刀根 坂 の 戦い と は 次 の うち どの 大名 が 滅亡 する 直前 の 戦い か。 今川義元は領土を拡げ今川家の全盛を築いた武将!桶狭間の戦いで破れた暗愚な人物?

玉川美沙たまなび: なるほど番長 カテゴリー

刀根 坂 の 戦い と は 次 の うち どの 大名 が 滅亡 する 直前 の 戦い か

の中央部に位置するは、古代の「肥の国(、ひのくに)」が前後二分された際の側、のいわゆるが占めた領域とほぼ一致する。 これは、近世の期においての一部などが別藩の領土とされるなど、また逆に肥後国天草郡に属していたが現在ではに編入されているなどの一部例外はあるが、施行によって置かれた九州各県のうち()とともに伝統的な国制をほぼ維持した例にあたる。 熊本県の風土的特色は、・流域を中心としを含む県北部域、を主軸にした流域、の三つの地域に大別することができる。 この区分はそれぞれ・・天草という幕藩体制下の三つの区域と対応しており、それぞれ個別の特色を持つ。 熊本県の歴史をかいつまむと、多くのやに見られる豊かな自然環境とそれを一変させる活動、下からの勃興。 を経て国衆割拠そしての入部、の入部を経ての動乱から、戦後の問題までが大まかな流れとなる。 そして全体を通して、の成立後、周辺の位置にあった肥後国そして熊本県の歴史は、常に中央政権からの影響を受けつつ綴られた。 大観峰から望む阿蘇山と。 しかし、発掘調査は数ヶ所でしか行われていない。 多くは阿蘇外輪山一帯や球磨地方に位置するが、の石飛分校遺跡やの内ノ原遺跡なども発掘され、その分布は県下全域に及ぶ。 最も古いものは平山町の石の本遺跡から出土した類であり、から30000年以上前のものと推測されている。 出土数は4000点にのぼり、の破片から作られた小刀類や局部磨製も見つかっている。 これらや、九州が比較的自然環境に恵まれた土地であったことから、古代熊本は豊かな生活の舞台だったと推測される。 しかしながら、九州は多くの火山噴火がもたらす環境の激変に何度も襲われた土地でもあった。 阿蘇山・・の爆発は火山灰地層を複数形成し、特に石器時代中期に見られる層の上下に見られる出土品の比較や、石飛分校遺跡の同層上部から見つかったやの破片などの分析を通じて火山活動が及ぼした環境や社会生活への影響が研究されている。 その一方で、当時のから形成された阿蘇溶岩は、後に良質かつ豊富な石材となって肥後の石工を支えた。 続く、熊本県下で発見された早期の遺構は、が発掘されたの白鳥平B遺跡などわずかな例しかない。 これは、約6200年前(約7300年前とも)の鬼界カルデラ爆発()によって九州全土が壊滅的な打撃を受けたためと考えられている。 しかし縄文中期にはの御領貝塚・が見られ、後期になると東日本やとの共通点も見られる土器文化が発展した。 で発見された約13箇所のはそのほとんどが後期にあたり、現在の海抜5mあたりに位置している。 の曽畑貝塚からは貯蔵の痕跡も見られ、また出土したは同型のものがやからも発見されている。 城南町の阿高貝塚と黒橋貝塚から見つかった製貝面や阿高式土器は、のとともに、東三洞(トンサムドン)貝塚からも出土している。 逆に、の大矢遺跡からは朝鮮半島の形式である石製結合が見つかっている。 土器や生活様式はその後も進歩を見せ、独自の黒色磨研土器が発達した。 また、熊本市の上の原(うえのばる)遺跡からはの遺構から炭化したとが発見された。 当時、大部分が海であった熊本平野がや河川によって埋まり 、採取のみに頼った食料確保から原始的なへの転換が始まっていたことを示している。 このような農耕の痕跡はこの他にも数箇所から見つかっている。 さらに上南部遺跡(熊本市)からはやの石刀などの特殊遺物が数多く出土している。 県下の縄文時代遺跡は約770ヶ所を数える。 これらの生活遺構はになると場所を変え、から離れた上にを形成するようになった。 や・など典型的な弥生時代遺物が発見される遺跡はやがて熊本平野全域におよび、広い範囲でが行なわれたことを示している。 一方、沿岸部にも同時代の小規模な貝塚が発見されている。 三角町の文蔵貝塚では焼いた小さなの殻が多数見つかった。 これはを焼くの名残りであり、『』で歌われた「藻塩焼き」が行なわれていた証拠とされる。 さらに時代が下ると、阿蘇山流域や熊本平野の白川域および菊池川流域からもの遺構が発見された。 や、である先や・、また端切れと考えられる三角形や棒状などの鉄片なども見つかっている。 二子塚遺跡(熊本市)からは炉跡を中心に焼土や、熱を受けが付着した台石など、製鉄の痕跡が出土している。 また、も熊本市の徳王遺跡や泗水町の古閑原遺跡から出土したなどがある。 火の国の成り立ち [ ] 初期のは、地方行政区画として(あがた)を設置した。 『』・『』には、のちの熊本県域に3つの県の記載がある。 はその名称が現在も引き継がれ、(あそ-)はに対応する。 は現在のを含むより広い領域を含んでいたと考えられる。 とに挟まれた基部ではに代表される120前後のが発掘されているが、この中のひとつ(宇土市松山町)には30代と推定される未婚女性が埋葬されていた。 江田船山古墳 宇土半島基部の遺跡は、装飾文様が施されたや氷川流域の丘陵部に形成されたなどに代表され、この地域は(ひのきみ)発祥の地とされている。 火君は地域を代表するであり、『』では(かみやいみみのみこと)の後裔として、『日本書紀』や『』では討伐を果たした一行が不思議な火に誘われて至った地で退治に活躍した者の子孫として記されている。 そして、この故事から「 (ひのくに)」の名称が生まれたとされる。 から出土した大刀から、火君など火の国の豪族は既に近畿の・と関係を持っていたことが明らかになっている。 豪族のひとつ建部君(たけべのきみ)は、その名がから軍事的部民として名を下賜された一族で、現在は熊本市黒髪・子飼本町に相当する中世までの地名武部・竹部・建部あたりを本拠としていたと思われる。 菊池川流域で発掘される群は少々時代が下り、竜王山古墳()・山下古墳(玉名市)・院塚古墳(岱明町)が知られ、これらは日置部君(ひおきべのきみ)一族の地とみなされる。 阿蘇一宮町にある中通古墳は(あそのきみ)の築造とされる。 これらの墳墓から発掘されるなどは、当時の豪族がさかんなを行なっていたことを示している。 さらに、阿蘇から作られた舟形が沿岸やの古墳にも用いられている ことから、この交易は相当広範囲にわたる規模のもので、豪族たちの権勢を支えていたと推測される。 以後、九州への支配体制を強化した大和朝廷は、当地の軍事力の再編成やの設置など支配力を強化した。 この一連の中で、火の国には大伴氏の部民が多く配された。 これらは、『万葉集』巻5、『(和名抄)』、出土などの記述から見いだせる。 『日本書紀』にある火の国の春日部屯倉(熊本市春日町)は九州中南部の豪族反乱へ睨みを利かす朝廷の出先機関という性格を有し、軍事的かつ経済的拠点としても機能した。 『』の中に阿蘇山噴火を記した下りがある。 これはが行われた期に伝えられた情報と考えられており、火の国が大和朝廷にとって重要な拠点のひとつだったことを示す傍証にもなっている。 律令制下の肥後 [ ] 肥後の名は [ ] 「肥後国」が史書に初めて記されたのは、『日本書紀』十年四月戊戌紀にあるで捕虜となり33年ぶりに帰国した兵士「肥後国皮石郡()人の壬生諸石(みぶのもろいし)」について記述した箇所に見られる。 朝廷は、帰国した彼と家族の労苦に対しや物品を与え、また税の免除などを以って報いたとある。 歴史公園として復元された鞠智城 日本書紀の次に編纂された「続日本紀」二年五月二十五日条に、繕治の件を載せている。 これは・連合軍来寇に備え、を防衛する・と同時期に現在の山鹿市(旧)に建設されたものである。 