蛤 御門 の ヘン。 禁門の変

角田龍平の蛤御門のヘン|KBS京都

蛤 御門 の ヘン

元治元年(一八六四)七月、京都での尊攘派の勢力挽回を策した長州軍と京都を守る会津・薩摩藩を中心とする公武合体派軍との軍事衝突。 元治甲子の変または蛤御門の変ともいう。 文久三年(一八六三)八月十八日の政変は、それまで京摂間で猛威を振るっていた尊攘派の勢力を一挙に京都から追放した。 長州尊攘派に擁せられた三条実美以下七卿は長州に下り、京都では公武合体派が勢力をもり返した。 そして、同年十二月から翌元治元年正月にかけては、将軍後見職一橋慶喜以下松平容保・松平慶永・山内豊信・伊達宗城・島津久光が参予に任じられ、いわゆる参予会議が成立した。 この会議は長州藩の処分問題を論じ、その征討軍組織も内定した。 一方、長州藩では、八月十八日の政変後、藩内は分裂し、これまで尊攘運動を推進していた「正義」派に対して、「宗祀の保全を謀る」ためには幕府に恭順せよという「俗論」派が台頭し始めた。 しかし、長州藩家老井原主計の藩主雪冤の入京請願は朝廷側の長州藩への心事疑惑によって許可されなかったから、藩内には上下ともに反抗的気運が生じ、なかでも諸隊などは強硬な出兵論をとなえた。 ところが、やがて参予会議は分裂し、公卿の一部や因幡・備前・加賀などの諸藩の間には、長州への同情の動きもみられ始めた。 元治元年三月、水戸藩では武田耕雲斎・藤田小四郎らの天狗党が挙兵した。 ついで六月、新撰組は、京都守護職・所司代の兵とともに、尊攘派の勢力挽回を画策していた長州藩士や志士たちを京都池田屋に襲った。 この池田屋事件の報が長州に届くや、藩内は進発論に転じ、世子毛利定広および福原越後・国司信濃 (くにししなの)・益田右衛門介の三家老の上京を決定した。 その軍容は、「第一 浪士一達三百人、第二 福原越後三百人、第三 游撃軍四百人、国司信濃百人、第四 益田右衛門介三百人、讃岐守様二百人、第五 長門様并ニ御当家様と相聞候」(『吉川経幹周旋記』一)とあり、攘夷国是の嘆願、五卿(三条実美・三条西季知・東久世通禧・壬生基修・四条隆謌)の冤罪哀訴、浪士の鎮静などを名目とした出兵であった。 この出兵進発には宍戸九郎兵衛(左馬之介)や桂小五郎(木戸孝允)らは反対し、麻田公輔(周布政之助)や高杉晋作らは慎重論をとなえた。 久坂玄瑞は当初慎重論だったが、遊撃軍を率いる来島又兵衛や真木和泉(久留米水天宮神官、在長州)らの強硬論におしきられた。 出兵にあたり、遊撃軍をはじめとする忠勇・集義・八幡・義勇・宣徳・尚武の諸隊には、農民や商人に対して無理な取扱いをしない、田畠その他を荒らさないなどを含む厳しい軍令が出された。 かくて、先発の福原軍は六月二十四日伏見に着陣、以後、山崎・嵯峨などに長州勢は屯集し、京都の包囲態勢をとった。 また、七月に入ると、毛利定広および五卿も上京の途につき、京洛の地は不穏な空気がみなぎった。 これに対し、朝廷および禁裏守衛総督一橋慶喜ら幕府当事者は、この対策に苦慮し、長州側からの嘆願の扱いなどを協議するかたわら、会津・桑名・薩摩以下の諸藩に命じて洛中洛外および宮門内外の警備にあたらせ、さらに東海道・中山道筋その他に長州藩出兵抑止の命を下した。 