フロイド・リーチはその日、未知の感覚に驚愕という言葉を覚えた。 その日、フロイドはとにかく機嫌が悪かった。 前日はモストロ・ラウンジの客入りがすこぶる良く、通常よりも多く働かされ、くたくたになって着替えもせずにベッドに倒れこんだ。 翌日になっても気だるさが残り、寮服はシワになってしまっていてアズールにすこぶる怒られ、重たい足を引きずって授業に赴く。 気だるいままに授業も居眠り。 眉間に皺を寄せたトレインに心地よい眠りから起こされ問題を出されるもなんなく解答すると、トレインはため息をついて授業を再開した。 そも地頭がいいフロイドは授業など聞いていなくても大抵のテストで高得点が出せる。 なのに授業でわざわざ起きてノートなんてとる必要があるわけがない。 起こすんじゃねぇよクソが、と脳内で愚痴って再び意識を手放した。 飛行術はジェイドやアズールに比べてそこまで毛嫌いしているわけではないし下手くそでもないけれど、気分が乗らないとどうにも上手くいかない。 適当に数ミリ地面から浮かんでふよふよしていると、バルガスに怒られた。 ちゃんと浮いてんだからいーじゃんと思うし、バルガスの良く響く声は酷く耳障りだ。 ぶちぶちと文句を言いながら昼食を食べる。 ジェイドは俺の機嫌の悪いときは察して、気に障るであろうことは必要がない以上は言ってこない。 兄弟として生きてきた経験則で対処には手慣れているのだ。 そんなとこはありがたいけれど、自分の落ちに落ちている気分をこれ以上下げないというだけのものであって、上昇させるものではないのだ。 適当に頼んだ食堂のパスタに無意味にフォークをグサグサ刺して、自分の心のようにグチャグチャとかき混ぜてみても、一向に気分は晴れない。 放課後に彼女を見かけたのはたまたまだった。 オンボロ寮に住む、魔力を持たない一風変わった監督生。 学園唯一の女子という立場から、男子生徒からは対応に困るなんていう童貞臭い理由で一部遠ざけられている彼女は、時として男子顔負けの度胸と勝負強さを持つことをフロイドは知っている。 彼女のそんなところをフロイドは気に入っていたし、面白いとも思っていた。 言ってしまえば最近お気に入りの良いオモチャだ。 そんな彼女は、フロイドが静かな場所をと訪れた図書館で、懸命に本棚に手を伸ばしていた。 彼女はそれほど背が高い方ではない。 勤勉で努力家な彼女は、ツイステッドワンダーランドで暮らしてきた生徒たちとは常識や知識が根底から異なる。 フロイドがほんの稚魚の頃から知っていたような知識さえ、彼女は持っていないのだ。 しかしそんなことを言い訳にせず、知らないなら知らないと本や教師から知識を吸収しようと懸命に努力する姿勢は、堅物なトレインはじめ多くの教師たちから高いなんてものではない評価を得ていた。 ここNRCは黒い馬車に認められた限られた生徒しかいない分、個々人のプライドが高い傾向にある。 ときには教師にすら舐め腐った態度で口をきき、まともに質問に来る生徒なんてほんのわずか、というか0に近い。 そんな中、オンボロ寮の女生徒ユウは授業終わりには必ずと言っていいほど質問にやって来てはメモをとり、教えたことは必ず復習。 予習しておけと言ったことは欠かしたことがない。 そも魔法とはユウの世界においてはファンタジー、つまり女の子の憧れの世界。 学ぶことが楽しいのか、いつだってキラキラした目で教師の話を聞き、どんな分野にも興味を持った。 教師とは教えることを使命とし、生き甲斐とする生き物である。 自分が研究する分野に興味を示し、凄い、楽しい、面白い!と顔を輝かせる生徒が可愛くないわけがない。 教師陣、特に自分の研究分野に高いプライドを持つクルーウェルなどは、あきらかな贔屓を行うほどに監督生のことを可愛がっていた。 