明智 光秀 子供。 明智光秀の子供達を一覧解説!本能寺の変の後子供達はどうなった?

明智光秀、美濃を追われ、越前で過ごした「謎の十年間」

明智 光秀 子供

明智光綱 あけち-みつつな の兄弟には、 がおり、斎藤道三の正室になっています。 この明智光綱の別名が明智光国、明智光隆ともされますが、1535年に討死したともされます。 この時、明智光秀はまだ子供だったと言われており、隠居していた祖父・ の命にて、 あけち-みつやす が明智城に入って後見したともされます。 その明智光安 は、斎藤道三の子・ と対立し、1556年に明智城が陥落し討死しました。 このとき、明智光安の子とされる は、明智光秀と共に城から脱出したと言われていますが、不明瞭な点が多いです。 お牧の方 は、通説では明智光秀の母親であり、若狭・武田氏の娘、 の娘とも伝わります。 明智光秀が老母を人質として敵に出と言う話が江戸時代の軍記などで記載されていますが、事実だったかどうかは不明と言ったところです。 なお、お牧の方は、母親ではなく、明智光秀の最初の正室であるとする説もあります。 千草 明智光綱の弟である山岸光信(進士光信)の娘・千草がいます。 明智光秀は、この千草に庶子を産ませたとする説があります。 なお、千草とは結婚しておらず、側室にもしていませんので、未婚のまま子を産んだと言う説もあります。 ただし、1546年、明智光秀 明智十兵衛光秀 が18歳のときに、千草 山岸光信の娘、16歳 と結婚して最初の妻にしましたが、のち死別したとする場合もあります。 子の山岸光重は、母方の山岸家の養子となり、のち明智家の家臣に加わり、明智光重と称したともされます。 もちろん、諸説ある話ですので、どれが間違えで、どれが正しいとも言えません。 妻木煕子 つまき-ひろこ と、明智煕子 あけち-ひろこ とも言いますが、美濃・妻木城主とされる妻木範煕 妻木勘解由左衛門範煕 の娘と考えられます。 一説によると1530年頃に生まれており、 の娘とする説もあります。 有名な話としては、妻木煕子が明智光秀に嫁ぐ直前「疱瘡」 ほうそう=天然痘 にかかり、左の頬 ほほ に、ぶつぶつの跡が残ってしまったと言います。 そのため、妻木煕子は、嫁ぐのを辞退したとも、父が別の娘をと申し出たともされます。 一説では、煕子に姿が似ていた妹・芳子 よしこ を代わりに嫁がせようとしたとも・・。 しかし、明智光秀は、煕子が芳子に知らない間に変わっていたのを見抜いたとも、そんな容姿の事は気にしなかったともされます。 容姿は年を取ったり病気をすれば変わるが、不変なのは心の美しさであるとして、いずれにせよ妻木煕子と結婚しました。 1556年に、明智城が斎藤義龍によって攻められた際には、身籠っていた明智煕子を背負って、明智光秀は越前の のもとまで逃れたとされます。 越前で 主の に仕えたとも客将になったともされますが、明智の屋敷は少し離れた西側にあります。 要するに、優遇されていたとは言えず、生活は苦しかったと言います。 ある日、朝倉家にて連歌会の催しを明智光秀が行う事になり、酒宴の出費に苦労している明智光秀を見て、明智煕子は、自分の黒髪を売ってお金を用意したと伝わります。 当時の女性にとって、長い髪の毛は、身分の高い女性としての証でもあり「髪は女の命」ともされましたが、そのようなプライドにこだわらず、夫を支えた良妻でした。 そのため、二人の夫婦仲はとても良かったと言われています。 1563年には、3女 4娘 ・ のちの が越前にて生まれました。 1571年、 のあと、明智光秀は宇佐山城主となり、近江・ が築城されると、明智煕子も転居したことでしょう。 1575年、明智光秀は、惟任の姓と日向守の官位を から賜わります。 しかし、 との の戦いで、おもいっきり大敗した際に、明智光秀はそれまでの疲れが出て発病します。 このとき、明智光秀は京の医師・曲直瀬道三正盛 まなせどうさんまさもり の屋敷にて療養しました。 死の境を彷徨ったとも言われていますが、明智煕子の献身的な看病にて救われたとされます。 その疲れのせいか、明智煕子は病気になったようで、明智光秀が平癒祈祷を にお願いしています。 また、吉田兼見が明智煕子の病気のお見舞いで、 の宿所も訪問した記録が残っています。 しかし、1576年11月7日に、明智煕子は死去しました。 