ただし鞠智城はやの供給またはが控える支援基地としての性格が強かった。 律令制においては肥後国にもが置かれ、その場所は『和名類聚抄』には、『』には(熊本市二本木)、鎌倉時代の『』では益城・飽田郡のふたつが併記されている。 一方で地名としての「国府」は(熊本市国府)にあり、『』年間頃の説話には「託麻国分寺」という記述がある。 発掘が行なわれたところ熊本市国府から9世紀中ごろの遺構が発見されたが、これにはによる破壊の痕跡 が見られた。 この発見から、当初は託麻にあった国府がを被り、益城・飽田の何れかに移転したものと考えられている。 ただし、これを裏付ける遺跡や遺物の発見には未だ至っていない。 一方で「肥後守(ひごのかみ)」は『』に五音詩「秋宴」を載せた作者「正五位下肥後守道公首名(ひごのかみみちのきみおびとな)」に見られる。 は663年にの道君一族に生まれ、新羅大使や筑後守を経て兼任肥後守に就任した。 『』には首名のや生涯などと優れた業績を記録した「卒伝」があり、治水灌漑のための溜池「味生池(あじうのいけ)」(現:北側一帯 )を築いた事例などが載せられている。 続日本紀では通常「卒伝」はを除き五位以下の者は記録しないが、正五位の道公首名だけ は生前の伝記に当たる「卒伝」が詳細に記録されている。 これは、首名の地方行政が律令下の範たるものであったことに加え、と道君一族の越道君伊勢羅都売(こしのみちのきみいらつめ)の間に生まれたがの父であり、『続日本紀』編纂期の天皇とにあったことも影響していると考えられる。 肥後の国司には、この道公首名の他に、らも赴任し、の国司・と肥後の女・との交流についてはさまざまな説話が残されている。 律令制度 [ ] 「」も参照 から導入された律令の調庸のうち、肥後から納められる特徴的な品目に繭綿とがあった。 これは『和名類聚抄』および『続日本紀』中に、貢進される数量の多さとともに記されている。 また、も多く貢上され、これらは跡や大宰府から出土したにある記述に裏付けられている。 この他にも、朝廷の節会料のための「腹赤魚(はらか)」などの献上記録などが残されている。 肥後国の納税能力は高く、『弘仁(主税)式』に記録された出挙稲数では、九州総計459万束のうち123万束を肥後国が占めている。 そのため制導入において肥後国は、14年(795年)にはが「上国」から「大国」へと昇格され、その中心を担う一国に据えられた。 これら租税徴収および軍事など地方行政を遂行するため、肥後国にもが布かれ、(郡衙)や駅路・車路(くるまじ)が整備された。 ただし、記録に残る条里制の区域は、一部阿蘇カルデラ内を除き菊池川流域および熊本平野に集中し、「コ」の字形に配列された掘立柱が特徴的に見られる郡衙遺構もそれらの中心を占める形で発掘されている。 路はから下り、熊本平野を南北に貫いて馬屋である益城駅に続く。 現在の熊本市北部(旧地名「子飼町」)には、繭綿輸送の中継点であった「蚕養駅(こかいえき)」が設置された。 肥後国はまた、朝廷や駅馬・伝馬に用いられる馬を供給する「牧」 を担い、『』には二重牧(ふたえまき、阿蘇外輪山を挟み阿蘇町とに跨る)と波良牧(はらまき、一帯と推測される)、さらに『』には大宅牧(おおやけまき、宇土半島)が記録されている。 また山鹿市に残る昔話に、大田畑を誇るがやはり大地主の駄の原長者と宝くらべを行い、金銀財宝を積み上げた米原長者に対し凛々しい子息らと美しい子女らを並べた駄の原長者に民衆が軍配を上げる話がある。 この駄の原長者は数百頭の牛馬を持ち、官道への駅馬供給を担った実力者であったと推測されている。 白い亀 [ ] 元年(768年)、肥後国葦北郡から白い亀が朝廷に献上された。 3年後にも同じ例があるが、こちらは歴史に大きく関与した。 神護景雲4年(771年)8月に葦北郡と益城郡の二箇所から白亀が献上されたが、同月はが没した月と重なり、系のが即位した時でもあった。 大瑞を示す亀の出現を受けて10月にが「」に改められ、権勢を誇ったは失墜した。 この二度目の白亀献上は、『続日本紀』によると国司である肥後守・大伴宿禰益立が行った。 宝亀3年(773年)にはまたも白亀を献上した肥後国は、瑞祥を示すことで系から天智系への転換を後押しし、そこにはの関与があったものと推測されている。 ただし、暗殺計画に関与したとしての一族が処罰されると、肥後国司の系列に大伴の名は見られなくなり、系列がその職を得ることとなった。 中世の始まり [ ] 武士の勃興 [ ] 平安時代後期、日本各地でが勃興し勢力を確立してゆく。 これは肥後国においても同様に見られ、有力なが形成された。 しかし、いずれも肥後一国を支配下に置く「一国」に至った者は生まれず、これはの登場を待たなければならなかった。 肥後を代表する武士団は・の両氏であり、緑川流域の木原氏や諸島部の、人吉や球磨川流域に拠した関東下向系の、戦国時代に名を馳せたなども知られている。 肥後に限らず九州の武士は府官すなわち大宰府に所属する仕官を源流とするものが多く、時に戦いに当たった諸氏の記録に名が見られる。 菊池氏の始まり [ ] 菊池氏は、その初代・が、刀伊の入寇においての配下で活躍した藤原系の郎党・(蔵規)を父に持つとされる。 当時、九州の有力豪族は権威を保持拡大するために大宰府との接触を持ったが、菊池氏もこの例に則していた。 ただし、太宰小弐・対馬守に任命された政則に対し、則隆やその子・政隆(西郷太郎)は家系列の「肥後国住人」ともされていた事から、両者には必ずしも血筋の繋がりあったとは限らず、本来は主従関係にあったともする考えもある。 阿蘇氏の始まり [ ] もうひとつ、中世肥後の有力武士団となる(宇治姓)は特異な性質を持っていた。 阿蘇氏は、の系列を称し、また古代の火山神と地域の農業神をした の神官をする豪族であった。 年間には、阿蘇山麓に開発した田地を中院右大臣家()を、をとするとして寄進し、からへと地位を固めた。 さらに健軍社()・甲佐社()・郡浦社()を傘下とし、白川・緑川流域に当たる肥後国中央部を勢力下に置いた。 阿蘇神社は肥後国一宮となり、宮の造営などの経費はで賄われるなど、権威を拡大した。 これらの権勢を背景に、阿蘇氏は武士団を形成した。 それは、保延3年(1137年)の資料に初見される、が神官の長が武士団の長を兼ねる際に用いる「」を称したことを始まりとしている。 なお、阿蘇氏は名の通りをとするものの、全盛期は、阿蘇の・現在のにあったとされる「」時代であった。 当時はよりもの方が生産性が高く地の利が良かったようで、「」「、別名矢部城」などの地に立つ堅牢なを築城して勢力を誇った。 初期武士団の形成と争い [ ] 平安時代後期には、地方で勃興する武士勢力による小規模な争いが見られた。 またそこに、に始まるを背景とした支配が絡まり、複雑な模様を呈した。 肥後に限らず九州では、鎮西総追捕使を称した(鎮西八郎為朝)が乱暴を重ねたという記述を『』に見ることができ、各所に伝承が残っている。 富合町にある木原山は別名を雁回山というが、これは同山に砦を置いた鎮西八郎の弓の腕前を恐れがこの山を避けて飛んだという逸話を由来としている。 しかし『高野山文書』にある2年(1146年)の訴状によると、当地で反体制の騒乱を起こしたのは地方武士・であったとされ、源為朝がこの山に篭った証拠は無い。 この訴状には他にも、現在の甲佐町に拠した菊池氏系の田口経延・行季親子がを襲撃した事件を載せているが、この舞台となった山手村にも鎮西八郎が武威を示すため白い旗を立てたという伝説 があり、現在では白旗という地名になっている。 このように、九州一円に残る鎮西八郎伝説は、当時多くの地方武士勢力が局地的争乱を起こし、これらが源為朝の所業に集約され残されたと考えられている。 