演歌 いろいろ。 【演歌名曲集】カラオケで盛り上がるおすすめ人気曲ランキング!

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演歌 いろいろ

01 北の宿から/都 はるみ• 02 浪花恋しぐれ/都 はるみ、岡 千秋• 03 人生いろいろ/島倉千代子• 05 おんなの出船/松原のぶえ• 06 花街の母/金田たつえ• 07 おもいで酒/小林幸子• 08 とまり木/小林幸子• 09 思案橋ブルース/中井 昭、高橋 勝とコロラティーノ• 10 女のみち/宮 史郎、ぴんからトリオ• 11 さざんかの宿/大川栄策• 12 嫁に来ないか/新沼謙治• 13 人形の家/弘田三枝子• 14 北酒場/細川たかし• 15 心のこり/細川たかし• 16 喝采/ちあきなおみ• 17 川の流れのように/美空ひばり• 18 悲しい酒(セリフ入り)/美空ひばり• 01 津軽海峡・冬景色/石川さゆり• 02 風の盆恋歌/石川さゆり• 03 みちのくひとり旅/山本譲二• 04 娘よ/芦屋雁之助• 05 愛染かつらをもう一度/島津亜矢• 06 二輪草/川中美幸• 07 ふたり酒/川中美幸• 08 道頓堀人情/天童よしみ• 09 孫/大泉逸郎• 10 氷雨/日野美歌• 11 赤いグラス/アイ・ジョージ、志摩ちなみ• 12 夜霧よ今夜も有難う/石原裕次郎• 14 あなたのブルース/矢吹 健• 15 小樽のひとよ/鶴岡雅義と東京ロマンチカ• 16 そんな女のひとりごと/増位山太志郎• 17 舟唄/八代亜紀• 18 雨の慕情/八代亜紀• 01 また君に恋してる/坂本冬美• 02 あばれ太鼓 〜無法一代入り〜/坂本冬美• 03 カスマプゲ/李 成愛• 04 河内おとこ節/中村美律子• 05 函館本線/山川 豊• 06 熱き心に /小林 旭• 07 昔の名前で出ています/小林 旭• 08 コモエスタ赤坂/ロス・インディオス• 09 別れても好きな人 /ロス・インディオス&シルヴィア• 10 ざんげの値打ちもない/北原ミレイ• 11 くちなしの花/渡 哲也• 12 抱擁/箱崎晋一郎• 13 夢は夜ひらく/園 まり• 14 昭和ブルース/天知 茂• 15 女の意地/西田佐知子• 17 今日でお別れ/菅原洋一• 18 女ひとり/デューク・エイセス• 01 夜明けのブルース/五木ひろし• 02 雪國/吉 幾三• 03 酒よ/吉 幾三• 04 新宿そだち/大木英夫、津山洋子• 05 星影のワルツ/千 昌夫• 06 北国の春/千 昌夫• 07 旅愁/西崎みどり• 08 長良川艶歌/五木ひろし• 09 男と女のラブゲーム/日野美歌&葵 司朗• 10 居酒屋/木の実ナナ、五木ひろし• 11 男船/神野美伽• 12 夢追い酒/渥美二郎• 13 夢芝居/梅沢富美男• 14 乱れ花/大月みやこ• 15 酒場にて/江利チエミ• 16 おふくろさん /森 進一• 17 じょんから女節/長山洋子• 18 東京砂漠/内山田洋とクール・ファイブ.

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福田こうへい 「南部蝉しぐれ」

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この記事には 複数の問題があります。 やでの議論にご協力ください。 が含まれているおそれがあります。 ( 2014年1月) 演歌(えんか)は、• 時代のにおいて政府批判を歌に託した 演説歌の略。 1960年代半ばにのから派生したで、日本人独特の感覚や情念に基づく的な歌曲の分類の一つである。 当初は同じ音韻である「 艶歌」 や「 怨歌」 の字も当てられていたが、1970年代初頭のによるプロモーションなどをきっかけに「 演歌」が定着した。 なお、音楽理論的には、演歌の定義はない。 楽曲のほとんどのリズムは、ロックであり、ジャパニーズ・ソウル Japanese Soul Music の異名を持ち、バラードでもある。 ここでは1. 2含めて概説する。 特徴 [ ] 音階法 ヨナ抜き音階 [ ] 演歌が用いる音階の多くは日本古来の民謡等で歌われてきた音階をに置き換えた(ペンタトニック・スケール)が用いられることが多い。 すなわち、西洋音楽の7音階から第4音と第7音を外し、第5音と第6音をそれぞれ第4音と第5音にする五音音階を使用することから、4と7を抜く と呼ばれる音階法である。 この音階法は古賀正男、後の(1904年(明治37年 -1978年(昭和53年)) による 古賀メロディとして定着し、以降演歌独特の音階となる。 ただし、ヨナ抜き音階そのものは演歌以外の歌謡曲などでもよく使われる音階である。 古賀メロディーについては、初期、クラシックの正統派・東京芸大出身の(声楽家増永丈夫)の声楽技術を正統に解釈したクルーン唱法で一世を風靡したが、やがてそのメロディーは邦楽的技巧表現の傾向を強め、にを得ることによって演歌の巨匠としてその地位を確立した。 小節を利かしながら、それぞれの個性で崩しながら演歌歌手たちが古賀メロディーを個性的に歌った。 楽器は・やが多用され(「」も参照)、TVでの収録や大ホールでの演奏などの時にはや、などが入る(編成になる)事もある。 歌唱法 [ ] 歌唱法の特徴としては、「小節(こぶし)」と呼ばれる独特の歌唱法(とほぼ同義)が多用される。 又、必ずと言ってよいほど「」を深く、巧妙に入れる(例えば2小節以上伸ばす所では2小節目から入れる、等)。 この2つは演歌には不可欠といって良いが、本来別のものにもかかわらず、混同される場合も多い。 衣装 [ ] 演歌歌手(とくに女性)は、日本的なイメージを大切にするため、歌唱時にを着用することが多い。 また、「」、「」など、の女性が客に恋をするモチーフも頻繁にみられ、そうした接客産業の顧客層である男性リスナーを中心に、支持を得ている。 切ない感情・真剣な心情を表すため、短調の曲が多いとされているが、詳細な統計は無い。 長調で書かれているものは、のものが多い。 男女間の悲しい情愛を歌ったもの以外のテーマとしては、• 幸せ夫婦物…「夫婦春秋」、「」、「」など。 母物…・「」、「花街の母」など。 その他家族物…「」、「」、「」など。 人生物、心意気物…村田英雄「」、「花と竜」、「山」、「川」、「河内おとこ節」など。 股旅物…「旅姿三人男」、「」、「」など。 任侠物…北島三郎「」、「」など(股旅物に近いが、股旅物は軽快、任侠物は重厚な曲調が多い)。 物…「」、「大利根無情」、「紀伊国屋文左衛門」、「」、「」、「刃傷松の廊下」など。 劇場型ドラマチック物…「山内一豊と妻千代」、「至高の王将」、「白虎隊」など。 望郷物…「」、「リンゴ村から」、北島三郎「」、「」、「」など。 分類 [ ] 上記のような特徴を兼ね備えた、いかにも演歌らしい演歌に対して、「ド演歌」(ど演歌)といった呼称が使われることがある。 また、男女の情愛に特化されたジャンルで、演歌よりも都会的なというものがある。 とはいえ上記の特徴をもってしても、演歌とそれ以外のジャンル(歌謡曲など)を明確に分類することは難しい。 演歌は日本の大衆に受け容れられ、流行音楽の一つの潮流を作り出してきたが、一方でその独自の音楽表現に嫌悪を示す者も少なくないのもまた事実である。 日本の歌謡界に大きな影響力のあった歌手のは演歌嫌いを公言し 、「演歌撲滅運動」なるものまで提唱したほどだった。 作曲家のも「日本の音楽文化に暗黒時代を築いた」と自著に記している。 歴史 [ ] 「演説歌」としての演歌 [ ] (1920年) 「演歌」と呼ばれる歌は、その最初は19世紀末のの時代に遡る。 藩閥政府に反発する公開演説会に対する当局の監視が強くなった時、圧力をかわすために政治を風刺する歌()として「 演説歌」が生まれた。 有名なものに、やのがある。 やがて、20世紀に入るころには自由民権運動も一段落し、演説歌の内容にも変化が訪れる。 題材が政治に対するプロテストから社会問題に関する風刺に代わってゆくとともに、ヴァイオリンでの伴奏が導入されるなど、芸人の要素を強めてゆく。 また、担い手も政治運動を生業とする壮氏から書生によるアルバイトに移行するなど、より商業的な存在にもなってゆく。 この時期の作品としては、、、などがある。 やがて、昭和初期にレコード歌謡の市場が完備されると演歌師の活動にも打撃が与えられ、盛り場で「流し」をして生計を立てるのが一般的になる。 この時期の演歌については実証的な研究は少なく、同時代の演歌師であったとその息子、の著作が主要な情報源として用いられている。 一方でその政治的な態度についての証言に対しては、やが実証的な批判的研究を行っている。 