フセイン 政権。 スンニ派とシーア派、なぜ対立(Q&A) :日本経済新聞

侵略と抑圧のフセイン政権

フセイン 政権

sponsored link亀仙人2 サダム・フセインと湾岸戦争 なぜ、イラン・イラク戦争でアメリカの支援を受けていたサダム・フセインはアメリカを憎み、対立するようになったか。 サダム・フセインがイラク大統領になるまで 1937年4月28日、イラク北部のティクリート近郊のアル=アウジャ村で農家の子として生まれ、10歳の時から母方の叔父ハイラッラー・タルファーフのもとで暮らした。 1955年に当時、中央政府の教育庁長官になっていたハイラッラーの後を追ってバグダードに移り住み、1957年にバアス党に入党する。 1958年、エジプトのナセル大統領はアラブ民族主義を掲げ、シリアやイエメンと組んでアラブ連合共和国を樹立します。 それに共鳴したイラク国内のアラブ民族主義を掲げるバアス党はこの連合に加わろうとクーデターを起こし、王制を転覆、政権を奪取しました。 しかし、新政権のトップ カシム准将はバアス党の汎アラブ主義を捨て、イラク共産党と手を組んでしまいます。 バアス党はこの裏切りに激怒して、カシム大統領の暗殺を試みます。 サダム・フセインは1959年のカシム大統領暗殺計画に加わり、失敗して逃亡し砂漠を放浪し、シリアとエジプトで亡命生活を送ることになりました。 米国中央情報局 CIA は中東の共産化を懸念し、共産党と組んだカセム政権を転覆しようと工作を始めます。 1968年バース党のクーデターでバクル大統領政権が成立すると副大統領に任命され、翌年32歳の若さでバース党最高決定機関の革命指導協議会の副議長に抜擢されました。 その裏でサダム・フセインは国家警備隊の創設に着手し、共産党員狩りを始めます。 緑色の腕章をつけ、自動小銃で武装した国家警備隊による共産主義者の弾圧で、約5000人の共産党員が殺害されたと言われています。 ・イラク近代化 サダム・フセインは副大統領時代の1970年~1980年代にかけて、イラクの近代化を目指しました。 バアス党政権はソ連の援助を受けて、クウェートとの国境沿いにルメイラ油田を開発し、それまで海外資本に牛耳られていた石油事業の国有化を断行しました。 国有化した石油事業から上がる利益で、ソ連から戦車や戦闘機の軍備を購入し、軍の近代化を果たしました。 隣国のイスラエルやイランと対抗するためには、軍の近代化は絶対必要なものでした。 またイラク全土に学校を作り学校教育を強化し、識字率の向上を目指しました。 女性解放運動も積極的に行なわれ性別による賃金差別や雇用差別を法律で禁止し、家族法改正で一夫多妻制度を規制、女性の婚姻の自由と離婚の権利も認められました。 女性の社会進出も推奨し、当時湾岸アラブ諸国では女性が働くことも禁じていた中で、イラクでは女性の公務員が増え、予備役であるが軍務に付く女性も現れた。 ソ連の協力によりイラク最大級のモースル・ダム(旧サッダーム・ダム)やハディーサー・ダムも完成させた。 これにより、全国に通信網・電気網を整備し、僻地にも電気が届くようになった。 貧困家庭には無料で家電が配布された。 さらに農地解放を推し進め、農業の機械化、農地の分配を推進し、最新式の農機具まで配られ、国有地の70%が自営農家に与えられました。 サダムはこの他にも科学技術の発展に熱意を注いだ。 この熱意は周囲のイラク人にも伝染した。 サダムは他の石油大国のように技術を輸入するだけということでは満足せず、先進国のように技術立国として発展することを考えていた そのために、石油産業、軍装備、原発はソ連、その一部をフランス、鉄道建設はブラジル、リン酸塩生産施設はベルギー、旧ユーゴスラビア、東西ドイツ、日本にはハイテク技術分野の専門家や外国人労働者、専門技師の派遣を要請しました。 これにより、国民の生活水準も目に見えて上がってきて、イラク国民は長年待ち焦がれていた、国民の生活によく配慮してくれる政権が誕生したと思いました。 ・大量破壊兵器 その裏で、豊富な石油資金にものを言わせ、かねてから親しかったシラク大統領を通じて、フランスからミラージュ戦闘機やガゼールヘリ等を輸入したほか、核兵器も原子力発電の名目でフランスから技術援助を受けた。 フランスは石油大国のイラクが原発を持とうとする矛盾を全く無視してイラクにタンムーズ原子炉を売りました。 目的はシンプルに金だった。 またアメリカもマンハッタン計画 広島、長崎型原爆の開発計画 の詳細な資料一式をイラクに寄贈しました。 こうして大国の援助を受けイラクが核兵器を持つ一歩手前まで行きました。 化学兵器に関しては、農薬の名目でサダムはアメリカのファウルダー社のエンジニアをバグダッドへ招待し、技術援助を受けた。 また東ドイツのライプチヒ毒薬研究所の職員と掛け合い、技術援助を受け、化学兵器の開発を進めます。 ・フセイン大統領誕生 1979年7月17日、バクル大統領が病気を理由に辞任すると発表した為、サダム・フセインはイラク共和国第5代大統領(兼首相)に就任しました。 1979年7月22日に開かれたバアス党臨時会議で、、党内部でシリアと共謀した背信行為が発覚したとして、サダム・フセイン自ら一人ずつ「裏切り者」の名前を挙げていき、66人の人物が粛清され、党内の反対勢力を一掃して、独裁体制を確立しました。 イラク・イラン戦争のきっかけとなったイラン革命 1972年2月 とは ・イランの石油開発 1908年、イギリスによって中東で始めてイランで石油が発見された。 それ以後、イギリス政府が株式の50%を所有するアングロ・イラニアン石油会社 後の BPブリティッシュ・ペトロノアム がイランの石油利権を独占し続けていました。 ・パーレビ朝 イランは第1次世界大戦でイギリス軍とロシア軍に占領されていたが、1921年にレザー・ハーンがクーデターを起こし、1925年自ら皇帝 シャー に即位して、パーレビ朝を起こしました。 パーレビ朝は形態としては立憲君主制でしたが、議会はすべて国王派が占め、レザー・シャーが軍隊を掌握する軍国主義体制がとられました。 しかしイスラーム聖職者の影響力を排除して政治、文化の世俗化を進め、男女同権を提唱して女性の社会活動を推奨していました。 