源平の狭間で [ ] 「」も参照 以降、が大宰大弐に就任すると、肥後国を含む九州にはの影響力が強く及び始めた。 院政権力と結び、王領の領家や預所職を一族で占め、またとして国衙の行政権を掌握した。 この動きに地方の武士団は、平家の軍門に下るか、もしくは反抗を試みるかの二者択一を迫られた。 当時の菊池氏棟梁・が選んだのは後者の道だった。 4年(1180年)、菊池隆直は大宮司や木原次郎盛実など肥後の有力武将と組み立ち上がった。 このは、『』では「筑紫の反乱」と、終結した年号から「養和の内乱」とも呼ばれる。 数万の兵を以って一時は大宰府にまで攻め入った肥後勢ではあったが、平家側の働きかけにより朝廷はに反乱分子を意味する「鎮西の賊」菊池隆直追討の宣旨を下し、を追討使として九州に派遣した。 押され始めた肥後一党は本拠を攻め込まれ、2年(1182年)4月には降伏、肥後の武士団は平家方に組み込まれた。 『』・『』・『』また『歴代鎮西要略』では、この「鎮西反乱」は勃興と同年で挙兵したに呼応したものとされるが、実態は異なり地方勢力の反乱であった。 それどころか、2年(1183年)にを奉じて九州に落ち延びた平家に従った菊池隆直を、は平家に組した「張本の輩」と断じた。 ただし、菊池氏は鎌倉時代もとして存続した点から「鎮西反乱」が源氏方にも考慮された可能性は否定できない。 また、当時既に球磨地方のに拠った相良氏も平家方として活動したが、幕府成立後に謝意を示して許されたとされる。 しかし、これは逆に罰を受けて氏族本拠の相良荘を追放された結果との説もある。 阿蘇氏・木原氏という有力武士団を配下に反乱を起こした菊池隆直は当時「一国棟梁」に最も近い位置にいたが、結果「養和の内乱」は中央の武家権力による肥後支配を呼び込む役割を担ってしまった。 また、球磨一郡を範囲としていたがとみなされて鎌倉幕府によって解体され、その一部であったは後に相良氏に与えられることになった。 熊本県やその近郊には、平家の落ち人伝説が残る。 その場所としては、 、隣接する宮崎県などが知られている。 鎌倉政権下の肥後 [ ] によって・が設置されると、平家方にあった肥後国では東国武士が多く惣地頭の職を占めた。 「張本の輩」とされた菊池氏は、の院宣に始まるにが上皇方に加わったこともあり所領を没収されたが、多くの肥後在郷武士は惣地頭の「所堪」(指導統制)に服す小地頭に組み込まれた。 熊本市北部にあった有名な荘園「」は、訴状資料として作成された『鹿子木荘条々事書』で主張された開発領主の権限の強さを示す事例で知られていた。 しかし、後にこの訴状で開発領主とされたが実際には受領であったことが判明し、開発領主の権限「職権留保・上分寄進」には疑問が呈されている。 また実際に、安泰を目指し領地を寄進した地方武士が、引き換えに得た代官職をやがて失なったり、または訴訟で敗れ喪失する例などもあった。 「」も参照 5年(1268年)と8年(1271年)に修好を迫るの使者を追い返した幕府は、来寇を覚悟し、多くの武士をに集結させた。 文永11年(1274年)10月19日、・などを経由した蒙古軍の船がに押し寄せ、いわゆるは始まった。 この役には菊池・詫間・相良氏など肥後の武士も多く馳せ参じた。 集団戦で優位に立ち大宰府に近い水城まで戦線を進めた蒙古軍だったが、一旦軍船に退却したところ暴風雨が襲い多くが難破してしまい、元軍は敗退した。 しかし再襲必至と睨んだ幕府は、旧習を破る令を発した。 それまでは御家人のみを対象としていた原則を拡大し、「本所一円地の住人」すなわち非御家人までにも幕府は出陣を求め、軍功には恩賞で報いると告知した。 また、先手を打つへの遠征計画を練り、兵力の注進を守護に命じた。 このうち、肥後北部の武士名簿を綴った報告書の一部は、後に裏面を用いて『御神宝記』が作られたため、その内容を今日も知ることが出来る。 ここに見られる武士の中には、井芹西向(いせりさいこう)のように惣地頭の横暴のため領地を失った者もいた。 高麗遠征は博多湾岸の石築地設営に注力するため取りやめられたが、召集された兵力は警備に向けられ、肥後武士たちも生の松原に詰めた。 4年(1281年)6月3日、蒙古軍はふたたび博多湾に来襲したが警備の武士と石築地に阻まれ一旦退却。 江南の軍と合流し7月27日に鷹島沖に到着したが、今度はに当たり難破船が続出した。 武士団は残軍に掃討をかけ、肥後武士も奮闘した。 この二度の戦役(文永の役・弘安の役)で戦った肥後武士の一人・は、後に戦役の模様などを伝える『』を編纂した。 菊池氏の庶流とされる竹崎氏は、豊福荘 竹崎(現在の松橋町竹崎)に在した国御家人であった。 その中で季長は訴訟に敗れ一族からも孤立していた。 そのような時に起こった文永の役は彼にとって千載一遇の好機であり、わずか5騎を引き連れて参戦した。 死を恐れず挑み一番駆けの功を挙げたが、注進に漏れ恩賞に与れなかった。 翌年彼は馬具などを売り払って旅費を工面し、2人だけを伴って鎌倉まで赴いて、2年(1276年)恩賞のに謁見し訴え出た。 泰盛は功を認め、季長に東海郷(現在の宇城市小川町)の地頭職を与えた。 弘安の役でも活躍を見せた竹崎季長は、後に東海郷経営に手腕を発揮した。 これは『海東郷社 定置条々事』の内容や、で滅した恩人・安達泰盛を偲び発案したともされる『蒙古襲来絵詞』作成に充分な財力を得ていたところからも推測される。 得宗専制の影響 [ ] 「」も参照 訴え出た竹崎季長は最終的に恩賞を得たが、彼のように武功を挙げながら何ら褒章を受けられなかった者は多く、御家人の貧窮化が進んだ。 さらに4年(1246年)に就任したは幕府権力の掌握と反北条氏勢力の排除を強め、元寇という外患も利用し、による体制を固めた。 肥後国に与えた影響も大きく、弘安徳政で事の是正を試みた安達泰盛が廃された霜月騒動以後の守護職は得宗または北条氏族が独占し、一国平均の役で課される税の徴収など本来国司が持つ権限も守護が担うようになった。 得宗領とされた荘園も多く、菊池荘や熊本平野の各荘園・八代や球磨郡および天草・寛元2年(1244年)に相良氏から奪った人吉荘北方など、肥後国内全域に及んだ。 所領を奪われたり、安堵・自立を脅やかされるなど矛盾を含んだ政治は多くの不満不平を生じ、反体制勢力である「」の発生に繋がってゆく。 末法の肥後 [ ] 「」も参照 7年(1052年)はで言うの元年とされ、救済を求める宗教運動は肥後でも見られた。 最初の例は元年(1081年)に建立された現在の御船町にある玉虫の如法経塔であり、著名なものは元年の現:山鹿市にある滑石製経筒がある。 これらの背景には肥後武士団勃興による争乱があったものと推測される。 に始まり、衆生救済を掲げたの肥後伝播は、2年(1228年)白川沿いので開かれたの別時に始まるとされる。 同年宇土でも念仏を修した弁阿は、鎌倉時代に浄土宗が肥後国で広く浸透する端緒を開いた。 多く建立された浄土宗の中でも、人吉・球磨地方に名刹が多く残っている。 これは、鎌倉初期以降相良氏が当地を支配し、それが明治まで一貫して続いたことが大きい。 にある熊本県下最古の建造物である 城泉寺(現:)や多良木町のはその代表であり、仏教建築や像、を収めた銅製経筒などが伝わっている。 南北朝の時代 [ ] 菊池武時。 菊池容斎 作『前賢故実』より。 博多合戦は憎しみ深く [ ] の討幕運動に呼応し が発した討伐のは、九州の各武士団にも届いた。 しかし、この計画は探題のに漏れ、英時は彼らに博多への出頭を命じた。 同年3月12日菊池武時はらを従い向かったが、探題から遅参を責められた。 計画漏洩を察した武時は決起を働きかけたが少弐・大友両氏はこれを拒絶した。 3月13日早朝、菊池武時・阿蘇惟直らは決意を固め手勢150騎で探題の館に攻め込んだ。 しかし少弐・大友両氏は裏切って探題側に付き、激戦となる。 