこいい名前や、強そうな名前が多いですね! 次に、純粋に武将たちの個人の戦闘力についてです。 大阪の陣での死に様はあっぱれ! ・佐久間盛政(さくまもりまさ)・・「鬼玄蕃」と恐れられた鬼神! ・本多忠勝(ほんだただかつ)・・生涯57戦向う傷無しの武勇! ・馬場信春(ばばのぶはる)・・甲斐の国で「鬼美濃」と呼ばれた一国の太守の器量人! ・九鬼嘉隆(くきよしたか)・・最強水軍の海賊大名! やはり、相当なメンツが上がってきました! これは選考が難しいですよ。 次に、勝率や勝った数、勝利の重要度を評価しました。 関が原の敵中突破は伝説! ・水谷正村(みずたにまさむら)・・結城四天王の一人で負け知らずの猛将! ・甲斐親直(かいちかなお)・・60余戦して不敗の最強坊主! ・可児才蔵(かにさいぞう)・・宝蔵院流槍術奥義を持つ!関ヶ原最多討ち取り数! ・加藤清正(かとうきよまさ)・・国内無敗!虎退治伝説の勇将! ・北条氏康(ほうじょううじやす)・・8倍の数の敵を破る戦国三大奇襲の武将! ・島津家久(しまずいえひさ)・・島津拡大路線を支え、龍造寺隆信を討ち取った名将! ・吉川元春(きっかわもとはる)・・勝率は8割超える。 毛利元就の息子で、戦の天才! 結果を残す人イコール強い人という考えかたで見ていきましょう。 とにかく勝たなければ滅びる超サバイバル時代。 勝てる武将は優れた武将であるでしょう! 次に、主君に対して、厚い忠誠心をお持ちの方々です。 2! ・山県昌景(やまがたまさかげ)・・武田軍最強の元祖赤備え。 武田家を守り続けました! ・真田幸村(さなだゆきむら)・・日本一の兵と呼ばれた戦国最後の名将。 豊臣家に捧げました! ・(たちばなむねしげ)・・忠義も武勇も天下無双の戦国武将サラブレット!立花家を継ぎました! ・山中鹿之介(やまなかしかのすけ)・・尼子家の再興に全生涯を捧げた忠義の武将! ・太田道灌(おおたどうかん)・・30戦以上扇谷上杉家の危機を救った将! ・福島正則(ふくしままさのり)・・賤ヶ岳一番槍の武功が光る!豊臣秀吉を崇拝しています! ・(いいなおまさ)・・徳川四天王の全身傷だらけの赤鬼!家康の小姓上がり! ・(しまさこん)・・三成の秀吉への想いに命を捧げた文武両道の得がたき将! ・直江兼続(なおえかねつぐ)・・主君景勝を支え、上杉家を守り続けた名将! 皆、各々の家で、かなり重要なポジションにいる人達ばかりですね。 そして、後世まで名を残した人達。 忠義に厚いことは、武将としては必要な生き様でもありますね。 本能寺の変はその最たるもの! 賢そうな方と、ずる賢そうな方が揃いましたね。 この方達がいなければ、きっと未だに日本は混乱しているでしょう。 確実なアドバイスは、絶対です! さて、役者は出揃いました! この中から、戦国武将ランキング、最強を決めて行きます! 決め方は、5つの項目を判定して、総合的にランキングを決めました! 1,武器 2,戦闘力 3,勝負実績 4,忠誠心 5,知力 総合評価 幼少の頃から織田信長に目をかけられ、信長自身の娘を娶らせる約束をするほど 優秀な子供時代。 三つ子の魂百までですね。 織田信長の家来として、数々の武功を上げています。 また、 秀吉の小田原攻めで夜襲をかけられた際は、逆に相手を単身背後から槍で なぎ倒していったという戦闘力の高さです。 伊達政宗を抑えるために会津に配置されたことも戦争実績による所が大きいでしょう。 所有していた刀は、 会津新藤五、鉋切長光、会津正宗、國俊4振りあり、いずれも名刀でした。 