アッシジ の フランチェスコ。 「アッシジのフランチェスコ ひとりの人間の生涯」キアーラ・フルゴーニ著

アッシジ観光の体験談~フランチェスコ派の祈りの場でした~

アッシジ の フランチェスコ

道楽息子が神の道へ フランチェスコは中部イタリアにあるアッシジの裕福な商人の生まれ。 小さい頃から陽キャで子どもたちの中心的存在で、成長した後は仲間と一緒に酒を飲んで騒いだりバクチに興じたりなど遊びまくっていました。 父ピエトロ=ベルナルドーネは息子に騎士になって武功を上げ、やがては貴族になり家の位を上げてほしいと思っていました。 フランチェスコ本人も父の期待に応え騎士へ成り上がる憧れはありました。 隣町のペルージアとの戦いが勃発した時は勇んで戦いに赴きますが、捕虜になって1年の獄舎に繋がれてしまいます。 次のチャンスは教皇インノケンティウス3世とドイツ諸侯との争い。 フランチェスコは父に用意してもらった武具を身につけ馬をかけて戦場であるプーリアに向かいますが、道中不思議な夢を見たと言います。 この時見た夢は半ば伝説がかって本当かどうか分かりませんが、 不思議な声に語りかけられ、故郷に帰るように促されたそうです。 フランチェスコはこの声に従い、故郷アッシジに引き返してしまいました。 Photo by その後、フランチェスコは郊外で出会ったハンセン病患者に意志に反して近寄り、その手に接吻をして 「おれはいったい何をやっているんだ」と自分自身に驚くことになります。 そうして不思議な体験を重ねる中、ある日十字架から語りかける声を聞き、これ意向自分の生き方を変え新しい生き方をすることを決意します。 フランチェスコはサン=ダミアノ教会という教会に住み、十字架からの言葉「私の家を建て直せ」の言葉通り、教会の修復作業に取り掛かります。 息子が常軌を逸した生活をしていることを知った父ピエトロは激怒し、フランチェスコを「家に帰るよう」求め法廷に訴えました。 応じなければ廃嫡し、持っている金を全て返すことを要求します。 フランチェスコはこれに応じ、金を全て父に返し、着ている衣服を全て脱ぎ去って父親の元に置いたそうです。 "La renuncia a los bienes terrenales" Giotto 2. 「小さき兄弟団」の設立 12〜13世紀、キリスト教会は大きな転換期を迎えていました。 中世で大きな力を持ったキリスト教会は政治と深く結びつき、司祭の中には封建君主である者がいたり、金で司祭の座を買って特権を得て資産の蓄えに熱心な連中がいたりなど宗教指導者の質の低下が起こっていました。 教会に対する世論の信頼の低下は世俗の皇帝や国王に対する教会の影響力の低下という形で現れ、司教の任命が皇帝や国王の干渉を受けることが多くなり、その役割を取り戻さんとする教会側と叙任権闘争を起こすことになります。 教皇やカトリック教会はこの事態を改善するため、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世と闘って「カノッサの屈辱」事件を起こしたりなど権力闘争を繰り広げますが、末端の信者の信頼回復という点だと、教皇グレゴリウス7世の代から積極的に教会の改革運動を行なっており、特にフランスのクリュニー修道院を中心に修道院改革が行われていました。 この運動は、イエス・キリストと同じように精神の中で生き、自らの労働で糧を得て、私有財産を放棄し、ただ神への奉仕のために生きるという清貧運動でありました。 世俗の快適な生活を捨てたフランチェスコがとった伝道の方法も、当時の宗教改革運動の正道である 「清貧」「托鉢」「巡回説教」の運動でした。 教会を修復する傍ら、粗末なぼろをまとって家々を回り生活の糧を乞い、人々の神の言葉を伝えて回心を説きました。 活動自体は目新しいものではなかったのですが、フランチェスコの「人たらし」のキャラクターや、本人の真摯さ・説教の真面目さから、次第に冷笑の目で見ていたアッシジの人々も見る目を変えていくことになります。 フランチェスコの周囲には次第に彼を慕う人が集まるようになり、やがて「小さき兄弟会」という修道会が設立されました。 PR 3. 