「good girl!」なんて言っては頭を撫で、やれこの本を使えあの本は参考になるぞなどと世話を焼き、他の生徒からブーイングをくらっていた。 反省も改善する気もないようだが そんな勤勉な彼女は、よく図書館で勉強を行う姿が見られる。 未知の知識に占拠された空間で、懸命に勉強する姿は健気だ。 実際によく図書館を利用するリドルやトレイ、ジェイドなどは勉強を見てやることなどもあるらしい。 そんな彼女は、今は自分の身長の何倍もある本棚に対してうんしょ、うんしょと手を伸ばしていた。 取りたい本があるのだろうが、上手く手が届かないのだろう。 ここには踏み台なんて無い。 生徒はみんな魔法で高い場所のものを取ってしまうからである。 チラチラと監督生の方を伺っては助けてやりたいと思う生徒はいるのだが、誰も彼も女の子にスマートに手を貸すことに慣れていないために、視線を送るのみとなってしまっている。 機嫌は未だ悪いし、面倒なことは嫌いだ。 しかし彼女のことは憎からず、いや、気に入っているし、別に少し手を貸してやるくらいは造作もない。 ここで見て見ぬふりをした方が後から後悔しそうだし。 なんて思って、彼女が手を伸ばす先の深緑の背表紙をした本をヒョイと取ってやった。 「え、フロイド先輩?」 彼女は大きな瞳をぱちくりさせて後ろの人物を振り返った。 自分の目線だと彼の胸元しか見えないので上目遣いに顔を見つめると、ダルそうに口元をへの字に曲げたフロイドがいた。 「どーぞ、この本でよかった?」 「え、は、はい!ありがとうございます!」 「どーいたしましてー」 ぽすん、と彼女の手のひらに本を置いて、ついでに頑張り屋さんな彼女の頭をぽんぽんとひと撫でする。 真っ黒な髪は手入れをキチンとしているからかサラサラとしていて、星の浮かんだ夜空を思い出した。 そういえば彼女をいたく気に入っているうちの1人であるベタちゃん先輩があれこれ美容について助言しているのだったかなぁとフロイドは思い出した。 「せ、先輩?」 「んー?あー、ボーっとしてたや、ごめーん」 「いいえ、本、ありがとうございました」 「いいよぉ別にぃ、勉強偉いね、ほどほどに頑張ってぇ」 なんて、フロイドにしてはらしくなく優しい言葉をかけてあげる。 まあ彼女は学園唯一の女の子なのだし、とっても弱くて魔法も使えない細くて脆くてガラス細工みたいな存在。 そんな子の前ではフロイドはいつもの狂暴性はなりを潜め、そこそこ優しくなれるのだ。 すると、彼女はクスクスと口元を覆って肩を揺らした。 しかし、フロイドはその言葉に目をかっ広げて硬直した。 未知の感覚である。 頭の芯から電流を流されたような感覚である。 「ふふ、ごめんなさい、先輩があんまり優しいから」 「……」 「……先輩?」 「…………小エビちゃん」 「はい?」 「もっかい、もっかい言って」 「は?」 「だぁから、もう一回!お兄ちゃんってもう一回言ってみて!」 「ええ?!何ですか、そんなに気に障りました?」 「怒ってないの!だからもう一回!」 「ええ……?」 「お、お兄ちゃん……?」 ピシャーンと脳内で雷が落ちた。 フロイドは先程までの機嫌の悪さ、原因である忌まわしいアレコレなんてものを忘れ去るほどの衝撃に、背が震えた。 お兄ちゃん 彼女に言われたそれは、甘美な響きを持っていた。 ウツボとして生を受け、それなりに多くの兄弟がいたものの、生き残ったのはジェイドと自分の2人のみ。 他の兄弟なんて顔も知らない。 ジェイドは自分よりしっかりしていて、世話を焼かれることはあっても世話を焼くことはない。 気まぐれ我が儘なフロイドは周囲からその振る舞いを呆れられ、年齢より幼く見られることばかり。 