文化人としても一流で、茶の湯の最高峰、千利休の弟子、 利休七哲の筆頭です。 松阪城や会津若松城の築城者で、敵に攻め込まれないようにかなり工夫がされていた所、知力も相当高いと言えましょう。 関連記事: 第8位 片倉小十郎(景綱) 引用: 1,武器 2,戦闘力 3,勝負実績 4,忠誠心 5,知力 総合評価 高橋紹運という風神と恐れられた武将の息子として生まれ、 さらに立花道雪という雷神と恐れられた武将の婿養子となる人物。 実父、養父とも九州で相当名前の知られた武将で、二人の薫陶を受けた 立花宗茂は、厳しく育てられた 超サラブレットと言えます。 実際の実力、戦歴も素晴らしく、岩屋城の戦いで実父が島津軍に討たれると、 猛烈に反撃し1000人以上を死傷させたり、 肥後の一揆では伝家の宝刀笈切り兼光を振りかざし 馬上で7人斬り落とし、 一騎打ちで相手を倒すなど、鬼神の活躍を魅せました。 秀吉の評価で、「東の本多忠勝、 西の立花宗茂、東西無双」と褒めたたらえた 勇将です。 70歳を越えてまで戦争に参加していた生涯現役の武将です。 2位、おめでとうございます! 関連記事: さあそして戦国武将ランキング天下一一位は? ジャーーーーン! 第1位 本多忠勝 引用: 1,武器 2,戦闘力 3,勝負実績 4,忠誠心 5,知力 総合評価 出ました、大トリ、真の武将は本多忠勝です! 名前の由来は「 ただかつ!」とにかく勝つために生まれてきた本多忠勝。 徳川四天王の、徳川十六神将・徳川三傑であり、天下3名槍の一つ、蜻蛉切を操る、天下無双の類まれなる猛者です。 徳川軍として惨敗した三方ヶ原の戦いでは、 武田最強の山県昌景との戦いを退け、 鬼美濃馬場美濃守の猛攻も切り抜け、見事家康の危機を救っています。 そして特筆すべきは、 57戦して、戦でついた傷が一つもないことでしょう。 別に逃げ回っているわけでもなく、実際に戦場の前線に出てもいますが、 実力とともに、運も相当強かったのでしょう! 一位に相応しい戦国武将だと思います! 最後に 戦国の世を駆け抜けた武将たちをランキングしてみましたが、どの武将も個性が強く、皆自分の人生を自分のやり方で生きた方たちでした。 その生き方に磨きをかけたからこそ、今もこうして語り継がれる武将として影響を私たちに与えてくれているのだと思います。 そんな武将たちを愛し、そして、私達の人生にプラスになるように良い部分は吸収行ければいいなって思います。 このブログは、あなたが知り得ない戦国武将の普段の様子や、何を食べていたのか?などをあなたに伝えるブログです! なんで知ってほしいと思ったのか?といいますと、どちらかというと表舞台に出ない、日常という部分にフォーカスし、掘り下げて見ることで、色々な発見があります。 その発見から、現代の我々が生きている時代にも使えたり、応用できたりするものがあれば活用して頂き、より豊かな人生を送るのにお役に立てて欲しいと思うからです! また、戦国武将、大名の事を知ることでどんどん武将達を好きになってもらいたいなと思ってます。 武将たちも人です。 生きている時代は違えど人の子。 共感できる部分はたくさんあリます。 神格化された大名など、実際の所、日常はどうなの?どんな逸話があるの?などと解き明かしていくと、すっかりその武将の虜になっちゃっているかも!? 戦国時代の他にも広く武士に関連した情報があれば、いち早くお伝えしていくことをモットーにしていきます。 あなたには、好奇心と感動をくすぐりまくられ、戦国時代の虜になるでしょう! お楽しみに!.