日本調の歌の変遷 [ ] この時期のレコード歌謡において同時代的に「演歌」と呼ばれた作品、ジャンルはないが、それに類する曲調の楽曲がある。 大正末期、「」が大流行する。 後の世相に合致したもので、厭世的な歌詞やヨナ抜き短音階などの特徴が後の演歌の音楽的特徴を先取りする者であった。 これは演歌師による作品ではないが、最初に楽譜として売り出されたのが演歌師によって歌い広められており、それが話題を呼んで映画化、無声映画であったため演歌師が実演するというレコード界と演歌師のコラボレーションで知名度を上げた。 また、演歌師にあってはが作曲を得意としており、「船頭小唄」の作風を踏襲した「」をレコード発売してヒットする。 鳥取春陽はその後、の専属作曲家へと転身した。 また、ヨナ抜き長音階としては「」(1914年)がある。 同曲は伝統的な民謡音階と西洋の長音階の折衷によって生まれたもので、単純な「日本的な歌」ではなく、「ヨナ抜き=日本調」という見方は同時代的には存在しなかったことがわかる。 この曲の流行も演歌師の活躍が大とされており、この時期の演歌師は、曲を流行させる媒介者としての要素が強かった。 レコード歌謡の世界において、前近代の日本の風土に由来する「日本調」のものとしては、の要素を取り入れた風の歌手が挙げられる(芸者出身者としては、、、、、、、「芸者風」では、、など)。 曲調は粋で享楽、官能的で、また歌唱法に民謡や浪曲の特徴が一切ないなど、現在の演歌とは全く異なる歌であった。 また、題材に「日本調」を取り入れたものとしては、が挙げられるが、これはあくまで題材が日本調であるにすぎず、やの歌唱法は西洋音楽芸術のそれであった。 また、股旅物というジャンル自体がに代表される当時の大衆小説によるもので、その意味でも伝統的なものではない。 戦後しばらくのレコード歌謡の主流の歌唱技術は西洋音楽技術に準ずるべきであると考えられており、、、らはいずれも音楽学校出身の歌手であった。 彼らはいずれも、後に流行する演歌の歌唱法に対して厳しい非難を繰り返すこととなる。 戦後のレコード歌謡の西洋化と演歌の原型の誕生 [ ]。 毎日新聞社「毎日グラフ(1954年11月17日号)」より。 1945年の敗戦を境に、戦前からの連続的な文化的要素は押しなべて「反動的」「封建的」とみなされ、進歩的文化人から忌避された。 基本的にはレコード歌謡全般が忌避され、や(労音)の主導でロシア民謡や労働歌が「明るく健康な歌」とされた。 レコード歌謡では、米国から流れてきたジャズ調の曲が主流を占める。 がジャズ系の楽曲を生みだし、、、などが歌唱した。 彼らは揃って声域が低音であったため、芸者、民謡などの旧来の歌手がいずれも高音系であったのと対比されてより「西洋らしさ」、モダンな都会性を醸し出したのである(「 都会調」)。 その他の作家としては、、、、らがいる。 1960年頃からは、、などの「青春歌謡」などのジャンルも生まれた。 また、うたごえ運動出身のは労音の曲などをつくったのちCMソングの世界に進出し、ホームソングの生みの親となった。 一方で、1955年頃からラジオが地方へ普及するにつれて、地方を舞台にした楽曲が生み出された(「 田舎調」)。 これらは股旅物や後の「ご当地ソング」のような様式化された地方ではなく、戦後の地方出身者の都会への進出を背景とした「望郷」がテーマになることが多かった。 初期の歌手では(「」など)、(「」など)、(「」など)、作曲家としてはなどが挙げられる。 島倉は上述の芸者風の歌唱法(泣き節)で歌い、三橋は初めて民謡調の発声をレコードに吹き込むなど、田舎調は論壇では劣勢な「日本調」的な特徴を持っていた。 田舎調の楽曲は会話調の歌詞に起伏に富んだ旋律がつくもので、都会調で席捲されていたレコード歌謡に衝撃を与える。 一部からは「畳替えをした新しい桟敷 の上を土足で歩くような作家が出てきた」と非難された。 後にが浪曲系から加わり「」(1961年)がヒット。 更にと古賀政男という都会調を代表するコンビも「」(1964年)や「」(1966年)など田舎調に近い楽曲を発表した。 後年ひばりが「演歌」歌手と呼ばれる楽曲はこの頃から始まる。 流しと「艶歌」 [ ] 1960年前後、同時代的に「艶歌」と称されるジャンルが生まれたが、それは明治期の演説歌とも、後世の演歌とは異なり、夜の街の「」の系統(流し出身の歌手と、流しをテーマにした歌の2種類がある)に限定されていた。 代表的な艶歌歌手は(1959年デビュー)で、三味線流しで生計を立てていたという生い立ちから「貧しさ」や「不幸」のイメージがプロモーションで増幅された。 また、作曲には同じくたたき上げのを起用した。 同じ時期にが映画「渡り鳥シリーズ」でのギター流し役が当たり役になるが、小林の「流し」は豪放磊落で曲調も多彩、というこまどり姉妹と対極にあるものであった。 この両者をプロデュースしたのが、コロムビアのディレクター、である。 当時の流しはとの親和性が高く、任侠映画と艶歌は同じ支持層を持っていた。 は流しの任侠的イメージに否定的であり、流しのリクエストの殆どが日本の流行歌であったが、ジョージがやりたかったのはジャズなどの洋楽であった。 やがて「インテリ向き流し」として成功すると、デビュー後は洋楽を主に行った。 それと対称的なのはで、初期には「」「」など、任侠をテーマにした楽曲を出した。 流しの特徴は、作者不詳と共作にあった。 「」「」(ともに1961年)がその端緒とする。 1962年にはが奄美地方の新民謡「」を再発見して発売、あわせて奄美関係の曲が大量にヒットする。 1964年には「」(、)が歌詞を変えて共作された。 次いで「」(1965年、)、「」(1966年、)が特に後年カバーされる。 丁度この時期はの誕生によるレコード会社の専属作家制度の解体期と重なっており、作者不詳の歌の流用はその時代の要請に応じた潮流であったと考えられる。 また、流しは盛り場を活動の舞台としていたため、巷の詠み人知らずの楽曲が手に入りやすい環境であったともいえる。 日本調への評価の変化 [ ] 上述の通り、進歩的文化人の間で日本的な歌や艶歌は否定され続けていた。 この頃の最も強く流行歌を批判してきたのは、であった。 園部は戦前の歌謡界の変化を例にとり、「いわゆる日本的旋律による哀感は、社会の頽廃期には必ず出現するほどまでになる」と、日本的な歌を激烈な表現でこき下ろした。 もっとも、一般メディアではその政治性が消去されて、「不況になれば艶歌がはやる」という単純な図式が示されていた。 一方で、1960年の安保闘争を前後して学生運動から生まれたは、従来の進歩的文化人の啓蒙思想や特権的態度への反発から、進歩派に「低俗」「頽廃」とこき下ろされてきた民族的、民衆的な文化を肯定的に読み解く試みを行うようになる。 この中で寺山は、「連帯」を価値とするうたごえ運動との対比で、歌謡曲を「孤絶したアウトローが一人で歌うもの」と規定した。 そしてその要素として「さびしさ」「暗さ」を審美化したことで、後の「演歌」のフォーマットを提示したといえる。 一方森は、にかわる思想的潮流であった「疎外」や「性の解放」というテーマを絡めることによって、進歩派と比べて自身の思想的立場を固め、安保闘争のあとに流行った「」を引き合いに歌謡曲を「疎外された大衆の、女の魂をなまなましく歌いあげる」という側面を強調した。 この中で竹中は、エリート階級による伝統的・日本的な歌への攻撃を批判し、その攻撃に耐えてひばりを民族的、民衆的な音楽の伝統を守った存在として称揚している。 もっともこの書は他書の引用の段階などでロジック上のあやふやな点があり、デビュー当初の都会的なメロディーを歌うひばりの存在にはあまり言及されなかった。 しかし、当時ひばりは新左翼論壇においても評価は低く、この論考は新鮮さを持って受け止められた。 五木寛之と「演歌」の誕生 [ ] 1966年、はをモデルにした小説「艶歌」 を発表した。 同作ではレコード社内での艶歌と外来音楽のプロデューサーが互いの進退をかけて売り上げを競う筋書きであり、艶歌のプロデューサーのモデルが馬淵とされる。 このモデルの人物は馬淵と比べて、五木の手によって脚色されており、• 「艶歌」はレコード歌謡の初期から存在している。 「艶歌」は軍歌や明朗快活な歌(「など」)とは別の独自のカテゴリーを構成している。 「艶歌」制作は勘頼りの職人芸であり、合理的な西洋音楽とは相いれないものである。 「艶歌」はマーケティングによる派手な売り出しなどは行わず、地道に売るものである。 などのような含意が新たに加えられていた。 また、艶歌はジャズやブルースと同じく孤立無援の人間の歌、「日本人のブルース」であり、「艶歌を無視した地点に、日本人のナショナル・ソングは成立しないだろう」と登場人物に言わしめた。 