この間、幕府側と福原越後をはじめとする長州側との交渉、真木・久坂らの陳情書の提出などが行われ、相対すること二十日余り、ついに七月十八日夜半から長州軍は行動をおこし、十九日早朝、京都守備軍との間に戦端が開かれた。 伏見の福原勢は越後の負傷で入京できず、嵯峨の天竜寺に屯集していた国司・来島軍は二手に分かれて、国司軍が立売門を突破すれば、来島軍は蛤門に迫って激戦を展開、来島は狙撃されて戦死した。 山崎にいた真木・久坂らは堺町門に向かい、福井・桑名・彦根をはじめ応援の薩摩・会津の諸藩兵と交戦、久坂・寺島忠三郎らは負傷して鷹司邸に至って自尽した。 真木もまた傷を負って天王山に退き、切腹した。 流れ弾は御所内にも飛び、時の皇太子睦仁親王(のちの明治天皇)は気を失い、公卿中御門経之が水をふくませて息を吹きかえした、という。 戦いは一日で終ったものの、京都の火災は二十一日まで続き、市中焼失の家屋は二万八千余戸に及び、罹災者・避難民の行列は延々と続いた。 また、この火災で六角の獄中にあった志士たちは多く殺害された。 長州三家老は敗兵を収めて帰藩し、定広も途中から引き返した。 かくて、長州側にくみした宮・公卿は処罰され、七月二十三日には長州藩追討の令が出され、翌日には中国・四国・九州の二十一藩に出兵令が下され、第一次長州征伐の端緒となったのである。 この禁門の変は、文久二年以降の尊攘運動に終止符をうち、朝廷・幕府にあっては公武合体派を分解させ、長州藩においては、四国連合艦隊の下関攻撃と相まって、元治の内戦を経て討幕派の成立を促した。 1864年(元治1)7月、京都の長州藩兵と幕府側諸藩兵との戦い。 禁門(きんもん)の変ともいう。 前年の八月十八日の政変で京都を追われた長州藩では、1864年、京都の公武合体派諸侯の連携が破れ、しかも池田屋事件が起こるに及んで、木戸孝允(たかよし)や高杉晋作(しんさく)らの慎重論は、来島又兵衛(くるしままたべえ)らの進発出兵論を抑えられなくなった。 福原越後(えちご)、国司信濃(くにししなの)、益田右衛門介(ますだうえもんすけ)の3家老と来島又兵衛、久坂玄瑞(げんずい)、真木和泉(まきいずみ)らは藩兵と諸藩浪士軍らを率いて上京し強訴したが拒絶され、久坂らの自重論も効なく、世子の率いる本隊が到着していないにもかかわらず、7月19日、伏見(ふしみ)、蛤御門、堺(さかい)町御門で戦闘に入った。 来島らは蛤御門に迫ったが、会津、桑名、薩摩(さつま)らの藩兵に敗北、来島は戦死、久坂、真木らは自刃した。 この戦いで京都は2万軒余の家が焼ける大火(どんどん焼け、鉄砲焼け)となった。 またこれを機に幕府は第一次長州征伐の兵を起こし、長州藩兵の将、3家老7参謀は、その後切腹あるいは斬殺(ざんさつ)に処された。 [井上勝生] 1864年(元治1)7月19日,長州藩と朝廷を固める会津藩,薩摩藩らの諸藩の間で起きた戦闘。 蛤(はまぐり)御門の変ともいう。 