そんな自分のことを、「お兄ちゃん」などと言う存在には初めて出会った。 弱く、細っちい女の子。 そんな彼女にお兄ちゃん、と呼ばれることは、決して悪い気持ちはしない。 というより、非常に庇護欲をそそる。 身寄りの無い無力な彼女から、頼られている、護られたがっている、そんな気がする不思議な単語であった。 とても良い。 フロイドは大きくふたつ頷いた。 そんな彼を訝しげに見つめるユウに向かって、フロイドは満面の笑みをもって宣言した。 「俺、小エビちゃんのお兄ちゃんになる!!!」 [newpage] 図書館でのやり取りから1日を経た食堂にて。 監督生ユウの親友を自称するエース、デュース、また親分を自称するグリムは. 砂利を噛んだような顔で目の前の光景を見つめていた。 「はい小エビちゃん、これも食べて~こっちも美味しいやつ~」 「ムグムグムグムグ」 「おいし?」 「はい!食堂のご飯て美味しいですね」 「んふふ、い~っぱい食べていいよ」 デレデレ、という表現が合うだろう。 かの邪智暴虐のオクタヴィネルのフロイド、別名ヤクザ寮の鉄砲玉フロイドは、顔を蕩けさせながら監督生に餌付けを行っていた。 色とりどりの皿を広げ、あれもこれもと一口ずつ監督生の口に運んではその反応を楽しんでいる。 なんだこれは、バカップルのランチタイムか。 男子校で行うにはあまりにも大人数の心に大ダメージを与える光景に、エースはパンを握りつぶし、デュースはカフェラテのカップがヘキョとひしゃげるまで吸い上げた。 グリムはというと、散々に酷い目に遭わされてきたフロイドに懐かれた憐れな子分に同情し、ふなぁと耳をへたらせて目を逸らした。 昨日の「お兄ちゃん宣言」から、フロイドは理想のお兄ちゃんになるためにあれこれと考えてみた。 頼れるお兄ちゃん、それはなんぞやと考えたものの、具体的なイメージはどうにも湧かない。 ジェイドは頼れるけれど、お兄ちゃんっぽいか?と思うと微妙だった。 散々に世話を焼かれておいて何だけど。 では、とりあえずは優しくしてあげればいいのではないかとの結論に到った。 優しいお兄ちゃんだから、ぎゅうっと絞めたりしちゃダメ。 優しいお兄ちゃんだから、ポキッと折れてしまいそうな細い妹のために、昼飯だって奢ってあげる。 ふんふん、なかなか良い感じではないかとフロイドはご満悦であった。 愛しの妹も美味しそうにパクパクと食べているし、口をいっぱいにしながらお礼を言われるのも悪くない。 「食堂のご飯まともに食べたことなかったので、嬉しいです」 「いっつも購買の菓子パン一個とかでしょ?駄目だよ、小エビちゃんはちっちゃくて細くて弱いんだから。 ちゃあんと食べないと~」 「う~ん……お金もそんなに持ってないですし……食堂のご飯て高いので、贅沢はできないと言いますか……」 「え、小エビちゃんお金ないの?」 「お小遣いは学園長から頂いてますよ?ただ、寮の修繕とグリムのツナ代と生活品に使うと、あんまり残らなくて……」 ユウはへらりと笑って言うけれど、フロイドはそれに眉をしかめた。 ちなみに月いくら貰っているのかと尋ねると、答えられた金額は年頃の女の子を舐めているのかと思うほど少ない。 学園長、殺す。 フロイドの脳内はその言葉で埋まった。 ひええとグリムが悲鳴をあげてエースにしがみつくほどの殺気に気づいたユウは、落ち着いてください、とフロイドを宥めた。 「大丈夫です、やりくりできてますし」 「できてないでしょ」 「ちゃんと3食食べてますよ?」 「お昼に菓子パン一個しか食べれないなんて朝食も夕食もたかが知れてるでしょ」 そのやり取りを聞いて、まあ確かに、とエーデュースも頷いた。 