そして、当初は艶歌を否定していた主人公は終盤、艶歌の歌い方が「下品だ」と批判されたことに対して、演歌の歌い方は、「差別され、踏みつけられている人間が、その重さを葉を食いしばって全身ではねのけようとする唸り声」である、と喝破した。 五木は同作を通じて、社会批判の「演歌」が芸能化して「艶歌」となったことを肯定的にとらえた。 従来の論壇では政治的批判精神の欠落として演歌の艶歌化は批判の対象になっていたのであるが、五木は逆に演歌を「大衆自身の声ではなく、インテリゲンチャの警世の歌」であることが演歌の弱さであって、艶歌に転ずることによって庶民の口に出せない怨念悲傷を、艶なる詩曲に転じて歌う「怨歌」になったのだ、と後に記している。 五木が艶歌の定義として設けた「暗さ」や「感傷性」は、従来の楽曲のジャンル分けのどれとも異なる新しい枠組みであった。 五木の小説によって、演歌の推移を巡る歴史観が根本的に変えられるに至ったのである。 五木「艶歌」観の浸透 [ ] 1966年発表の「」()は、その後レコード吹き込みをしたところ、有線放送を通じてローカルなヒットになった。 このヒットは、地元の有線放送のヒットが全国区の大手レコード会社から発売される、というボトムアップ方式のヒットであり、レコード会社主導の上からのヒット曲という従前のモデルとは異なるものであった。 また、有線放送は盛り場でかかることが多いため、有線放送は艶歌の重要な市場となった。 美川のヒット以降、「ブルース」と名付けられたご当地ソングが続けて出される。 同年にデビューしたとはともに地方の洋風盛り場のイメージに合致しており、ともにブルースを相次いで発表した。 これらのブルースの流行は、高度経済成長に伴う地方都市の小都会化に起因しているとされる。 1969年にデビューしたは、その壮絶な生い立ちがまさに、五木が小説で示した「怨歌」に当てはまる存在であった。 プロデューサーのは藤の物語やアングラな雰囲気を全力で押しだすプロモーションを行い、「演歌の星を背負った宿命の少女」のキャッチコピーで売り出した。 五木本人は藤の最初のLPについて、「正真正銘の〈怨歌〉である」 と絶賛した。 藤の音楽性についての評論は、新左翼系論壇においても行われた。 その意味で藤は五木的な意味での典型的な「演歌」歌手であったが、その曲調はブルース歌謡がメインで、また、当時社会的なメッセージ性を持ったの要素をも取り入れていた。 1970年版のでは、「演歌(艶歌)」の項目が立てられ、藤のブレークと前後して「演歌」は世間一般での知名度を得た。 藤がブームになったのち、1972年頃まで若者にも演歌が興味を持って受け入れられ、若者向けの雑誌でも演歌歌手に関する記事が多く見受けられる。 GSや青春歌謡の系列の歌手も演歌調に寄せた曲を発表していた。 健全化と様式美 [ ] 「」碑、細川たかし識、昭和59年(1984年)3月吉日 藤圭子ブームの翌年、1971年にが「」でデビュー。 小柳の歌は音の運びは明らかに演歌であったが、その内容は絵葉書のような「日本情緒」であり、暗さやアウトローなどとは無縁であった。 また、1973年には「艶歌」ジャンル確立以前から活動している春日八郎が自身のヒット曲と過去のカバー曲を交えたリサイタル「演歌とはなんだろう」で文化庁芸術芸能部門大賞を受賞する。 演歌の歴史の「古さ」が公に認められるとともに、当初究極のアウトローから始まった演歌が早くも国民の文化財という主流派の立ち位置を得て、その先鋭性を奪われてしまう。 一方、演歌の特徴的な形式のみが切り離され、この要素を商業的に消費する流れが続いた。 1972年にはコミックバンドのが歌う「」が大ヒット。 過剰にこぶしを利かせ、劇画的ともいえるほどに強調した。 翌1973年には「」がやはり様式化した歌調でヒットする。 1974年の「」は大正期の船頭小唄にフォークの要素を加え、男女の悲恋を強調した。 1970年代後半の演歌は、とが知名度と人気を誇る。 両者ともに、長い下積みと再デビューという物語が付加されていた。 なお、その曲調はともにモダンなものであった。 1977年にはカラオケが登場する。 当時のカラオケは夜の盛り場で用いられることが多く、必然的に演歌が多くかけられた。 丁度この頃のヒット曲は都はるみ「」や「」で、演歌の舞台には徐々に北方の雪景色が多数を占めるようになる。 しかし若い世代の間では、ぴんからトリオなどの過剰な模倣(いわゆる「ド演歌」)の後は艶歌人気は続かなかった。 1978年は艶歌のヒット作が出ず、同年の「」のトリはポップス系のとであった。 1979年にはカラオケ酒場を主な舞台とした「演歌復興」が喧伝され、「」、「」などの「酒」が演歌の重要な要素に加わる。 テレビ番組では、1981年から「」がスタート。 「演歌歌手」をメインにした番組がスタートしたが、ヒット曲よりも過去のスタンダードナンバーを中心にした構成となった(後継番組は現在まで継続)。 更に、演歌が「カラオケで歌う歌」となったため、歌詞や曲調、歌唱技法が均質化してゆき、1980年代からどれも似通った作品になってゆく。 石川さゆり「」(1986年)は、この潮流に反して「素人は歌えない難しい歌」というコンセプトでつくられた。 やがて、主婦をターゲットにしたカラオケ教室が流行することによって、当初は「明るい家庭」とは対極的な立ち位置にあった演歌の熱心な支持者が主婦を中心とする中高年女性になるという現象が起こる。 これに対応して、「」(1980年)や「」(1983年)など、「夫婦」が演歌のテーマに加わる。 ところが1980年代後半になると、カラオケボックスの普及によって若者がカラオケを利用するようになり、演歌の占めるシェアはますます狭まっていった。 平成以降 [ ] 記念館 平成に入ると、若者世代が歌う歌をと呼称するようになり、主流のレコード歌謡のほとんどを占めた。 それ以外の歌は一括して「演歌・歌謡曲」と呼ばれるようになり、オリコンの分類もその2本立てになる。 「歌謡曲」とは本来は大衆的レコード歌謡全般を指していたものだが、やがて特定の時代の特定のジャンルの楽曲のことを指すようになった。 1990年代のを嚆矢として、サブカルチャー・懐古趣味としてこれらをまとめて扱う傾向が生まれた。 一方で、同年代の作品の市場規模は縮小の一途をたどる。 にはが発足した以後、初めてオリコン年間シングルチャートの総合100位以内に演歌の作品がランクインしない事態が発生する(この年演歌で年間1位だった「鳴門海峡」は総合で年間153位)。 1990年代末には演歌の新曲CDが数十万枚単位でヒットする例は極めて少なくなってしまった。 一部レコード会社の演歌部門撤退による演歌歌手のリストラもこの時期に行われており、大御所さえもリストラされる事態に陥る。 その後、リストラされた演歌歌手の多くは、演歌を主力とするレコード会社に移籍した。 2000年代前半にはJ-POPの低調もあり、CD売上枚数に占める演歌のシェアが相対的に上昇しつつあるとされる。 5月23日に地元の有志により村田の業績を後世に伝えるため故郷の(現唐津市)に「村田英雄記念館」がオープンした。 現在 [ ] 現在、70代以上の高年齢層限定のジャンルという認識が強いのは否めず、若い世代のファンが圧倒的に少ない。 個性と実力を兼ね備え、 演歌という新の土台を築いた、・・・らの男性歌手や、「演歌(歌謡界)の女王」と称された・らの女性歌手が、平成時代に入った後それぞれ亡くなった。 又、その後に続きかつて紅白歌合戦に常連出場していた、北島三郎・森進一・細川たかし・美川憲一・八代亜紀・小林幸子・川中美幸・都はるみなど「大御所」と言われる歌手達や、ほか五木ひろし・石川さゆり等ベテランの歌手も、かつての昭和時代と比べると実力を発揮し切れていない状況である。 また若手を除けば、歌手本人はおろか作詞・作曲家などの共同製作者がに入るケースも増加している。 などでの小ヒットはあるものの、大泉逸郎『孫』、氷川きよし『箱根八里の半次郎』以来世間を揺るがす程の大ヒットはなく、全体的な低迷が続いている。 あわせて、「」においても、の氷川きよし『』が大賞を受賞して以来、大賞受賞者が永らく遠ざかっているのが現状である。 また、1960年代以降に洋楽のロックや日本製のフォークやニューミュージック、アイドル歌謡などを聴いていた戦後生まれの世代が中年層になっても演歌に移行せず、ロック・フォークなどを聴き続けている者が多いことから、演歌ファンの高齢化が顕著になっている。 カラオケブームによる第二次ブームの時期にからを過ごした30代後半〜50代の、層の中ではなどの影響も手伝い比較的認知度は高い。 しかし、個人差はあるものの、聴く或いは積極的に唄う対象にはされにくく敬遠される傾向が強い。 ただし、歌手のキャラクターは広く受け入れられている部分もある。 