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【いちばん強い戦国武将は誰なのか? 】

本当に 強い 戦国 武将

画像引用: 戦国時代に興味がある人ならば、一度は「最強の武将って誰だろう?」と考えた事があるのではないでしょうか。 しかしそんなものは「最強」の定義によってどうとでも言えるものです。 「要するに最強の武将って誰だよ!?さっさと言え!」という人は最後まで飛ばしてください。 また、もちろん筆者の主観でランキングをつけてるので、好きな武将が載ってなくても怒らないでください。 当時の新潟は今のような米どころではなく、あまり兵糧を用意できませんでした。 それでも謙信は合戦では高い勝率を誇り、勝てなかった合戦でも何とか引き分けに持ち込む事が多かったわけです。 中でもは有名ですね。 あのを相手に、数で劣っているにも関わらずやを討ち取って痛み分けに持ち込みました。 武田陣営の兵糧を炊く煙がいつもより多く登っているのを見て、「これは奇襲が来る」と読んで勘助の啄木鳥戦法を見事に打ち破りました。 もう一つ有名な戦といえば、を返り討ちにしたの戦いです。 織田軍が川を渡りきるタイミングで謙信率いる上杉軍が現れ、準備もできておらず逃げる事も困難な織田軍は大ダメージを受けました。 このようにやなど、かなりの手練を相手に勝ち続けたというのがの凄いところです。 2位 画像引用: 謀略家として有名な人物。 しかし合戦の方も強く、なんと勝率ではでナンバー1です。 中でも有名なのはでしょう。 たった4千から5千の兵力で、2万とも3万とも言われる軍を打ち破ってしまいます。 元就のような知略タイプの武将は、普段からコツコツと内政をして相手より多くの兵力を用意して勝つというパターンが多いです。 しかし元就の場合は内政はもちろん、のように絶望的な戦いもひっくり返してしまいます。 その粘り強さと、普段の勝率の高さも相まって2位という事にしました。 1位 知る人ぞ知る名将。 浅井亮政という、これまた中々の名将がいるのですが、その亮政の守るの一角に5ヶ月も居座ったという話もあります。 しかしやはり一番有名なのは の戦いでしょう。 なんと30万人ものを相手に、宗滴はたった8千人から1万6千人ほどの軍勢で戦います。 そして夜襲を仕掛け、見事勝利してしまいます。 この時のの数や強さには諸説あるのですが、多少の幅があってもとんでもない大逆転だと言えるでしょう。 そしてその後もなんと79歳まで戦い続け、陣中で病没したと言います。 数々の戦陣訓や家訓も残しており、もっとも敵に回したくない武将は誰か?と考えた時にが浮かんだので、1位にしました。 ・一指揮官部門 全軍の総大将ではなく、数百から数千ほどの一部隊を指揮した場合に強いのは誰か!? 世間で「最強の武将」というとこの定義である場合が多いです。 3位 「東国最強」と言われていたと並び、西国最強と言われていた武将。 実父の、養父のも名将として知られています。 の最初の晴れ舞台は、やはり立花山城の戦いです。 たった3千の兵と籠城し、九州統一を目前としていた4万の島津軍を相手に奮戦。 本陣を奇襲するなど遊撃戦を展開し、一時は撤退させるなどして、見事にの援軍が来るまで持ちこたえます。 豊臣政権下でもなどで活躍。 特に は有名で、敵の明軍の兵力は不明な点が多く、4万とも15万とも言われますが、とにかくはたった3千の兵で撃破してしまいます。 秀吉没後も、で大津城を攻略するなどの活躍を見せますが、属していた西軍が負けたため改易されてしまいました。 しかし改易後もに参加したり・・・などと、とにかく武名を上げていくと本当にキリがありません。 まさに西国最強の武将に相応しいでしょう。 2位 画像引用: よくゲームなどでも「戦国最強!」と言われている武将。 武田軍に「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に」と評された他、やにも評価され、・・徳川三傑にも数えられています。 で朝倉軍1万に単騎で突撃したり、で3千人を率いて殿をして2万7千の武田軍を食い止めたり、ではたった500の兵で16万の豊臣軍の前に立ちはだかったり・・・、 と、この武将の武名も上げていくと本当にキリがありません。 しかもこれだけの戦火をくぐり抜けて、なんと戦で傷を負った事は生涯なかったそうです。 