岡林信康 手紙 歌詞。 友よ 歌詞「岡林信康・高石友也」ふりがな付|歌詞検索サイト【UtaTen】

友よ 歌詞「岡林信康・高石友也」ふりがな付|歌詞検索サイト【UtaTen】

岡林信康 手紙 歌詞

この「チューリップのアップリケ」という歌は、岡林信康(当時22歳)がデビュー翌年の1969年に発表したもので、当時は2ndシングル「流れ者」のB面曲として収録されていた。 クレジットには作曲:岡林信康、作詞:岡林信康・大谷あや子と記されている。 この大谷あや子という女性は誰なのか? 作詞家や作家ではなく、後にも先にも残した作品はこの一曲のみだという。 実家が教会だったということもあり、それまで熱心なキリスト教信者であったが、この頃から父親の考え方に疑問を感じるようになり、社会主義運動に身を投じるようになる。 そこで出会ったフォークシンガー高石ともやの影響を受けてギターを弾くようになったという。 「日本が抱えている色々な矛盾がひしめいている場所に身を投じて生きてみよう!労働者として生きながら同和問題を考え続けよう!」 そう決意を固めた彼は、1968年に2年間通った大学を辞めて琵琶湖干拓地入植者として建設工事現場で働き始める。 そのきっかけとなったのは、前年に訪れた山谷の簡易宿泊所で寝起きしながら日雇いで働いた経験だったという。 「要するに俺は山谷も他の労働者もたいして変わらんと思ったわけよ。 そこで自分の住んでいる近江八幡市の現実に目を向けてみたんです。 そして俺は同和問題というのを避けて通ることが絶対にできないことに気づいたんです。 この問題に関わることが生きることだ!みたいな感じでね…」 彼はこの頃から市民運動にも参加するようになり、歌の持つ力とリアリティーに惹かれて、フォークミュージックにのめり込んでゆく。 そんな時期に生まれた歌がデビュー曲の「山谷ブルース」であり、この「チューリップのアップリケ」だったという。 彼の著書『バンザイなこっちゃ』というエッセイ集にはこんなことが綴られている。 「あの歌は当時ボランティア活動をしていた養護学校の生徒の詞が原型となっているんです。 ある日、そこの先生から見せていただいた生徒の作文に、いくつかの印象的なフレーズがありました。 それは貧しさへの同情よりも怒りが込められた強烈なプロテストソング(抵抗の歌)だった。 悲しみの根底には怒りがある。 この歌には両親の離婚の原因となった貧しさへの怒りが歌われているんです。 」 こ歌は発表からほどなくして放送禁止となる。

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「手紙」岡林信康、フォークの神様が綴る部落差別

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放送禁止歌 - 森達也 Tatsuya Mori - <発禁レコードの調査依頼> 先日、某週刊誌「S・P」のライターの方からメールがあり、「発売禁止」についての特集をやりたいのでレコードやCDについての情報提供を依頼されました。 (よくこのサイトを読んで下さっているとのことで、それだけでも感激でした)できれば協力したかったのですが、音楽業界の人間でない僕には発禁の裏事情はちょっとわからないし、ある意味重い問題なので、いいかげんなことは書きたくなかったので、ご協力は遠慮させてもらいました。 ちょうどそんなやり取りがあった後、僕は本屋で「放送禁止歌」という本を見つけました。 もっと早くこの本を見つけたら、協力依頼に答えられたかも?と思いました。 しかし、読み終わった後、改めて、いいかげんなことを書かなくて良かったと思いました。 この問題はやっぱり重いです。 でももとはと言えば「ロック」というのは、この「重い問題」に挑む音楽だったのです。 改めて、かつてロックやフォークが熱かった時代のことを思い出して、自分自身も久しぶりに熱くなりました。 幸いなことに、この本はけっこう売れたようですし、この本とこの本に書かれているドキュメンタリー番組の影響もあり、かつて放送で聴けなくなっていた「イムジン河」(フォーク・クルセダーズ)がリバイバル・ヒットしたり、NHKで「ヨイトマケの唄」が歌われました。 (本家の美輪さんだけでなく、桑田佳祐も歌ったとか)今後も、この本がより多くの人に読まれて、放送の世界が多少とも変わることを願います。 (その後、この本は文庫化もされているそうですので、是非一読をお薦めします!) <「放送禁止歌」> 解放出版社から発売されたドキュメント本「放送禁止歌」は、フジテレビ系列で以前真夜中に放送されたドキュメンタリー番組「放送禁止歌」の制作過程とその反響をまとめたルポ・ルタージュがその中心になっています。 