今まで共に昼食を食べていたが、そういえばいつも同じような安いパンをちみちみと食べていたなあと思い出す。 年頃の女子とはこんなくらいしか食べられないのか、なんて楽観的に考えていたが、食費にかけるお金がないのか、なんて今更になって気がついた。 フロイドはちらっと目の前の2人の様子を見て、なんでお前らが気づかなかったんだよ馬鹿じゃねぇのとユウに聞こえないように舌打ちした。 でも、ここで怒るべきではない。 目の前で2人を絞めたりなんてしたら、ユウが怖がってしまうかもしれないからだ。 絞めるのは、後で。 フロイドは可愛い妹のためになんとか気を落ち着かせた。 「これからはお昼は俺と食べるよ。 何も買ってこなくていい、俺が出すから」 「え、いえ、そんな」 「だぁめ!とりあえず後で学園長にお小遣い増やすように言うし!」 「えぇ!いやいやいや」 「てか化粧品は?洋服は?そこらへんちゃんと買えてんの?」 「え、えと……あの……」 そんな贅沢は……。 と、ユウは口をつぐんだ。 フロイドは激怒した。 年頃の女の子が化粧品や洋服を買うことの何が贅沢なんだ。 女子と接する機会の少ない男子校にいたとしても、その程度の知識くらいはあった。 女の子とは、着飾ったりすることが何よりも大好きで、髪や爪をピカピカにする生き物なのだ。 今までのフロイドなら、笑って見過ごしただろう。 自分には関係ねぇしなんて言って、頑張れ~っと笑って終わり。 しかし、今のユウは、フロイドの「妹」なのだ。 兄として、妹を護らねば。 よし、と決意を固める。 面倒でも、妹のためにやらなければならない。 だって俺はお兄ちゃん! 「全部俺に任せて」 「え、」 「大丈夫、俺ちゃんとやれるよ」 「え、え、?」 「お兄ちゃんに任せなさい!!」 ドン、と胸を叩いてきっぱりと言い放つ。 ポカンとこちらを見上げる可愛い可愛い妹に、フロイドのやる気は跳ね上がるのだった。 1人は学園長クロウリー 彼はなぜか酷く怯えた様子で足を小鹿のように震わせ、今までの待遇についての謝罪を述べた後に、お小遣いを以前までと格段に高い値段で出すことを約束してくれた。 そんな、異世界の自分に屋根のある住みかをくれただけで十分なのだとユウはその提案を突っぱねたのだが、「私が死んでもいいんですか!! 」という謎の脅し ? によって受け入れざるを得なかった。 もう1人はポムフィオーレ寮長ヴィル 彼はというと、大きな紙袋を抱えてやって来たかと思うと、寮の寝室に上がり込んでパステルカラーの可愛らしい洋服の数々をベッドに広げてみせた。 「ヴィル先輩、これは……」 「あんたによ。 で、化粧品もとりあえずの物を揃えてあげたわ。 肌に合わなかったら言いなさい」 ヴィルがテーブルに置いた化粧品はそれはもう大量で、そこそこの大きさのテーブルが埋まってしまうほどだった。 明るい色を中心に、女の子なら誰もが手を伸ばしたくなる可愛らしい形のリップ、香水、マニキュア……。 ほう、と手にとって眺めると、キラキラと上品に輝いて見える。 これは絶対に安物ではない。 幾らするんだろう…。 ヴィルは監督生の年甲斐のある反応に内心とても気分を良くした。 「あのお騒がせ人魚もたまにはやるじゃない」 今朝、珍しくもポムフィオーレ寮を訪れたのはフロイドだった。 あの悪名高きアズールの手下、気分屋で短気な双子の片割れであるフロイドに対して、その男を知るものはみな恐怖した。 あのような男がわざわざ気高きポムフィオーレに何の用か、と。 ざわつく寮生に素早く自室に戻るように指示を出したヴィルは、念のためにと胸元のマジカルペンに手をかけながらフロイドに歩み寄った。 一触即発 場に緊張が満ちたとき、先に口を開いたのはフロイドだった。 「ベタちゃん先輩、化粧品ちょうだい」 「は?」 