これより前,尊王攘夷を主張する長州藩は,〈文久3年(1863)8月18日の政変〉で,公武合体派の会津藩や薩摩藩らの諸藩兵により京都から追われ,朝廷の九門の一つ,禁門警備の任を免じられ,藩主が処罰された。 長州藩には,京都を脱走した七卿や真木和泉らの浪士も集結し,失地回復をめぐって進発論や持重論が渦巻いた。 藩の指導者,周布政之助や高杉晋作らは,持重論により藩論をまとめていたが,翌64年3月になると,幕府と薩摩藩,会津藩,越前藩らの公武合体派は内部対立を起こし,有力大藩が帰国し,間隙が生じた。 さらに6月に池田屋事件で志士が斬殺され,長州藩内で,一気に進発論が勝利を占めた。 国司信濃・福原越後・益田弾正の3家老に,来島又兵衛・久坂玄瑞・真木和泉らが同行して先発し,世子毛利定広の本隊が後続した。 先発隊は,山崎,伏見,嵯峨に分駐し,七卿や藩主の免罪などを上表したが入れられず,かえって幕府の征長令の発令工作が進んでいた。 ついに先発隊は,本隊の到着を待たずに挙兵し,7月19日,京都内外で長州藩兵と会津・桑名・薩摩など諸藩兵が交戦した。 長州は,一時,御所に迫ったが敗走し,来島ら多数が戦死し,久坂・真木らが自殺した。 京都は,約3万戸が焼失し,7月24日,長州追討の朝命が下る。 [井上 勝生]• 百科 53• 日本大百科全書 18• 世界大百科事典 35• Encyclopedia of Japan 0• 日本語 12• デジタル大辞泉 2• 日本国語大辞典 10• 字通 0• 全文全訳古語辞典 0• 数え方の辞典 0• 日本方言大辞典 0• 歴史 141• 国史大辞典 94• 日本歴史地名大系 45• 日本史年表 2• 古事類苑 0• 江戸名所図会 0• 英語 0• ランダムハウス英和 0• プログレッシブ英和 0• プログレッシブ和英 0• コウビルド英英和 0• CAMBRIDGE英英 0• 理化学英和辞典 0• 医学英和辞典 0• プログレビジネス英語 0• SPED理工系英和 0• ヨーロッパ言語 0• 独和大辞典 0• ポケプロ独和 0• ロベール仏和大辞典 0• ポケプロ仏和 0• ポケプロ西和 0• ポケプロ伊和 0• 羅和辞典 0• ポケプロ和独 0• ポケプロ和仏 0• ポケプロ和西 0• ポケプロ和伊 0• 和羅辞典 0• 東アジア言語 0• ポケプロ中日 0• ポケプロ韓日 0• ポケプロ日中 0• ポケプロ日韓 0• 用語・情報 1• イミダス 2017 0• 現代用語の基礎知識 2017 0• 会社四季報 2017夏 0• 法律用語辞典 0• デジタル大辞泉プラス 1• 図書館情報学用語辞典 0• 人名・文化・宗教 209• 日本人名大辞典 209• 世界文学大事典 0• 日本人物文献目録 0• 日本架空伝承人名事典 0• 能・狂言事典 0• 歌舞伎事典 0• 仏教語大辞典 0• 科学 0• デジタル化学辞典 0• 法則の辞典 0• 記事・コラム 0• 週刊エコノミスト 2016-17 0• 生活便利帳 0• 叢書 24• 東洋文庫 24• 日本古典文学全集 0• 文庫クセジュ 0.