第2次世界大戦中の1941年レザー・シャーはナチスドイツに接近したため、イギリスにより退位させられて、息子のモハンマド・レザー・パフラヴィー パーレビ国王 が帝位を引き継ぎました。 ・イランの石油国有化 1950年、サウジアラビアで石油の採掘に成功したアメリカのアラムコ石油会社は、サウジアラビアのサウド国王と石油から上がる利益を折半する契約を結びました。 イランでは、イギリスの石油会社アングロ・イラニアンが石油の利益を独占していたため、イランは利益折半を求めましたが、拒否されてしまいます。 1951年、民主的な選挙で首相に就任した民族主義者モサデクは、石油国有化法を可決させてアングロ・イラニアン石油会社から石油利権を取り戻し(イギリスのイラン支配の終結)、石油産業を国有化しました。 このことはイギリスとアメリカの反発を受け、国際石油資本(メジャー)によりイラン産石油は国際販売ルートから締め出されました。 1953年石油が販売できなくなったイラン政府は、対抗するためソ連に接近、ソ連・イラン合同委員会をつくって、ソ連と関係を深めていきます。 アメリカはイランがソビエトに近づき石油がソビエトに流れるのを警戒するようになり、アメリカのCIAとイギリスのMI6が協力して内政干渉の秘密工作 エイジャックス作戦 を行い、国王を支持する民衆のデモという形で クーデターをおこし、1953年モサデク政権を倒して、パーレビ国王を復帰させました。 これにより石油の支配権も完全な利益もイランには手に入れることが出来なくなりました。 イラン国民は再び、パーレビ国王の独裁化に置かれるようになりました。 アメリカ主導のイランの石油独占と、民主的な政権を倒したことでイラン国民の反米感情を受けることになります。 ・白色革命 パーレビ国王は、独裁体制の強化のため秘密警察サヴァク(SAVAK)を動かして左右の反体制運動を取り締まる一方、国王の指導の下に経済発展を進めるため、1963年イラン国内の改革 白色革命 を進めました。 また大地主の土地を買い上げて農民に分け与えたが農民たちは灌漑に必要な資力を持っていなかったため有効に活用できずやむなく都市部に流れ込みスラムを形成した。 そのため農業生産高はかえって減少し食糧は輸入するようになった。 ・海外留学 — 富裕層の子弟に海外留学を勧めたが、その一部は留学先で反王制派になった。 ・一夫一妻制 ・女性参政権 — 女性に選挙権、被選挙権を認めたことから、宗教学者層を中心に非難された。 ・ヒジャーブ着用の禁止 引用ウィキペディア 「白色革命」 ソ連と対抗するために、このような政策を支持したアメリカは多額の経済援助を提供して、パーレビ国王を助け親米国家を作り上げます。 アメリカの援助は経済のみならず、世界で初めてイラン空軍に最新鋭のジェット戦闘機 F-14を納入したり、後に問題になる核開発技術の提供などもあります。 イラク空軍のマークを付けた F-14 出典 F-14 はイラン空軍に79機納入され、イラン-イラク戦争ではイラク空軍機を159機撃墜して大活躍しました。 ただイラン革命後はアメリカと仲が悪くなり、補修部品などが入らなくなり稼働率が下がりましたが、イランはのちに部品やミサイルの国産化や技術開発をすすめ、 F-14を独自に改造・改良し自分たちのモノにすることに成功。 その結果、最大の見積もりで推定40機機程度の F-14が現在も生き残っているとされています。 改造されたイラン空軍の F-14はトム・キャットをもじって「ペルシャ猫」と呼ばれています。 最近では、ISISの爆撃に向かうソ連の爆撃機を護衛したりしています。 パーレビ国王によるこれらの改革は、オイルショック後の原油安による経済の破綻や、格差の拡大、急激な欧米化によるイスラム教徒の反発などで、1970年後半には国民の支持を失っていきます。 パーレビ国王にアメリカが武器援助をしたのを受けて、ソビエトはイラクのフセイン大統領に大量の武器を援助しました。 ・イラン革命 パーレビ国王の急激な改革に対して、16世紀以来のイランの国教であったイスラーム教のイランのシーア派(十二イマーム派)の信仰に立ち返ることを求める民衆の反発が強まりました。 皇帝政治を批判して1964年から国外追放になったシーア派最高指導者のホメイニ師は、国外 当時はフランスにいました から反政府活動を指導し、活発に活動していました。 1978年ホメイニ師を誹謗する新聞記事が掲載されると、それは政府の陰謀であるとして全国的に民衆の暴動がおこり、収拾がつかなくなったパーレビ国王は1979年1月16日エジプトに亡命して、イランの王政は終了しました。 1979年2月1日、ホメイニ氏はイランに帰国しさらに革命を進め、4月1日イランは国民投票により「イラン・イスラム共和国」の樹立を宣言して、ホメイニ氏を終身任期の最高指導者(国家元首)として「法学者による国家統治」に基づく体制を築き上げました。 また国際コンソーシアムの所有する石油設備をすべて国有化したため、欧米諸国の反感を買いました。 ・アメリカ大使館占拠事件 パーレビ元国王とその家族、側近らは一旦はエジプトのカイロに亡命した後、モロッコ、バハマ、メキシコを転々としていました。 その後パーレビ元国王は「癌の治療」のためという名目でアメリカへの入国(事実上の亡命)を求め、アメリカ政府に接触しました。 アメリカのカーター大統領ははじめこれを拒否していましたが、パーレビ元国王と親しかったヘンリー・キッシンジャー元国務長官らの働きかけを受け10月22日アメリカに入国しました。 10月22日からアメリカが元国王を受け入れたことに抗議するデモ隊がイランのアメリカ大使館に殺到していました。 11月4日、一部の学生が大使館の塀を乗り越えて内部に侵入し、アメリカ人外交官や海兵隊員とその家族の計52人を人質に、元国王のイラン政府への身柄引き渡しを要求しました。 以後444日に渡り学生たちはアメリカ大使館を占拠し続けます。 イラク国内を流れる、チグリス川とユーフラテス川は合流して シャットゥルアラブ川 と名を変えて、ペルシャ湾までの200キロを流れています。 下の地図を見てもらうと分かりますが、クウェートとイランに挟まれ、ペルシャ湾に狭い海岸線しか持たないイラクにとって海岸から55キロの地点にある バスラ は重要な石油積出港となっております。 