ヴィルは美しい顔をポカンと弛ませ、しばらくその 悔しいことに 整った顔を見つめるしかできなかった。 化粧品。 この男が。 このアタシに。 なんだか酷く似合わない頼みをされていることしかわからない。 たいして親しくもないこの男が、なぜに自分にこんな頼みをしてくるのか。 確かにこの学園において化粧品について相談するにポムフィオーレのヴィルは打ってつけなのだろうけれど。 また何かアズールの企みではあるまいかと勘ぐったものの、即座に否定する。 あの抜け目ない男なら、ヴィルに対して企むならジェイドの方を寄越すだろう。 この気分屋の鉄砲玉を寄越すのは些か冒険が過ぎる。 「何が目的?あんたが使うの?」 とりあえずにと問うが、目の前の男は首を振った。 「アズールの頼み?」 これも念のために聞くが、同じく無表情で首を振るのみ。 埒が明かないと男を睨み付けると、こちらを真剣に見つめて答えた。 「小エビちゃんにね、お洒落するものあげてほしい」 真剣に、じっとこちらを見つめてそう言った。 小エビ、というと監督生のことだとはすぐにわかった。 異世界からの子ども。 この学園唯一の女の子。 女だというのに化粧っけもなく、元が良いのに活かしきれていない彼女に、ヴィルは何かと世話を焼いてきた。 ああしろこうしろと指示を出し、髪や肌の基本的なケアの仕方は一通り仕込んだ。 素直に言うことを聞いて、初めはビクビクしていたのにいつの間にか先輩、先輩と馴れ馴れしく挨拶をしてくるあの後輩を、ヴィルは案外 というか酷く 気に入っていた。 素直な後輩だったのだが、ちょっとくらい化粧してもいいんじゃない?なんて言ったことだけは、やんわりと拒否してきたことを覚えている。 まあ化粧なんてしなくても元々可愛らしい顔をしているからと、そこまで強く強要したことはなかったのだけれど。 だからこそ、フロイドの頼みにヴィルは訝しげに小首を傾げた。 「なんでアンタがそんなこと頼むのよ」 「俺、いま小エビちゃんのお兄ちゃんだから」 「は?」 「小エビちゃん、可愛い洋服とかお化粧品とか、持ってないの」 「………なんですって?」 「俺、よく分かんないけど、女の子って綺麗なものとか可愛いもの好きなんでしょ?キラキラしたり、クルクルしたり、そーゆーのが好きなんでしょ?」 「………」 「俺、小エビちゃんがそんな女の子なこと、我慢してるの、嫌だ」 ヴィルは、フロイドのその必死な様子に目を見開いた。 あのオクタヴィネルのフロイドが、あの他人を慮るなんて毛ほどもしないフロイドが、1人の女のためにこんな顔をするなんて。 だから、面白いと思った。 目の前の男の変化を、面白く思った。 そのことがあり、ヴィルは今オンボロ寮にて化粧品の使い方を一からユウに叩き込んでいる。 あれこれと一度に教えているために目を回しているが、どこかその表情は楽しげだ。 てっきりメイクに興味がないのかと思い込んでいたが、早とちりだったようだ。 今回ばかりはあの男の行動に感謝するしかない。 アタシだって、目の前に咲く一輪の花を着飾ってやる日を楽しみにしていたのだ。 「ほら、しゃんと立ちなさい。 せっかくの洋服に着られてちゃ意味ないでしょ」 「ヴィル先輩、これ、ちゃんと似合ってますか?こんな、ヒラヒラの」 「何言ってるの、まさかアタシの見立てにケチつける気じゃないでしょうね」 「そんな、つもりは……」 ユウは鏡に写る自分の姿に顔を真っ赤にした。 ピンク色の可愛いレースいっぱいのワンピース 緩く巻いてから二つに結われた髪 パッチリと大きくメイクされた瞳に、ツヤツヤと輝くリップ こちらの世界に来てから、いや、元の世界でもこんなに甘く可愛らしい格好はしたことがない。 