ボブ ホーナー。 ヤクルトに来たボブホーナーは、すごい選手だったんですか

「なにしろ日本を舐めてた」 元ヤクルト・ホーナー氏に広澤克実氏も呆れ顔

ボブ ホーナー

凄かったですよ~、何と言っても本当の意味での現役バリバリのメジャーリーガーでしたから。 というのもそれまでの助っ人外人は「元・メジャーリーガー」と言っても何年かメジャーに居たってだけでほとんど3A以下の選手ばかりでしたから。 そこへ行くとホーナーはなんと大卒1年目から一度もマイナー落ちをしたことのない、正真正銘の現役メジャーリーガーだったのです。 日本デビューは開幕からちょっと経った5月のGWの阪神戦だったんですが、デビューして4試合で6ホームランですから。 自分も6月か7月ぐらいに球場で生ホーナーのプレイを目にしましたが、スイングと打球の速さは他の選手がプロに見えないほどズバ抜けていましたね。 誰だったかは忘れましたが相手チームの3塁手が試合後に「 守っていて あっ!って思った時には自分のスパイクの横にボールが来ていて一歩も動けなかった。 あんなゴロは見たことが無い。 」とコメントしていたほどです。 バックスクリーン脇にIN またそれまでの助っ人外人は凡打だと走りませんでしたが、ホーナーはたとえどんな凡打でも毎回必ず全力疾走していて、 その姿勢は外国人・日本人を問わず当時の他の選手たちにも影響を与えました。 …とまぁとても素晴らしい選手でしたが残念ながら日本の「野球」は好きになれなかったみたいで、1シーズン限りでアメリカに帰ってむこうで日本の野球のことを書いた暴露本まで出しています。