享年46 享年36、享年42 ともされます。 戒名は福月真祐大姉。 墓所は、 からほど近い明智家の菩提寺「 」にあります。 それら妻木煕子に関して詳しくは下記でも解説させて頂いております。 本当に申し訳ないのですが、色々な説があります。 伏屋姫は、服部鳥羽守の長女で、美人のほまれ高く16歳で明智光秀に嫁ぎました。 服部鳥羽守は、鳥羽城主・服部保益と考えられます。 しかし、伏屋姫は疱瘡にかかって亡くなったため、妻木煕子が後妻 継室 として入ったする場合もあります。 別の話では、伏屋姫が嫁ぐ直前に疱瘡にかかり、服部鳥羽守は次女を代わりに嫁がせようとしたが、明智光秀は疱瘡にかかって容姿が醜くなった伏屋姫と結婚したともあります。 この疱瘡の話は、明智光秀の正室とされる上記の妻木煕子 明智煕子 の話でも同じく出てきますので、話が伝承されるうちに、混同したようですので、今となっては、どっちが最初の話なのか、確認は困難です。 また、伏屋姫は明智煕子が亡くなったあとに迎えた後妻 継室 だとする説もあり、1582年1月に坂本城にて内治麻呂を出生したともあります。 そして、 のあと、 が伊賀越えをした際には、服部鳥羽守が命を狙ったとも言います。 色々な話がありすぎて、もはや解明は不明といったところです。 ただ、継室にする場合には、そのとき、すでに明智光秀は織田家の中でも相当の地位ですので、伏屋姫を迎えたとした場合には、妻木煕子の前と考えるのが妥当なような気がいたします。 側室・喜多村保光の娘 明智光秀は側室を持たなかったとするのが一般的ですが、逆に側室は2人いたとする説もあります。 その一人が、喜多村保光の娘ですが、この女性は、上記でご紹介した伏屋姫であるともされます。 喜多村保光の娘は、1582年に明智光秀の3男を産んだともされます。 その子が、上記でもご紹介した内治麻呂です。 この幼子は坂本城から脱出して、母の実家である喜多村家に逃れたともあります。 そして、成長すると喜多村保之と称しました。 1635年に妙心寺の住職・玄琳が「明智系図」を喜多村保之に送り、その系図が現代に伝わると言う事になります。 この喜多村家は、服部一族とする説もありますので、そのように考えますと、伏屋姫の服部家=喜多村家と言う可能性もあります。 側室・原仙仁の娘 原仙仁の娘ですが、肥後・細川家 の嫁ぎ先 にゆかりある安国寺の「土岐系図」に掲載されています。 父・原仙仁は公家とされますが、そもそも、公家に原氏は存在していませんので、違った名前があった可能性もあり、どのような人物なのか全く不明です。 また、原仙仁の6男は浅野内蔵助、すなわち で有名な大石良雄 の祖父というので、信憑性の問題はありそうです。 なお、原仙仁の娘は1女を儲けたようで、その娘は、川勝丹波守の妻になっています。 この川勝丹波守ですが、室町幕府の奉公衆で、織田家に従っていた川勝秀氏の子・川勝広綱の可能性があります。 ただし、川勝広綱の正室は織田家の末流にあたる藤掛永勝の娘ですのです。 よって、川勝丹波守の妻になった明智光秀の娘に関しても資料不足でよくわかりません。 この原仙仁の娘の姉が、美濃・佐藤一族の恩田氏に嫁いでおり、その子が「 」として明智光秀の与力を務めていますが、 の変にて討死しました。 御ツマキ 御ツマキ おつまき は、この女性も諸説ありますが、下記の通りです。 明智光秀の実の妹 妻木煕子の妹 いずれにせよ、織田信長の近くにいるようになった女性 女中?側室? です。 1577年11月には、惟任妹御ツマ木が、明智光秀と共に東大寺と織田家の調停を行いました。 1580年5月、上洛した織田信長に、山科言経が進物を献上した際、その近所女房衆の「ツマキ」らにも帯を献上したとあります。 ここで女房衆と記載されていることから、ご婦人、すなわち側室であった可能性が指摘されています。 また、1580年9月、吉田兼見の日記「兼見卿記」には、在京していた「惟任姉妻木」に酒と食物を持参したとあります。 この「姉」と言うのは恐らくは、妹の勘違い・誤記と考えられますが「妻木」と明記されていることから、御ツマキは「 」、すなわち妻木煕子の妹である可能性があります。 この御ツマキを通じて、明智光秀は、織田信長の言動を入手したり、時には織田信長を説得するようなことも、依頼していたとも考えられます。 