菊池勢は武時以下ことごとく討ち死にする中、嫡男・はかろうじて肥後へ逃れることができた。 1978年、工事の際、祇園町前からおよそ110のが発見された。 分析の結果14世紀のものとみられ、博多合戦で敗れさらし首にされた菊池一党の武士のものと見なされている。 北条英時は肥後国守護のに菊池・阿蘇氏の討伐を命じた。 らが率いる討伐軍に本拠地を攻め込まれた両氏は現在のにあったと推測される日向国鞍岡城に逃げ込むも攻め入られ、鞍岡山に逃れた一部を除き多くが討死した。 この一連の事件によって、菊池氏は少弐・大友両氏に対し、拭い難い程深い恨みを持つこととなった。 建武の新政と肥後武士 [ ] 「」も参照 このように九州での倒幕運動は一度は失敗に帰したが、中央ではが、鎌倉でもが反旗を翻した。 少弐・大友両氏も倒幕に転じ、鎮西探題を攻め落とした。 こうして鎌倉幕府は倒壊し、からへ戻った後醍醐天皇の下、やら武士が輔弼したが始まった。 新政府は政権交替の論告において、肥後武士を高く評価した。 菊池氏嫡男・武重は肥後守の官職を得、()・・(肥前守)ら兄弟も要職を授けられ顕彰された。 阿蘇氏もまた、北条氏に奪われていた大宮司任命権を『官社開放令』によって取り戻し、勢力の回復に繋がった。 これらは、多くの郎党が無念の死を遂げた肥後武士団の溜飲を下げ、彼らをして後に「南朝一辺倒」と言われる程の宮方(南朝方)傾倒に駆り立てる動機となった。 南朝一辺倒 [ ] 「」も参照 天皇親政下の政策は、拙速な改革や朝令暮改、恩賞の不公平や新課税など多くの問題をはらんだもので、親政権は急速にその支持を失っていった。 2年(1335年)は鎌倉で反親政に乗り出し、後醍醐天皇は新田義貞を討伐に差し向けた。 天皇に近侍していた菊池武重・兄弟は「」を携え、また・惟直親子も共に新田軍に加わって、に参戦した。 この時、阿蘇親子に向けた「後醍醐天皇綸旨」が「阿蘇家文書」として現存している。 しかし新田方は破れ、京都までの退却をも追われた。 その後武重はに逃れた後醍醐天皇に付き従い、そのまま軟禁された。 足利尊氏は京都でに敗北し、態勢建て直しのために九州へ逃れた。 この際、九州の有力武士団に軍勢催促状を送り、武家政権復活に期待を寄せるらはこれに従った。 しかし、菊池・阿蘇氏は南朝への義理に服した。 武重不在を守る菊池武敏や阿蘇大宮司惟直と兄弟は軍を率いて北上し、優勢な戦力を背景にに臨んだがこれに敗れ、尊氏の再決起をみすみす許した。 建武3年4月3日、九州北部にを、南部にを置き、少弐頼尚やらを率いて尊氏は大船団で京へ出発した。 その途上、迎え撃つ天皇方をで撃破し、敗れた楠木正成とともに菊池武吉は切腹して果てた。 この後、尊氏と、これを避けてに逃れた後醍醐天皇による、南北のするが始まった。 足利尊氏ら本勢力が九州を離れると、肥後武士団は抵抗を強めた。 尊氏出発直後の4月13日の安楽寺(現:)や16日の鳥栖原(現:西合志町)で戦い、が尊氏方として肥後国国府に入ると唐川(現:菊陽町)で合戦を挑んだ。 幽閉状態を脱し菊池武重が肥後に戻ると、建武4年(1337年)に挙兵。 阿蘇惟時の娘婿・や八代で地頭職に就いていたとも協調し、犬塚原(現:御船町)でを破るなどの行動を見せた。 その行動において「南朝一辺倒」とも評される肥後武士ではあったが、実態は必ずしも一枚岩ではなかった。 この時期は、所領を嫡男に一括相続させる慣習が広まり、一見遺産の分散を防ぐこの方法は反面一族内の争いを強めてしまった。 阿蘇氏は一族が南北朝に割れたが、惟直の死後大宮司に復帰していた阿蘇惟時は中立の態度を貫くことで一族の分裂を防いだ。 菊池氏も同じ問題を抱えていたが、菊池武重は氏族を纏める理念を外部に求め、の僧・大智を聖護寺に招いて「菊池家憲」を創った。 延元3年(1338年)7月25日の日付が記されたこの家訓にはが押され、日本最初の血判とされる。 これによると、重要な政治的決断は惣領が下すが、政道は寄合衆(内談衆)とよばれる一族の集団が決定するとある。 しかし、翌年武重は亡くなり、後を継いだ弟のは任に耐えられず程無く引退。 さらには本拠を北朝方のに占領されてしまった。 これは阿蘇惟澄の協力を得た庶子のが奪還したが、菊池氏の勢力は衰退を見せていた。 三つの勢力 [ ] この状況にさらに混沌をもたらす二つの存在が肥後国に向かっていた。 一人目は南朝の・であった。 迎えた惣領を継いだ菊池武光を伴い、阿蘇惟澄の所領を通過して菊池氏の隈府山に入った。 そして二人目は。 足利尊氏の庶子ながら父に疎まれる、の養子になっていた。 しかし師直は、配下に直義を攻めさせた。 この時、直義を助けたのが肥後武士・だった。 河尻氏は、の孫・実明を源流とし、飽田南郷川尻(現:熊本市)にあった国衙役人の系統にある清和源姓の一族とされる。 鎌倉時代中期には、がを招いてをし、朝廷や北条氏との関係を設けて勢力を伸ばした。 肥後国の中では北朝に属していた。 河尻幸俊に招かれ肥後に入った足利直冬は、の威を借りて九州の武士団に指揮下に集結する呼びかけを行い、また所領安堵などを与えた。 その一方で肥後の探題方に与する勢力を攻略し、観応元年(1350年)大宰府に入った。 足利尊氏や高師直らは直冬討伐令を発した。 そして、菊池には南朝の懐良親王が在した。 こうして、元号でも正平・・貞和(足利直義が用いた)の三つが並ぶ、肥後版を特色づける三勢力の鼎立状態に突入した。 宮方(南朝方):懐良親王、菊池武光、阿蘇惟澄、五条頼光• 尊氏方(探題方):・()親子• 直冬方(佐殿方):足利直冬、河尻幸俊、(肥後大浦)、(筑後) 観応2年(1351年)2月高師直・師泰が権力闘争に敗れ殺されると、足利直義は権力を掌握し、直冬方は勢いを得た。 直冬は鎮西探題に、河尻幸俊は肥後国守護に就任した。 一色氏は宮方と一時協定を結び、菊池武光らは筑後に進んで直冬方と激しく戦った。 しかし同年が成り、翌年に直義が殺害されると、同様に勢いを失墜した足利直冬は九州から逃れ、三つ巴の状態は終わった。 筑後川の戦い [ ] 直冬逃亡によって再び南北朝対峙の状態に戻った九州では、探題方対佐殿方の内紛を尻目に宮方は勢いを強めていた。 懐良親王の威光に加え、合戦を指揮した菊池武光のカリスマ性もあり、肥後はふたたび「南朝一辺倒」となった。 一色範氏・直氏親子は九州を脱した。 こうなると、少弐氏や大友氏など九州探題の一色氏と対立していた旧守護派は宮方と手を結ぶ必要が無くなり、再び対立するようになった。 菊池武光は五条頼光などを集めて北上し、頼尚も・・などと結集しこれを迎え、翌年両軍はで激突した。 7月19日に始まった戦闘は、8月6日宮方の夜襲で決した。 双方かなりの痛手を負ったが、少弐軍は敗退して以後衰退し、菊池氏は博多合戦の恨みを晴らした。 その政治機構は、父・少弐頼尚に背いて南朝方に着いていたを筆頭とする12人の府官によって成ったが、実際は肥後守護となった菊池武光ら菊池一族が握った。 この頃には中央での南朝勢力は衰えていたため、征西府は幕府から独立した軍事政権の様相を帯びた。 これはや高麗との国交において顕著で、貿易権の掌握や、取締りを求める明からの使節が征西府に赴いたところや、明が「良懐」すなわち懐良親王を「日本正君」にしたところからも窺える。 当然の成り行きながら足利幕府は征西府を認めず、肥後守護に大友氏時を任じ、そして後任に阿蘇惟澄を推すなど南朝方の内部瓦解を画策するなどの行動を取っていた。 この後二年間は筑後川流域を戦場に争ったが、武光そしてが亡くなり、宮方は肥後まで押し戻された。 武政が築いたとも言われる本拠・ に篭った宮方は、今川貞世に完全に取り囲まれていた。 さらに貞世は九州三人衆と呼ばれた・・にも参戦を命じ、菊池氏の殲滅を図った。 しかしここで不可解なことが起こる。 