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ボブ・ホーナー

ボブ ホーナー

経歴 [ ] プロ入り前 [ ] 時代のには、を擁するとの親善試合に来日。 東海大学との5試合を含む全7試合においてを放った。 同年に創設されたの最初の受賞者となり、当時のの通算本塁打58本とシーズン本塁打25本の新記録を樹立した(2013年現在はが通算本塁打100本とシーズン本塁打48本の記録を保持)。 プロ入りとブレーブス時代 [ ] のでよりを指名受ける。 での出場を拒み、いきなりデビューし(メジャーリーグではマイナー経験無しの選手は非常に稀)、6月16日のデビュー戦(対戦)では第3打席に(通算287勝、のちに入り)から2ラン本塁打を放つ。 89試合出場で. 266、23本塁打、66を記録し、らを抑えてを獲得する。 、と2年連続で30本塁打以上を放つ。 は肩や足の故障に悩まされて79試合出場で15本塁打に終わったが、は大きな故障もなく、2シーズンぶりの30本塁打以上を記録し、キャリア唯一の出場を果たすなど、ブレーブスの4番打者として成績を重ねた。 1983年1月、4年間550万ドルの契約を結んだ。 この時の契約は、体重109kgの彼が、シーズン中の金曜日に13回体重を計量し、97. 5kg以下の場合に1回あたり約7,700ドル、合計10万ドルのボーナスの出来高契約を含むものであった。 、は右手首の故障に悩まされるものの、には幾分回復し、27本塁打を記録。 7月6日の対戦で、メジャー史上11人目の1試合4本塁打を達成したが、チームは敗れた。 1試合4本塁打を記録した選手が居ながらチームが敗れたのはメジャー史上2回目で、20世紀では唯一であった。 また、「デビューから210本連続満塁本塁打なし」という当時のメジャー記録を打ち立てたが、対パイレーツ戦で211本目にして初の満塁本塁打を放ち、この試合での4-2の勝利に貢献した(にが通算248本目で初満塁本塁打を記録して更新した)。 同年オフにとなったが、年俸高騰により各球団のオーナーが示し合わせ、FA選手を締め出したためどこの球団とも契約できなかった。 ヤクルト時代 [ ] 浪人寸前のところを4月13日に率いるへの入団が内定し、27日に来日した。 は「シーズン50本塁打」という期待を込めて 50に決まった。 ヤクルトでのデビュー戦(5月5日対阪神4回戦、神宮)の来日第3打席での初球の外角低めの速球を905グラムの日本製バットで叩いて右翼ポール際へ1号2ラン本塁打。 翌6日の2戦目ではからなんと3本のソロ本塁打を放った。 1回二死での第1打席(来日第5打席)に0ボール2ストライクでの3球目真ん中低めのスライダーを左翼へ、3回の第2打席は3ボール1ストライクから四球、5回無死での第3打席は2ボール1ストライクでの4球目内角高めの速球を左中間へ、7回無死での第4打席はフルカウントでの6球目外角高めの直球をバックスクリーン中央へ叩き込んだ。 2試合目の本塁打は3本とも打った瞬間にそれと分かるものであり(3本合計の推定飛距離380m)、その際の観客の反応も大歓声というよりは、明らかに呆気にとられたような歓声と拍手が多くを占めていた。 最初の2試合で6打数5安打、打率. 833、本塁打4、打点5、四球2の日本球界デビューで、5月7日の3試合目に対戦した、、はストライクでの勝負を避け、事実上の敬遠策であった。 5月9日の4試合目は佐世保でが真っ向勝負して、初回二死の第1打席で外角高めの直球を右翼へ5号ソロ、6回の先頭打者での第3打席ではストライクゾーンから約3インチ(7センチ)外れた内角シュートを左翼場外へ6号ソロ本塁打を放ち、4試合で11打数7安打、本塁打6のデビューを飾り、黒船級の「 ホーナー旋風」を巻き起こし、シーズン終了までにいったい何本打つのだろうという期待をファンに抱かせた。 にもセリーグ一塁手部門でファン投票で選出された(腰を痛め出場辞退)。 最終的には故障で規定打席に達しなかったものの、93試合で打率. 327、31本塁打、73打点を記録した。 外国人選手が規定打席不足で30本塁打以上を記録したのは、この年のホーナーとの()、の()、の()、の()らがいる。 なお、8月9日のでの対阪神17回戦で7回表の先頭打者としてから18号本塁打となったはずの中越え同点ソロアーチを放ったが、続くが左飛に倒れて一死となった後、雷雨で49分間の中断を経て、21時18分にコールドゲームが成立し、6回で試合終了となったため、幻の本塁打が1本ある。 18号本塁打の打ち直しは8月12日での対広島16回戦で行われ、またもや7回表の先頭打者での打席で、投手交代したばかりのが投じた肩口から入る内角のパームボールを叩いた左翼へのソロ本塁打であった。 また、8月30日横浜での対大洋21回戦の3回表二死満塁の場面での直球を捉えた左中間への23号本塁打は来日して唯一の満塁弾であり、10月2日神宮での対阪神24回戦の5回一死一塁での高めのカーブを捉えて左翼フェンスぎりぎりに運んだ31号2ランが日本での最後の本塁打であった。 はホーナーの本塁打を「所属球団が勝利至上主義ではなかったため、チームの勝利に拘泥せず、伸び伸びと打った雄大なアーチ」と評した。 ホーナーは同年、プレーでの活躍のみならず、製品CMの出演料や、著書「地球の裏側にもうひとつの野球があった」の原稿料など、しめて5億円を稼いだと言われている。 ヤクルトのCMでは「おなかに菌力」と日本語のセリフを放った。 また、のCMではと共演している。 このほか、の向けゲーム『』に登場する敵キャラ「あかおにホーマー」のモデルにもなっている。 日本での生活を「とてもエキサイティングなものだった」という発言も残している。 国際スカウト中島国章は、現役引退後のホーナーに「日本では大きなケガをしなくて良かった。 (打率3割、30本塁打以上記録し)ヤクルトに迷惑をかけなくて良かったと今でも思っているよ」と声を掛けられたので、決してホーナーは日本が嫌いな訳ではなかったと振り返っている。 ホーナー旋風で神宮球場は連日満員となり、ヤクルトの観客動員はチーム成績が4位だったにも関わらず年間200万人を超えた。 カージナルス時代 [ ] 1987年オフにをFA(に移籍)で失い、クラークに代わる四番打者の補強を急務としていたと1年間総額わずか約1億円(当時)の契約で合意し入団した。 は監督であるがホーナーの獲得には否定的だったが、フロントが4番打者として期待しての入団だった。 しかし結局、開幕直後の4月にはから、さらに7月にはからをで獲得し、4番打者として起用することとなった。 ホーナーは左肩の故障のため、60試合の出場で、わずか3本塁打に終わる。 はのに招かれたが、契約には至らず、現役を引退した。 引退後 [ ] 、ホーナーはヤクルトの春季キャンプに臨時コーチとして招聘された。 データを駆使して、投手の配球を読んで打つんだ」と持論を展開した。 この講義に野村は「わが意を得たり。 俺と同じ考えだ」と舌を巻いたという。 (当時監督だったのたってのリクエストにより実現したものではないと野村本人が言っている) 引退後のホーナーはまた、石油とガスの会社を設立・経営したものの事業に失敗し多額の借金を抱え込んでいたが、メジャー選手会はFA選手締め出しを労使協約違反として訴え、賠償金2億8000万ドル(約308億円)が支払われた。 、元利合計4億3400万ドル(約477億円)に増えていた賠償金が分配され、ホーナーにも700万ドル(約7億7000万円)が支払われる事となった。 7月4日にはアメリカ大学野球殿堂入りを果たした。 詳細情報 [ ] 年度別打撃成績 [ ] 球 団 89 359 323 50 86 17 1 23 174 63 0 0 1 9 24 2 2 42 7. 266. 313. 539. 852 121 515 487 66 153 15 1 33 269 98 0 2 0 3 22 6 3 74 9. 314. 346. 552. 898 124 495 463 81 124 14 1 35 245 89 3 1 0 4 27 3 1 50 16. 268. 307. 529. 836 79 336 300 42 83 10 0 15 138 42 2 3 0 3 32 3 1 39 6. 277. 345. 460. 805 140 572 499 85 130 24 0 32 250 97 3 5 0 3 66 3 4 75 13. 261. 350. 501. 851 104 439 386 75 117 25 1 20 204 68 4 2 0 2 50 2 1 63 14. 303. 383. 528. 911 32 129 113 15 31 8 0 3 48 19 0 0 0 2 14 2 0 17 3. 274. 349. 425. 774 130 540 483 61 129 25 3 27 241 89 1 1 0 6 50 4 1 57 18. 267. 333. 499. 832 141 581 517 70 141 22 0 27 244 87 1 4 0 10 52 8 2 72 16. 273. 336. 472. 808 93 355 303 60 99 15 0 31 207 73 0 0 0 1 50 3 1 65 9. 327. 423. 683 1. 106 60 247 206 15 53 9 1 3 73 33 0 0 0 8 32 6 1 23 9. 257. 348. 354. 703 :10年 1020 4213 3777 560 1047 169 8 218 1886 685 14 18 1 50 369 39 16 512 111. 277. 340. 499. 839 :1年 93 355 303 60 99 15 0 31 207 73 0 0 0 1 50 3 1 65 9. 327. 423. 683 1. 106 年度別守備成績 [ ] 年 度 球 団 試 合 試 合 刺 殺 補 殺 失 策 併 殺 守 備 率 1978 ATL - 89 81 199 13 17. 956 1979 45 414 24 7 32. 984 82 56 143 15 11. 930 1980 1 2 2 0 0 1. 000 121 78 251 23 20. 935 1981 - 79 51 129 12 6. 938 1982 - 137 102 217 10 20. 970 1983 1 2 0 0 0 1. 000 104 76 153 10 18. 958 1984 - 32 21 61 3 6. 965 1985 87 892 58 0 105 1. 000 40 25 61 11 6. 887 1986 139 1378 102 8 138. 995 - 1988 STL 57 463 40 5 39. 990 - MLB 330 3151 226 20 314. 994 684 490 1214 97 104. 946• 各年度の 太字はリーグ最高 表彰 [ ] MLB• (1978年)• :1回 (1980年7月) 記録 [ ] MLB• 選出:1回 () NPB• 初出場・初先発出場:1987年5月5日、対4回戦()、3番・として先発出場• 初打席:同上、1回裏にから四球• 初安打:同上、3回裏にから遊撃内野安打• 初本塁打・初打点:同上、5回裏に仲田幸司から右越2ラン• 初三振:1987年5月10日、対戦(長崎)、の前に見逃し三振 背番号 [ ]• 5(1978年 - 1984年、1988年)• 11(1985年 - 1986年)• 50(1987年) CM出演 [ ]• サントリー缶ビール 関連情報 [ ] 著書 [ ]• 『地球のウラ側にもうひとつの違う野球(ベースボール)があった』安西達夫(中島国章)訳(, 1988年3月) 脚注 [ ].