さすがに話を盛られているのではないか、と思いますが、とにかくものすごい武将であったのは確かでしょう。 1位 画像引用: やはり1位は以外に考えられません。 義弘の有名な武勇は2つ。 一つはので、七千の兵を率いて二十万の明・朝鮮の大軍を撃破し、敵からも「鬼石曼子(グイズ)」と恐れられます。 もこの戦いを「前代未聞の大勝利」と評価しています。 そしてもう1つは、「島津の退き口」と呼ばれる撤退戦です。 で、義弘は様々な事情があってながらも西軍についていました。 しかも西軍総大将のにも軽視され、戦意を失った義弘は戦いに参加しようとしませんでした。 そしてが寝返り、西軍が総崩れとなって石田や宇喜多など西軍主力が敗走する中、義弘も撤退を決意します。 そしてなんと後方に撤退するのではなく、前方の伊勢街道を目指して、敵軍の正面に飛び込んでいきます! この時、義弘の兵力はたった300、敵の東軍は7万だったと言われますが、まずは前方の隊を突破し、東軍本陣のの陣の前まで迫ったところで転進し、伊勢街道を南下していったと言います。 もちろん転進してからも、や赤備えの、などの徳川の猛者が追撃してきましたが、義弘は「捨て奸」といって足止めの兵を配置しながら撤退し、なんとか逃げ切りました。 歴史にifは禁物だと言われますが、もし義弘が十分な兵を率いて本格参戦してた場合、歴史は大きく変わっていたのではないかと思います。 義弘も例によっていろんな武名(たとえば九州での戦いなど)がありますが、書いてくとキリがないぐらいなので割愛します。 ・一兵卒部門 単騎で強かったのは誰か!? や、、、、などの 剣豪は殿堂入りという事で。。。 3位 北条家との戦で先陣に立ち一気に7人も切り伏せた、という事から「鬼義重」と呼ばれたエピソードは有名です。 他にも、同じく北条家との戦で敵の騎馬武者を叩き割ったりなどの逸話があります。 とも互角以上に戦った人物ですし、恐ろしい人物であったのは間違いありません。 2位 可児才蔵 という槍術の流派の開祖・胤栄に直々に槍術を学んだとされる、槍の名手。 戦いでは討ち取った首を持ちきれず、笹を担いで討ち取った相手の口に笹の葉を加えさせ「笹の才蔵」と呼ばれました。 では17人もの首を取りました。 これは東軍で一番多く、家康からも賞賛されたといいます。 1位 画像引用: の影響もありこの武将を入れたかった・・・というのもありますが、感情論だけではなく、個人として相当強かったのも確かでしょう。 第二次上田合戦ではなどのゲリラ戦を主導していたそうです。 そしてでも、16万とも言われる徳川勢に突撃して本陣まで攻め込み、「日本一の兵」と呼ばれます。 十文字槍の達人という事もあり、実は自ら先陣を切って突っ込んでいった武将も少なかった戦国時代において、やはり個人の武という点でも突出したものがあったのは確かでしょう。 での活躍がよくピックアップされますが、それまでのや、、とのストーリーももっと知っていただきたいですね。 やの教育係としても有名です。 そしてあの甲相駿の立役者だと言われています。 実は甲相駿は今川家にもっともメリットが大きい同盟で、武田家は太平洋へ出られず、北条家は上洛の道を閉ざされ、今川家だけが背後を固めて上洛に専念できるという同盟でした。 こうした今川有利な同盟を組めたのは、やはり当時は今川家がもっとも影響力が強かったという事でしょう。 信玄率いる武田家や氏康率いる北条家を相手に優位に立ち、外交でも有利な条件を押し切ってしまう手腕は流石といえます。 特には今川家には完全に一目置いていて、一切手を出せなかったそうです。 あのも存命中であるにも関わらずです。 ちなみには雪斎没後に「今川家の事、悉皆坊主(雪斎)なくてはならぬ家」とも語っています。 また、の締結後は武田と上杉の戦いでも今川家は援軍を出してますし、間接的にはやなども翻弄していたという事でしょう。 尤も、上記に挙げた面々とどのぐらい接点があったのかは不明ですが、戦国時代でももっとも群雄割拠だった時代において、今川家を頭一つ抜けた名家に仕立て上げた手腕、功績はとてつもないと言えるでしょう。 2位 画像引用: 言わずと知れた名軍師。 斎藤家の家臣時代には、十面埋伏陣と呼ばれる伏兵戦法でを翻弄したり、をたった16人で奪取したというエピソードがあります。 その後、秀吉に従えてからも数々の功績を挙げますが、程なくして36歳という若年で病没。 