当初消極的な態度を見せた少弐冬資が島津氏久に説得されて参陣すると、貞世は冬資を殺害する挙に出た()。 氏久は怒り、以後反貞世に態度を転じた。 このような混乱は宮方でも起こっていた。 懐良親王は亡き武政の嫡男・と意見が衝突し、征西将軍職を辞した。 武朝は後任のを奉じて肥前に攻め込んだが敗退。 肥後の臼間野・大水()でも大敗した。 反抗を見せる島津氏を、の国人にを起こさせ封じた今川貞世は、菊池氏との争いに決着をつけるべく戦力を結集した。 奇襲に討って出た菊池武朝は詫麻原の戦いに勝利するも焼け石に水。 そして翌年、中央でが成ったことを契機に武朝は降伏し、今川貞世の肥後制圧は完了した。 今川貞世は菊池氏の本領を安堵し武朝を肥後国守護代に任命するなど九州勢力の掌握に努めたが、かえってこれは征西府再現を狙っているのではという将軍の嫌疑を生み、2年(1395年)貞世は罷免された。 室町の肥後 [ ] 菊池氏の盛衰 [ ] 今川貞世が去りが九州探題に就くと、菊池氏はまたも反逆の姿勢を顕わにした。 しかし、続く断続的な戦乱の中菊池氏は段々と衰え、代わってが勢力を伸ばした。 しかしこれも一時期なもので、南北朝時代に名を馳せた河尻氏とともに応永年間には目立った活躍を見せなくなった。 菊池氏は一時的に勢いを取り戻す。 は肥後守護職に任ぜられたものの、阿蘇氏や相良氏の勢力圏にまでは守護の権力を及ぼすことはできず、一国を支配するだけの権力を打ち立てられず、菊池氏の歴代守護を悩ませることになった。 3年(1431年)の代になると親幕府の態度を表し、筑後・肥後の守護に任じられた。 菊池城下は隈本に代わり(隈府)となった。 次代のは日朝貿易に乗り出し、また城下に玉祥寺や碧巌寺を建立するなど、その富と徳は褒め称えられた。 しかし後半生には筑後守護職を大友氏に奪われて日朝貿易が不可能となり、相良氏の八代進出にも無策のままで終わった。 これが菊池氏衰退の始まりとされる。 次代は守護職も継承し、公権力を用いた菊池城下の整備を行い、菊池五山や城下町の形成がこの頃行われた。 重朝はまた、文化人としての業績も残した。 重臣のとともに建立し、招かれたが詠んだ漢詩に残される孔子堂。 の造営。 またの会も多く催した。 13年(1481年)8月に興行した万句連歌は、後に書写されたものが伝わり、会の参加者を知ることが出来る。 それによるとほとんどが肥後北部の者で、菊池氏系の有力庶氏は加わっていない。 また、半数は菊池氏の直臣の名が見られ、特に隈部氏からは多くの出席が見られる。 この頃、菊池氏勢力下の政務は隈部氏・・が家老家として執り行い、かつて「菊池家憲」で定められた合議制は影も形も無かった。 重朝が亡くなった2年(1493年)、菊池惣領は嫡子が継いだが、彼が最後の菊池本家嫡流となった。 阿蘇氏の分裂、矢部郷に拠点を移す。 「浜の館」の隆盛 [ ] 一方、阿蘇氏は一族分断の危機に晒されていた。 この時から阿蘇一族はふたつの系列に分かれて対立を始めた。 — — はに本拠を置き九州探題や大友氏の支持を得ていたが、阿蘇神社領を配下に置き菊池氏に支援された惟武 — — を抑えられなかった。 11年(1404年)には惟郷が攻め入り、同族での合戦となった。 この時には幕府が仲裁に入った。 その後も争いは続いたが、3年(1451年)一族長老らの決議により惟兼の子・を惟忠の養子として両統の一本化を図った。 しかし、惟忠は実権を手放さなかったため、文明17年(1485年)惟歳とその子・大宮司は相良氏の助力を受け、一方の惟忠と子・は守護菊池重朝の支援を取り付けて(現:上益城郡杉木・山田)で激突した。 戦いは惟忠と惟憲側の勝利(幕の平合戦)に終わった。 人吉と八代 [ ] 南北朝時代、球磨地方の相良氏は多良木の上相良と人吉の下相良に分かれ、阿蘇氏のような対立を繰り返していた。 この膠着状態に決着をつけ当地の統一を成したのは、5年(1448年)上相良を滅ぼしただった。 だがこの実態は庶家によるとみなされている。 長続は守護・菊池為邦からの領有権を獲得し、4年(1463年)には助力の引き換えに、高田郷(現:八代市南部)も領地に加えた。 相良氏の援助を受けに戻った名和顕忠は、しかし高田郷を惜しみ、文明8年(1476年)薩摩の牛屎院へ出兵した相良氏の隙を突いて高田郷に攻め込んだ。 長続の嫡子は天草領主を味方に引き込み防いだ。 文明14年(1482年)ふたたび顕忠が攻めると、またも天草衆と共同して為続はこれを撥ね返すと、そのまま八代を攻撃し2年後には制圧に成功した。 勢いを借りて豊福(現:宇城市、旧松橋町)まで進出した。 だが、明応8年(1499年)には菊池能運の助力を得た名和氏に敗退し、松橋・八代を手放して球磨へ引き戻った。 島々に拠る武士団 [ ] 天草地方の武士団は、ほぼ島々ごとに群拠した。 鎌倉時代前期には、天草下島西北部の菊池氏系とされる地頭職、本砥島(下島の中南部)の系とされる天草氏、『蒙古襲来絵詞』にその活躍を記されたのが知られる。 志岐氏が地頭職を得たのは元久2年(1205年)に始まるとされ、当地では新興の勢力であった ため、北条氏や探題・一色氏と結ぶなど、その時々の権力者との繋がりを得て勢力維持に努めた。 天草氏は、で活躍したの末裔とされ、貞永2年(1233年)の女子・播磨局が本砥島の地頭職を継承したことに始まる。 大蔵氏系とされる大矢野氏は、元寇での記録以降、その活動は不明だった。 室町中期には、天草地方を舞台とする騒乱が始まる。 名和顕忠を挟み展開した菊池氏と相良氏の争いは天草諸武士を巻き入れ、菊池方として活躍したのの記録が残る。 またこの頃には天草氏の勢力が強まり、志岐氏やを圧迫した。 これは守護・菊池能運の仲裁で一旦鎮まったが、戦国期にはふたたび戦乱を起こすこととなる。 肥後の戦国時代 [ ] 菊池氏正系の断絶 [ ] は(1493年)あるいは(1467年)を始期とするが、肥後国では菊池能運が死去した永正元年(1504年)に始まるとされる。 阿蘇氏が最盛期を迎える [ ] の内部紛争である(別名、 場所:杉木付近)にが介入して破れてから、菊池氏の支配域減少と指導性低下は顕著だった。 を継いだ重朝の子・能運は直臣の反抗に遭い、元年(1501年)に亡命、一族は合議の末を守護に据えた。 2年後能運はやらと連携し、らの支援も取り付けて隈府奪回に成功したが、戦傷が元で翌年死去した。 能運には子がおらず、相続争いが勃発した。 その後、阿蘇氏は矢部を拠点に勢力を拡大。 隆盛を極めていく。 菊池氏の衰退 [ ] 能運の遺言に基づきの子が当主となったが、これに反発する一族は、菊池氏に代わって勢力をつけてきた阿蘇氏・()を後継・守護職に推した。 永正3年(1506年)、惟長の背後から肥後掌握を画策していた大友氏が兵を率いて直接介入し、菊池城に入ったは大宮司を弟のに譲り、菊池武経を名乗り当主の座についた。 政隆は逃亡し玉名や島原で抵抗を続けるが3年後に捕縛され、久米安国寺(菊池郡泗水町)で自害した。 しかし、惟長改め菊池武経は驕慢で、家臣からの支持を受けられずわずか3年で地位を解かれた。 この背景には、黒幕の意向に添えなかったためとの説 や大友氏が菊池家乗っ取りと肥後を支配するために惟長(武経)を使い捨てにするつもりだったとする説 がある。 菊池惣領には、詫磨氏からが擁立されたが、これは形ばかりのものだった。 菊池氏滅亡 [ ] 菊池氏正系断絶の際に策略を巡らした大友親治・らの目的は、菊池家乗っ取りと肥後支配にあった。 永正17年(1520年)義鑑の弟が菊池姓を名乗り家督を継いだ。 しかし隈府には入らず、を本拠とした、彼を輔弼したのは、・本郷長賢・田島重賢など飽田・詫麻郡の武士だった。 特に鹿子木親員は国内の紛争調停に活躍し、また藤崎宮再建の奏請や連歌師との交流など、文人武将としての能力も発揮した。 