しかし、1581年8月、奈良・興福寺の多聞院日記に「去七日・八日ノ比歟、惟任ノ妹ノ御ツマキ死了、信長一段ノキヨシ也、向州無比類力落也」とあります。 惟任ノ妹ノ御ツマキ死了は、御ツマキが亡くなったことを示しています。 その翌年、本能寺の変となりました。 御ツマキの死が、織田信長と明智光秀の関係に影響を与えた可能性も無きにしも非ずです。 なお、明智光秀自身は、土岐明智氏ではなく土岐妻木氏が出自で、明智氏の家督を継ぐことになったとする説もあります。 そのように考えますと、御ツマキは、明智光秀の実の妹とも考えられるのです。 明智光秀の子供 明智軍記 3男4女 長女:明智光春の妻 の正室から、明智秀満の正室 次女: の妻 三女: の妻(細川ガラシャ) 四女: の妻 長男:明智光慶 次男:明智光泰 明智十次郎 三男:明智乙寿丸 鈴木叢書 そうしょ の中にある明智系図 側室の子も含めると6男7女 長女 養女 :菅沼定盈の妻 三宅長閑の娘) 次女 養女 :桜井家次の妻 三宅長閑の娘) 三女: の妻 四女:細川忠興の妻(細川ガラシャ) 五女: の妻 六女:川勝丹波守の妻 長男:玄琳 妙心寺の僧侶 次男:安古丸 で討死 三男:不立 天龍寺の僧侶 七女:井戸三十郎の妻 四男:十内 坂本城落城のときに自刃 五男:自然 坂本城落城のときに自刃 六男:喜多村保之 江戸町年寄 不明:定頼 上記の2つの史料にて一致する子供は下記の通りです。 織田信澄の妻 細川忠興の妻 織田信澄の妻 明智光秀の娘 の名前は不詳ですが、嫁いだのは間違いありません。 なお、細川忠興の妻は皆様もよくご存じの細川ガラシャ 明智玉 と言う事になります。 細川ガラシャに関しては下記にて詳しく記載させて頂いております。 明智光慶 明智光慶(あけち みつよし)は明智十五郎 明智十兵衛 とも言い、妻木煕子が産んだ長男とされます。 が築城された頃から、史書に名前が見られますが、初陣した形跡はないため、年齢は低かったものと推測されます。 本能寺の変の直前に、愛宕山で開催された威徳院連歌で結句を詠んでいますので、13歳前後であったとは考えられます。 この明智光慶もたくさんの説があります。 本能寺の変のときには、丹波・ にいたとも、坂本城にいたともされます。 明智光秀が に味方するように書いた手紙には「近畿を平定した後は十五郎に天下を譲り、自分は隠居する」と記されてもいます。 明智光秀が襲われて命を落とすと、明智光慶は自刃したとも、坂本城から脱出したあと自害したとも、生き延びて妙心寺 京都市右京区花園 の住職・玄琳になったとも色々な話があります。 千葉県市原市不入斗 いりやまず には「明智光秀側室の墓」と伝わる墓石があります。 この側室と言うのは「ふさの方」と言う名前で、明智十五郎と共に、不入斗まで逃れて生涯を送ったとも推測されています。 齋藤利満・ の親子が同行したともあり、墓には土岐重五郎と言う名が刻まれているそうです。 なお、成人した明智十五郎は、つね子と言う女性を妻に迎えたようです。 桔梗の家紋とともに、側室・重五郎・つね子 ツ子 の3名の名がひとつの墓石に刻まれているそうです。 千葉と言えば、万喜城主・土岐為頼 万喜頼春 がいますので、同じ土岐氏と言う事で、頼ったのかと思いました。 しかし、南北朝で戦功があった土岐頼貞の子・土岐頼重 明智頼重 のときの所領のひとつに武蔵国荏原郡大井郷不入斗村があります。 そのため、明智一族の親戚が不入斗 いりやまず にいたと考えるのが自然でしょうか? 明智自然 明智光慶と共に存在が確実視されている明智自然 あけち-じねん は、2017年のNHK大河ドラマ「おんな城主直虎」にも登場しました。 明智軍記では明智光秀の次男・明智十次郎光泰の幼名が自然だと記されているようです。 鈴木叢書や明智系図では、坂本城落城の際に自刃したとあります。 また、別の説では、明智光泰 あけち-みつやす は、一時は、大和・ 主である の養子・筒井定頼 自然丸 になったともあります。 ただし、その説の場合には、筒井定次が織田信長の娘を正室に迎えて、本家の跡目となったため、明智自然は明智家に戻っていたようです。

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明智光秀の子供(息子)は?子孫は現在も生きている?!