シャットゥルアラブ川 出典 SPECIAL WARFARE NET バスラより少し下流でシャットゥルアラブ川はイランと接するようになり、両国の国境となっている。 イラン国内のシャットゥルアラブ川とカールーン川が合流する地点には、イラン領のホラムシャハル、アーバーダーンなどの港湾都市があり、イランにとっても大切な石油積出港になっています。 このため、この地域はかねてから領土問題でイラクとイランで争っていましたが、イラクのフセイン大統領はイラン革命の混乱に乗じてこの地域に侵入しました。 ・戦争の経緯 1980年9月22日未明、イラク空軍機がイランの10の空軍基地を爆撃して、イラン・イラク戦争が始まった。 ただ空爆を行ったイラクのミグ21は航続距離が短かったため、基地は破壊しましたが、肝心の戦闘機は奥地に逃げて破壊に失敗しました。 翌9月23日、イラク地上軍が侵入してアーバーダーンやホラムシャハルを包囲しました。 親米家のパーレビ国王が追放され、アメリカ大使館を占拠されたアメリカや、アフガニスタンのイスラム教徒の影響を恐れたソ連 当時アフガニスタンに侵攻していました 、イラクのシーア派の勢力拡大を恐れたサウジアラビアなどのアラブ諸国がイラク イラクではシーア派が多数を占めていましたが、フセイン政権のバアス党はスンニ派 を支援しました。 フセイン大統領は、これらの国からの援助でアメリカ・ソ連・フランス・中国から大量の武器を輸入し、アラブ随一の軍事大国になりました。 ただ、後でこの代金を払うことが出来ず、クウェートに侵略して湾岸戦争のきっかけをつくることになります。 イランは、革命で多くの軍事指導者を粛正したため、指揮系統が崩壊し、また前パーレビ国王が親米家であったため、イラン軍の武器はほとんどアメリカ製で、これらを取り扱う技術者もアメリカ人であったため革命の際に全員が国外退去となり、兵器の整備や部品調達が難しくなって兵器の稼働率が落ちていました。 ここでイスラエルが助けの手を差し伸べます。 隣国イラクが軍事大国となるのを恐れたイスラエルは、イランが必要とする兵器の補修部品をアメリカから輸入して、イランに渡しました。 後に明らかになった イランコントラ事件でアメリカも兵器の部品や、ミサイル等を秘密裏に売却していました。 これによりイラン空軍は息を吹き返し、たちまちに制空権を確保してイラク軍の戦車に対してAH-1アパッチヘリコプターで攻撃できるようになりました。 戦車は全面と側面の装甲はしっかりしていますが、後部と上部は装甲が薄いため攻撃ヘリで空から攻撃されるとひとたまりもありません。 ただ地上攻撃用のヘリは戦闘機に対する防御が弱いため、制空権を確保する必要があります。 またアラブ諸国と異なり国家元首のアサド一族をはじめ少数派のシーア派が政権を握るシリアと、反欧米を掲げるリビアもイランに味方しました。 1981年6月7日、イスラエル空軍機がヨルダン、サウジアラビア領空を侵犯しイラク領に侵入、フランスの技術で建造中の原子力発電所(未稼働)を空爆、破壊(イラク原子炉爆撃事件)しました。 これによりイラクは核開発を中止することになります。 1982年4月、シリア経由のパイプラインが止められたため、イラクは石油の輸出が出来なくなり、経済的に困窮します。 イラクは当時多くの企業が国営であったのですが、それらを民営化することで政府が支出するお金を減らそうとするなど政府支出を減らそうと四苦八苦することになります。 戦争を早く終わらせたいイラクは、ペルシャ湾を航行するタンカー船を危機にさらすことで、石油の供給を守りたいアメリカの介入を促しました。 これにより,石油利権を守りたいアメリカとイランからの脅威をイラクに対処させたい湾岸諸国は、イラクにより多くのの資金と兵器をつぎ込むことになりました。 結局双方とも相手に決定的なダメージを与えることが出来ず、1988年8月20日に国際連合安全保障理事会の決議を受け入れる形で停戦することになりました。 イラン革命後、イラン国内がどう変化したかわかる映画があります。 1986年に発覚し、アメリカ国内はおろか世界を巻き込む政治的大スキャンダルに発展した事件である。 引用ウィキペディア イラン・コントラ事件 イランイラク戦争が始まったとき、アメリカはイランとは交渉せず、武器の輸出もしないことを国際的に宣言しており、ほかの国にもこれを守るよう要請していました。 アメリカがイランに武器を輸出した理由は2つあります。 アメリカ軍の兵士らがレバノン(内戦中)での活動中、イスラム教シーア派系過激派であるヒズボラに拘束され、人質となってしまった。 彼らを救出する為、アメリカ政府はヒズボラの後ろ盾であるイランと接触し、イラン・イラク戦争でイラクと戦うイランに対し、極秘裏に武器を輸出する事を約束しました。 もう一つは、イラン革命で人質になったアメリカ大使館員の身代金の代わりに、武器を輸出することでした。 はじめアメリカは、イランにこっそり武器を輸出していたイスラエルを通して武器を渡していましたが、国際世論の反発を恐れたイスラエルが断ったため、アメリカが直接イランに武器を輸出することになりました。 さらに国家安全保障担当補佐官のジョン・ポインデクスターと、国家安全保障会議軍政部次長でアメリカ海兵隊のオリバー・ノース中佐らを通して、イランに武器を売却した収益を、左傾化が進むニカラグアで反政府戦争(コントラ戦争)を行う反共ゲリラ「コントラ」に資金援助していました。 この時イランとコントラの双方の交渉窓口は当時副大統領だったジョージ・H・W・ブッシュ(後の大統領)であったとされています。 このことは、民主党が多数を占める議会でアメリカとの関係が悪化していたイランへの武器販売、および反共ゲリラに過ぎないコントラへの資金提供に反対していた議決に反することでした。 イラクを支援していたアメリカが、裏でイランに武器を輸出していることを知ったフセイン大統領は、これ以後アメリカを信用しなくなりました。 湾岸戦争 ・フセインがクウェートに侵攻したわけ 1988年8月20日に、イラン・イラク戦争が停戦を迎えた。 戦争が終わるとイラクは各国から武器援助 援助と言ってもタダではありません を受けていた関係で600億ドルとも900億ドルともいわれる負債を背負い込みます。 産油国のイラクは石油を売って払おうとしましたが、お隣のクウェートがOPECで決められた産油量の取り決めを破り、大量に石油を増産したため原油の値段が大幅に下がってしまいました。 