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記憶に残る輝き 2 〜日本を震撼させた選手たち ボブ・ホーナー、セシル・フィルダー〜

ボブ ホーナー

22日、テレビ朝日「中居正広のスポーツ!号外スクープ狙います!」では、「プロ野球最強助っ人外国人ランキング」を放送。 ファンや関係者によるアンケートに基づき、歴代助っ人外国人選手をランキングで紹介した。 その18位に登場したのは、1987年にヤクルトスワローズに加入したボブ・ホーナー氏だ。 それまでプレーをしていたアトランタ・ブレーブスで4番を打っていたことから、「メジャーの4番」が来日したと大きな話題になった。 日本球界でのプレーはわずか1年、シーズンが終わると逃げ帰るようにアメリカへと戻ったホーナー氏。 それでも93試合で31本のホームランを放つなど大きなインパクトを残し、今も中高年ファンの脳裏に焼きついている選手の一人だろう。 その後、メジャーリーグに復帰を果たすも1年で引退、現在は悠々自適な生活を送っているという。 だが、日本でのシーズンを規定打席に達しないまま終えているホーナー氏。 当時一緒にプレーをした野球解説者・広澤克実氏は、ホーナー氏について「なにしろ日本を舐めてた」と言い放つと、規定打席に達しなかった背景を「遠征の時には必ず『お腹が痛い』って休んでいたから」と苦笑い。 「それがなかったら三冠王獲ってた」とまで語る広澤氏は、「後楽園とか神宮の時だけやる。 で、気がついたらそれでも30本ぐらい打ってる」と呆れ顔で振り返った。

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