そこに、さらに日本とアメリカの検閲問題を比較するため、作者、森達也とデーブ・スペクター氏によって行われた対談、それと放送禁止問題では過去に数多くの事件を引き起こしてきた「部落問題」についてのルポが加えられることで、より奥深い内容になっています。 <1960年生まれの思い出> 僕は1960年の3月18日生まれ。 当然、全共闘世代ではありませんし、この本の作者、森達也さん(1956年生まれ)よりも若い世代に属しています。 それでも、この本に登場する放送禁止歌のいくつかを僕はラジオで聞いた記憶があります。 それは遙か昔、中学生か高校生の頃のことですが、中には未だに強烈な印象を残している曲もあります。 当時はラジオの深夜放送が一大ブームだったこともあり、そこから次々に新しい曲が聞こえてきました。 例えば、岡林信康の「手紙」、「チューリップのアップリケ」は、北海道に生まれ部落問題など何も知らなかった僕にとって、大きな衝撃でした。 僕の住んでいる小樽の街にも以前「部落」と呼ばれる地域があったという話を聞いたことがあります。 (人の移動が激しく、血縁のつながりが日本一薄いと言われる地域のため、それはいつしか消えてしまったそうですが・・・) 高校時代、同級生の満君が、「手紙」の歌い出しを兼ねて、よくからかわれていましたが、それはけっして彼をいじめるためではありませんでした。 それだけ、「手紙」という曲はポピュラーな曲であり、自然に多くの人が歌うことのできる曲だったということだったのです。 しかし、そんな曲がまさか放送禁止曲として扱われるようになっていたとは、・・・。 僕は全然知りませんでした。 <放送禁止歌とは?> ところで、あなたは以下の曲のうち何曲聞いたことがありますか? 岡林信康「手紙」、「チューリップのアップリケ」(1968年)、高田渡「自衛隊に入ろう」(1968年)、三上寛「夢は夜ひらく」(1971年)、泉谷しげる「黒いカバン」、「戦争小唄」(1971年)、頭脳警察「世界革命戦争宣言」、「赤軍兵士の歌」(1971年)、フォーク・クルセダーズ「イムジン河」(1967年)、ジャックス「からっぽの世界」(1968年)、美輪明宏「ヨイトマケの唄」(1965年)、つぼいノリオ「金太の大冒険」、高倉健「網走番外地」(1965年)、黒沢年男「時には娼婦のように」(タイトルが問題ありとされました)、原由子「I Love Youはひとりごと」、おニャン子クラブ「セーラー服を脱がさないで」、なぎら健壱「悲惨な戦い」(1973年)、憂歌団「おそうじオバチャン」、山平和彦「放送禁止歌」(1971年)、ピンク・レディ「SOS」(1976年)、赤い鳥「竹田の子守歌」「五木の子守歌」、忌野清志郎「ラブ・ミー・テンダー」(1988年)「君が代」(1999年)、ブランキー・ジェット・シティー「悪いひとたち」、すべてが放送禁止というわけではなく、レコード会社の発売自粛のような場合もありますが、どれもラジオでかかりにくくなってしまった曲です。 (ブランキーの「悪いひとたち」をFMノース・ウェーブで初めて聞いたときは驚きました。 我が北海道のノース・ウェーブは良い放送局です!) <放送禁止になる理由> それぞれの曲が問題にされた点は、いくつかの理由に分類することができます。 (1)性的な問題(セックスや性器などを連想させる曲名、歌詞) (2)差別的な問題(貧困、部落、障害者、人種、宗教、職業、性などについいての差別) (3)政治的な問題(反体制的な歌詞、曲名、他国への政治的干渉、社会的秩序の混乱を招く内容など) 例えば、岡林信康の「手紙」はこの中の「差別問題」に分類されることになります。 「被差別部落出身の女性が、差別による周りからの圧力により部落外の男性との恋愛をあきらめ、その悲しみをこめた手紙を恋人に書き送る」そんな内容の歌は、明らかに「部落差別」を思い起こさせるとして、放送自粛の対象になったのです。 (ただし、それを糾弾する立場のはずである部落解放同盟では、この歌をまったく非難してはいません。 それどころか、岡林を招待してコンサートを行っているほどです) <消えた放送禁止歌> その後「手紙」や「チューリップのアップリケ」が描く暗い世界は、1970年代に入ると「神田川」などに代表される「四畳半フォーク」へと引き継がれて行きます。 さらにそれは荒井由美の「紙ヒコーキ」や「ベルベット・イースター」につながり、いつしか「ニュー・ミュージック」という「経済的にも社会的にも何の不自由のない若者たちの心象風景を描く音楽」へと変わって行きました。 そして、その頃には社会の変化以上に若者たちのライフ・スタイルも大きく変わっていました。 当然、「手紙」のような重い内容をもつ曲を聞きたいと思う人はいなくなり、必然的にラジオから聞こえてくることはなくなったのだ。 