イラクはクウェートに産油量の減産を申し込みましたが言うことを聞いてくれませんでした。 同じようにOPECの決めた量よりも多くの石油を産出していたサウジ・アラビアとアラブ首長国連合は、イラクの申し込みを受け入れ減産しました。 更にクウェートはイラクとの国境にあるルメイラ油田で採掘をはじめ、イラクはクウェートが傾斜掘りという方法でイラク側の原油を盗掘していると怒ります。 1990年7月25日、イラク駐在大使グラスピーがフセイン大統領に「米国はイラクの行動には関心がない」と話し、ジョン・ケリー国務次官補も「クウェートが攻撃されても米国にはクウェートを助ける責任がない」と公言したことを受け、サダム・フセインはクウェートに侵攻してもアメリカは介入しないと信じ、行動を起こします。 1990年8月2日、イラク軍はクウェートに侵入し、8月8日クウェートを併合しました。 イラクがクウェートに侵攻した同日、国際連合安全保障理事会は即時無条件撤退を求めましたが、8月12日にイラクは「20年以上イスラエルのパレスチナ侵略を認めていながら、今回のクウェート併合を非難するのはおかしい」と主張(リンケージ論)して、イスラエルのパレスチナ退去を条件に撤退すると発表しました。 8月7日、アメリカのブッシュ大統領は、石油の過剰輸出の件でイラクと対立していたこともあり、クウェートに続いて自国も侵略される事を恐れていたサウジアラビアに「イラクによる攻撃もあり得る」と説得して、アメリカ軍駐留を認めさせ、軍のサウジアラビア派遣を決定しました。 この時、アルカイダを率いていたウサマ・ビンラディンはイスラム教の聖地であるメッカやメディナがあるサウジアラビアに異教徒のアメリカ軍の基地を認めたサウード王家と対立し、後に国外退去させられます。 クウェート侵攻の翌日、モスクワ訪問中のアメリカのベーカー国務長官と、ソ連のシェワルナゼ外相は共同声明を出して、イラクの侵攻を激しく非難しました。 これは冷戦時代には考えられないことです。 アメリカ下院議会の人権委員会公聴会でナイラという少女がイラク兵がいかに残虐な行為をしたか、証言をしています。 『私は病院でボランティアとして働いていましたが、銃を持ったイラクの兵隊たちが病室に入ってきました。 そこには保育器の中に入った赤ん坊たちがいましたが、兵士たちは赤ん坊を保育器の中から取り出し、保育器を奪って行きました。 保育器の中にいた赤ん坊たちは、冷たいフロアに置き去りにされ、死んで行きました』 上の動画で語っている通り、この証言は真っ赤なウソでした。 これをあばいたのはニューヨークタイムズのマッカーサー記者でした。 マッカーサー記者によると、クウェート政府は『自由クウェートのための市民運動』という名の偽装した市民運動を通じて、大手広告会社ヒル・アンド・ノウルトンにアメリカが軍事介入するよう世論を誘導してほしいと頼みました。 ヒル・アンド・ノウルトンは調査の結果、イラク兵の残虐性をアピールすることにして、在米クウェート大使の娘、ナイラを使いアメリカ下院議会人権委員会公聴会でうその証言をさせました。 この証言から3ヶ月後、アメリカは湾岸戦争を起こし、イラクをクウェートから撤退させました。 ヒル・アンド・ノウルトン社はこのキャンペーンで1200万ドル 14億円 の報酬を受け取りました。 もう一つが「油にまみれた水鳥」の写真です。 当時サダム・フセインがフセインがわざと油田の油を海に「放出」していると報道され、環境は破壊され、海の生物が犠牲になっている「環境テロ」と話題になりました。 出典 stavangersquares. org しかし、この映像はアメリカ軍が誘導爆弾にてゲッティ・オイル・カンパニーの原油貯蔵施設から流出させたため起こったことが明らかになっています。 新聞やテレビなどのマスメディアの報道が、常に真実であると言えないということです。 湾岸戦争 その後もイラクはクウェートの占領を継続し、国連の度重なる撤退勧告をも無視したため、11月29日、国連安保理は翌1991年1月15日を撤退期限とした決議678(対イラク武力行使容認決議、早い話が「言うことを聞かないと武力に訴えるぞ」ということ)を採択しました。 1991年1月12日にはアメリカの上下両院から大統領の軍事力行使認可決議も採択されます。 ・砂漠の盾作戦 クウェート侵攻の後、45万人と見られるイラク軍がサウジ・アラビア国境近くに展開し、サウジ・アラビアまで侵攻する恐れが出た為、アメリカとその同盟軍の軍用機がサウジ・アラビア国内に配備されました。 また、ソビエトがアフガニスタン戦争から撤退して、崩壊寸前だったため、アメリカはヨーロッパに展開している陸軍最強の機甲軍団、第7軍団を西ドイツから呼び寄せました。 これは重戦車師団2個、機械化師団1個からなる強力な軍団で、さらに戦時に本土から送られるはずだった補助部隊、第一機械化歩兵師団(第一機械化歩兵師団は第一大戦以来の歴史を持つ師団で、いわゆるBig red oneの通称で知られる精鋭部隊)が追加される事になります。 この第7軍団の規模は、人員14万6千人、各種車両約5万台、主力のM1A1戦車1500台で、今まで戦闘に投入された部隊としては最大の規模を持ってます。 アメリカの「有志を募る」という多国籍軍編成の呼びかけに応じ、クウェートと関係の深いイギリスをはじめ、同盟国のフランスもこれに加わります。 またエジプト、サウジ・アラビア、バーレーン、カタール、オマーン、アラブ首長国連邦もこれに加わり、アラブ多国籍軍を編成しました。 また用意された航空機は、固定翼機が2400機、ヘリコプターなどが1400機という具合であった。 この中には、アメリカ空軍機の他、紅海とペルシャ湾で待機する計6隻の空母にある航空機、イラク周辺諸国に元々あり臨時体制になった航空機が含まれます。 このためイラク空軍は最初から戦うのを諦め、戦闘機を他国に避難させるなどして空軍の温存を計りました。 ・砂漠の嵐作戦 砂漠の嵐作戦でアメリカの狙いは、クウェートからイラク軍を追い出すことではなく、イラク軍の主力を叩き潰すことにありました。 ただ追い出しただけでは、いつ何時再び戦いを挑んでくるか分かりませんから。 