ケータイ を 持っ た サル。 ケータイを持ったサル

ケータイを持ったサル 「人間らしさ」の崩壊 / 正高信男【著】 <電子版>

ケータイ を 持っ た サル

京都大学霊長類研究所教授・正高信男氏に関する批評です。 現在「病」「堕落」(1~4)「頽廃」「斜陽」「零落」まで公開しており、「落日」「脱却」、および番外編「犬山をどり」は企画中です。 巷で話題をさらっているトンデモ若者論を斬ります。 現在取り扱っているもの: 正高信男『ケータイを持ったサル』『人間性の進化史』『考えないヒト』『他人を許さないサル』 江原啓之『子どもが危ない!』 柳田邦男『壊れる日本人』 三浦展『ファスト風土化する日本』『仕事をしなければ、自分はみつからない。 』『「かまやつ女」の時代』 草薙厚子『子どもが壊れる家』• 若者報道の非常識ぶりから統計学の常識を探ります。 現在シリーズ6回。 巷の成人式論に関して格付けを行っています。 現在シリーズ1回。 問題のある成人式論を検証する「成人式論は信用できるかSPECIAL」も企画中です。 新聞や雑誌の記事における俗流若者論を検証していくシリーズです。 現在シリーズ71回。 俗流若者論に抗うための本や記事を紹介します。 現在シリーズ2回。 私の購入した総合雑誌や論壇誌の文章に関するコメントを掲載します。 以下の文章は、私が2004年に入ってはじめて書いた文章ですが、最近正高信男氏の『ケータイを持ったサル』(中公新書)という本が20万部を突破したそうで。 おめでとうございます。 しかし、この本は内容的に間違いだらけであるのに重ねて、思想的な問題もはらんでいますので、私の現在の見解としてこの文章を公開いたします。 なお、現在、この本に関する新しい論考を執筆中です。 この本に関しては、オンライン書店「bk1 ビーケーワン 」でも批判しておりますので、そちらもご覧ください。 京都大学霊長類研究所教授の正高信男氏の著作、『ケータイを持ったサル』である。 この本は発売以来、新聞その他で大評判になり、新書では、解剖学者の養老孟司氏の一連の著作と並んで、現在でもベストセラー街道を行進中である。 今年1月4日付の朝日新聞に掲載された中央公論新社の広告によると、掲載時点で15万部も売れているそうだ(ちなみに養老孟司氏の『まともな人』は24万部だそうだ)。 私がこの本を手にしたのは昨年12月の上旬で、各所で話題になっていたし、タイトルからして「今時の若者」について取り扱っている本だろうから読んでみようか、という気持ちで読んでみたのだが、一読して唖然とした。 冒頭の文は、この本に対する私の第一印象である。 あまりにもステレオタイプな若者観。 あまりにもデタラメな考証。 その執筆スタンスは学者のものとは到底思えない。 何故このような本がベストセラーとなり、「識者」と呼ばれる人にもてはやされるのか(現役の生物学者までもがこの本を絶賛していた)。 そう思えてならない。 例えばルーズソックスについて述べたくだりで、正高氏は《(筆者注・ルーズソックスの)真の機能にはたと気づいたのだ!》とはしゃいでいるが、正高氏をしてその《真の機能》なるものに気付かせしめたものが、なんとホテルのスリッパなのだ(11~12ページ)。 これがいかにデタラメな考証であるかは明らかであろう。 サンプル数も少なすぎるし、靴のかかとを潰している人だけに限定する理由も分からない。 そんな初歩的な疑問は少しも抱かずに、正高氏は、ルーズソックスなどの現象を、たとえ家の外であっても「家の中」の感覚でいたい、とする今時の若者の感覚の表れだ、と結論付けている。 だが、少し考えれば分かることだが、このような考証で導かれた「結論」に少しの信憑性も見出せまい。 第3章では、ニホンザルがお互いの位置を確認するために「クー」という音を発する行為に触れ(これを「クーコール」というらしい)、その後唐突に《若者が携帯でメールをやり取りするのと、そっくりだと思う》と切り出してくる(67ページ)。 こんな雑駁な比較で「コミュニケーションが退化している」と言ってしまう正高氏の感覚が分からない。 他にも、特に第1章と第3章に、同じような粗雑な比較が頻繁に出てくる。 こんな比較ができるのも、正高氏が、今時の若者はみんなサルだ、と思い込んでいるからだろう(事実、正高氏は、まえがきで渋谷の女子高生を「珍種のサル」と決め付けている)。 統計データの面にも大きな問題がある。 第2章は、親の年収や養育費の調査が載っているが、どうもこの調査がいただけない。 まず、全体的にサンプル数が少なすぎる。 また、都市部や農村部、郊外との比較もなく、時系列での比較もない。 変数として採用されているのは現在の年収だけだ。 あまつさえ、養育費の内訳は、他に統計を調べれば出てくるだろうに、正高氏は、推測だけで計算してしまっている(39ページ)。 第3章・87ページの「エレベーターの会話」の調査では、サンプル数と調査方法すら明記されていない。 第4章で採り上げられている「投資ゲーム」問題でも、正高氏は、女子高生50人を、携帯電話を頻繁に使う人とまったく使わない人、それぞれ25人ずつに分けて、そのグループの中でペアを組ませる、と書いているが、25人でペアは組めない。 第5章の「4枚カード」問題でも、何故カードに書かれている文字を「数字」と「アルファベット」から「年齢」とか「社会的な決まり」に変えるだけで、「社会的かしこさ」を測定するテストになるのか疑問である。 これほどまでに杜撰な本であるが、この程度で驚いてはいけない。 同書のあとがきで、正高氏は、こんな恐ろしいことを書いているのだ。 《ただ、私個人は基本的にサルとなじんだ行動の研究者である。 だから、もっともっとサルに近づいた人間が社会にあふれるのを見てみたいと思っている。 せいぜい体に気をつけて、長生きを心がけよう。 》(184ページ) なんということだろう。 正高氏は、「現代の日本人はサルに退化している」という架空の仮説を立て、その中で妄想を膨らまして、人間がサルに退化することがさも社会の危機であるかのように煽り立てていたのに、最終的には、日本人が退化することを望んでいるのだ。 正高氏にとっては、《サルに近づいた人間が社会にあふれる》事は「よいこと」なのかもしれないが、それが度し難い無責任であることを、正高氏は何故知ろうとしない? 最後に、私も、正高氏に長生きしてもらいたいと考えている。 正高氏が、妄想から脱出し、元の真面目な動物行動学者に戻ることを、私は切に望んでいるからである。 (2004年1月8日) この記事が面白いと思ったらクリックをお願いします。