貧しくあること、兄弟として生きること つねに神の前で貧しくあること フランチェスコは、貧しい人やハンセン病患者など、社会の底辺にいる人々と共に生きることこそ神と共にあり神への敬意を示す行為だと考えました。 貧しい人や虐げられている人の中にイエス・キリストを見ようとしたのです。 そのため自分自身は、徹底的に貧しさや無所有にこだわりました。 「何も自分のものにしない」と語り、身にまとうぼろの服以外は一切何も所有しようとしませんでした。 フランチェスコは 「物を持ちたい」という所有欲や執着心が平和を壊すと考えました。 物を多く持ちたいと願う心から支配欲や権力欲に繋がる。 物に執着すると守るために武器が必要になる。 物を欲する欲と守りたい欲の両方から自由になることで平和が実現すると考えたのです。 さらにフランチェスコは物質的な貧しさだけでなく、霊における貧しさ、無私の心、つまり 自己追求からの脱却も神への謙虚さを表すと考えました。 自己追求からも脱却するということは、学問の道さえも捨てなければならないということになります。 学問を究めようとすると名誉欲や支配欲が心に現れ、それは慢心や傲慢となり平和の実現を妨げる。 フランチェスコはいかなる点でも 「つねに神の前で貧しくあること」で真の幸福を得ることができると説いたわけです。 さらにもう一点フランチェスコの教えの特徴に「兄弟として生きる」というのがあります。 イエス・キリストの教えでは「人間は全て兄弟である平等」でありましたが、そのイエスの教えを実行すべきキリスト教会が支配する世界でもそれが実践されていない。 フランチェスコは改めてイエスの「人間は皆兄弟」という教えを確認しそれを実行することを目指しました。 ある時、フランチェスコが弟子たちが住む庵を訪れた時、山賊が庵にやってきて食べ物を求めた。 するとある屈強な修道士が山賊をどやしつけて追い払ってしまった。 フランチェスコは激怒し、食べ物を持たせて山賊を追いかけ、非礼を詫びて食べ物を差し出したそうです。 自分の元に来るものは誰でも「居心地の悪さを感じず自分のいる場所であると感じなければならない」のです。 フランチェスコにとって「全てが平等」という考えは人間だけでなく自然もその対象でした。 ある時フランチェスコがスポレートの山間地方で伝道の旅をしていると、どこからともなく小鳥たちが集まってきた。 嬉しくなったフランチェスコは小鳥たちに語りかけました。 「わたしの兄弟である小鳥のみなさん、あなた方は、あなた方の作り主を心から褒め称えるため、いつも感謝しなければなりません。 なぜなら、そのお方は、あなた方の着る物として羽毛を、また飛ぶために翼を、そして必要なものを全てくださったからです」 中世のキリスト教世界では「物質は観念の影である」とみなすプラトン主義的二元論の流れがあり物質を軽視し自然を敵視する傾向があり、人間と自然の関係は戦いであると考えられました。 しかしフランチェスコはこのような当時の常識から外れ、 神が作った自然を讃え、その存在を善として見ています。 このようなフランチェスコの考え方は、「自然破壊」に対する「自然保護」の姿勢として、主に欧米の環境保護の考えに受け継がれています。 異教徒との対話 フランチェスコが伝道を行なっていた時代は、中東で聖地奪還のための十字軍が派遣され、ヨーロッパ中で異教徒排除の声が多数派の時代でした。 そんな中でフランチェスコは、イスラム教徒にキリストの教えを説いて話し合おうと考えていました。 1219年、フランチェスコはエジプト攻略を目指す第5回十字軍に合流し、エジプトの港町ダミエッタに上陸。 そうしてフランチェスコは弟子の1人を連れてイスラム軍のスルタン、アル=カーミルの陣営に向かい謁見が実現しました。 アル=カーミルは教養のある英明なスルタンで、後に神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世と協議の上で平和裡にキリスト教国側にエルサレムの統治権を与えるという、奇跡的な和平を成し遂げた人物でもあります。 フランチェスコは数日アル=カーミルの元に留まり、キリスト教の教えを説きキリスト教になるよう求めたと言います。 アル=カーミルは初めは厳しい態度で尋問していましたが、フランチェスコの真摯さに態度を変え敬意を表し、最後は真面目に聞いていたそうです。 