実はいうとそんなに実態がわかってない武将だそうですが、江戸時代の講談でとともに天才軍師のイメージが固まり、現在も非常に人気の高い武将です。 1位 と同じく、の名参謀として知られる武将。 秀吉の天下統一の一番の立役者と言っていいでしょう。 彼がを進言しなければ、秀吉が天下を取っていた確率は低い。 この方もエピソードを挙げ始めるとキリのない武将ですが、以外ではでを説得し、させたという話が有名でしょう。 とにかく歴史の要所で活躍しているので、官兵衛がいなければ日本の歴史は大きく変わっていたと思われます。 あと個人的に知っていて欲しいのは、官兵衛はのときは九州にいましたが、この時は兵を集めて大友家などを破り、ものすごい勢いで九州を進軍していた事です。 はの寝返りで6時間で終わってしまいましたが、当初は一ヶ月は続くと予想されていました。 もしが予定通りに長引いて官兵衛が九州を統一していれば、家康に並ぶ勢力になるわけですし、これまた日本の歴史は大きく変わっていたでしょう。 そんなわけで、やはり飛び抜けて知略に優れた武将だと思うので1位にしました。 ・謀略家部門 謀略の限りを尽くして成り上がった武将たち。 3位 謀殺や毒殺、追放などを駆使し、油売から一国の城主にまで成り上がった武将。 、と並んでと呼ばれるほどの謀将ですが、そもそも秀吉などに代表されるように戦国時代は成り上がりの時代ですし、暗殺の数も(2位1位の武将と比べて)そんなに多くはないので3位にしました。 娘の農姫はの。 道三は信長と初対面で才能を見抜いたといいます。 2位 ミスター暗殺。 やと並んで「中国三大謀将」に数えられています。 10人程の人間を暗殺した武将(道三はわかってる範囲では2人程)。 またその暗殺もバラエに富んでおり、日本で最初に鉄砲による暗殺をしたのは直家だそうです。 暗殺の相手も娘婿や嫁の実家などであり、いかに残忍な人物であったかがよくわかります。 時代が時代とはいえ「それ、暗殺までする必要あったの?」という場合もあり、ひょっとすると殺人を快楽として楽しんでいたのかも知れません。 直家ののは、兄と合うときは必ず鎖帷子という鎧のようなものを着ていたといいます。 1位 画像引用: ミスター謀略。 戦国時代の謀略家と言えば真っ先に名前が上がる人物。 は天文2年 1533年 頃、三好家の当主であるに従えます。 その後、三好家は紆余曲折があってや将軍足利家と敵対するも、久秀の活躍もありなんとか細川家や足利家を撃破します。 それでも長慶は将軍家を蔑ろにせず、なんとか和睦して将軍家を立てつつも自らが実権を握るのですが・・・、 ある日突然、長慶の弟の三好一存が急死します。 続いて同じく長慶の弟のが戦死し、長慶の嫡男であるも病死。 三好家の後ろ盾となってた(同じ細川姓でも晴元と対立して長慶に協力してた人物)も病死してしまいます。 この相次ぐ死去に恐らく久秀が絡んでいたとされています。 とにかく亡くなった三好家一門の役割を久秀が引き継ぎ、久秀の権力は拡大していきます。 その後、久秀は長慶の最後の弟である安宅冬康に濡れ衣を着せて謀殺。 そしてついに長慶も病死してしまいます。 長慶の死後、久秀は「」という三好家の有力者と手を組み、長慶の甥の三好義継を担いで実権を握ります。 そしてその後、久秀はと共に上洛し、なんと長慶が立てていた将軍家を襲撃。 将軍・を殺害していまいます。 これがあの永禄の変です。 この時に抜け出した義輝の弟・義昭がに助けを求め、それが信長上洛のキッカケになるのですが・・・、 とにかくこの後、久秀は近畿の覇権を巡って三人衆とも対立し、勢力争いを繰り広げる事になります。 その争いの中で久秀は三人衆が陣を張っていたを奇襲、なんと大仏殿を焼き払って大仏様の首も落ちてしまいます。 後にがにを紹介するとき、この「三好家乗っ取り」「将軍殺害」「焼き討ち」の3つを指して「この男は常人にはできない大罪を3つも犯した」と語ったそうです。 しかしその後、三人衆との争いも久秀が劣勢となっていきますが、その時ちょうどが上洛。 久秀は信長に降伏して家臣となりますが、その後なんと2度も信長を裏切り、二度目の裏切りのときに追い詰められて爆死したといいます。 とにかく、こんな風に目的の為ならとことん手段を選ばない残忍な武将がいたのも戦国時代の面白さかも知れません。 信玄が作った堤防「信玄堤」は今も残っています。 