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「最近の大学生は、私の時代と変化がありますでしょうか。 なんか、20代前半の人と話すと異星人に感じるんですよ。 価値観が違うというより、全く重ならないような。 ちょっと怖いです」 その彼とて、まだ30代そこそこのはずである。 それでもこれほどのジェネレーション・ギャップを感じるとはどういうことだろうかと、はたと返信に困ってしまった。 あれこれ考えあぐねて思い当たったのは、携帯電話である。 わたしの一部ゼミの住所録を調べてみると、第1期生を迎えた1993年度から1997年度のものまではゼミ学生の氏名、住所、電話番号が記載されているのみである。 B4判1枚に余裕で収まっている。 ところが、わたしが在外研究から帰って再募集した1999年度のそれには携帯電話の番号が加わる。 さらに、2000年度になると、Eメールアドレスが追加され、2001年度ではメールアドレスを複数載せている学生も現れる。 いわゆるケータイメールも、学生間のコミュニケーション手段として一般化したのであろう。 当然、住所録の行数は増える。 ここでついに、わたしの一部ゼミの住所録はB4判2枚を要するようになってしまった。 そして、この年度の住所録ではゼミ学生全員の携帯電話所持が確認できる。 より詳しくみれば、その前年度の住所録にも、3年生は携帯電話の番号を全員申告している。 すわなち、わたしの一部ゼミでは、2001年度の3年生から携帯電話皆所持の「成熟市場」となり今日に至っている。 その現場での学生たちの乱痴気ぶりは、学部刊行の『政経フォーラム』第5号(1997年3月)に「二年目の教養講座について」と題して記した。 その中で、わたしはこう書いている。 「やがて、電車の中のように携帯電話の着信音が響いたり、ここをどこと思ったか口笛を吹くものさえ現れた。 」 そのころ、わたしはまだケータイをもっておらず、授業中に電源を切らない学生たちの行為を理解できなかった。 他の授業でも着信音が鳴るたびに口酸っぱく注意をした。 たとえば1997年5月9日の日記には、「和泉へ。 携帯電話の呼び出し音が3回もなる。 不快さで授業へののりが今一つだった」とある。 その結果、『明大タイムス』第32号(1997年7月)にはわたしの授業について、「授業態度は超キビシイ。 大教室の授業にもかかわらずわずかな私語にも敏感に反応し怒り出す」と書かれてしまった。 後期試験の監督をしていて、教室を間違えた学生がケータイを取り出して、友だちにかけて教室番号を確かめる姿に目を丸くしたのもこの頃だろう。 いまはなき7号館の講師控室で、あるベテランの先生から「見えない首輪につながれているようなものですね」とのケータイ評をうかがい、深くうなずいたことも覚えている。 ケータイ着信音との闘いは、マナーモードおよびケータイメールの普及とともに一時休戦のような状況にある。 かくいうわたしも、ケータイの魔力に勝てず、2002年の2月以降、頻繁に利用するようになった。 2002年度のゼミの住所録からは、わたし自身の携帯電話の番号とケータイメールのアドレスも載せるようにした。 マナーモードのまま電源を切り忘れてしまい、ゼミ中にその振動音がして頭をかいたこともある。 もう学生をきつく注意できない。 いまではゼミがはじまる前に自分のケータイを取り出して、電源を切ってみせ、「みなさんも切ってくださ〜い」とやさしくよびかけている。 ああ、情けない。 それによれば、サルのサルたるゆえんは、自分が生まれた群れという「私的領域」で一生を過ごすことにある。 これに対して、人間は「自己実現を遂げるため、家の外に足を踏み出す」。 いいかえれば、人間は「公的領域」を明確に意識し、そこでは各人は、自立して公のルールに則って行動することが当然の前提となっていた。 この基準からすれば、電車の中などの「公的領域」で、わが家にいるのと同じ感覚でケータイで会話をしている輩は、「人間らしさを捨て、サルに退化している」のである。 「公共空間に出ることを拒絶している姿」にほかならない。 前出のわたしのゼミのOBが「異星人」と評したいまどきの若者は、さしずめ「猿の惑星」の住人だったのであろう。 同書の筆者・正高氏(京大霊長類研究所教授)は、「サル化」の原因を母子密着の超・過保護な子育てに求める。 つまりは、母親がわが子かわいさに、子どもを甘やかし過ぎたのだという。 とすれば、わたしの「超キビシイ」授業も明大生の「サル化」をくい止めることに、いささかなりとも貢献したのかもしれない。 あるいは、「公的領域」と「私的領域」にはくっきりした境界線があることを彼らに気付かせることが、「人間らしさ」を取り戻すための唯一の処方箋となるのか。 ただ、こうした主張は、ともすればある陣営を勢いづかせることにもなりかねない。 2003年の衆院選での争点の一つは、「公共心の涵養」などを盛り込んだ教育基本法改正の是非であった。 「公共心」から「愛国心」へはほんの一歩である。 「サル化」を断ち切るという名の下に別の目的を遂げようとするサル知恵には、ゆめゆめ引っかかるまいと申年の年頭に思う。