この主力部隊と見られていたのがイラク共和国防衛隊(Republican gurd)でした。 全部で8個師団あり、2個の装甲師団と5個の機械化師団、そして1個の空挺特殊部隊師団からなる精鋭部隊であり、湾岸戦争中はそのうち5個師団がクウェート北部、1個師団が西部の国境地帯に配備され、不利な状態になったらすぐイラク国内に撤退できるようにしてありました。 作戦の大まかな筋として、アメリカ海軍海兵隊とアラブ多国籍軍がクウェートに進軍して、イラク共和国防衛隊がそちらに気を取られている隙に、砂漠を大回りした最強の第7軍団が背後から襲い掛かり、殲滅させる予定でした。 イラクがクウェートから撤退する期限を過ぎて2日後の1月17日 この日は新月で月明かりがなく、真っ暗でした に「砂漠の嵐作戦」は開始されました。 F117がバグダットを空爆して司令部や無線局などの主な軍事施設を破壊します。 アメリカ軍の作戦本部はCNNニュースの現地速報で、作戦が無事実行されたことを知ったと言われます。 その後アメリカ海軍の各艦艇から24時間にわたって、100発のトマホーク巡航ミサイルが 1発2億5千万円します 大統領官邸、電話局、発電所、変電所を破壊します。 イラク国内の電力が失われたことで、レーダーや通信設備が使えなくなりました。 砂漠の嵐作戦地図 出典 こののち、20万人と言われる多国籍軍が、海からイラクとサウジ・アラビア最奥の国境沿い 約400㌔あります に配備完了するまでの約1か月間、空から攻撃を続けました。 この巨大な軍を支える補給基地も、軍と一緒に基地ごと砂漠を進軍するという凄まじいことをやっています。 ・「砂漠の剣」作戦 空爆開始から約1か月後の2月24日、配備が終了した地上軍が進軍し始めます。 始めは地上戦開始の前日2月23日、クウェート沖の艦船から艦砲射撃が始まり、海兵隊が上陸の準備を始めます。 クウェートにいたイラク軍は海からの上陸に注意を向けました。 その隙をついて2月24日午前4時、アメリカ海兵隊の本隊とアラブ多国籍軍がクウェートにやって来て、クウェートシティに向かって進軍しました。 この進撃の速度があまりにも早かったため、海からやってくるとばかり思っていたイラク軍は反撃の準備もできず、撤退してしまいます。 約1日遅れの2月25日午前5時30分に進軍予定だったアメリカ第7軍団は、イラク軍が予想より早く撤退したため、2月24日午後3時にイラク軍の共和国防衛隊を包囲殲滅するため進軍を開始します。 この後、第7軍団は大きな間違いを犯します。 24日深夜から25日朝にかけて進軍を停止してしまったのです。 この間にイラク共和国防衛軍は、一番サウジ・アラビアに近い所にいた一個師団を除き大部分が撤退を完了してしまいました。 このため最初の目的であったイラク軍の精鋭部隊、共和国防衛軍は殲滅を免れ戦力を温存することが出来ました。 2月26日撤退中のイラク軍に対してアメリカ空軍は猛爆を開始して、2本の幹線道路は死のハイウェイとなりました。 2月27日アラブ多国籍軍がクウェートシティを開放し、2月28日の朝、戦闘は終了しました。 ・湾岸戦争後のイラク 湾岸戦争後、イスラム教のシーア派や北部クルド人による反政府活動が活発になり、イラク18州のうち14州を支配しました。 彼らはアメリカの支援を期待しましたが、アメリカは何の行動も起こしませんでした。 アメリカが介入しないと見たサダム・フセインは、生き残った共和国防衛軍と大統領親衛隊で反乱を鎮圧し、多数の反政府国民を殺害しました。 結局アメリカは、サダム・フセインと、彼に反抗する市民双方から憎まれるようになりました。 DMMに入会すると、希望するタイトル あらかじめリストに登録しておきます が2枚づつ封筒に入れて、郵送されてきます。 返却は同じ封筒に入れて郵便ポストに投函するだけです。 近くにビデオレンタル屋さんがない所などでは、助かると思います。 またこのサイトで扱っている映画のDVDは、店舗に置いていないことが多いため、探したり取り寄せてもらったりする手間を考えると、望む商品を直接自宅に届けてもらえるこのサービスは、大変重宝です。 今はやりのネットによる動画配信サービスよりも、はるかに多い約44万タイトルのDVDを扱っておりますので、なかなか手に入りにくい映画も見ることが出来ます。 現在30日間無料体験サービスを行っておりますので、一度試してみることをお勧めいたします。

次の

イラク戦争とは?原因や目的などをわかりやすく解説

フセイン 政権

とはいえ、イラク問題関連国内報道は余りに表層的であり、問題の本質が一体何処にあるのか? 全くといって良いほど伝わって来ない。 想像するに、報道に拘わる人達がほぼ全員イラクに行った事がなく、働いた事もない。 中東にも行った事すらないのであろう。 こういう言い方は失礼かも知れないが、これではイラク問題も他人事になってしまう。 私は、以前のエントリー、で紹介した様に、入社2年目の1月にドイツに留学し、当時のサンシャインプロジェクト(国家プロジェクト)の西豪州褐炭液化プロジェクトを経てイラクを含む中東市場を担当した。 当然イラクへは何度も出張している。 更には、貧しい非産油国に駐在し、国作りに協力したいという思いが強くなりODAの仕組みを一から勉強し、31才の時に中東最貧国のイエメンに3年半駐在した。 無償援助、円借款事業等を担当し、相手国の所轄官庁の大臣、副大臣といった要人とも直接面談する機会に恵まれた。 同時に、当然の事ながら中東諸国に共通する問題を身を以て体験したのも今一方の事実である。 こういった経緯を踏まえ、今回は「フセイン政権崩壊から10年、イラクは今どこに向かうのか?」について論考を試みたいと考えた次第である。 余りにも残虐なISISの蛮行 百聞は一見に如かずという。 及び、を参照する。 全く以て酷い写真だが、ISISの赤裸々な実態を伝える最良の材料と判断し、敢えて参照する事にした。 この写真を実際に見ればが、ISISが最も野蛮で冷酷なテロ組織と確信せざるを得ない。 第二次世界大戦時のナチスドイツによるユダヤ人処刑を彷彿させる。 このISISが、現在イラクの首都バグダッドの目と鼻の先まで侵攻して来ているのである。 それでは、一体何が化け物ともいえるISISの台頭を許したのか? 現在のイラク問題が、飽く迄イラク限定の局地的問題なのか? 