僕はそう思っていました。 実は、それは日本民間放送連盟という団体がガイドラインとして選んだ「要注意歌謡曲」のリストをもとに各放送局が「自主規制」をした結果でした。 それも、1983年以後はそのガイドライン作りは行われていないため、その判断は完全に各放送局の番組担当者に任されています。 ところが、そうした経緯を放送関係者はほとんど理解していないため、結局「過去に放送禁止になっているという」既成事実だけを重視し、怪しげな曲はかけないことが放送界の常識になっていたのでした。 なんというバカげた話し。 自主規制大好き国家日本らしいと言えばそれまでですが、・・・。 <最近の傾向> 発売当初はまったく問題になっていなかった曲が、時代の移り変わりにより、いつしか放送されなくなったり、誰かからクレームがつく可能性がある曲は初めから放送リストに載せない。 そんな傾向が強まっているようです。 そのため、逆にクレームがつかないと思われる対象については、とことんいじめまくる、これが今のマスコミ界の常識です。 (お笑い芸人やアイドル系女子アナなどは、そのためにいるのかもしれません)もちろん、そうした傾向は発信側にだけ責任があるのではありません。 我々受けてが、あらかじめ毒気のないものを選んでいる傾向にあるのも確かなのですから。 「他人を傷つけないように生きなさい!」1970年代以降の「優しさの時代」、親たちは子供たちにそう言い続けてきました。 子供たちがその言葉に素直に従ったことで、子供たちの心からはどんどん「毒気」が消えて行きました。 しかし、それは表面的に消えただけのことであり、「毒」は心の奥で静かに発現する機会を待っているのです。 それは、最近繰り返される少年たちの驚くべき犯罪を見ればあきらかでしょう。 こうした、子供たちによる事件の低年齢化は、英才教育の低年齢化と比例しているかもしれません。 物心つくと同時に「毒」を抑え込まれた子供たちは、そのはけ口を何に求めれば良いのか?その答えを、ネットの中に探し求めるようになって事態はさらに悪化しているように思えます。 <放送禁止歌> かつて、「放送禁止歌」は、心の奥底に潜む邪悪な思い(単にエッチな考えもありですが)や隠された現実を少しだけ世に放ち、人々にそれを警告したり心の準備を求めたりしていたように思います。 子供たちは、耳から少しずつ現実を知り、バランスをとりながら現実との折り合いをつけていたように思います。 目や肉体でその現実を知るのは、その後のことでした。 それに比べ、邪悪な毒を垂れ流すネットでは、心の準備もなにもありません。 かつては、ロックという音楽は正面切って毒を垂れ流す存在でした。 しかし、その毒はアーテイストの人格によって、フィルターをかけられ、単なる毒であっても権力に対する毒だったり、戦争を続ける政府に対する毒だったりもしたのです・・・。 最後に、ビリー・ホリデイが黒人奴隷がリンチされ木にぶら下げられている様子をダイレクトに歌い、アメリカ中に衝撃を与えた名曲「奇妙な果実」について書かれた文章をひとつ。 「・・・僕は自分が生きている世界がどんなものなのかについて、ちゃんとした考え方を身につけようと、そのレコードを何度も何度もかけた。 僕は今でもこのレコードをしょっちゅうかけているよ。 このレコードは、世界には無知な人々がいるということを僕が理解するように手助けし、彼らの無知に同情するようにさせているんだ」 モーガン・カンセオ(「奇妙な果実」を初めて聴いた時の思い出) <参考> (追記2011年12月) 「手紙」 作詞・作曲 岡林信康 私の好きなみつるさんは、おじいさんからお店をもらい 二人一緒に暮らすんだと、うれしそうに話してたけど 私と一緒になるのだったら お店を譲らないと言われたの 私は彼の幸せのために、身を引こうと思ってます 二人一緒になれないのなら、死のうとまで彼は言った だから全てをあげたこと くやんではいない 別れても くやんではいない 別れても もしも差別がなかったら、好きな人とお店がもてた 好きな人とお店がもてた 部落に生まれたそのことの、どこが悪い なにがちがう 暗い手紙になりました だけど私は書きたかった だけど私は書きたかった 「竹田の子守唄」 京都地方の民謡 守りもいやがる ぼんからさきにゃ 雪もちらつくし 子も泣くし 盆が来たとて 何うれしかろ かたびらはなし 帯はなし この子のように泣く 守りおばいじる 守りも一日 やせるやら はよも行きたや この在所こえて 向こうに見えるは 親の家 向こうに見えるは 親の家 森達也の他の作品 (ノンフィクション) オウム真理教とはいかなる人びとの集まりなのか?真実を描こうと挑んだドキュメンタリー映画の書籍化版 映画「A2」の公開に合わせて発表されたノンフィクション作品とオウム以後の日本の姿.