少し恥ずかしいけれど、それでも 女の子が憧れる、なんて可愛い姿か じわ、と目に薄く膜が張る。 可愛い格好。 こちらに来てからはお金のことを気にして諦めかけていた。 でもやっぱり、頭のどこかではやってみたいと思っていたことだ。 じわりと胸の辺りが暖かい。 純粋な優しさが、ただひたすらに嬉しかった。 「次会ったら、ちゃんとお礼言わなきゃ」 「そうなさい、アタシはもう行くわ」 「はい、先輩も、ありがとうございました」 可愛い後輩に手を振って、ヴィルは心地よい気だるさで帰路につく。 なんだか、知らない間に面白いことになっているではないか。 「お兄ちゃんなんて、やあねぇ」 「アタシにそんな誤魔化しきかないわ、2人とも隠しきれてないのよ、瞳の奥」 素敵な恋してるみたいじゃない、なんてヴィルは上機嫌に歌うのだった。
次の小エビちゃんだー」 しまった。 今、絶対に会ってはいけない人にぶつかってしまった。 四葉のクローバーを早く見つけなければいけないのに、もうこの時点で諦めろともう一人の自分が告げている。 「ふ、フロイド……先輩」 「なあに? イソギンチャクみたいに、地面に這いつくばってちゃって。 その恰好、めちゃくちゃ似合ってるよ」 ……馬鹿にされてるよね? しかし、これで反論などすればとんでもなく面倒なことになるのを私は知っている。 「ぶつかっちゃってごめんなさい……失礼しまーす……」 「おい、待てよ」 「っ!?」 一歩離れた距離が、先ほどよりも近づいて、一瞬で縮まる。 目の前にあるのはフロイド先輩の顔。 今にも唇が触れ合いそうな距離にいた。 心臓の音がバクバクとした音を立て、私はそこから身動きが出来ず固まってしまった。 (終わった……) 「ねーねー何してんの?」 「えっと……」 「教えねぇと締めるから」 ふざけていない強めの言葉に、私は言うしかなかった。 エースの四葉のクローバーを探していることを説明する。 「なので……。
次のくつり、とフロイドが嗤う。 「どーして帰すつもりなわけぇ? 帰る方法が見つかったって、帰さなければいいだけなのにさ。 」 同じような顔で、ジェイドも嗤った。 「なにを悲しむ必要があるのです。 簡単なことでしょう? ……貴方なら。 」 覆った手のひらの下で、零れんばかりに瞳を開く。 なぜ、去っていく彼女を逃すつもりでいたのだろう。 離れようとするならば、離れられなくするまで。 帰ろうとするならば、帰れなくするまで。 そう、簡単なことだ。 アズールならば。 両手を外し、顔を上げた。 そこにはもう、絶望と悲嘆に暮れるアズールはいない。 「……フロイド。 ヒカルさんを見張っていてください。 学園長の部屋に行かないように、片時も離れず、ずっと。 」 「りょーかい。 」 「……ジェイド。 ついてきてください。 」 「ええ、お供しましょう。 」 絡みついたウツボの腕が、するりと離れた。 こうでなくちゃ、おもしろくない……と双子が嗤う。 しかし、アズールはフロイドとジェイドに唆されたわけではない。 手段を択ばず相手を屈服させるのは、元来アズールの性格である。 陸の王子に恋した人魚姫のように、声と命を懸けて二本足を得るような愚挙をアズールは冒さない。 もしアズールが伝説の人魚姫なら、王子に薬を飲ませ、深海に引きずり込み、逃げ出さないよう鎖をつける。 最初は恨まれたとしても、暗い海の中で頼れるものが自分だけなら、いずれ心は絆されていく。 それが真実の愛でなくても、どうでもいい。 傍にいてくれさえすれば、それだけで。 卑怯者だと罵られても構わない。 アズール・アーシェングロットは、そういう男だ。
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