村田英雄の「ムッチーブーム」や千昌夫の「額のホクロ」、小林幸子との紅白衣装対決、森進一の「おふくろさん」歌唱や「」など。 ブームによる、これら個性的な歌手のものまねもの向上に貢献した。 しかしながら以降では、ものまね番組を含め、『紅白歌合戦』、『』()、『』()といった演歌を見聞きする機会が得られる番組は、いずれも年数回の特別番組ばかりであり、かつ往年の名曲ばかりが紹介・ものまねされるため、新曲に触れる機会がこれらでは得られない。 ・・・といった一部のでは、ほぼ毎日演歌のレギュラー番組を自社制作などで放送しており、往年の名曲から新曲・ベテランから若手演歌歌手まで幅広く扱っている。 この4局ではいずれも、長年放送が続いているのカラオケ番組があり、主に中高年層の視聴者により演歌が多く歌われている。 一方同じ独立局でも系列のや、開局以来、やを番組編成の柱の一つとする(tvk)などでは演歌番組・視聴者参加型カラオケ番組のレギュラー放送がないため、千葉・埼玉・栃木・群馬は極稀な例と言える。 こうして演歌に触れる機会が少ないことなどもあり、10代・20代の若者の中には代表的なヒット曲や、氷川きよしなどの有名歌手を除き、歌手の存在自体をも認知していない者も少なくなく、曲や歌手以前に「演歌」という語句すら敬遠されるケースさえある。 ただし、生活環境によっては若者の中にも一部には熱烈な演歌ファンが存在することも事実であるが、ファン層は60歳代後半以上が概ね8割以上で、「20歳代以下は1割以下」である。 しかし、高齢化社会となり逆にシニア層の人口が増大している現状を逆手に取り視聴者(聴取者)獲得のために演歌に偏重した番組編成を取る放送局(例えば、前述の関東独立局の他ではなど)も存在する。 海外での演歌 [ ] では、戦前に日本語教育を受けた世代が日本の歌を好んで聴いたことから、台湾人歌手によって日本の演歌が歌謡ショーなどで歌われてきたほか、によるカバーも数多く出現し、日本でヒットした演歌の大部分は台湾語(一部は、である)でカバーされる状況が続いてきた。 また台湾で作曲されたオリジナル演歌も多く、その題材や歌唱法は日本の演歌と変わらない。 台湾歌謡界では戦後長らく、ポップス=北京語、演歌=台湾語という言語による棲み分けが続いたため、演歌は「台語歌」とも称される。 日本で演歌の衰退が言われる現在でも、台湾では演歌の人気は依然として高く、テレビでは演歌中心の歌謡番組が定期的に放送されており、日本語の原曲と台湾語のカバー曲を交互に歌唱するなどの演出も一般的である。 シンガポールやマレーシアを中心とした東南アジアには、中国系の住民が多く、それらのうち福建系の住民は台湾語とほぼ同じ言語()を話すため、台湾語でカバーされた日本の演歌や台湾語のオリジナル演歌が「福建歌」「Hokkien Song」として普及しており、現地の作詞家によってオリジナルの歌詞を付けられたカバーも存在する。 インド系の歌手で、福建歌=演歌の歌唱をメインに活動している者もいる。 また、これらの演歌は、、、、など、現地の言語で再びカバーされた曲もあるが、一般に「チャイニーズ・ソングのカバー」と認識されている。 中国では、など台湾の歌手がでカバーした日本の演歌が広く浸透しているが、これらの演歌は一般に台湾の歌として認識されており、「台湾歌」と呼ばれている。 また1980年代にはを中国の歌手がカバーし、流行したこともあった。 アフリカ系アメリカ人のは幼少期に、日本人だった祖母から演歌に親しみ、2008年に日本で演歌歌手としてデビューした。 2007年、のにて行われた日系100周年記念イベントでは、日本の音楽として演歌が流された。 またやのような南米出身の日系演歌歌手もいる。 としても一部含まれる。 週間 [ ]• /(1968年6月3日付〜7月1日付、8月17日付の6週)• /(1969年6月9日付〜7月7日付の5週)• /(1969年9月8日付〜10月13日付の6週)• /1970年3月30日付〜5月18日付の8週)• /藤圭子(1970年5月25日付〜7月27日付の10週)• /(1970年11月9日付〜12月28日付の8週)• /森進一(1971年1月25日付〜2月8日付の3週)• /(1971年7月19日付の1週)• /(1971年7月26日付〜10月11日付の12週)• /(1971年11月8日〜1972年1月3日の9週)• /小柳ルミ子(1972年5月15日付〜6月5日付の4週)• /小柳ルミ子(1972年9月11日付〜9月25日付、10月9日付〜10月16日付の5週)• /(1972年10月30日付〜1973年2月12日付の16週)• /(1974年3月18日付〜5月13日付の9週)• /殿さまキングス(1974年7月15日付〜8月5日付の4週)• /小柳ルミ子(1974年11月18日付、12月9日付の2週)• /(1974年12月16日付の1週)• /(1975年4月28日付〜5月12日付の3週)• /(1975年7月28日付〜8月18日付の4週)• /(1976年12月6日、12月20日付〜1977年1月10日付の4週)• /(1979年7月23日付の1週)• /細川たかし(1983年4月18日付〜5月2日付の3週)• /(1986年6月23日付の1週、史上初の演歌初登場1位曲)• /(1987年2月9日付の1週)• /(1987年8月24日付の1週)• /(2004年10月4日付の1週、平成初の演歌1位曲)• /(2005年2月21日付の1週、平成初の演歌初登場1位曲)• /(2009年1月26日付の1週、史上最年長記録)• /氷川きよし(2009年2月16日付の1週)• /氷川きよし(2009年8月31日付の1週)• /(2014年1月20日付) (1968年1月4日付〜2014年1月20日付まで、計30曲) 年間 [ ]• 1968年度 星影のワルツ/千昌夫• 1971年度 わたしの城下町/小柳ルミ子• 1972年度・1973年度 女のみち/宮史郎とぴんからトリオ• 1974年度 なみだの操/殿さまキングス• 1975年度 昭和枯れすゝき/さくらと一郎• 1979年度 /(最高2位)• 1983年度 /(最高2位)• 1987年度 /(最高2位) (1968年度〜2006年度まで、計8曲) テレビ番組 [ ]• - 演歌専門の音楽番組(1978〜2012、)• (2011年10月13日〜、同上)• ごごウタ(、2017年、NHK総合テレビ ラジオ番組 [ ]• (制作・NRN各局)• () 以下は全てで放送。 ひばりさんへの手紙• えんか侍• 日本の歌道中• それ行け! 歌謡道中• 松村和子と立花英樹の歌仲間 演歌を題材にした作品 [ ] 映画• 『わが命の唄 艶歌』(監督、、1968年• 『』(監督、、1997年) テレビドラマ• テレビ映画『涙の河をふり返れ〜艶歌より』 1971年、• テレビドラマ『海峡物語』 1977年、• …2007年、制作・放送。 『艶歌・海峡物語』、講談社、新装版、1987年 モデルは音楽ディレクターの 漫画• 『』…に連載された 脚注 [ ] 注釈 [ ] 軍歌はもちろんだけど演歌も大嫌い。 情けなくなるの。 狭い穴の中に入っていくようで望みがなくなるのよ。 私は美空ひばりは大嫌い。 人のモノマネして出て来たのよ。 戦後のデビューの頃、私のステージの前に出演させてくれっていうの。 私はアルゼンチン・タンゴを歌っているのに笠置シヅ子のモノマネなんてこまちゃくれたのを歌われて、私のステージはめちゃくちゃよ。 汚くってかわいそうだから一緒に楽屋風呂に入れて洗ってやったの。 スターになったら、そんな思い出ないやっていうの。 直接的には米国由来の戦後の音楽文化、広くは戦前以来のプチ・ブルジョア文化としてのレコード歌謡を指している。 1964年12月13日付では、の世相から、翌年は「演歌」ブームがやってくる、と予測している。 日本調の曲について「演歌」という表現が用いられている初例である。 もっとも演歌の場合はキャンペーンなどでの手売りの割合が大きく、レコード店での売上を対象とするオリコン等のチャートに反映されない売上が相当あるという指摘もある。 出典 [ ]• 1968年のの歌に「艶歌」がある(作詞、作曲)。 , pp. 50-53. , pp. 53-56. , pp. 59-61. , pp. 61-64. , pp. 70-72. , pp. 72-74. , pp. 74-75. , pp. 189-195. , pp. 82-92,195-197. , pp. 76-84. , pp. 103-108. , pp. 111-121. , pp. 123-142. , pp. 174-176. , pp. 199-207. , pp. 208-219. , pp. 221-239. , pp. 239-241. , pp. 143-148. 