結局アル=カーミルはキリスト教に改宗することはなかったものの、彼はフランチェスコを手厚くもてなし、丁重にキリスト教徒の陣営まで送り届けました。 異教徒の頭に「キリスト教徒になりなさい」などと説くのは今考えると自殺行為のように思えますが、 フランチェスコの説く教えが時代や場所を問わない普遍的な価値を持つものであったこと、そしてアル=カーミル自身が教養人でありフランチェスコの教えを理解できたため、このような異教徒間の交流が実現できたのではないかと思います。 フランチェスコはエジプトから帰国後にまとめた会則の中で以下のように記しています。 回教徒や非キリスト教徒のもとに行きたいと望む兄弟はだれでも、自分の奉仕者であり僕の許可を得た上で行かなければならない(略)ところでそこへ行く兄弟たちは、二つの方法をもって、彼らの間で霊的に生活することができる。 一つの方法は、口論や争いをせず、神のためにすべての人に従い、自分はキリスト者だと宣言することである。 もう一つの方法は、主の御心にかなうと判断するなら、神の御言葉を宣べ伝えて、全能の神・父と子と聖霊・万物の創り主を信じ、贖い主・救い主である御子を信じるように、そして洗礼を受けてキリスト者になるようにと、勧めることである。 ここで大事なのは「口論や争いをせず」「主の御心にかなうと判断するなら」という点で、異教徒と話す際は誠実に尊敬の念を持って接し、改宗を強制せず、もし状況が許せば改宗を勧めるべし、としているところです。 近代に入り、ヨーロッパの宣教師たちはフランチェスコが実践したように異教徒への宣教を行うために世界中に旅立っていきます。 実際のところ、このような精神がどこまで後の人たちに守られたかは、後のヨーロッパ列強による植民地獲得競争の歴史を知れば相当に怪しいものですが、異教徒への宣教の根本的な思想にあるのは、フランチェスコの対話と協調の精神にあるのです。 PR まとめ 環境保護や異教徒への布教、貧しさの希求など、フランチェスコはキリスト教的価値観が中世から近代へ移り変わって行く際の先駆者的な存在であります。 彼自身は教会を改革したり、世界を変えようなどとは微塵も思っておらず、ただ誠心誠意、神の前で正直にあろうとしただけなのですが、その姿勢は時代を動かす原動力になって行きます。 それにしても、フランチェスコの教えは、アプローチは違いますが、どこかブッダの教えと似たところがありますよね。 キリスト教がヨーロッパだけの宗教として終わらずに世界中に信者を獲得するに至ったのは、異教徒でも理解できる普遍性を得たためで、フランチェスコはそういう点でもキリスト教の発展に貢献しているんじゃないかと思います。

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アッシジのシンボル!サン・フランチェスコ聖堂の鑑賞ポイント

アッシジ の フランチェスコ

アッシジの聖フランシスコとの出会い 私が21歳頃だったか、ある神父さんの部屋にお邪魔した時「ブラザーサン・ シスタームーン」という映画を見せていただいたのがきっかけだった。 この世 のあらゆる富・名声を捨てて、神が創ったあらゆるものに耳を傾け話しかけ た。 それが鳥であろうが、魚であろうが、彼の目には神の栄光を共に称える ものとして映ったに違いない。 そしていつかアッシジに行ってみたいと思う気 持ちは強くなったが、妻(カトリック)との結婚を機会に訪れることが出来た。 アッシジには三泊し彼の足跡を訪ねることになったが、私はどちらかといえば 荘厳な雰囲気を持った教会よりも、小さな教会の方が、落ち着く。 がある力に逆らえず、生まれて初めてひざまずいた、小さな小さな 質素な作りのポルティウンクラ聖堂。 この10坪にも満たない聖堂で聖女クラ ラは剃髪し修道生活を始め、聖フランシスコも1226年10月3日から4日の未 明に、聖堂の隣のみすぼらしいバラック小屋で生涯を終えた。 私と妻が を挙げた日に季節はずれの雪がアッシジに降ったと、数日後この地を訪れ た時に聞かされた。 今の私は教会から離れてしまいましたが、どのような道 を歩むともこれらの絶対の証人が放っている光を見つめていきたい。 1996.