或いは、飛び火して中東全土、更には北アフリカに波及して、この地域のイスラム国家を液状化してしまうのか? を考える意味で、このテーマを一度は真剣に考えてみるべきであろう。 私は、下記3点がISISの台頭を許したと考えている。 矢張り第一は、も指摘する様に、化学兵器を国民に対し使用したシリア、アサド大統領に対するオバマ大統領の対応であったと思う。 シリアの化学兵器使用の際にオバマが見せた臆病さは、マイナスの連鎖を引き起こした。 ロシアのウクライナでの冒険主義がそうである。 マイナスの連鎖は権力基盤が不安定なイラクにも波及し、それがISISの台頭を許したという事である。 第二は、趨勢として世界の警察官であったアメリカ不在のに向かっているという事実である。 ニューヨークタイムズはについて詳しく説明している。 現在の様な軍事支出を続けていてはアメリカの財政は持続不可能なので、第二次世界大戦前の規模に縮小するというのである。 兵士の数をベトナム戦争の時の四分の一、44万人にまで減らす。 アメリカは第二次世界大戦後「世界の警察」として世界の平和維持のために尽力して来た。 これからは世界の警察官の数が減るという事である。 その結果、当然地域紛争は増加するだろう。 隣国の領地を侵略する、或いは、軍事的冒険主義に走る国も出て来るだろう。 日本はこのGゼロ時代に果たして生き残れるのか? 生き残りのため何をなすべきか? 国も日本国民もこの課題を本当に真剣に考えねばならない。 件数が圧倒的に多いのは矢張り中東である。 この地域から「リバランス」と称してアジア・太平洋地域にアメリカは軍を移動さす予定である。 抑止力の低下により今後紛争が多発するはずである。 日本に取って最悪の事態は戦闘状態が拡大し、ホルムズ海峡が封鎖され、石油・ガスの輸入が途絶える事である。 そして、最後は中東諸国の国の成り立ちの根本的な欠陥である。 こういっても、殆どの読者は何の事か理解出来ないだろう。 日本で生まれ、日本で育った一般的な日本人は「国」という言葉に対し、日本の様な統治機構をイメージする。 この行為は至って当然の事であるが、これでは中東の問題は何時まで経っても理解出来ない。 国内マスコミが良い実例である。 先ず、理解されねばならないのは中東において最も優先されるのは「部族」という事実である。 国家への帰属意識は極めて弱い。 従って、物事の判断基準や揉め事の解決には「部族」単位のローカルルールが用いられる。 「部族」間で紛争が生じた際には、この「部族」単位のローカルルールは機能不全となる。 従って、ローカルルールに代ってイスラムに共通した「コーラン」の教えが用いられる事になる。 この制度の欠陥は、「シーア派」、「スンニ派」といった同じ宗派内では機能するが、、「シーア派」vs「スンニ派」の様な宗派間の対立となれば最早会話の糸口は無く、武力行使で勝ち負けの決着を付けるしかない事である。 これが、シリアの内乱、イラクでのISIS台頭の背景である。 日本国民が理解すべきは、こういった、シリアの内乱、イラクでのISIS台頭の背景は何もシリア、イラクに限った話ではないという冷徹な事実である。 ペルシャ湾が火の海となれば日本経済はショック死する このままイラク状況が悪化すれば、最も可能性の高い展開は、イラクがシーア派主導の現政権、ISIS主導のスンニ政権及びクルド族主導の政権の三つのミニステートに事実上分解し、それが隣国シリアに波及し、さらにクルド族を多数抱えるトルコ、イランにも飛び火し、この地域がカオスの連鎖に陥る事である。 少し前なら想像も出来なかった事だが、今後ISISがイラクの首都バグダッドに達する展開となれば、もあり得る。 仮に、こういう展開となれば昔からのアメリカの同盟国であるサウジとイスラエルは衝撃を受け、動揺する事は必至だ。 アメリカの抑えが利かなくなりサウジとイスラエルの軍事衝突も充分あり得る話となる。 アラビア半島全域が紛争地域になるという事である。 日本は石油の殆ど全てを、天然ガスの多くをこの地域に依存している。 更に悪い事に3. 11以降国内全ての原発を停止させており、。 従って、上記展開が現実のものとなれば、日本国内では停電が常態化する。 一方、内燃機関が必要とするガソリン、軽油も不足し、国内の流通は機能しない。 日本経済はこれによりショック死に至り、国内では食料の輸送が出来ず飢餓が蔓延するといった悪夢が悪夢で終わらない可能性がある。 サウジとイスラエルの対応 アメリカはイラクに拘わった過去の経緯よりISISのバグダッド侵攻を指を咥え傍観する事は許されない。 そんな事をすれば、国の内外から2003年イラク戦争以降のアメリカ政府の中東での「行き当たりばったり」の政策が批判の嵐に晒される。 一方、シーア派の盟主、中東の大国イランもイラクのシーア派政権を見捨てる事は出来ない。 ここに、上述したアメリカ、イラン共闘の可能性がある訳だ。 アメリカ、イラン両国に取って選択の余地がないと言っても良いかも知れない。 一方、スンニ派の盟主を自認するサウジの立場は微妙である。 問題を複雑にしているのはイランとサウジアラビアの関係である。 成程、サウジアラビアもイラン同様イスラム国家である。 しかしながら、サウジアラビアはスンニ派の盟主であり、一方、イランはシーア派を束ねている。 従って、この両国はイスラムの覇権を賭けて争っている訳である。 現在一番分かり易い例は内戦状態の続くシリアであろう。 アサド大統領はシーア派に属すアラウィー派の出身で、政権中枢もアラウィー派が握っている。 従って、シリアは歴史的にイランと関係が良く、内戦後のシリア政府を支援しているのはイランである。 一方、それに対しスンニ派により形成された反政府勢力はサウジアラビアの手厚い支援を受けている。 シリアの内戦とは、イランとサウジアラビアの代理戦争の側面がある。 流石に残虐なISISをシリア反政府勢力同様サウジが支援する展開になるとは予想しないが、アメリカとすんなり共闘するか? については疑問符が付く。 今一方の主役イスラエルはイラク問題をどう見ているのだろうか。 イスラエルの本音は分らないが、表面的には取敢えず冷静を装っている。 イスラエルに取っての最大関心は何といっても、イラクでアメリカとイランが共闘するかどうかであろう。 イスラエルは本質的にイランを信用していない。 それに加え、イスラエルは湾岸戦争時イラクより42日間に18回39発のミサイル攻撃を受け多数の死傷者を出した苦い経験がある。 1981年に国際社会の非難を浴びながらもバビロン作戦でイラクの核施設を壊滅させており、その結果湾岸戦争時にイスラエルに向け発射されたミサイルには核弾頭が塔載されておらず、イスラエルが壊滅を免れたという気持ちは今尚強い様に思う。 従って、イスラエルとしてはイランを世界から分離した上で核施設を空爆し、核兵器保有の可能性をゼロにしたいのだと思う。 勿論、イラクでイランがアメリカと共闘する事はこのイスラエルの意図に逆行する。 日本国民はこういった現実を直視し、「平和ボケ」から脱する必要がある。