大友氏が目指す肥後支配の一環だった菊池義武は、やがて独自色を強めていった。 これは、2年(1533年)九州北部を狙うが提示した筑後守護職に誘われ出兵したことで明白となり、大友本家当主の兄・義鑑の激怒を買った。 義鑑は肥後に攻め入り、義武は島原を経ての下へ逃げ込んだ。 義鑑は大内氏との和睦に応じた後、天文12年(1543年)には肥後守護職に就き、肥後の大方を支配した。 しかし天文19年(1550年)2月に義鑑がで殺害されると、義武は勢いを取り戻し、かつての重臣や名和氏・相良氏らの協力を取り付けて隈本に戻った。 だがこれも、阿蘇氏や城氏を引き入れた義鑑の嫡子・(宗麟)に攻め込まれ、これに抗し難く島原へ逃亡、再び相良家を頼る。 相良晴広は薩摩のに和睦斡旋を依頼するなどして、大友義鎮に菊池義武との和を請い続けたが合意には至らず、義武は天文23年(1554年)義鎮の再三の帰還の命に覚悟を決め豊後へと帰還する。 しかしその道中で大友勢に取り囲まれ已む無く自害して果てた。 ここに肥後武士の雄・菊池氏は滅んだ。 大友氏は肥後北部を掌握し、政治の実務は旧菊池家臣団に任せる政策を採った。 草刈場と化した肥後 [ ] 一旦は平安を見た大友氏による支配は程なくほころびを生じ、肥後は諸勢力によるの様相を呈し始める。 2年(1559年)、現在の菊鹿町で、それぞれがとして独自性を持ち出した旧菊池家臣の権力争いが激化し始めた。 はでに敗れると、その子・は大友氏を頼り、対抗して隈部氏は肥前のに助力を請いた。 事態は6年(1578年)11月、での敗北によって動き出した。 龍造寺氏はこれを好機と捉え南下を開始し、2年後には肥後に迫った。 筒ヶ嶽城(荒尾市)のを下し、さらに次男を大将とする軍は隈部氏と共同戦線を張り、長坂城(山鹿市)に進め赤星方の星子中務廉正を攻略した。 翌年には嫡子・を大将に据えて再び軍を進めた。 赤星統家は人質を出して降伏し、菊池城を退去した。 その後には隈部親永が入り、肥後北部の支配権は大友氏から龍造寺氏へ移った。 一方、隈本城を守るは龍造寺・隈部連合への対抗として、大友氏ではなく薩摩の島津氏と結んだ。 国境を接し、永禄5年(1562年)にの領地回復の為にと盟約を結んでいた相良氏であったが、翌年にのと結び島津氏の(大明司塁)を落城させる。 それにより両者の関係は悪化し、貴久の後を継いだは永禄12年(1569年)の援軍としてに居した相良勢を追い出した。 島津氏はそれ以後、天正6年(1578年)までに薩摩国、大隅国、日向国と立て続けに統一、さらに耳川の戦いで大友氏を破り、北進の足場を固めていた。 天正8年(1580年)城氏の求めに応じて島津義久は・を肥後へ派遣し、隈本城を拠点に大友方につく矢崎城(三角町)の中村惟冬を攻め落とし、さらにが篭るをも攻略した。 しかし、これら島津氏の遠征は相良氏の領地である葦北・八代を海路で越えるもの であり、この時には本格化するには至らなかった。 期せずして肥後の防波堤となった相良氏であったが、九州制覇を目指す島津氏に激しく攻められることとなる。 天正8年9月、島津方はを将に据えた軍でを攻撃し、一年の攻防の末に落とす と、は葦北七浦割譲を条件に和睦を結んだ。 島津氏は、相良氏に阿蘇氏攻略の先鋒を命じ、義陽はかつて盟友の間柄でもあった阿蘇方の(宗運)とで矛を交えざるを得なくなった。 この戦いで義陽は戦死する。 阿蘇氏、矢部の拠点を失う(豪族としての終焉) [ ] 龍造寺配下にあった肥前のは、島津氏に通じた。 天正12年(1584年)初め、裏切りに龍造寺隆信は懲罰の兵を島原に向け、島津義久はこれを好機と捉えた。 3月、大将・以下の大軍を肥前に進め、龍造寺氏との決戦()に臨んだ島津方は激戦の末勝利を掴み、肥後の覇権を手中にした。 よもや肥後武士は反抗の態度を示さず、9月8日にはが八代に到着し、12日には隈本城に入った。 ら肥後北部の国人らも恭順の意を示す中、唯一大友氏との繋がりを持つ阿蘇氏だけが従わなかった。 しかしこれも、阿蘇方の智将甲斐親直が天正13年(1585年)7月3日に没すると島津氏は攻撃を始め、御船の・宗傳父子など、阿蘇方勢力下の城を次々を攻め落とし、翌年には阿蘇本拠の矢部を落とし、肥後制圧を完全なものとした。 島津氏は鹿児島・種子島に伝来した鉄砲を有力な武器として、九州各地の戦いで圧倒した。 島津氏は八代を拠点に、各要所に配下の番衆を置いて肥後支配を始めた。 しかし、既に占拠した日向国のように地頭職に家臣を就け、その配下に地域の武士団を納めて軍事組織化するには至らなかった。 これは、異なる統治手法を用いようとしたのではなく、に発した新たな時代の奔流が猶予を与えなかったためである。 天草へのキリスト教伝播 [ ] 戦国期は天草にも訪れ、各氏族は争いを繰り返していた。 この状況に一石を投じたのは3年(1560年)、栖本氏を攻める上津浦氏を支援したが導入した隊の威力だった。 天草諸氏はその有効性を認め、導入のための布教を許した。 永禄9年(1566年)はの日本布教長に宣教師派遣を要請した。 これに応え、が志岐に赴いて教会堂が建設され、また を鎮経に施しドン・ジョアンの洗礼名を与えた。 この教会堂は日本布教の一大拠点となり、永禄11年(1568年)には日本中の宣教師が集まり会議が催され、元年(1570年)にはトーレスの引退とへの布教長引継ぎが行われた。 志岐氏領地の富岡港(現:)にはカブラルとともにも上陸した。 しかし後に、志岐鎮経は棄教しキリスト教徒迫害に転じる。 これは、トーレスの死や後任カブラルとの考えの食い違い、家臣と貿易船員との間に生じたトラブルもあったが、の本拠地がに移ってしまったことが決定的だった。 が著した『日本史(Historia de Iapan)』では、鎮経の評判はすこぶる悪い。 志岐氏に代わってキリスト教を受容したのは(洗礼名ミゲル)だった。 元亀2年(1571年、永禄12年とも )アルメイダを招き、嫡男・(洗礼名ジョアン)以下家臣らとともに洗礼を受けた。 この後数年で下島中南部を起点に天草諸島全域にキリスト教が広まった。 島津氏による肥後制圧の際、天草地方もまたその支配下に入ったが、志岐氏・天草氏・上津浦氏・大矢野氏・栖本氏はそれぞれ独自性を維持し、国人として命脈を繋いだ。 彼らを指してと呼ばれる。 港湾都市の発達 [ ] 中世後期、日本は経済発達による交易も盛んになり、肥後にも外国まで知られた港湾都市が発達した。 高瀬(現:玉名市)は筥崎宮領に属し、菊池川と繁根木川河口に挟まれた交通の要所であった。 鎌倉時代にはのなどが建立され、に渡海する前のも立ち寄ったという。 高瀬氏は願行寺をはじめとする仏閣への寄進や町の整備などに尽力し、問屋町や職人町の形成に寄与した。 日朝貿易も盛んに行われ 、後に高瀬川底から発見された中国の類からも、その繁栄ぶりを窺うことができる。 菊池能運が宇土為光を討伐した際にが戦死すると保田木城は主不在となり 、後の大友氏肥後支配時に自治都市としての性格を強めた。 足利直冬を迎えた河尻幸俊が拠点とした河尻もまた、白川と緑川の河口域にある港湾都市として栄えた。 永正14年(1517年)訪れた連歌師のは、「千舟より川やちりはう柳かげ」と河尻の様子を詠んでいる。 応永年間に河尻氏の勢力が衰えると、河尻は特定の支配を受けない「公界」としての性格を強めた。 天文8年(1539年)菊池方と相良方が利害調整会談の場を河尻で設けたり 、上京道中の島津家久一行が通る際に関銭を支払わされたなどは、この「公界」河尻ならではの事例とされる。 宣教師アルメイダは永禄7年(1564年)の手紙に、河尻を指して「大なる町」という記述を残している。 建武の新政における論功で地頭職を得たが入りを築いてから、城下町およびの門前町として八代は繁栄した。 