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蛤御門の変(禁門の変)の歴史を修学旅行レポートとして提出します。|京都移住を夢見て

蛤 御門 の ヘン

門に残る弾痕 蛤御門(はまぐりごもん)は、現在のの外郭九門の一つ。 本来の正式名称は「 新在家御門(しんざいけごもん)」。 門の形状は型のである。 御所の火災の際、滅多に開くことのなかった門がこの時だけは開いたため、固く閉じていたものが火にあぶられて開いたことをになぞらえて「蛤御門」という俗称が付けられたとされる。 いずれの火災時期とするかについては、()後とする説と、()後とする説が挙げられている。 近年では13年()の火災後まで遡るとする説や、「開かずの門」は本来は現在の下立売御門であったとする説も挙げられている。 元年()のでは門の周辺がとの激戦地となった。 現在でも門柱に命中した弾痕を確認することができる。 なお現在の蛤御門は、10年()から明治16年()にかけて行われた大内保存および京都御苑整備事業によって移設されたもので、それ以前は現在よりも30メートルほど東の位置に、南を向いて建てられていた。 脚注 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。

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ファーストシーズンファイナル

蛤 御門 の ヘン

歩く・見る• 前年の文久3 1863 年8月18日の政変で,長州藩は京都での地位を失墜しました。 その後,長州藩は藩主父子の名誉の回復と京都から追放された尊王攘夷派公家7名の赦免を願いましたが許されず,さらに翌年6月5日には,池田屋事件で藩士多数が殺されました。 このような状況下,長州藩の勢力回復をねらい,三家老 福原越後・国司信濃・益田右衛門介 が兵を率いて上洛,7月19日,会津・薩摩・幕府連合軍と京都御所 正確には現京都御苑 蛤御門・堺町御門 さかいまちごもん 附近で戦い,長州藩は敗北しました。 京都の中心部が激戦地となったため,市中はたちまち猛炎に包まれ,民家や社寺などを焼き尽くす大惨事となりました。 長州藩邸や堺町御門から出た火が,手のほどこしようもなく燃え広がるありさまを京都の人たちは「どんどん焼け」「鉄砲焼け」などと称しました。 蛤御門附近の戦闘を描いたかわら版。 どんどん焼けの焼失範囲を示すかわら版。 左が北で,黒く塗られている所が焼けた範囲です。 進軍する長州兵と避難する京都の市民 『甲子兵燹図』より。 戦いは一日で終りましたが,9月19日朝,長州藩邸等から出火した火災による被害は,北は丸太町通,南は七条通,東は寺町,西は東堀川に至る,現在の中京区・下京区のほとんどの地域に及びました。 21日に鎮火しましたが,800か町,2万7000世帯,そのほか土蔵や寺社などが罹災しました。 名の知られた寺院では,東本願寺・本能寺・六角堂が焼失しました。 京都御所・二条城・西本願寺は,火がすぐ近くまできましたが焼失は免れました。 その被害の範囲を描いたかわら版が多く残されています。 火災としては,天明8 1788 年の天明大火に次ぐ大火でしたが,どんどん焼けは幕末の動乱期に起きたため,市中は被害から容易に立ち直れませんでした。 その5年後には東京遷都が行われ,なおいっそう京都の衰退に拍車がかかることになりました。 歩く・見る 幕末の蛤御門 現在の蛤御門 京都御所を取り巻く国民公園を京都御苑 きょうとぎょえん といい,その門は九つあります。 蛤御門は烏丸通 からすまどおり に面した門で,もとは新在家門 しんざいけもん といい,普段は閉ざされていましたが,宝永5 1708 年の大火で開門されたので「焼けて身をあく蛤」から蛤御門と呼ばれたと伝えます。 しかし,宝永大火以前から蛤御門の名があったという説もあります。 長州軍がここに主力を集中して激戦となったので,その戦いを蛤御門の変とも称するようになりました。 今もその扉に当時の弾痕が残っています。 江戸時代には現在よりも東にありました。 毛利家の長州藩邸は,慶長以来幕末まで,この地にありました。 蛤御門の変では,長州藩邸から出た火が町の大半を焼き尽くしました。 鳥羽伏見戦の後,その焼け跡は征東に赴く長州兵の調練場となりました。 明治維新後は官有となり,京都府勧業場・画学校などを経て,明治21年木造洋式の常盤ホテル ときわほてる となりました。 明治24 1891 年に来日したロシア皇太子ニコライもこのホテルに宿泊し,5月11日に大津で襲撃されました。 いわゆる大津事件です。 明治28年に京都ホテルとなりました。 現在は京都ホテルオークラ。 天龍寺は,臨済宗天龍寺派の大本山で,足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うため創建しました。 京都五山の第一位に列せられましたが,たびたび焼失し,江戸時代に復興しましたが,蛤御門の変の兵火に罹災しました。 元治元 1864 年6月28日,長州軍は天龍寺を宿舎および本陣として利用しました。 7月19日早朝,市中に向かって進軍し,蛤御門あたりで戦い敗れました。 翌日,戦勝した薩摩軍が,長州残党狩りのため押し寄せ,寺に火をかけました。 天龍寺塔頭の弘源寺には,この時に応戦した長州藩士の刀傷が残っています。 元治元 1864 年7月20日,どんどん焼けの火が六角牢獄に迫りました。 牢には志士33人が収容されていましたが,火災が迫り脱獄を恐れた幕府役人により,午後2時頃から夕暮にわたり,切支丹牢 きりしたんろう 東側で全員が斬首されました。 池田屋事件,生野 いくの の変,大和蜂起,足利将軍木像さらし首事件などにかかわった志士で,平野国臣 ひらのくにおみ ・長尾郁三郎 ながおいくさぶろう ・古高俊太郎 ふるたかしゅんたろう らが犠牲者となりました。 六角牢獄で殺された者の氏名を刻んだ慰霊碑が竹林寺に建てられています。 「元治甲子元年七月二十日六角獄舎殉難志士之墓」と刻まれています。 遺骸は処刑場であった西の仕置場 しおきば,中京区西ノ京円町附近 内に埋葬されたまま歳月を経ましたが,明治10 1877 年,化芥所 けがいしょ,ごみ処理と廃品回収の施設 となっていた敷地から発掘された多数の遺骨が,竹林寺に改葬されました。

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