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アッシジの聖フランシスコ(フランチェスコ)の魂

アッシジ の フランチェスコ

ローマ教皇ベネディクトゥス16世が退位し、コンクラーベを経て新教皇フランシスコが選出された。 その名の由来はフランシスコ会の創設者アッシジの聖フランチェスコで、意外なことに教皇の名に採用されたのは初めてだという。 アッシジの聖フランシスコへの注目が集まっているだろうと思うので、その伝記本を紹介したい。 序文を寄せているのはアナール学派の泰斗ジャック・ル・ゴフで、ル・ゴフ自身も「」というフランチェスコの生涯を通して十三世紀文化史、社会史を俯瞰しようとする論文集を書いているが、両方でこの本を高く評価している。 ル・ゴフの序文にある『 人間であるのを止めることなく聖人となったフランチェスコ』 P5-6 という一節に、本書がどのような本であるかが端的に表現されていると思う。 聖人・偉人の生涯はどうしてもその人物の輝かしい面、立派な面が描かれがちだが、むしろ僕はその人物がどのような執着や鬱屈や感情の昂りや負い目を抱えていたか、いわば人間的な側面に興味がある。 そして、この本ではまさに聖人フランチェスコの人間としての顔を、史料を積み重ねていくことで浮かび上がらせており、とても面白い。 少しアッシジのフランチェスコの若い頃の話をまとめてみよう。 アッシジのフランチェスコは一一八一年から一一八二年の間に、裕福な織物商ピエトロ・ディ・ベルナルドーネとフランス人女性(ピーカともジョヴァンナとも)の間に生まれた。 丁度ピエトロがフランスに行商に行っている間に誕生し、母はジョヴァンニと名付けたが、フランスから帰ってきた父ピエトロは「フランチェスコ(フランス人)」と呼んだという。 妻の故郷を名前に留めようとしたのだとも、丁度フランスでの取引が上手くいったからだとも、あるいは今後息子が自分の事業を継ぐことを想定して目立った名前にしたかったからだともいわれるが定かではない。 青年期のフランチェスコは父の仕事を手伝いながら、陽気で気前が良く、宴会や遊びごとに金を惜しまなかったから、周りに同年代の若者が多く集まっていた。 また高級な生地を使った衣服を身に纏い、さらに独創的な格好を好んでいたというから、放蕩者、一種の「かぶき者」のような人物であったらしい。 金遣いが荒いので父はよく叱り、隣人たちも眉を顰めてあれこれと言っていたが、母はその都度溺愛する息子をかばっていたという。 フランチェスコは貴族風の振る舞いをすることで、貴族の徳を身に着け、騎士になろうという野心を持っていたし、身のこなしや言動も華麗であったので人望が集まり、将来を嘱望されてもいたという。 これは身分に対するコンプレックスの現われともいえる。 商人である彼はどれほど貴族的な振る舞いをしようとも、決して貴族になることはできない。 十一世紀から十三世紀にかけてのイタリアは人口が飛躍的に増大し、農業技術の発達や商業の活発化によって都市が著しく成長を果たし、次々と自治都市(コムーネ)が成立していた。 アッシジもそのような都市のひとつで、ローマ教皇と神聖ローマ皇帝の対立、旧貴族階級と台頭する平民の対立が絡み合いつつ危うい均衡の上に成り立っていた。 その均衡が崩れるのが一一九八年頃のことである。 一一九七年に神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世が急死、翌一一九八年、ローマ教皇インノケンティウス3世が即位すると中部イタリアにおける皇帝権力が一気に瓦解し始める。 