次の

イラク戦争とは?原因や目的などをわかりやすく解説

フセイン 政権

大統領期間中は、多額の費用をかけて近隣諸国との戦争を開始したり、少数民族に対する殺戮などを繰り返し、非常に残忍な独裁政権を敷いていました。 しかし、2003年のでアメリカ率いる有志連合に破れて逮捕された結果、2006年12月30日に処刑されて生涯を閉じました。 とにかく、 歴史に悪名を残すイラクの元大統領であり独裁者として知られています。 イラクの元大統領サッダーム・フセインの生涯 ここからは、イラク元大統領サッダーム・フセインについてさらに詳しく知るために、その生涯をダイジェストで紹介していこうと思います。 サッダーム・フセインの人生初期 出生から法律を学んだ大学時代 1937年4月28日、サッダーム・フセインはイラク北部の街ティクリート近郊の村に、 農家の子として生まれました。 この辺りはイラクでも最貧困地域の一つで、サッダームの父親はサッダームが誕生する前に他界しており、サッダームは幼くしてバクダッドに住む叔父の下で暮らすことになります。 そして、その叔父の指導の下、サッダーム・フセインは国家主義色の強いバグダッドの中等学校で学び、その後はロースクールへ入学して3年間法律を学びますが、1957年20歳の時に中退します。 バアス党へ入党 1957年、サッダームは バアス党に入党します。 バアス党はアラブ諸国で活動する汎アラブ主義 (中東における国家を超えたアラブ民族の連帯をめざす思想運動)の政党でした。 (出典:) 1959年には、当時のイラク首相アブドルカリーム・カーシムを、バアス党員が暗殺しようとした暗殺未遂事件に関与し、また一連の活動の中で負傷したサッダームはシリアへ逃亡、次いでエジプトに逃亡します。 しかし、バアス党政権は同年に政権を追われ、 サッダームは数年間をイラクの獄中で過ごすことになりながらも脱獄。 地下活動を続けながら、 バアス党の指導者的立場の一人になります。 そして1968年、バアス党がイラクの政権を奪回することになったクーデターにサッダームも関与し、その結果、大統領兼首相及び革命指導評議会議長のアフマド・ハサン・アル=バクルと共に、 副大統領としてイラクにおける政治的権力を握り、1972年にはイラクの石油産業の国営化を主導しました。 サッダーム・フセインの大統領時代 サッダーム・フセインは1979年7月17日、 バクルが大統領を辞任すると大統領に就任し、続いて革命指導評議会議長および首相、また、その他要職に就任しました。 これにより、 独裁政権としての下地が完成し、以降20年以上も続くサッダームによるイラクの独裁が始まっていきます。 例えばフセインは、広範囲に及ぶ秘密警察組織を活用し、政権に対するイラク国内の反対勢力を弾圧したり、また、イラク国民にはサッダーム個人を崇拝するように強制し始めます。 また、非常に強力な権力を得た結果、フセインは、 サッダーム・フセインは、 クウェートの豊富な石油収入を手に入れて、イラン・イラク戦争によって疲弊したイラク経済のテコ入れを目論んでいたようです。 しかし、イラクのクウェート侵攻後、瞬く間に世界中でイラクに対する経済制裁が発動。 また、サウジアラビアにはアメリカ主導の大規模部隊が派遣され、国連ではイラクのクウェート侵攻が非難の的となり、イラクの軍事行動を終結させるための武力行使が承認されます。 それにも関わらず、 サッダームは国際社会からのクウェート撤退要求を無視したのです。 湾岸戦争の勃発と終結 結果、イラクの軍事行動を終わらせるための多国籍軍によるイラクへの空爆(湾岸戦争)が1991年1月17日に始まり、6週間後にイラク軍がクウェートから撤退させられて戦争は終結しました。 イスラムシーア派住民とクルド人に対する抑圧 イラク軍の大敗により、イラク国内のシーア派住民およびによる反政府勢力が力を増すこととなります。 しかし、サッダーム・フセインの独裁政権は、 そうした反乱を化学兵器などの残虐な方法で抑圧し、何千もの人々がイラク北部の国境沿いにある難民キャンプへと逃れる事態となりました。 殺害された人は数千人以上にも及び、フセイン政権により投獄された人々も加えるとその数は数え切れないほどだと言われます。 イラクに対する経済制裁の発動 この残虐行為を終わらせるため、また、 国連との停戦合意の一貫としてイラクは化学兵器、生物兵器、核兵器の製造および保有は禁止されていたのにも関わらずイラクが順守しようとしないため、イラクには数多くの経済制裁が課されます。 そして、それによりイラク経済は深刻な打撃を受けました。 また、 サッダーム・フセインは度重なる国連武器査察団への協力を拒み続け、それがアメリカ軍およびイギリス軍による1998年末の4日間に及ぶ空爆 (砂漠の狐作戦)の原因となりました。 一方の フセイン政権は、国連による経済制裁の下で凶悪性を増したため、それに対して米英両国はともに、イラク国内の反フセイン抵抗勢力を支援すると表明。 しかしフセイン大統領は国連査察団のイラク入国を禁止し続け、イラクでの支配体制をより強固なものにしていく一方で、演説などでは挑戦的な反米姿勢を崩そうとしなかったのです。 9・11事件から繋がるイラク戦争 2001年9月11日に起こったアメリカ同時多発テロ事件後、アメリカ政府はフセイン大統領が生物化学兵器を有するテロリストグループをアメリカに送り込んだ可能性があるとして、 イラクの武装解除をさらに進めようとします。 