この堤防によって水源が作られ、戦でも重要となる兵糧が作られました。 また 金という独自の貨幣制度を作り、それが江戸時代の貨幣制度の参考になったとも言います。 2位 画像引用: 内政家として有名な人物。 四公六民や目安箱、官僚機構の創設など、領民中心の政治をしていたようです。 なので北条家の後に関東を治める事になったは、領民が北条家を慕い続けていたのでなかなか統治に苦労したようです。 また秀吉よりも先に検地を行ったそうです。 も氏康の政治を見習っている部分があり、先進的な人だったのかも知れません。 1位 画像引用: 1位はやはりこの方以外に考えられません。 や関所の廃止など、非常に大胆な政治をしていました。 また、によって収穫期に関係なく戦を起こせるようになったのも大きいでしょう。 またも積極的に推進しましたし、とにかく革新的な政策が次々思い浮かぶのは本当に凄いなと思います。 ・奉行部門 大名の下で実務面を支えた方々。 3位 画像引用: といえばの西軍大将として有名ですが、検知や外交交渉、諸大名の揉め事の解決など、実務で豊臣政権を支えました。 の筆頭である点も敏腕さの証左と言えるでしょう。 どうしても「だが人付き合いに難があり、多くの武将の反発を買った」というイメージがありますが、江戸時代に徳川を脅かした人物として悪く書かれていたのは事実であり、後世の創作による点が大きいでしょう。 実際はのように三成に忠誠を誓った家臣、のように運命を共にしした盟友もたくさんいます。 宇喜多や毛利、上杉を曲がりなりにも動かした事からも、そこまで悪い人物ではなかったのかな、と思います。 2位 に無くてはならない存在として「米五郎左」と呼ばれました。 とにかく内政を重視するに内政面で重用されていた事からも、相当な実務家であった事は間違いありません。 で普請奉行などの行政の仕事をそつなくこなし、合戦ではで大いに活躍しました。 「戦は準備が8割」と言われる事もありますが、まさに内政やの重用さを考えても、の天下統一の影の立役者だった事は間違いないでしょう。 1位 もともとは武田家で猿楽師をしていましたが、信玄に見いだされて家臣となり、の開発などに従事します。 武田没後は徳川家に使え、甲斐復興の実務を担い、わずか数年で甲斐を復興させました。 家康が関東に移ってからは関東代官頭に任命されます。 そしての後、豊臣家の直轄地だった金山が徳川家のものになった事もあり、大和代官、検分役、金山接収役、甲斐奉行、石見奉行、美濃代官などを、なんと兼任で任されます。 更にや所務奉行にも任命され、ついに年寄 後の老中 にまで登り詰めます。 その後に 伊豆奉行などにも任命され、「 天下の総代官」と呼ばれるようになります。 徳川家直轄の150万国を実質的に支配し、里程標を考案したり、土地台帳を作成したりと、現代にも通じる優れたシステムを作りました。 ほぼ外様のような立場から唯一老中に登り詰めた存在であり、の礎を築いた数々の名奉行の中でも屈指のだった事から、選ばせていただきました。 なぜなら がいないと戦国時代は終わらなかったからです。 というのも、が支配した領地を石高にしてみると、 竹田信玄は130万石、は145万石、は120万石程度だそうです。 しかしが支配した領地は、なんと600万石から800万石だと言われています。 秀吉や家康はそれ以上の領地を手にしましたが(直轄地という意味では少ないかも)、 秀吉は信長の地盤を引き継いだし、家康も秀吉の地盤を引き継いだわけで、 やはり信長が存在しなければ秀吉や家康の天下も無かったでしょう。 また、信長の凄いところは、戦は始まる前の段階で決まるというのを理解していた事です。 が象徴的ですが、これでもかというぐらい準備を徹底して戦を起こす。 凄いのは、信長は若い頃に奇襲でに大逆転を果たしたのに、それでもその経験に酔わなかったところです(もっともでも入念に準備をしていましたが・・・)。 また、秀吉やの才能を見抜いて重用したり、他にもや、、などを適材適所に配置するトップとしての手腕もすごい。 そんなわけで、この記事ではが最強の武将であると結論づけたいと思います。 長々と語りましたが、最後まで読んでくださった方に感謝! まだまだ面白い武将がたくさんいるので随時追記していきたいと思います。

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