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ケータイを持ったサル 「人間らしさ」の崩壊の通販/正高 信男 中公新書

ケータイ を 持っ た サル

電車の中で化粧をする、プラットホームのコンクリートの床に尻をついて座る若者、またずっとケータイを持ち歩き、いつも他人とつながっていたいとする若者。 現代日本人は「人間らしさ」を捨て、サルに退化してしまったのか?このような若者の行動を研究し、そしてそれがサルの行動と似ているところがあるのが分かった。 電車で化粧をする、床に尻をついて座るという若者の行動は、私的な領域と公的な領域の境界をあいまい化しているからである。 公共空間に出ることの拒絶、ずっと家の中感覚でいたい、自分の居心地のいい場所にいたいという願望からきている。 サルと比べてみると、サルは生まれた集団で一生を過ごし、その集団内部でも、親・きょうだい・子との付き合いがほとんどだそうだ。 それに餌づけされたサルは、食物が豊富になったことから、ずっとその場所でとどまっている。 その空間にとどまっていたい、自分の居心地のいい場所にいたいという点で似ているところがある。 次にケータイに関しては、人はケータイを常に身につけていないと不安だという。 用もないのに誰かにメールを出したり、伝える価値のない情報でも交信したがる。 サルを見てみると、サルは仲間が自分から空間的に離れたとき、常に声を出し、相手の声の応答を待っている。 姿はなくても声の応答で、相手が周辺にいることを確認しているのだ。 サルも誰かとつながっていないと落ち着かないようである。 サルの出す音声は、メッセージは含まれていない。 用もないメールを出す人と、似ている点があるといえる。 このことから、サルとまったく似ているとは言い難いが、どこか合致する点があると分かるのである。 現代の若者は「サルに退化してしまったのか?」というキャッチフレーズで進める内容は、どういうことだろうと興味を持ち読むことができたので、良いと思う。 また、本当にサルの行動と似ているところがあると分かり、驚きもあった。 このようになってしまった若者は、子どもだけの問題ではなく、親子や環境が影響していると著者は言っている。 公共空間に出ることの拒絶というのは、甘えであり、困難から逃げているようであると思う「最近の若者は・・・。 」と言われたり、「サルに退化している」と言われてはやっぱりいい気はしない。 このままサル化は進むかもしれないが、人間らしさを忘れてはいけないと思う。 驚きとともに、また人間らしさ、親子の関係も一緒に考えさせられた本でありよかったと思う。 文:ドラえもん.

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