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チューリップのアップリケ〜貧しさと矛盾に対して放たれた強烈なプロテストソングの誕生経緯|TAP the NEWS|TAP the POP

岡林信康 手紙 歌詞

森達也著,デーブ・スペクター監修『放送禁止歌』(解放出版社,2000年7月発行)という本に詳しいいきさつが載っていました。 森さんはテレビ番組のプロデューサーで,あるテレビ番組で『手紙』を流そうとして努力する中で,かつて放送禁止とされた色々な歌を研究するようになっていきます。 かつて放送要注意となっていた歌の歌詞も,いくつも載っています。 (ちなみに放送禁止の制度はなくなって10年以上経つとか。 また,どこかに言われたというよりも,放送局が自主規制したという面が濃いそうです。 ) 『竹田の子守り唄』については特に一章をさいて詳述しており,実際に竹田部落を尋ねたりもしています。 また,『手紙』の岡林さんにコンタクトを取ろうとしたりもしています。 今ちょっと手元にないので,曖昧な内容で申しわけありません。 ぜひ現物を,書店や図書館でご覧になってみてください。 おっしゃる通りだと思います。 これでは,せっかく差別の実態をアピールしようとして歌を作っても封じ込められてしまいますね。 幸い,最近は(比較的?)あまりうるさく言われなくなったようですし,かつて放送禁止(注意)とされていたような歌がCD化されて店頭にも並ぶようになりました。 参考URL: Q 悔しくて夜も眠れずこちらに辿り着きました。 (理解していただきたいので内容が細かく、長いです。 申し訳ありません。 ) 出会った当時私は学生で、夫は県外の人間でしたが仕事の為に都心部に移り住んでいました。 結婚して4年です。 子供が一人います。 夫が実家近くに転職したので、今は夫の実家の近くに住んでいます。 私は3人姉妹の末っ子で、父が中学生のときに亡くなったので母親に育てられましたが、祖父母が会社を経営していたので何一つ不自由なく育ちました。 出会った当時、夫は実家にルートセールスで度々来ていました。 母は時々物を買っていて、私と知り合う2年前から夫を知っていました。 その間、彼氏がいなかった私の写真を見せていたのは知っています。 付き合いはそこからです。 付きあってから度々悩まされたのは、他人に対して暴言を吐いたり道路の真ん中で車を止めて怒ったりすることでした。 (先日も駐車場の枠外にとめていた車の人に暴力団のような言葉を吐いていたので知らない顔をして子どもと逃げました。 ) 私にも暴言や暴力(年に数回)があり、何度も別れようと思ってきました。 しかし、夫にも優しい所があり、初めての人でしたので夫がすべてだという気持ちがあり、結局結婚に至りました。 何かがおかしいと思ってきたのは結婚してからのことです。 毎週夫の実家に行くごとに義父母から親戚の職業を耳にしてきましたが所謂部落の方が多い職業についており、部落の方と結婚している人がとても多いのです。 また、義父は自営業をしていますが暴力と酒癖が悪く部屋中のものを壊したり、年に数回は義母の顔にあざができるほど殴るので本当に恐ろしいです。 本人たちの口から「部落」という言葉は結婚してからは何度となく聞いていますが、自分たちは違うというニュアンスで話してきます。 差別があるから夫のいとこは子供をつくらないし、結婚もしないとも聞かされてきました。 私が少し調べた結果は義父が部落出身のようです。 調べるきっかけとなったのは私の職場に夫がやくざまがいの電話をしてきたことでした。 それは、私の仕事用携帯に職場の男性のアドレスがあっただけのことでした。 私的なメールは一切しておらず、上司から同僚まで全ての電話番号とアドレスが入っています。 夫はそれを浮気だと勘違いして、会社に怒鳴りこみの電話をしてきました。 しかも妊娠初期の事でした。 その後出産の為辞めることとなりましたが、会社の上司から夫のことをかなり詳しく聞かれた上でそれとなく言われました。 本当にショックで血の気が引きました。 その後、義父母や夫がよく口にする地区をネットで検索してみると、全て部落に当てはまる地区で自分が住んでいる地区も昔はそうだったと知りました。 本当にショックでした。 冒頭に「悔しい」と書いたのは騙されたと感じるからです。 結婚前に夫の性格や暴力のことで母や親戚から反対されながらも結婚を選んだのは私です。 でも、墓場まで持って行こうとした夫が許せません。 