一一九八年、アッシジの「平民(新興商人層と下層市民)」が「良き人々(旧封建貴族出身の騎士層)」に対し反乱を起こし、貴族層の多くは隣のペルージアに退避、以後アッシジとペルージアの間で戦闘が続くことになる。 若きフランチェスコもおそらく平民側に立って反乱に参加、しかし一二〇三年、サン・ジョヴァンニ橋の戦いで彼は捕虜となってしまい、ペルージアの牢獄に一年以上閉じ込められることになった。 『 彼は、戦さで手柄を立てるか、さもなければ貴族の娘と結婚してでも、自分の生活と社会階層を変えたいと切望していた。 』 P29 ペルージアの牢獄では彼の身なりが豪勢であったことから、アッシジ側の貴族・騎士層と同じ牢獄だったが、身分ばかり高いのに、無価値な人々の様子に憤っていたという。 ある捕虜と口論になり「 ぼくが将来何になると思っているんですか?ぼくは世界中で讃えられるようになるんです!」(P33)と答えたという。 一年余りの虜囚生活は彼の健康を損ない、また非常に内省的にさせた。 解放されてからしばらくは消耗による病気の療養にあて、体力が回復してからは少しずつ父の仕事を手伝ったりもしたが、かつての騎士や君候になろうという野心は消え、稼いだ金を貧しい人々への施しにあてるようになっていた。 父ピエトロは織物商としてだけでなく金貸しなども営んでいたと著者は推測しているが、これは定かではない。 ただ、商業を通じて、金の流れがむしろ多くの人びとを不幸にしていることを実感していた。 当時の社会は医療も満足ではなく、ちょっとしたケガや病気が即生死を左右する不安な時代でもある。 戦乱や事故で身体が不自由な人々や乞食、狂人が世の中に溢れ、さらにハンセン病(らい病)患者は、かつて何らかの罪を犯したことで神の罰を受けたと観念されたことで差別され、隔離されていた。 若きフランチェスコも彼らのことは見て見ぬふりをして過ごしていた。 内省的姿勢がやがて信仰に結び付くのは不思議なことではない。 彼はローマ巡礼に赴き、サン・ピエトロ大聖堂に感銘を受け、有り金を鷲掴みにして周りにばらまいたという。 また、衣服を乞食と交換して他の乞食たちに施しを求めたりした。 そんな苦悩の日々の果てに、彼はアッシジで一人のハンセン病患者を見かけると、意を決して彼に近づき、金を与え、その手に接吻し、抱擁した。 その後、彼はハンセン病施療院を訪れるようになり、そこに通いつめて救済活動を始めるようになる。 身に着けていたもの一切を売り払い、サン・ダミアーノ教会の司祭にその金を渡して一緒に暮らすことを申し出る。 一向に帰らない息子が何をしているのか知ったピエトロは驚いた。 後を継いで商人に、もしかすると騎士にすら立身出世するかもしれないと期待していた自慢の息子が、貧しい身なりで病人の世話をしている。 ピエトロはフランチェスコを力づくで家に連れ帰ると監禁し、彼をまっとうな道に戻すよう様々な人々に相談しはじめた。 しかしフランチェスコは、一説には母の助力で、父の下から脱出を果たし教会へと庇護を求めた。 怒り心頭の父ピエトロは、父としての怒りを商人としての論理に変えて市に訴える。 息子フランチェスコにこれまで費やし、不当に奪われた財産の返還を申し出たのであった。 これに対しフランチェスコは、自分はすでに『自治都市の裁治権ではなく、司教の裁治権に服している』 P55 と申し出、司教の同伴で父と息子の対決が行われることになった。 聴衆が見守る中フランチェスコは衣服を脱いで裸になり、服の上に金を乗せ、こう宣言したという。 「皆さん、聴いてください。 そしてどうか私のことをわかってください。 今まで私はピエトロ・ディ・ベルナルドーネをわが父と呼んできました。 