『怨歌の誕生』初出:オール讀物(文藝春秋)1970年10月、1971年『 四月の海賊たち』で単行本化• , pp. 252-263. , pp. 271-272. , pp. 275,286. , pp. 298-300. , pp. 294-295. , pp. 304-308. , pp. 308-316. 『オリコン年鑑 1997年版』オリコン、1997年、5頁。 (但し該当ページにはノンブル表記なし)• 「演歌は死んだのか レコード会社は前向き」『』1991年3月9日付朝刊、39頁。 、ZAKZAK、1997年4月15日。 (のキャッシュ)• 参考文献 [ ]• 『近代日本の心情の歴史 - 流行歌の社会心理史』 講談社、1967年 講談社学術文庫249、1978年。 『定本 見田宗介著作集 第4巻』岩波書店、2012年• 見田宗介『現代日本の心情と論理』 筑摩書房、1971年。 「新しい望郷のうた」などを収録• 奥山弘『「艶歌の竜」と歌謡群像』三一書房、1995年10月。 『さすらいのメロディー鳥取春陽伝』郁朋社、1998年。 『「演歌」のススメ』文春新書、文藝春秋、2002年。 『創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』光文社新書、2010年10月20日。 関連項目 [ ]• 日本の•

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演歌あっぱれ!特選 歌い継ぎたい演歌90曲 収録曲ダイジェスト

演歌 いろいろ

この記事には 複数の問題があります。 やでの議論にご協力ください。 が含まれているおそれがあります。 ( 2014年1月) 演歌(えんか)は、• 時代のにおいて政府批判を歌に託した 演説歌の略。 1960年代半ばにのから派生したで、日本人独特の感覚や情念に基づく的な歌曲の分類の一つである。 当初は同じ音韻である「 艶歌」 や「 怨歌」 の字も当てられていたが、1970年代初頭のによるプロモーションなどをきっかけに「 演歌」が定着した。 なお、音楽理論的には、演歌の定義はない。 楽曲のほとんどのリズムは、ロックであり、ジャパニーズ・ソウル Japanese Soul Music の異名を持ち、バラードでもある。 ここでは1. 2含めて概説する。 特徴 [ ] 音階法 ヨナ抜き音階 [ ] 演歌が用いる音階の多くは日本古来の民謡等で歌われてきた音階をに置き換えた(ペンタトニック・スケール)が用いられることが多い。 すなわち、西洋音楽の7音階から第4音と第7音を外し、第5音と第6音をそれぞれ第4音と第5音にする五音音階を使用することから、4と7を抜く と呼ばれる音階法である。 この音階法は古賀正男、後の(1904年(明治37年 -1978年(昭和53年)) による 古賀メロディとして定着し、以降演歌独特の音階となる。 ただし、ヨナ抜き音階そのものは演歌以外の歌謡曲などでもよく使われる音階である。 古賀メロディーについては、初期、クラシックの正統派・東京芸大出身の(声楽家増永丈夫)の声楽技術を正統に解釈したクルーン唱法で一世を風靡したが、やがてそのメロディーは邦楽的技巧表現の傾向を強め、にを得ることによって演歌の巨匠としてその地位を確立した。 小節を利かしながら、それぞれの個性で崩しながら演歌歌手たちが古賀メロディーを個性的に歌った。 楽器は・やが多用され(「」も参照)、TVでの収録や大ホールでの演奏などの時にはや、などが入る(編成になる)事もある。 歌唱法 [ ] 歌唱法の特徴としては、「小節(こぶし)」と呼ばれる独特の歌唱法(とほぼ同義)が多用される。 又、必ずと言ってよいほど「」を深く、巧妙に入れる(例えば2小節以上伸ばす所では2小節目から入れる、等)。 この2つは演歌には不可欠といって良いが、本来別のものにもかかわらず、混同される場合も多い。 衣装 [ ] 演歌歌手(とくに女性)は、日本的なイメージを大切にするため、歌唱時にを着用することが多い。 また、「」、「」など、の女性が客に恋をするモチーフも頻繁にみられ、そうした接客産業の顧客層である男性リスナーを中心に、支持を得ている。 切ない感情・真剣な心情を表すため、短調の曲が多いとされているが、詳細な統計は無い。 長調で書かれているものは、のものが多い。 男女間の悲しい情愛を歌ったもの以外のテーマとしては、• 幸せ夫婦物…「夫婦春秋」、「」、「」など。 母物…・「」、「花街の母」など。 その他家族物…「」、「」、「」など。 人生物、心意気物…村田英雄「」、「花と竜」、「山」、「川」、「河内おとこ節」など。 股旅物…「旅姿三人男」、「」、「」など。 任侠物…北島三郎「」、「」など(股旅物に近いが、股旅物は軽快、任侠物は重厚な曲調が多い)。 物…「」、「大利根無情」、「紀伊国屋文左衛門」、「」、「」、「刃傷松の廊下」など。 劇場型ドラマチック物…「山内一豊と妻千代」、「至高の王将」、「白虎隊」など。 望郷物…「」、「リンゴ村から」、北島三郎「」、「」、「」など。 分類 [ ] 上記のような特徴を兼ね備えた、いかにも演歌らしい演歌に対して、「ド演歌」(ど演歌)といった呼称が使われることがある。 また、男女の情愛に特化されたジャンルで、演歌よりも都会的なというものがある。 とはいえ上記の特徴をもってしても、演歌とそれ以外のジャンル(歌謡曲など)を明確に分類することは難しい。 演歌は日本の大衆に受け容れられ、流行音楽の一つの潮流を作り出してきたが、一方でその独自の音楽表現に嫌悪を示す者も少なくないのもまた事実である。 日本の歌謡界に大きな影響力のあった歌手のは演歌嫌いを公言し 、「演歌撲滅運動」なるものまで提唱したほどだった。 作曲家のも「日本の音楽文化に暗黒時代を築いた」と自著に記している。 歴史 [ ] 「演説歌」としての演歌 [ ] (1920年) 「演歌」と呼ばれる歌は、その最初は19世紀末のの時代に遡る。 藩閥政府に反発する公開演説会に対する当局の監視が強くなった時、圧力をかわすために政治を風刺する歌()として「 演説歌」が生まれた。 有名なものに、やのがある。 やがて、20世紀に入るころには自由民権運動も一段落し、演説歌の内容にも変化が訪れる。 題材が政治に対するプロテストから社会問題に関する風刺に代わってゆくとともに、ヴァイオリンでの伴奏が導入されるなど、芸人の要素を強めてゆく。 また、担い手も政治運動を生業とする壮氏から書生によるアルバイトに移行するなど、より商業的な存在にもなってゆく。 この時期の作品としては、、、などがある。 やがて、昭和初期にレコード歌謡の市場が完備されると演歌師の活動にも打撃が与えられ、盛り場で「流し」をして生計を立てるのが一般的になる。 この時期の演歌については実証的な研究は少なく、同時代の演歌師であったとその息子、の著作が主要な情報源として用いられている。 一方でその政治的な態度についての証言に対しては、やが実証的な批判的研究を行っている。 日本調の歌の変遷 [ ] この時期のレコード歌謡において同時代的に「演歌」と呼ばれた作品、ジャンルはないが、それに類する曲調の楽曲がある。 大正末期、「」が大流行する。 後の世相に合致したもので、厭世的な歌詞やヨナ抜き短音階などの特徴が後の演歌の音楽的特徴を先取りする者であった。 これは演歌師による作品ではないが、最初に楽譜として売り出されたのが演歌師によって歌い広められており、それが話題を呼んで映画化、無声映画であったため演歌師が実演するというレコード界と演歌師のコラボレーションで知名度を上げた。 また、演歌師にあってはが作曲を得意としており、「船頭小唄」の作風を踏襲した「」をレコード発売してヒットする。 鳥取春陽はその後、の専属作曲家へと転身した。 また、ヨナ抜き長音階としては「」(1914年)がある。 同曲は伝統的な民謡音階と西洋の長音階の折衷によって生まれたもので、単純な「日本的な歌」ではなく、「ヨナ抜き=日本調」という見方は同時代的には存在しなかったことがわかる。 この曲の流行も演歌師の活躍が大とされており、この時期の演歌師は、曲を流行させる媒介者としての要素が強かった。 レコード歌謡の世界において、前近代の日本の風土に由来する「日本調」のものとしては、の要素を取り入れた風の歌手が挙げられる(芸者出身者としては、、、、、、、「芸者風」では、、など)。 曲調は粋で享楽、官能的で、また歌唱法に民謡や浪曲の特徴が一切ないなど、現在の演歌とは全く異なる歌であった。 また、題材に「日本調」を取り入れたものとしては、が挙げられるが、これはあくまで題材が日本調であるにすぎず、やの歌唱法は西洋音楽芸術のそれであった。 