私に話していたら結婚は迷ったかもしれない。 でもきっと結婚していたと思うんです。 それなのに純粋な気持ちでずっと夫を思ってきたのに隠し通そうとしている夫は裏切り者です。 大嘘つきです。 夫を許せません。 結婚するまでは部落の人がいるのかどうかも知りませんでした。 そして、部落が何かもよくわかりませんでした。 しかし、少しずつ勉強したり地区や周りの人間を見ていく中で分かったことがあります。 それは差別する人間だけが悪いのではなく、差別される側にも問題があるということです。 義父や夫の親戚の会話は人間の血が通っていなくて、私にはとても理解ができません。 酷い言い方かも知れませんが、気が狂いそうになるほど見ず知らずの他人を悪く言ったり暴言を吐きます。 私が言われることもあります。 今、人生にとても悩んでいます。 こどもが小さいので母子家庭は厳しいかもしれませんが、穏やかな暮らしがしたいです。 夫とも義父母とも一切の縁を切ってこの土地からも逃れたい・・普通の考えをした人間と関わりあって生きたい。 これが正直な気持ちです。 簡単にはいきませんが、何も考えずに生活しようとしても夫や義父が何か言動を起こす度にうんざりしている自分がいます。 まとまりの無い文章ですみません。 経験談やアドバイスなど、皆さんの考えをお聞かせ下さい。 どうぞ宜しくお願い致します。 最後まで読んで下さってありがとうございました。 悔しくて夜も眠れずこちらに辿り着きました。 (理解していただきたいので内容が細かく、長いです。 申し訳ありません。 ) 出会った当時私は学生で、夫は県外の人間でしたが仕事の為に都心部に移り住んでいました。 結婚して4年です。 子供が一人います。 夫が実家近くに転職したので、今は夫の実家の近くに住んでいます。 私は3人姉妹の末っ子で、父が中学生のときに亡くなったので母親に育てられましたが、祖父母が会社を経営していたので何一つ不自由なく育ちました。 出会った当時、夫は実家にルートセ... A ベストアンサー 難しい問題ですね。 差別する事はいけない事だと倫理を 説いても、実際にはいろんな形で区別されている事も事実。 自分がその立場に立った時に、つゆほども気にせず過ごせるか? と聞かれると自信がありません。 普通に・・・・と言う気持はよくわかります。 昨今は、まだ昔ほどの差別はないにしても、中には未だに 違った目で見る人がまだまだいる事も確かです。 そのうえ、いろんな事件が世間を騒がせますから、この事が 表だって知られるようになれば、なにがしかの弊害はあるやも しれませんしね。 この事案からまったくかけ離れた所で生活している物が 当事者に対して簡単に「差別はいけません」とは言い難いです。 関わった物の苦しみは関わった者しか分かりませんね。 輪の中に身を置くという事で、私は単なる個人の人格だけの 問題でもない気がします。 生活の環境と言う物は、個人の主観に大きく影響します。 周りを取り囲む人々が同じ価値観で接してくれば、少なからず 感化されますからね。 さて、問題は今後ですよね。 離婚されるなら身を隠す必要があると思いますよ。 今までの言動・行動を見ても旦那様自身がこの事をかさに 人を威圧する性格が見受けられます。 そういう境遇が持たしたら性格かもしれませんが、実際問題 多少危険である事は覚悟する必要があると思います。 出来れば御実家のご両親にもきちんと相談されて、考えうる 対応を模索しておく必要があると思います。 それでも先を考えれば、行動する価値は十二分にあると思います。 心穏やかな生活が迎えられると良いですね。 難しい問題ですね。 差別する事はいけない事だと倫理を 説いても、実際にはいろんな形で区別されている事も事実。 自分がその立場に立った時に、つゆほども気にせず過ごせるか? と聞かれると自信がありません。 普通に・・・・と言う気持はよくわかります。 昨今は、まだ昔ほどの差別はないにしても、中には未だに 違った目で見る人がまだまだいる事も確かです。 そのうえ、いろんな事件が世間を騒がせますから、この事が 表だって知られるようになれば、なにがしかの弊害はあるやも しれませ... Q 《竹田の子守唄》を欧州の言葉に訳したいのですが、どうも京都の古い言葉で 書かれているらしくて、全体的な意味がボンヤリとしか分かりません。 宜しく、 お願い致します。 Bebson Y. HOCHFELD 守もいやがる 盆から先にゃ Mori mo iyagaru Bon kara saki-nya 子守も嫌がっている、お盆の先では 如何して、お盆の先なのか? 