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明智光秀の息子の名前として、分かっているのは「光慶」「十五郎」「自然丸」です。 「光慶」の名は、『愛宕百韻』に詠み手として残っています。 「十五郎」の名は、天正10年 比定 6月9日付明智光秀覚書です。 そこに「十五郎」とあります。 この「十五郎」が細川忠興の弟・「頓五郎」だとする説もありますが、「十五郎」には「殿」が付かず、その後の「与一郎」には「殿」が付けられています。 書き方として、不自然さが残ります。 「頓五郎」は「とんごろう」と読みます。 そして、それを「十五郎」と書き間違えたのなら「とおごろう」と右筆が聞いたということになります。 ここはやはり通説どおりに「十五郎」ではないでしょうか!? 「自然丸」の名は、『宗及他会記』に天正2年閏11月2日坂本での連歌会に残されています。 坂本城落城の記録として、ルイス・フロイスの『日本史』に「明智の二子が死んだが、非常に上品な子供たちで、ヨーロッパの王子を思わせるほどであったと言われ、長男は十三歳であった」と書かれています。 「豊鑑」によれば、この「長男は十三歳」は「自然丸」となります。 そして、本能寺の変後の事として、安土に居たオルガンティーノ一行の記事の中に、坂本で摂津高槻までの通行証を「明智の子」に出してもらったとあります。 この「明智の子」も「自然丸」なのでしょうか!? 私は、「光慶」=「十五郎」としていいと思っています。 坂本城で死んだ「長男は十三歳」=「自然丸」とすると、「光慶」=「十五郎」は何処に・・・! 大正8年、丹波史蹟研究会発行、中岡未竜著、『明智光秀今昔観 : 附・福知山繁昌記』によると、 「長男・十兵衛光慶は丹波亀山城にいて、常に体が悪く、山崎の戦いに先立ち死去。 次男・十次郎は筒井重慶の養子。 三男・乙寿丸は山崎の戦い後、坂本城で母とともに死去、その時七歳。 」 と書かれています。 明41年、東亜堂発行、熊田葦城著、『少年武士道. 第1』によると、 「明智光慶、字 あざな は十兵衛。 天正十年の春、病に罹り、丹波亀山に居て、光秀が本能寺で信長を討ったことを急使から聞き、嘆き悲しみ、鬱気が胸に迫って死去。 その時、十四歳」 となります。 当時の信頼出来る史料が無いために、このようなことが起きてしまいます。

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明智光秀の妻子まとめ 妻と子供の一覧リスト

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スポンサーリンク 信長ってみんなにどう思われていたんだろう? そもそも、信長って当時は人気者だったのでしょうか? 信長の死を知って大泣きし、仇討ちのために大急ぎで備中高松城(現在の岡山県岡山市)から京都へ帰ってきた秀吉。 でも、光秀を討ってからの行動を見ると、信長のためだったのか自分の天下のためだったのかわからないところがあります。 家康はと言えば、信長から疑われて自分の奥さん(築山殿)と長男(信康)を殺さざるを得ませんでした。 言わば、妻と息子の仇。 恨みがなかったとは思えません。 そして将軍足利義昭。 信長の力で将軍職につけてもらったとは言え、明らかにお飾りの操り人形。 これでは話が違うと、憎んでいたに違いありません。 更に、焼き討ちにあった比叡山や、大坂(今の大阪)を追い出された石山本願寺に関わる人たちも怒っていたに違いありません。 織田家の他の諸将も日頃から信長のパワハラに怯えながら暮らしていました。 おそらく当時でも珍しいブラック企業。 上杉との戦いで戻ってくるのが遅れたという柴田勝家ですが、「光秀、よくやった!」という気持ちが全くなかったと言えるかどうか…。 信長を恨んでいなかったのは、楽市楽座で潤った商人たちぐらいかもしれません。 こんなふうに見ていくと、誰がやってもおかしくない…アガサ・クリスティーのミステリーみたいな状況です。 そこで起きた遺体のない放火事件。 どんな筋書きでも描けてしまえそうです。 陽明門の門衛の袴や、鐘楼の壁やひさしに同じ紋があるというのです。 専門家によれば、いずれも思い過ごしのようですが。 しかし、それだけではありません。 日光の第二いろは坂をほぼのぼりきった所に「明智平」という場所があります。 ロープウェイに乗ると明智平展望台に行くこともできます。 男体山、中禅寺湖、華厳の滝を一望できる絶景ポイントです。 こんな素晴らしいところに「明智」の名が!日光東照宮には神君家康公が祀ってあるというのに。 明智平と命名したのは家康の参謀を務めた天海上人と言われています。 