相良氏領下の時代には、外港の徳淵浦を基点とする貿易で八代は栄えた。 ・晴広は貿易船「市来丸」を建造して主にを行ったが、町衆による中国貿易も盛んであった。 阿蘇家本拠・山都町「浜の館」の出土品 [ ] これらの都市に代表される交易がもたらしたひとつの結実は、本拠であった(現、)の地で発見された。 1973年(昭和48年)、県教育委員会は敷地を調査し、建物および庭園跡を発掘した。 さらに、の延板、・・染付・三彩・等のなどが出土した。 これらのほとんどは輸入品であり、この遺跡が本拠の「」であったと同定されている。 出土品21点は「肥後阿蘇氏浜御所跡出土品」として国のに指定されている。 近世のはじまり [ ] 豊臣秀吉の九州統一 [ ] 日本史において一般にとはの上洛を起点とするが、肥後では豊臣秀吉の九州統一をはじまりとしている。 天正15年(1587年)3月、大軍を率いた秀吉が九州に入ると、後は文字通り破竹の勢いで南下した。 4月11日には肥後南関、16日には隈本城、19日には八代城、26日には水俣城に至った。 5月8日には出水で島津義久を、次いで・を降伏させると踵を返し、6月2日には隈本へ舞い戻った。 すると秀吉は肥後の国人52人に本領安堵の書状を発すると同時に、に肥後一国を与えた。 同7日にはに筑前・筑後を、に豊前六郡を与え、九州の国割りを終えるとへの帰路についた。 難治の国の佐々成政 [ ] 織田信長配下の猛将として名高かった佐々成政は秀吉に反発し、何度も反抗しては降伏を繰り返していた。 その成政が肥後国を貰い受けたことは意外と評されもする が、九州遠征中の5月に肥後国人とが授かった本領安堵の朱印状には「羽柴陸奥守(佐々成政)にせしむ」 とあり、既に官職と羽柴姓が与えられていることからも、秀吉はこの時には既に成政に肥後を統治させようと予定していたと窺える。 また6月2日には成政をに任命し、肥後国人52人に与えた書状にも領地の目録を成政から受け取るよう指示されていることから、秀吉は成政に期待を寄せていたとも考えられる。 なお、秀吉が肥後統治に当たり、をおこさせない、国人の所領安堵、の3年間禁止などを厳命した五箇条の定書 は、宛名が「佐々内蔵助」となっており、その信憑性が取り沙汰されている。 難治の国 ・肥後行政に乗り出した佐々成政は、領地目録を作成するため各国人に所領の検地を要求した。 朱印状には、本領安堵には成政に従い目録を受けることが条件として記されていたが、国人たちはこのような・体制は理解の埒外にあり、彼らはこれを秀吉が保障した自治権の侵害と捉えた。 最初に反発の態度を示したのが隈府城を拠点としていただった。 彼は印状を盾に検地を拒否し、いわゆるが勃発した。 8月6日、甥の を討伐に向けたが抵抗を受け、成政は家臣に徴兵した国人衆らを加えた総勢6000の軍で隈府城を攻めた。 親永は息子・の城村城に入り、ここに篭城して、肥後中の国人に檄を飛ばした。 これに呼応したのがの・だった。 赤星氏・城氏・詫摩氏ら有力な国人もこれに合流し、総勢35000の一揆軍で隈本城に向かった。 この報告を受けた佐々成政は隈府城に付城を築き、急遽隈本に戻った。 成政はで一揆軍を破ったが、隈府では佐々宗能が隈部方の内空閑静房に討ち取られた。 さらに田中城(菊池郡)でやらも900人の手兵で立ち上がった。 成政の救援要請を受けた柳川のは2000の兵を隈府城に差し向け、また田中城もやらに攻め込まれた。 一揆の知らせを受けた秀吉は12月 、隣接する諸大名に出兵を命じ、肥後鎮圧と国人殲滅を指示した。 大軍に囲まれた隈部親永・親安は降伏し処刑された。 安国寺恵瓊は和仁親実ら家臣の忠節を称えたが、秀吉は許さず、ことごとく処罰された。 さらに天正16年(1588年)にはを始めとする配下の将8人と20000人の兵を肥後に送り、残党をしらみつぶしにし、また検地の実施など統治を行わせた。 秀吉は一揆勃発の責任を佐々成政に求め、猛将は閏5月14日で切腹し果てた。 残党の鎮圧 [ ] 佐々成政切腹の翌日、秀吉は肥後を二分し、とに与えた。 清正は隈本城に拠り、肥後北部19万5千石の領内にらを配置し、与力に参じた国人、佐々の旧臣、領内や遠国の浪人などを召抱えた。 一方の行長は宇土城を拠点に、肥後南部と天草14万5千石を領有し直臣を要地に置いた。 人吉の相良氏は秀吉進攻時に島津氏に付いたが、家臣の懸命な交渉が功を奏し、八代や葦北を失いこそしたが、人吉の本領は安堵されていた。 しかし一揆の際、秀吉の命を受けて一揆鎮圧に出陣した島津義弘、の軍勢を佐敷で足止めするという失態を犯す。 これは佐々成政が、島津軍が自身を討伐する為に出陣したものと勘違いし、その足止めを相良家に依頼した事による行為であった。 忠棟は、に対し「相良の軍勢差し止めは一揆行動である為、が大坂に上がった際には糾弾すべきである」と訴えている。 三成、藤孝も相良家の行為を逆心と捕え、義弘上洛の折りにはその際の事情を秀吉の耳に入れる心算であると述べている。 秀吉も当然ながらこれに激怒したが、深水宗方が大坂へ出向き陳謝した事で許され、相良は領地を安堵された。 国人一揆の際佐々方に加わった 天草五人衆は、天正17年(1589年)に小西行長が命じた宇土城普請への資本供出に反乱を起こした。 最初にが異議を唱えて立ち上がり、・・大矢野種基・も同調して一揆を起こした。 行長は3000人の兵を差し向けたが、連合した天草五人衆は5600の兵を揃え袋浦(富岡)でこれを迎え撃破した。 行長は、加藤清正や肥前の有馬・大村氏からの応援を受け包囲網を形成し攻めに転じた。 この戦いで清正は最も活躍し、行長は同じキリシタンの情が働き裏で投降を勧めた。 しかし一揆方は本渡城に篭って徹底抗戦の態度を崩さず、多くが戦死した。 志岐麟泉は薩摩に逃れ、他の四氏は最終的に降伏し、行長の家臣団に組み込まれた。 「」も参照 5年(1600年)9月、全国を二分する天下分け目の戦いは、九州の大名も東西に分けた。 方(東軍)には加藤清正のほか黒田(中津)・鍋島(肥前)・細川(小倉)らが、方(西軍)には小西行長のほか島津・大友・立花(柳川)がついた。 相良氏は当初西軍に属したが、以後東軍に鞍替えした。 肥後では有馬・大村氏の支援を受けた清正が、島津氏らに応援されたが守る宇土城を攻めた。 攻防戦は長引き10月まで続いたが、石田方敗北と小西行長処刑の知らせがもたらされ、隼人は開城して自決した。 戦後の論功行賞で、加藤清正は人吉・天草を除く肥後一国を与えられ、熊本藩が成立した。 その石高は、以前からの19万5千石と小西氏旧領14万5千石の他に、豊後の一部や旧の直轄領が加わり、54万石となった。 一気に大大名の仲間入りを果たした清正は家臣団の拡張を迫られ、小西・立花の旧家臣らを召抱え対応した。 そして、慶長年間には修復を重ねて 用いていた隈本城を含む茶臼山一帯に、大規模な近代城を築く工事に着手し、の才が遺憾無く降り注がれた が慶長12年(1607年)に完成を見た。 この際、清正は旧来の「隈本」を「熊本」に改めているが、これは「隈」の字が「阜(おか)に畏(おそ)れる」とも読めるため大名の居城としてふさわしくないと考えたことによるとも言われる。 この築城の様子を詠った「熊本に 石引きまはす茶臼山 敵にかとうの城の主かな」が流行し、清正は喜んだとも言う。 治水事業やそのカリスマ性から領民からも慕われ 、にも熱心だった加藤清正は慶長16年(1611年)、で・会見に同席した後、肥後への帰路にあった船上で死去した。 嫡男・は当時10歳であった。 はを監国として肥後に派遣し、藩政は5家老を定めて合議制とした。 翌年には忠広の相続が認められたが、この時にも幕府は水俣・宇土・矢部の三城破却を指示し、また5家老の異動を命じた。 この命令では筆頭家老のが格下げ、が筆頭兼八代城代に就き、ここに因縁が生まれた。 