雪もちらつくし 子も泣くし Yuki mo chiratsuku-shi Ko mo naku-shi 子守の最中に、雪もちらつくし 預かった子供も泣くし 盆が来たとて 何うれしかろう Bon ga kita-tote Nani ureshi-karou お盆が来ても、如何して嬉しくなるのだろう? 此処も意味不明。 帷子 かたびら はなし 帯はなし Katabira wa nashi Obi wa nashi 自分には、ちゃんとした服も無いし、服を飾る帯も無い OK? この子よう泣く 守りをばいじる Kono ko you naku Mori wo ba ijiru この預かった子供はワアワア泣いて、子守の私を苛める OK? 守りも1日 やせるやら Mori mo ichi-nichi Yaseru-yara こんな子守を1日中やっていたら、痩せてしまうよ はよも行きたや この在所こえて Hayo-mo yuki-taya Kono zaisho koete 早く行きたいな、この部落を越えて 此処も意味不明。 向こうに見えるは 親の家 Mukou ni mieru wa Oya no uchi 向こうに見えているのは 誰の? 親の家 此処も意味不明。 向こうに見えるは 親の家 Mukou ni mieru wa Oya no uchi 向こうに見えているのは 誰の? 親の家 此処も意味不明。 《竹田の子守唄》を欧州の言葉に訳したいのですが、どうも京都の古い言葉で 書かれているらしくて、全体的な意味がボンヤリとしか分かりません。 宜しく、 お願い致します。 Bebson Y. HOCHFELD 守もいやがる 盆から先にゃ Mori mo iyagaru Bon kara saki-nya 子守も嫌がっている、お盆の先では 如何して、お盆の先なのか? 雪もちらつくし 子も泣くし Yuki mo chiratsuku-shi Ko mo naku-shi 子守の最中に、雪もちらつくし 預かった子供も泣くし 盆が来たとて 何うれしかろう Bon... A ベストアンサー 「この在所」を被差別部落と考えると,この唄は,「この部落をこえて早く帰りたい」という意味になってしまいます。 だけど,これはどう考えてもおかしい。 この唄は,ご承知のとおり,幼くして被差別部落から他家に奉公に行き,子供を背負いながら朝早くから夜遅くまでじっと歯を食いしばって働いた少女たちの決して口にはできなかった心情と慟哭を秘めた守り子唄です。 ならば,4番の意味は,「被差別部落ではない『ここ』から父母のいる部落に帰りたい」という意味にならなければ筋が通らないでしょう。 したがって,私も御質問者と同様に,「この在所」とは単に「奉公先の家がある場所」を指しているにすぎないものと思うのです。 #1さんのお示しいただいたサイトによれば,京都においても在所が必ず被差別部落を指すとは限らなかったそうですし,そのように考えるほうが自然です。 そうだとすると,4番の歌詞は,「ああ,早くここをこえて家に帰りたいなぁ。 あ,あれがそうかしら。 そう,あそこに見えるのがお家に違いないわ」という意味だと思いたい。 私には,子供を背負って遠出をした少女が爪先立って親の家を遠望する姿が思い浮かびました。 一番の意味は,皆さんと同じです。 ただ,元唄によれば,この子は足袋を履いていません。 たぶん,この子たちはほとんどがそういう境遇だったのでしょう。 ですから,お盆の後,だんだん寒くなると足が凍えて冷たくなる。 動きも鈍くなるから背負った子供もよく泣く。 子供を泣かすと叱られる。 それが「いやだなー」という心情だと思います。 二番の意味は,お盆が来てもちっとも嬉しくないという心情。 本当ならお盆に親戚が集まって墓参りや先祖の供養が終わると,きれいな着物を着ておいしいものを食べて親戚中の子どもたちが遊びまわって楽しかったものです。 でもこの子たちは,奇麗な着物も持っていないし,一緒に遊ぶこともできない子守です。 集まった子供たちや大人たちに悔しい思いもさせられたことでしょう。 そんなお盆なんてちっとも嬉しくない。 その悔しさを二行に込めていると思います。 三番の意味は,子供が泣くと自分が叱られる。 頼むからそんなに泣かないでよという心情だと思います。 この子たちは,子守だけではなく,子供を背負って掃除や風呂焚きなどの労働をしていたのです。 子を泣かせて叱られればもっと労働がきつくなる。 