また、股旅物というジャンル自体がに代表される当時の大衆小説によるもので、その意味でも伝統的なものではない。 戦後しばらくのレコード歌謡の主流の歌唱技術は西洋音楽技術に準ずるべきであると考えられており、、、らはいずれも音楽学校出身の歌手であった。 彼らはいずれも、後に流行する演歌の歌唱法に対して厳しい非難を繰り返すこととなる。 戦後のレコード歌謡の西洋化と演歌の原型の誕生 [ ]。 毎日新聞社「毎日グラフ(1954年11月17日号)」より。 1945年の敗戦を境に、戦前からの連続的な文化的要素は押しなべて「反動的」「封建的」とみなされ、進歩的文化人から忌避された。 基本的にはレコード歌謡全般が忌避され、や(労音)の主導でロシア民謡や労働歌が「明るく健康な歌」とされた。 レコード歌謡では、米国から流れてきたジャズ調の曲が主流を占める。 がジャズ系の楽曲を生みだし、、、などが歌唱した。 彼らは揃って声域が低音であったため、芸者、民謡などの旧来の歌手がいずれも高音系であったのと対比されてより「西洋らしさ」、モダンな都会性を醸し出したのである(「 都会調」)。 その他の作家としては、、、、らがいる。 1960年頃からは、、などの「青春歌謡」などのジャンルも生まれた。 また、うたごえ運動出身のは労音の曲などをつくったのちCMソングの世界に進出し、ホームソングの生みの親となった。 一方で、1955年頃からラジオが地方へ普及するにつれて、地方を舞台にした楽曲が生み出された(「 田舎調」)。 これらは股旅物や後の「ご当地ソング」のような様式化された地方ではなく、戦後の地方出身者の都会への進出を背景とした「望郷」がテーマになることが多かった。 初期の歌手では(「」など)、(「」など)、(「」など)、作曲家としてはなどが挙げられる。 島倉は上述の芸者風の歌唱法(泣き節)で歌い、三橋は初めて民謡調の発声をレコードに吹き込むなど、田舎調は論壇では劣勢な「日本調」的な特徴を持っていた。 田舎調の楽曲は会話調の歌詞に起伏に富んだ旋律がつくもので、都会調で席捲されていたレコード歌謡に衝撃を与える。 一部からは「畳替えをした新しい桟敷 の上を土足で歩くような作家が出てきた」と非難された。 後にが浪曲系から加わり「」(1961年)がヒット。 更にと古賀政男という都会調を代表するコンビも「」(1964年)や「」(1966年)など田舎調に近い楽曲を発表した。 後年ひばりが「演歌」歌手と呼ばれる楽曲はこの頃から始まる。 流しと「艶歌」 [ ] 1960年前後、同時代的に「艶歌」と称されるジャンルが生まれたが、それは明治期の演説歌とも、後世の演歌とは異なり、夜の街の「」の系統(流し出身の歌手と、流しをテーマにした歌の2種類がある)に限定されていた。 代表的な艶歌歌手は(1959年デビュー)で、三味線流しで生計を立てていたという生い立ちから「貧しさ」や「不幸」のイメージがプロモーションで増幅された。 また、作曲には同じくたたき上げのを起用した。 同じ時期にが映画「渡り鳥シリーズ」でのギター流し役が当たり役になるが、小林の「流し」は豪放磊落で曲調も多彩、というこまどり姉妹と対極にあるものであった。 この両者をプロデュースしたのが、コロムビアのディレクター、である。 当時の流しはとの親和性が高く、任侠映画と艶歌は同じ支持層を持っていた。 は流しの任侠的イメージに否定的であり、流しのリクエストの殆どが日本の流行歌であったが、ジョージがやりたかったのはジャズなどの洋楽であった。 やがて「インテリ向き流し」として成功すると、デビュー後は洋楽を主に行った。 それと対称的なのはで、初期には「」「」など、任侠をテーマにした楽曲を出した。 流しの特徴は、作者不詳と共作にあった。 「」「」(ともに1961年)がその端緒とする。 1962年にはが奄美地方の新民謡「」を再発見して発売、あわせて奄美関係の曲が大量にヒットする。 1964年には「」(、)が歌詞を変えて共作された。 次いで「」(1965年、)、「」(1966年、)が特に後年カバーされる。 丁度この時期はの誕生によるレコード会社の専属作家制度の解体期と重なっており、作者不詳の歌の流用はその時代の要請に応じた潮流であったと考えられる。 また、流しは盛り場を活動の舞台としていたため、巷の詠み人知らずの楽曲が手に入りやすい環境であったともいえる。 日本調への評価の変化 [ ] 上述の通り、進歩的文化人の間で日本的な歌や艶歌は否定され続けていた。 この頃の最も強く流行歌を批判してきたのは、であった。 園部は戦前の歌謡界の変化を例にとり、「いわゆる日本的旋律による哀感は、社会の頽廃期には必ず出現するほどまでになる」と、日本的な歌を激烈な表現でこき下ろした。 もっとも、一般メディアではその政治性が消去されて、「不況になれば艶歌がはやる」という単純な図式が示されていた。 一方で、1960年の安保闘争を前後して学生運動から生まれたは、従来の進歩的文化人の啓蒙思想や特権的態度への反発から、進歩派に「低俗」「頽廃」とこき下ろされてきた民族的、民衆的な文化を肯定的に読み解く試みを行うようになる。 この中で寺山は、「連帯」を価値とするうたごえ運動との対比で、歌謡曲を「孤絶したアウトローが一人で歌うもの」と規定した。 そしてその要素として「さびしさ」「暗さ」を審美化したことで、後の「演歌」のフォーマットを提示したといえる。 一方森は、にかわる思想的潮流であった「疎外」や「性の解放」というテーマを絡めることによって、進歩派と比べて自身の思想的立場を固め、安保闘争のあとに流行った「」を引き合いに歌謡曲を「疎外された大衆の、女の魂をなまなましく歌いあげる」という側面を強調した。 この中で竹中は、エリート階級による伝統的・日本的な歌への攻撃を批判し、その攻撃に耐えてひばりを民族的、民衆的な音楽の伝統を守った存在として称揚している。 もっともこの書は他書の引用の段階などでロジック上のあやふやな点があり、デビュー当初の都会的なメロディーを歌うひばりの存在にはあまり言及されなかった。 しかし、当時ひばりは新左翼論壇においても評価は低く、この論考は新鮮さを持って受け止められた。 五木寛之と「演歌」の誕生 [ ] 1966年、はをモデルにした小説「艶歌」 を発表した。 同作ではレコード社内での艶歌と外来音楽のプロデューサーが互いの進退をかけて売り上げを競う筋書きであり、艶歌のプロデューサーのモデルが馬淵とされる。 このモデルの人物は馬淵と比べて、五木の手によって脚色されており、• 「艶歌」はレコード歌謡の初期から存在している。 「艶歌」は軍歌や明朗快活な歌(「など」)とは別の独自のカテゴリーを構成している。 「艶歌」制作は勘頼りの職人芸であり、合理的な西洋音楽とは相いれないものである。 「艶歌」はマーケティングによる派手な売り出しなどは行わず、地道に売るものである。 などのような含意が新たに加えられていた。 また、艶歌はジャズやブルースと同じく孤立無援の人間の歌、「日本人のブルース」であり、「艶歌を無視した地点に、日本人のナショナル・ソングは成立しないだろう」と登場人物に言わしめた。 そして、当初は艶歌を否定していた主人公は終盤、艶歌の歌い方が「下品だ」と批判されたことに対して、演歌の歌い方は、「差別され、踏みつけられている人間が、その重さを葉を食いしばって全身ではねのけようとする唸り声」である、と喝破した。 五木は同作を通じて、社会批判の「演歌」が芸能化して「艶歌」となったことを肯定的にとらえた。 従来の論壇では政治的批判精神の欠落として演歌の艶歌化は批判の対象になっていたのであるが、五木は逆に演歌を「大衆自身の声ではなく、インテリゲンチャの警世の歌」であることが演歌の弱さであって、艶歌に転ずることによって庶民の口に出せない怨念悲傷を、艶なる詩曲に転じて歌う「怨歌」になったのだ、と後に記している。 五木が艶歌の定義として設けた「暗さ」や「感傷性」は、従来の楽曲のジャンル分けのどれとも異なる新しい枠組みであった。 五木の小説によって、演歌の推移を巡る歴史観が根本的に変えられるに至ったのである。 五木「艶歌」観の浸透 [ ] 1966年発表の「」()は、その後レコード吹き込みをしたところ、有線放送を通じてローカルなヒットになった。 このヒットは、地元の有線放送のヒットが全国区の大手レコード会社から発売される、というボトムアップ方式のヒットであり、レコード会社主導の上からのヒット曲という従前のモデルとは異なるものであった。 また、有線放送は盛り場でかかることが多いため、有線放送は艶歌の重要な市場となった。 美川のヒット以降、「ブルース」と名付けられたご当地ソングが続けて出される。 同年にデビューしたとはともに地方の洋風盛り場のイメージに合致しており、ともにブルースを相次いで発表した。 