そしてフセイン大統領は、2002年11月に国連査察団の受け入れをついに承認しましたが、 全面的な協力を怠ったため、アメリカおよびイギリスが不満を募らせて外交に終止符を打つと宣言しました。 2003年3月17日、当時のアメリカ大統領ジョージ・W・ブッシュはフセイン大統領に対し、大統領職を辞任し、 48時間以内にイラク国外へ退去しなければ全面攻撃を開始すると要求。 ブッシュ大統領はまた、フセイン大統領がイラクから出国しても、新政府の安定化と大量破壊兵器の探索目的で、アメリカ軍の投入が必要となるであろうことを示唆。 これに対してフセイン大統領がイラクからの国外退去を拒否すると、アメリカ軍および有志連合軍は3月20日、イラクに対する攻撃を開始し、ここに イラク戦争が始まります。 サッダーム・フセインの逮捕 イラク戦争の火蓋を切る一斉射撃の中、アメリカ軍によって、フセイン大統領が部下らと面会する現場として考えられていた施設への空爆が行われました。 この攻撃ではサッダーム・フセイン大統領の殺害は失敗しましたが、引き続きフセイン大統領に的を絞った激しい攻撃が続けられます。 一方のフセイン大統領はイラク国民に対し、米英軍による攻撃を止めさせるために命を捨てるように頑なに呼びかけ続けます。 しかしその呼びかけも虚しく、 米英軍による攻撃で抵抗組織は瞬く間に崩壊。 2003年4月9日にはアメリカ軍によってバクダッドが陥落。 フセイン大統領は逃亡し、当初はアメリカ軍による捕獲作戦から逃れることができましたが、まずフセイン大統領の2人の息子であるウダイとクサイが追い詰められ、7月22日にモスルにて殺害されます。 そして、息子たちの殺害から数ヶ月後、 サッダーム・フセイン大統領も同年12月13日には逮捕されます。 かつてはこざっぱりとして清潔だった指導者が、髪も乱れ、薄汚れた身なりとなった状態で、ティクリート近郊の農家近くの小さな地下穴に隠れていたところを引きずり出されました。 この時、フセイン大統領は武装していましたが、発砲することなくアメリカ軍兵士に降伏し、ここにサッダーム・フセインが逮捕されたのです。 サッダーム・フセインの裁判と処刑 2005年10月、前イラク政権幹部を合議制 (執行機関を複数の人によって構成させる制度)で審理するイラク高等法廷に、サッダーム・フセイン元大統領が送られます。 この中でフセイン元大統領とその共同被告人らは1982年、シーア派住民が多数を占める街アッ・ドゥジャイルにて、 148人の民間人を殺害した罪に問われました。 サッダーム・フセインに関する5つの話 見てきたように、サッダーム・フセインはイラクの独裁者として君臨した人物です。 ここからは、そんな独裁者サッダーム・フセインに関して、表にはあまり出てこないけど興味深い5つの話を紹介していこうと思います。 デトロイト市の鍵を受け取ったことがある サッダーム・フセインがイラクで権力を掌握した年、彼はデトロイトのヤッソ・ヤコブ牧師から祝辞を受けとり、フセインは牧師とカルデア (注)のキリスト教徒の集会所(教会)に25万ドルを送りました。 そして、ヤッソはサッダームに会いにバグダッドへ招かれ、滞在期間中にフセインへ、デトロイト市長のコールマン・ヤングからのお礼として、 デトロイト市の鍵をプレゼントします。 これにフセインは喜び、同教会へ追加で20万ドルを送ったのです。 (注釈)ここで言う「カルデア」とは「カルデア教会」のことで、イラクのバグダードに総大司教座を置き、主にイラク北部とアメリカのデトロイトに信者を有するキリスト教カトリック系の宗派のこと。 また、 道路や学校、病院を建設し、公的な医療制度も作り上げました。 その結果、UNESCO (国際連合教育科学文化機関)はフセインの功績を讃え、賞を贈ることを決定したことがあったのです。 文明全体を一掃しようとした 1980から1988年のイラン・イラク戦争中に、サッダーム・フセインは、イラクのマーシュ・アラブ ( ス・ユーフラテス川流域の湿原にクラス人々)がイラン人と共謀していると非難。 (出典:) マーシュ・アラブ達を一掃するために、かつて聖書の「エデンの園」と考えられていた 伝説的な湿原から水を抜くことを決め、2003年のアメリカ侵攻の際までに、9000平方kmあった湿原は760平方kmまで減少してしまいました。 古代のメソピタミア文明から、形を変えながらも続いてきたとも考えられる人々の生活全てが破壊されそうになったのです。 しかしフセインが逮捕された後、湿原への水をせき止めていたダムが破壊され、アラブ・マーシュの生活を取り戻す運動が興り、古代からの住民達が戻ってきた結果、この湿原は2016年、ユネスコによって世界遺産に認定されました。 ジョージ・W・ブッシュ大統領に生放送での討論を申し込んだ 2003年に切羽詰まったサッダーム・フセインは、アメリカによるイラクへの侵略を阻止しようと、なんと当時の アメリカ大統領ジョージ・W・ブッシュに生放送での討論を申し込みます。 CBS Newsによる3時間のインタビューの中で、フセインはアメリカ大統領と衛星を通しての討論を要望したのです。 ホワイトハウスはこの要求は重大なものでないと判断して無視しましたが、当時、選択肢が既になくなっていたフセインにとって、これは かなり本気の要求だったのではないでしょうか。 ちなみに、相当必死だったフセインは、 「これは、米国とイラク国民、そして世界の人々に対する私の最大の敬意を持って提案しているものだ。 戦争は冗談ごとではない。 」 などというメッセージを残しています。 ベストセラーのロマンス小説を執筆した? 2000年、イラクにて「 Zabibah and the King」という本が匿名で出版されました。 この本は中世イラクの強大な権力を持った王と、平民のザビバ(Zabibah)のラブストーリーを、 サッダーム・フセインの出生地であるティクリートを舞台にして描かれたもの。 また、CIAもこの本はフセインが少なくとも監督していたのではと考えているほどです。 ちなみに、イラクの新聞がフセインが著者ではないかと報じたところ、この本は瞬く間にベストセラーとなってミュージカルとして壮大に上演されることもありました。 合わせて読みたい世界雑学記事• 現在のイラクを理解するためにも、そして、中東地域を理解するためにも、サッダーム・フセインについて知ることは重要なことの一つです。

次の