ね,頼むから泣かないでという切ない思いかなぁと・・ 良い唄です。 できればその意も汲んでいただければ幸いです。 「この在所」を被差別部落と考えると,この唄は,「この部落をこえて早く帰りたい」という意味になってしまいます。 だけど,これはどう考えてもおかしい。 この唄は,ご承知のとおり,幼くして被差別部落から他家に奉公に行き,子供を背負いながら朝早くから夜遅くまでじっと歯を食いしばって働いた少女たちの決して口にはできなかった心情と慟哭を秘めた守り子唄です。 ならば,4番の意味は,「被差別部落ではない『ここ』から父母のいる部落に帰りたい」という意味にならなければ筋が通らないでしょう。... Q 私は奈良に生まれ、人生の半分以上を京都で過ごしました。 京都は部落が多いと言われますが、私は京都の地で生きる中で、部落差別をこの目でありありと垣間見たことはありません。 部落という言葉自体、中学校の道徳の授業で取り扱っただけです。 ・部落は特定の土地を指す ・もともとは人々が忌み嫌う職業についていた人を差別したものだった ・部落差別は部落出身者が差別されることを指す 学校で学んだのはこの程度です。 京都に部落が多いと聞きますが、実際何処が部落なのか、私含め、同級生は誰も知りませんでした。 ただ、私の親の少し上の世代は、確かに部落という言葉に敏感だなと感じます。 私の友達が部落の出身だったらしく(本人さえ知りませんでした)、結婚相手の男性の母親が素性調査を行い、部落出身だという事で結婚を反対されたということがありました。 また、私の経験として、部落出身だという方と知り合ったことがありました。 その方はとても貧しくて、「自分が職に付けないのは部落出身で差別されているからだ」と言っていました。 よく金銭を貸してくれと頼まれ、「大学の授業料払わないといけないし、今月教科書買わないとだから・・・」等と断ると、「私の命より自分が優先か、大学にいく余裕があるくせに」とよく言われました。 部落の近くに住んでいる人たちは、それは部落出身の人たちの気質で、そういう気質だから嫌われるというのもある。 実際金銭を強請られて怖かっただろう?といっていました。 確かに私はその時怖いという恐怖と同時に、関わりたくないという気持ちがありました。 しかし、それは部落とは関係なく、その人自身の人間性が招いたものです。 部落出身の方は、そういった周りの態度が差別だと言っていましたが、私は部落差別は一切関係ないと思っています。 こういった経験からの疑問です。 部落差別は、未だに根強く残っているものなのでしょうか? それとも、私のような、いわゆるゆとり世代が部落について無知・無関心・無責任なだけでしょうか? また、京都人というだけで「部落差別で冷たい人間」と言われたことがありますが、本当に京都に住んでいる人たちにはそのような気質が備わっているのでしょうか? 差別について無知でお恥ずかしい限りです。 よろしくお願いします。 私は奈良に生まれ、人生の半分以上を京都で過ごしました。 京都は部落が多いと言われますが、私は京都の地で生きる中で、部落差別をこの目でありありと垣間見たことはありません。 部落という言葉自体、中学校の道徳の授業で取り扱っただけです。 ・部落は特定の土地を指す ・もともとは人々が忌み嫌う職業についていた人を差別したものだった ・部落差別は部落出身者が差別されることを指す 学校で学んだのはこの程度です。 京都に部落が多いと聞きますが、実際何処が部落なのか、私含め、同級生は誰も知りま... A ベストアンサー 京都市内については現在は「根強い差別」なるものは残っていません。 部落が怖かったのは昭和後期までで、今残っているのは「部落利権」です。 >京都人というだけで「部落差別で冷たい人間」 京都でややこしいのは昔部落だった地域に韓国・朝鮮人が入り込んで いるからですね。 おまえら部落と直接関係ないやん!と言いたい。 しかもヤクザも絡んでいる) 関西で現業職(環境局・上下水道・交通局)公務員の犯罪や事件が 多いのは公務員の部落採用枠と言うのがあって優先的に部落地域の 人を採用したためです(今は廃止されています)。 部落出身者の救済の為だったのですが実際にはヤクザ・チンピラが 公務員として多数潜り込んでいるんです。 大阪の公務員で刺青入れている人が多いのはそういう理由) >しかし、それは部落とは関係なく、その人自身の人間性が招いたものです。 まさにその通です。 真面目に試験を受けて採用された公務員にとっては部落採用枠の 公務員が度々事件を起こすのは非常に迷惑でしょう。 