これらのブルースの流行は、高度経済成長に伴う地方都市の小都会化に起因しているとされる。 1969年にデビューしたは、その壮絶な生い立ちがまさに、五木が小説で示した「怨歌」に当てはまる存在であった。 プロデューサーのは藤の物語やアングラな雰囲気を全力で押しだすプロモーションを行い、「演歌の星を背負った宿命の少女」のキャッチコピーで売り出した。 五木本人は藤の最初のLPについて、「正真正銘の〈怨歌〉である」 と絶賛した。 藤の音楽性についての評論は、新左翼系論壇においても行われた。 その意味で藤は五木的な意味での典型的な「演歌」歌手であったが、その曲調はブルース歌謡がメインで、また、当時社会的なメッセージ性を持ったの要素をも取り入れていた。 1970年版のでは、「演歌(艶歌)」の項目が立てられ、藤のブレークと前後して「演歌」は世間一般での知名度を得た。 藤がブームになったのち、1972年頃まで若者にも演歌が興味を持って受け入れられ、若者向けの雑誌でも演歌歌手に関する記事が多く見受けられる。 GSや青春歌謡の系列の歌手も演歌調に寄せた曲を発表していた。 健全化と様式美 [ ] 「」碑、細川たかし識、昭和59年(1984年)3月吉日 藤圭子ブームの翌年、1971年にが「」でデビュー。 小柳の歌は音の運びは明らかに演歌であったが、その内容は絵葉書のような「日本情緒」であり、暗さやアウトローなどとは無縁であった。 また、1973年には「艶歌」ジャンル確立以前から活動している春日八郎が自身のヒット曲と過去のカバー曲を交えたリサイタル「演歌とはなんだろう」で文化庁芸術芸能部門大賞を受賞する。 演歌の歴史の「古さ」が公に認められるとともに、当初究極のアウトローから始まった演歌が早くも国民の文化財という主流派の立ち位置を得て、その先鋭性を奪われてしまう。 一方、演歌の特徴的な形式のみが切り離され、この要素を商業的に消費する流れが続いた。 1972年にはコミックバンドのが歌う「」が大ヒット。 過剰にこぶしを利かせ、劇画的ともいえるほどに強調した。 翌1973年には「」がやはり様式化した歌調でヒットする。 1974年の「」は大正期の船頭小唄にフォークの要素を加え、男女の悲恋を強調した。 1970年代後半の演歌は、とが知名度と人気を誇る。 両者ともに、長い下積みと再デビューという物語が付加されていた。 なお、その曲調はともにモダンなものであった。 1977年にはカラオケが登場する。 当時のカラオケは夜の盛り場で用いられることが多く、必然的に演歌が多くかけられた。 丁度この頃のヒット曲は都はるみ「」や「」で、演歌の舞台には徐々に北方の雪景色が多数を占めるようになる。 しかし若い世代の間では、ぴんからトリオなどの過剰な模倣(いわゆる「ド演歌」)の後は艶歌人気は続かなかった。 1978年は艶歌のヒット作が出ず、同年の「」のトリはポップス系のとであった。 1979年にはカラオケ酒場を主な舞台とした「演歌復興」が喧伝され、「」、「」などの「酒」が演歌の重要な要素に加わる。 テレビ番組では、1981年から「」がスタート。 「演歌歌手」をメインにした番組がスタートしたが、ヒット曲よりも過去のスタンダードナンバーを中心にした構成となった(後継番組は現在まで継続)。 更に、演歌が「カラオケで歌う歌」となったため、歌詞や曲調、歌唱技法が均質化してゆき、1980年代からどれも似通った作品になってゆく。 石川さゆり「」(1986年)は、この潮流に反して「素人は歌えない難しい歌」というコンセプトでつくられた。 やがて、主婦をターゲットにしたカラオケ教室が流行することによって、当初は「明るい家庭」とは対極的な立ち位置にあった演歌の熱心な支持者が主婦を中心とする中高年女性になるという現象が起こる。 これに対応して、「」(1980年)や「」(1983年)など、「夫婦」が演歌のテーマに加わる。 ところが1980年代後半になると、カラオケボックスの普及によって若者がカラオケを利用するようになり、演歌の占めるシェアはますます狭まっていった。 平成以降 [ ] 記念館 平成に入ると、若者世代が歌う歌をと呼称するようになり、主流のレコード歌謡のほとんどを占めた。 それ以外の歌は一括して「演歌・歌謡曲」と呼ばれるようになり、オリコンの分類もその2本立てになる。 「歌謡曲」とは本来は大衆的レコード歌謡全般を指していたものだが、やがて特定の時代の特定のジャンルの楽曲のことを指すようになった。 1990年代のを嚆矢として、サブカルチャー・懐古趣味としてこれらをまとめて扱う傾向が生まれた。 一方で、同年代の作品の市場規模は縮小の一途をたどる。 にはが発足した以後、初めてオリコン年間シングルチャートの総合100位以内に演歌の作品がランクインしない事態が発生する(この年演歌で年間1位だった「鳴門海峡」は総合で年間153位)。 1990年代末には演歌の新曲CDが数十万枚単位でヒットする例は極めて少なくなってしまった。 一部レコード会社の演歌部門撤退による演歌歌手のリストラもこの時期に行われており、大御所さえもリストラされる事態に陥る。 その後、リストラされた演歌歌手の多くは、演歌を主力とするレコード会社に移籍した。 2000年代前半にはJ-POPの低調もあり、CD売上枚数に占める演歌のシェアが相対的に上昇しつつあるとされる。 5月23日に地元の有志により村田の業績を後世に伝えるため故郷の(現唐津市)に「村田英雄記念館」がオープンした。 現在 [ ] 現在、70代以上の高年齢層限定のジャンルという認識が強いのは否めず、若い世代のファンが圧倒的に少ない。 個性と実力を兼ね備え、 演歌という新の土台を築いた、・・・らの男性歌手や、「演歌(歌謡界)の女王」と称された・らの女性歌手が、平成時代に入った後それぞれ亡くなった。 又、その後に続きかつて紅白歌合戦に常連出場していた、北島三郎・森進一・細川たかし・美川憲一・八代亜紀・小林幸子・川中美幸・都はるみなど「大御所」と言われる歌手達や、ほか五木ひろし・石川さゆり等ベテランの歌手も、かつての昭和時代と比べると実力を発揮し切れていない状況である。 また若手を除けば、歌手本人はおろか作詞・作曲家などの共同製作者がに入るケースも増加している。 などでの小ヒットはあるものの、大泉逸郎『孫』、氷川きよし『箱根八里の半次郎』以来世間を揺るがす程の大ヒットはなく、全体的な低迷が続いている。 あわせて、「」においても、の氷川きよし『』が大賞を受賞して以来、大賞受賞者が永らく遠ざかっているのが現状である。 また、1960年代以降に洋楽のロックや日本製のフォークやニューミュージック、アイドル歌謡などを聴いていた戦後生まれの世代が中年層になっても演歌に移行せず、ロック・フォークなどを聴き続けている者が多いことから、演歌ファンの高齢化が顕著になっている。 カラオケブームによる第二次ブームの時期にからを過ごした30代後半〜50代の、層の中ではなどの影響も手伝い比較的認知度は高い。 しかし、個人差はあるものの、聴く或いは積極的に唄う対象にはされにくく敬遠される傾向が強い。 ただし、歌手のキャラクターは広く受け入れられている部分もある。 村田英雄の「ムッチーブーム」や千昌夫の「額のホクロ」、小林幸子との紅白衣装対決、森進一の「おふくろさん」歌唱や「」など。 ブームによる、これら個性的な歌手のものまねもの向上に貢献した。 しかしながら以降では、ものまね番組を含め、『紅白歌合戦』、『』()、『』()といった演歌を見聞きする機会が得られる番組は、いずれも年数回の特別番組ばかりであり、かつ往年の名曲ばかりが紹介・ものまねされるため、新曲に触れる機会がこれらでは得られない。 ・・・といった一部のでは、ほぼ毎日演歌のレギュラー番組を自社制作などで放送しており、往年の名曲から新曲・ベテランから若手演歌歌手まで幅広く扱っている。 この4局ではいずれも、長年放送が続いているのカラオケ番組があり、主に中高年層の視聴者により演歌が多く歌われている。 一方同じ独立局でも系列のや、開局以来、やを番組編成の柱の一つとする(tvk)などでは演歌番組・視聴者参加型カラオケ番組のレギュラー放送がないため、千葉・埼玉・栃木・群馬は極稀な例と言える。 こうして演歌に触れる機会が少ないことなどもあり、10代・20代の若者の中には代表的なヒット曲や、氷川きよしなどの有名歌手を除き、歌手の存在自体をも認知していない者も少なくなく、曲や歌手以前に「演歌」という語句すら敬遠されるケースさえある。 ただし、生活環境によっては若者の中にも一部には熱烈な演歌ファンが存在することも事実であるが、ファン層は60歳代後半以上が概ね8割以上で、「20歳代以下は1割以下」である。 