けれども、私はただ神のみに仕えると決意したので、ピエトロ・ディ・ベルナルドーネに、彼の心を悩ました金と、彼が私に与えてくれた衣服を返します。 今から先は、いつも『天にましますわれらの父』としか言いません、『わが父ピエトロ・ディ・ベルナルドーネ』とは決して言いません。 」 P55-56 怒りに我を忘れた父ピエトロが彼の衣服と金を掴んで退場し、司教が彼にマントを被せ、修道士フランチェスコが誕生する。 一二〇六年、二四~二五歳ごろのことだという。 修道士となってからのフランチェスコの事跡については本書をお読みいただくとして簡単な要点だけ書いておく。 その後一二二六年に亡くなるまで、彼は徹底した清貧生活を送り、貧者や病者の救済に生涯を捧げた。 その活動に多くの人々が彼の下に集まり、フランシスコ会が誕生する。 その戒律はキリストの歩んだ徹底した清貧と金の否定である。 他の修道会が衣服を揃えるのに対し、フランシスコ会はありあわせのみすぼらしい格好で、金銭に対しては極端な嫌悪を示した。 知識や教養の否定もその特徴として挙げられる。 当時書物は高価であったから、知識欲は傲慢と支配の元になるとして否定された。 福音に従い、平和主義で、迫害を受けても反抗せず、清貧を貫き、弱者救済に身を捧げるその活動は瞬く間に信奉者を広げ、ときの教皇インノケンティウス3世やホノリウス3世、後のグレゴリウス9世であるウゴリーノ枢機卿など教皇庁中枢にも後ろ盾を作り、やがてドミニコ会とともに中世教皇権を支える巨大勢力へと成長していくのだった。 フランチェスコは死後すぐに新教皇グレゴリウス9世によって聖人に列聖されるが、不安定な教皇権の支持基盤としたい新教皇の政治的意図が背景にあった。 アッシジの聖フランチェスコの、特に若い頃の姿を読みながら、どうにも父ピエトロの視点を想像せずにいられない。 衣服を受け取った後もう一度二人は再会するが、それも哀しい訣別だった。 「息子があまりにも惨めな姿でいるのを見て、ますます深い悲しみの中に閉じこもっていった。 彼はわが子を心の底から愛していた。 けれども、不真面目であるのと、やつれ果てて真っ青な息子を見るのが辛いのとで(極端な欠乏生活と寒さのせいで、フランチェスコは歩く屍のような有りさまだった)、父は息子と会うたびに、呪詛と悪罵を浴びせかけた」(P61) その親子が最後に逢った日、フランチェスコはピエトロの前で乞食から祝福を与えられ、息子は父にこう言ったという。 「神は、私をののしり続けるあなたの代わりに、私を祝福する父を与えてくれることができるのです!」(P61) 以降、ピエトロは歴史の表舞台から消える。 いつ亡くなったのか、どのような後半生を送ったのかわからない。 息子の活躍をどのような思いで見ていただろうか。 弱者救済に尽力し、対峙する十字軍とイスラーム軍との仲裁を買って出て、アイユーブ朝のスルタンの前で説教をし、巨大なフランシスコ会を創設してキリスト者の生活の範となり、教皇すら敬意をもって接するほどの名声を得て、死後聖人に列せられた息子。 その息子の説く清貧な生活と金銭の否定という教えはまるで、ピエトロの人生全てを否定しているように見える。 ふと「アマデウス」という映画を思い出す。 映画のラスト、全てを告解した老いたサリエリは、最後にこう宣言するのだった。 『凡人よ、罪を赦そう』 偉大にして聖なる息子の、か弱き凡人たる父にも目を向けさせられたという点で、『 人間であるのを止めることなく聖人となったフランチェスコ』の物語として一級の伝記であると思う。 ピエトロ・ディ・ベルナルドーネに祝福を。

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