そんなわけで、 天海上人が実は明智光秀その人ではないか?という説まであります。 真偽のほどは分かりませんが、 少なくとも徳川家は光秀を嫌ってはいないということだけは確かなようです。 ひょっとしたら、光秀の子供をかくまっていたかも!? 光秀に子供(息子)はいたのか? さて、光秀に子供はいたのでしょうか? 光秀の娘さんは有名です。 細川ガラシャですね。 自害していますが、それは関ケ原合戦の直前のこと。 夫の細川忠興が出陣する際に「死んでも石田三成の人質にはなるな!」と言い残した命令に従っただけ。 「お父さんが悪いことしてすみませんでした」という理由で死んだのではありませんでした。 明智光秀という人は織田家臣団の中でも大活躍した名将なのですが、なぜか出自がはっきりしていません。 息子が何人いたかとか、その後その子供たちがどうなったかという点に関しては、なおさら信用に足る資料が残っていないのです。 長男とされる明智光慶(みつよし)は、父の凶行を知ってショックのあまり病死したとか、父が討たれたのを知り自害したとか、諸説あるようです。 於鶴丸(おづるまる)という幼名だけが残っている男児がいたようですが、その人がどうなったのかもはっきりしたことは分かっていないようです。 これは怪しい。 むしろ隠蔽のにおいがします。 光秀の子供をかくまって生き延びさせるために、記録を抹消したのではないでしょうか? スポンサーリンク びっくり!光秀の子孫登場! 光秀の子供がいたかもしれない、誰かがかくまっていたかもしれないという疑惑が大きくなったところで…朗報です!自分は明智光秀の子孫だとおっしゃる方がいらっしゃいます。 「本能寺の変 431年目の真実」(文芸社刊)や「織田信長 四三三年目の真実 信長脳を歴史捜査せよ!」(幻冬舎刊)を著した 明智憲三郎氏です。 明智氏は、於鶴丸の子孫にあたるとのこと。 明智氏は『上司(織田信長)にイジメられて殺すなんて、そんな浅はかなことをする祖先だったのか』という疑問をずっと持ち続けていました。 ところがある本の中に『(それは)後世の軍記物による作り話だ』という指摘を見つけ、ホッとしました。 でもすぐに『じゃ、(真実は)何だったの?』という新たな疑問が生まれました。 情報システム分野のエンジニアだった明智氏は、歴史学者が行ってきた従来の調査方法にとらわれない独自の手法で本能寺の変を洗い直しました。 その結果、本能寺の変は光秀と家康の共謀である!という説を提唱しています。 は?!この人も明智光秀の子孫だった!? もう一人。 タレントのクリス・ペプラー氏がある番組の取材の結果、明智光秀の子孫らしいということが分かりました。 クリス氏はドイツ系アメリカ人の父と日本人の母との間に生まれました。 小さいときに母方のお祖母さんから「 あなたは明智光秀の末裔なのよ」と聞かされていました。 そのお祖母さんの墓石には桔梗紋が入っていて、苗字が「土岐」であることに番組は注目。 土岐頼勝の子孫であることが分かりました。 頼勝は明智光秀の実子であるという説があります。 織田信長の子孫に謝罪!? 信長の子孫はちゃんと生き残っています。 この人たちと光秀の子孫が鉢合わせになったら、かなり気まずいですよね。 笑顔の会見だったようで、なんとも微笑ましい話です。 話は変わりますが、2020年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の主役は明智光秀(主演:長谷川博己)です。 NHKのPRサイトでは「記念すべき2回目の東京オリンピックが行われる…」とか「21世紀の日本にとって大きな節目を迎える年です」とか、いつも以上の気合が感じられます。 「新しい解釈で英雄たちを描く…」とあり、脚本は「池端俊策のオリジナル」となっています。 ひょっとしたら、本能寺の変に関しても今までと全く違う解釈が出てくるかもしれません。 ここは注目ポイントですね。 私事ですが、筆者は山形県出身です。 山形県の天童市と高畠町はかつて織田藩でした。 信長の次男信雄の末裔が治めたとされています。 大河ドラマをきっかけに観光客が増えれば良いなと願っております。 何かのイベントに明智さんとクリスさんを招待したら、断り切れずに来てくださるかもしれませんね 笑。 当時、信長の周囲には彼を憎む人がたくさんいた• 少なくとも徳川家は光秀を嫌ってはいなかったようだ• 明智家の資料を抹消して、子供をかくまった人たちがいたかもしれない• 明智光秀の子孫を名乗る人が独自の研究を発表している• 芸能人の中にも明智光秀の子孫と思われる人がいる•

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