しかし、高齢化社会となり逆にシニア層の人口が増大している現状を逆手に取り視聴者(聴取者)獲得のために演歌に偏重した番組編成を取る放送局(例えば、前述の関東独立局の他ではなど)も存在する。 海外での演歌 [ ] では、戦前に日本語教育を受けた世代が日本の歌を好んで聴いたことから、台湾人歌手によって日本の演歌が歌謡ショーなどで歌われてきたほか、によるカバーも数多く出現し、日本でヒットした演歌の大部分は台湾語(一部は、である)でカバーされる状況が続いてきた。 また台湾で作曲されたオリジナル演歌も多く、その題材や歌唱法は日本の演歌と変わらない。 台湾歌謡界では戦後長らく、ポップス=北京語、演歌=台湾語という言語による棲み分けが続いたため、演歌は「台語歌」とも称される。 日本で演歌の衰退が言われる現在でも、台湾では演歌の人気は依然として高く、テレビでは演歌中心の歌謡番組が定期的に放送されており、日本語の原曲と台湾語のカバー曲を交互に歌唱するなどの演出も一般的である。 シンガポールやマレーシアを中心とした東南アジアには、中国系の住民が多く、それらのうち福建系の住民は台湾語とほぼ同じ言語()を話すため、台湾語でカバーされた日本の演歌や台湾語のオリジナル演歌が「福建歌」「Hokkien Song」として普及しており、現地の作詞家によってオリジナルの歌詞を付けられたカバーも存在する。 インド系の歌手で、福建歌=演歌の歌唱をメインに活動している者もいる。 また、これらの演歌は、、、、など、現地の言語で再びカバーされた曲もあるが、一般に「チャイニーズ・ソングのカバー」と認識されている。 中国では、など台湾の歌手がでカバーした日本の演歌が広く浸透しているが、これらの演歌は一般に台湾の歌として認識されており、「台湾歌」と呼ばれている。 また1980年代にはを中国の歌手がカバーし、流行したこともあった。 アフリカ系アメリカ人のは幼少期に、日本人だった祖母から演歌に親しみ、2008年に日本で演歌歌手としてデビューした。 2007年、のにて行われた日系100周年記念イベントでは、日本の音楽として演歌が流された。 またやのような南米出身の日系演歌歌手もいる。 としても一部含まれる。 週間 [ ]• /(1968年6月3日付〜7月1日付、8月17日付の6週)• /(1969年6月9日付〜7月7日付の5週)• /(1969年9月8日付〜10月13日付の6週)• /1970年3月30日付〜5月18日付の8週)• /藤圭子(1970年5月25日付〜7月27日付の10週)• /(1970年11月9日付〜12月28日付の8週)• /森進一(1971年1月25日付〜2月8日付の3週)• /(1971年7月19日付の1週)• /(1971年7月26日付〜10月11日付の12週)• /(1971年11月8日〜1972年1月3日の9週)• /小柳ルミ子(1972年5月15日付〜6月5日付の4週)• /小柳ルミ子(1972年9月11日付〜9月25日付、10月9日付〜10月16日付の5週)• /(1972年10月30日付〜1973年2月12日付の16週)• /(1974年3月18日付〜5月13日付の9週)• /殿さまキングス(1974年7月15日付〜8月5日付の4週)• /小柳ルミ子(1974年11月18日付、12月9日付の2週)• /(1974年12月16日付の1週)• /(1975年4月28日付〜5月12日付の3週)• /(1975年7月28日付〜8月18日付の4週)• /(1976年12月6日、12月20日付〜1977年1月10日付の4週)• /(1979年7月23日付の1週)• /細川たかし(1983年4月18日付〜5月2日付の3週)• /(1986年6月23日付の1週、史上初の演歌初登場1位曲)• /(1987年2月9日付の1週)• /(1987年8月24日付の1週)• /(2004年10月4日付の1週、平成初の演歌1位曲)• /(2005年2月21日付の1週、平成初の演歌初登場1位曲)• /(2009年1月26日付の1週、史上最年長記録)• /氷川きよし(2009年2月16日付の1週)• /氷川きよし(2009年8月31日付の1週)• /(2014年1月20日付) (1968年1月4日付〜2014年1月20日付まで、計30曲) 年間 [ ]• 1968年度 星影のワルツ/千昌夫• 1971年度 わたしの城下町/小柳ルミ子• 1972年度・1973年度 女のみち/宮史郎とぴんからトリオ• 1974年度 なみだの操/殿さまキングス• 1975年度 昭和枯れすゝき/さくらと一郎• 1979年度 /(最高2位)• 1983年度 /(最高2位)• 1987年度 /(最高2位) (1968年度〜2006年度まで、計8曲) テレビ番組 [ ]• - 演歌専門の音楽番組(1978〜2012、)• (2011年10月13日〜、同上)• ごごウタ(、2017年、NHK総合テレビ ラジオ番組 [ ]• (制作・NRN各局)• () 以下は全てで放送。 ひばりさんへの手紙• えんか侍• 日本の歌道中• それ行け! 歌謡道中• 松村和子と立花英樹の歌仲間 演歌を題材にした作品 [ ] 映画• 『わが命の唄 艶歌』(監督、、1968年• 『』(監督、、1997年) テレビドラマ• テレビ映画『涙の河をふり返れ〜艶歌より』 1971年、• テレビドラマ『海峡物語』 1977年、• …2007年、制作・放送。 『艶歌・海峡物語』、講談社、新装版、1987年 モデルは音楽ディレクターの 漫画• 『』…に連載された 脚注 [ ] 注釈 [ ] 軍歌はもちろんだけど演歌も大嫌い。 情けなくなるの。 狭い穴の中に入っていくようで望みがなくなるのよ。 私は美空ひばりは大嫌い。 人のモノマネして出て来たのよ。 戦後のデビューの頃、私のステージの前に出演させてくれっていうの。 私はアルゼンチン・タンゴを歌っているのに笠置シヅ子のモノマネなんてこまちゃくれたのを歌われて、私のステージはめちゃくちゃよ。 汚くってかわいそうだから一緒に楽屋風呂に入れて洗ってやったの。 スターになったら、そんな思い出ないやっていうの。 直接的には米国由来の戦後の音楽文化、広くは戦前以来のプチ・ブルジョア文化としてのレコード歌謡を指している。 1964年12月13日付では、の世相から、翌年は「演歌」ブームがやってくる、と予測している。 日本調の曲について「演歌」という表現が用いられている初例である。 もっとも演歌の場合はキャンペーンなどでの手売りの割合が大きく、レコード店での売上を対象とするオリコン等のチャートに反映されない売上が相当あるという指摘もある。 出典 [ ]• 1968年のの歌に「艶歌」がある(作詞、作曲)。 , pp. 50-53. , pp. 53-56. , pp. 59-61. , pp. 61-64. , pp. 70-72. , pp. 72-74. , pp. 74-75. , pp. 189-195. , pp. 82-92,195-197. , pp. 76-84. , pp. 103-108. , pp. 111-121. , pp. 123-142. , pp. 174-176. , pp. 199-207. , pp. 208-219. , pp. 221-239. , pp. 239-241. , pp. 143-148. 『怨歌の誕生』初出:オール讀物(文藝春秋)1970年10月、1971年『 四月の海賊たち』で単行本化• , pp. 252-263. , pp. 271-272. , pp. 275,286. , pp. 298-300. , pp. 294-295. , pp. 304-308. , pp. 308-316. 『オリコン年鑑 1997年版』オリコン、1997年、5頁。 (但し該当ページにはノンブル表記なし)• 「演歌は死んだのか レコード会社は前向き」『』1991年3月9日付朝刊、39頁。 、ZAKZAK、1997年4月15日。 (のキャッシュ)• 参考文献 [ ]• 『近代日本の心情の歴史 - 流行歌の社会心理史』 講談社、1967年 講談社学術文庫249、1978年。 『定本 見田宗介著作集 第4巻』岩波書店、2012年• 見田宗介『現代日本の心情と論理』 筑摩書房、1971年。 「新しい望郷のうた」などを収録• 奥山弘『「艶歌の竜」と歌謡群像』三一書房、1995年10月。 『さすらいのメロディー鳥取春陽伝』郁朋社、1998年。 『「演歌」のススメ』文春新書、文藝春秋、2002年。 『創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』光文社新書、2010年10月20日。 関連項目 [ ]• 日本の•

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