一般市民としてもエセ同和活動で税金が無駄遣いされるのは困ったこと だと思います。 Q 今年で21才になりますが、自分の起源がどこにあるのかわかりません。 今まで運転免許を取ったり、引っ越ししたり、分籍をしましたが、特に苦労したことはありませんでした。 それに親からも在日外国人の家系である、というような事を言われたことはありません。 しかし確実に、ここ数世代のうちに、外国人が混じってはいない、という確証がありません。 ということで自分が在日外国人の流れをくんでいるか調べたいです。 この場合、どのような手段を取ればいいのでしょうか? 自分の本籍地で戸籍謄本 全部証明 を取れば両親のこともわかるのですか? 母親の祖母が在日で帰化していた場合、その事はどの世代まで表記されるのでしょう? ちなみに私は両親の戸籍から分籍 転籍 しており、本籍は東京ですが、出身および両親の本籍は大阪です。 また在日がどうのという質問に非難が集中している様子を見ることがありますが、 まぁ私のアイデンティティを明確化させたいだけですので、今回はご容赦ください。 日本生まれの日本育ち、ここ数世代の直系は全員日本人の日本人!と、 日本生まれの日本立ち、でも曾祖母は朝鮮人だから87. 今年で21才になりますが、自分の起源がどこにあるのかわかりません。 今まで運転免許を取ったり、引っ越ししたり、分籍をしましたが、特に苦労したことはありませんでした。 それに親からも在日外国人の家系である、というような事を言われたことはありません。 しかし確実に、ここ数世代のうちに、外国人が混じってはいない、という確証がありません。 ということで自分が在日外国人の流れをくんでいるか調べたいです。 この場合、どのような手段を取ればいいのでしょうか? 自分の本籍地で戸籍謄本 全部証... A ベストアンサー ・コリア系の帰化人には 『沢=澤・浜=濱・斎、斉=齋、齊・辺=邊、邉・薮=籔、藪・塩=[旧字、パソコンでは出てこない…]など』の旧字体漢字が使用できません。 『渕、蔦 、[旧字体](高)など』も使用できません。 朝鮮人の方々が日本に渡って来だしたのは明治43年頃の韓国併合のときから(鎖国解除後の42年までの間はせいぜい年に0~20人程度)。 明治43年から太平洋戦争が終わるまで韓国併合政策により在日朝鮮人はもとより、朝鮮半島にいる朝鮮人まですべて大日本帝国臣民扱いで法律上、外国籍ではなかった(両者とも本籍は半島にある)。 昭和20年の終戦を迎え在日の多くは半島に帰国しましたが、日本に残ったり、また朝鮮から戻ってくる人達もおりました。 明治時代から昭和26年までの間に朝鮮より日本へ渡って来た朝鮮人達は昭和27年にそれまであった日本の国籍を失って正式に外国籍となる。 そして、在日朝鮮人の日本国への帰化が始まったのも昭和27年。 古来からの日本人家系なら苗字漢字に制限なく明治時代からの苗字漢字を継続できます。 在日朝鮮人の帰化が昭和27年に始まり、名前の漢字制限(上記)は昭和23年に始まってますから、朝鮮籍、韓国籍から日本に帰化した者は旧字体漢字で帰化するチャンスがなかったんです。 簡単な調べ方としては『住民票』での苗字名前漢字が旧字体で表記されてるなら明治時代からの日本人家系。 新字体ならば、 「戦前の家系状況が分かる戸籍みせて」と役所に言ってみること。 戦前の家系状況が記されていて朝鮮人を思わせる記述がなければ日本人。 戦前の家系状況が分かる戸籍を見せてくれない場合や戦前の戸籍が日本以外にある場合は帰化人だと判断できます。 戸籍取得方法は先に回答されてる方法をやるといいでしょう。 ただ、例え純粋な日本人でなかったとしても質問者さんが日本が大好きで在日の方々のように反日感情を露わにされるのが不快に感じるなら、心はちゃんと日本人ですよ。 …私も可能性はあるかもしれないんで経済的に余裕が出来れば戸籍を追ってみたいです。 以上、参考程度に ・コリア系の帰化人には 『沢=澤・浜=濱・斎、斉=齋、齊・辺=邊、邉・薮=籔、藪・塩=[旧字、パソコンでは出てこない…]など』の旧字体漢字が使用できません。 『渕、蔦 、[旧字体](高)など』も使用できません。 朝鮮人の方々が日本に渡って来だしたのは明治43年頃の韓国併合のときから(鎖国解除後の42年までの間はせいぜい年に0~20人程度)。 明治43年から太平洋戦争が終わるまで...

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