4年(1618年)、加藤右馬允派(馬方)は、加藤美作一派(牛方)を謀反の恐れありと訴え、美作らはただちに反論を上奏した。 これは将軍・の裁量事項となり、で牛方が豊臣方に内通した疑いや、徳川方に関するあらぬ噂を流布させたと断罪され、美作一派はことごとく刑に処された。 この背景には、急激に家臣団を膨張させた清正が亡くなり、元々多方面からの寄せ集まりだった集団の結束にほころびが生じた結果だともされる。 この事件は「」と呼ばれる。 幼少ゆえ牛方馬方騒動の処罰が及ばなかった加藤忠広は、しかし将軍家の跡目争いに巻き込まれる。 9年(1632年)徳川秀忠死去の際、を奉った暗殺計画のが表各大名家に届いた。 江戸にあった忠広嫡子・はこれを幕府に届けず、元から忠長と親しい間柄にあった加藤氏は処罰の対象となった。 肥後国は没収され忠広は、光広はに処された。 肥後へはがされた。 天草顛末 [ ] 旧小西領のうち天草は熊本藩に含まれず、 の肥前唐津領飛び地とされた。 これには、一度は熊本藩領とされたが、熱心な信者だった加藤清正がが根付く当地を嫌い、鶴崎との交換を申し出て慶長8年(1603年)に認められたとも言われる が、後の研究で少なくとも慶長6年の段階で熊本藩領には天草が無く鶴崎がある事、肥前唐津藩の天草支配を示す証拠が見つかっていることから、疑問も呈されている。 天正15年(1587年)発布された以降も、小西行長配下となった天草衆によるキリスト教保護は続き、天草諸島はキリシタンの本拠地となってゆく。 の衰退に伴い、豊後にあった(修練院)や(大神学校)が天草に移り、河内浦にノビシャド・天草コレジオが建てられ、のや修道士たちが滞在して布教に当たる傍ら、を導入し『』や『』また辞典などの出版活動も行われた。 文禄元年(1592年)には天草4箇所にレジデンシア(司祭館)が、慶長4年(1599年)には長崎から移されて(小神学校)が志岐に、そして翌年にはが7箇所に建設された。 天草諸島住民の過半はキリスト教に帰依していた。 「」も参照 一度は洗礼を受けイエズス会に協力的だった寺沢広高だが、慶長9年(1604年)に転じて弾圧側に廻った。 この態度は、純粋な宗教的動機ではなく政治的な思惑によるとされる。 慶長18年(1613年)幕府が宣教師追放令を出すと、寺沢氏は宣教師を外国に追放し、レジデンシアの取り壊しに乗り出した。 キリシタンの指導者たちは転宗するまで拷問を受け、一般の信者たちも代官から改宗を迫られた。 その一方で寺沢氏は天草に対し強圧的な支配を下していた。 肥前唐津藩による検地の結果、天草の石高は米の取れ高で3万7千石(この他、商品作物や漁業・塩業など5千石があり、天草総石高は4万2千石)とされたが、これは実力が伴わない過大なものであり 、背景には寺沢氏が自藩を大きく見せかけたい見栄によるものと考えられる。 しかし領民にはあくまで石高相当の租税が課され、ほぼ同じ状況下にあった島原領民ともども搾取に苦しめられた。 は寛永14年(1637年)10月、島原の代官家襲撃に始まるが、ほぼ同じ時期に大矢野でも農民が立ち上がった。 彼らは、小西行長の旧臣・の子を「ママコス上人(神父)が預言した天童」と奉じて蜂起した。 連絡を受けた唐津藩は1500の軍を送ったが一揆方はこれを破り、本渡に進んだ。 さらに天草支配の本拠・富岡城を取り囲んだ。 しかしなかなか落とせず、やがて熊本藩からの討伐軍が来るという噂が流れたため、一行は島原に渡った。 その後、篭った址で九州諸藩軍の総攻撃に曝され、ただ一人の内通者を除きすべて討死した。 四郎時貞を討ち取ったのは熊本藩の陳佐左衛門だった。 乱の後、島原の松倉氏は改易、天草は寺沢氏からの領地に鞍替えされた。 この際、成和藩による調査では米の石高38,732石のうち6,732石が失われ3,302石が荒らされたとある。 家治は富岡城修築などに乗り出したが、寛永18年(1641年)に転封となった。 以後天草は天領となり、代官が着任した。 人吉城の石垣 人吉藩の成立 [ ] 秀吉の九州統一の際に相良家存続に奔走した深水宗方は、自身の後継の奉行としてのの嫡子であるを指名したが一族の反対に遭い、頼兄と甥であるの二人を後継とした。 当主のも朝鮮出兵の際に深水頼蔵を軍師(あるいは参謀)、犬童頼兄をその補佐としたが、両者は大変不仲であり、その影響もあってか朝鮮出兵の留守を狙い深水一族は騒動を起こしたり、加藤清正を頼り佐敷に逃散するなどしたがことごとく失敗し、頼蔵は清正に就き従いで死去、頼兄は相良家に於ける地位を高めていった。 威風を確たるものにした犬童頼兄は関ヶ原の戦いでも徳川方との密通で活躍し、相良家安泰に貢献したが、後に専横のふるまいが目立つようになった。 頼房は遺言に頼兄征伐を残し、継いだは断罪を幕府に申し出た。 寛永17年(1640年)頼兄らは江戸に呼び出され、預かりとされる。 人吉に残った一族は屋敷に立て篭もり反抗したが、これも鎮圧された。 頼兄は最終的にへとなり、その地で没した。 人吉藩相良家は、江戸時代の諸藩の中では島津氏とともに最古から続く家系となった。 石高は2万2千石とされた。 近世人吉城建築は文禄年間から始まっていたが、本格的には慶長12年(1607年)からとされる。 人吉藩ではは行われず、各村には郷侍が居住していた。 細川家の入部 [ ] 寛永9年(1632年)、肥後国にが入った。 一行は先頭に加藤清正の零牌を掲げ、熊本城に入場すると先ず清正公廟に遥拝したという。 隠居していた先代・は八代城に入った。 戦国時代、主君の死に臨み家臣が追い腹を切る風習があり、これは江戸時代初頭まで続いた。 細川家では寛永18年(1641年)3月に藩主細川忠利が、2年(1645年)閏5月には弟・、同年12月には前藩主・忠興が、慶安2年(1649年)には藩主が没した。 このそれぞれの際、何人もの者が現れた。 この時の出来事を元には『』『』を著した。 この作中、殉死した阿部弥一右衛門子孫の悲劇を物語っているが、現在ではこれは史実に則していないとされる。 一方、細川光尚が没した際、嫡子・はまだ6歳であり、後継問題が生じた。 幕府は熊本藩に薩摩の抑えを役割づけていたため、幼少藩主では心許ないと考え、国替もしくは宇土のと熊本藩を二分する案も提示された。 しかし、家臣が過去の功労を挙げ、また光尚の忠節溢れた遺言が好を奏し、細川家は分裂の危機を逃れた。 綱利は成長後の寛文6年(1666年)、弟・を分家させて肥後新田藩(江戸鉄砲洲に屋敷を持ったが、後に肥後高瀬に移したことから高瀬藩とも称する)を創設し、支藩としての役割を持たせた。 江戸時代の熊本 [ ] 手永制 [ ] 熊本藩は寛永12年(1635年)、領内全域に「」(てなが)という地方行政区域を設定し、それぞれを管轄する惣庄屋を置いた。 この手永とは郡と村の中間に当たる区分で、細川氏が豊前小倉藩時代から行っていた制度を適用したものである。 惣庄屋には多く大庄屋や旧菊池・阿蘇氏家臣などが任命され、それぞれの手永にはと呼ばれる役所が置かれた。 そこで惣庄屋は年貢の請負や民政の運営に当たった。 当初手永は領内に100箇所以上設定されたが、統廃合を繰り返して承応2年(1653年)には59へ、そして後には51まで減らされ固定化した。 江戸時代中期になると手永は地方行政の基本単位としての性格を強め、郡単位であったを手永単位に置き換え、さらには代官を惣庄屋の兼任職とするなどの改訂が行われた。 また、制だった惣庄屋もやがて任命制へと変わり、転勤なども実施されるようになり官僚的性質を帯びた。 一般には「水前寺公園」の名で知られる。 各地の模様 [ ] 熊本城下町は、清正の時代に基本構成が出来上がった。 築城に先立ち、白川と合流していたを分離し有明海に注ぐように付け替えた。 また、も白川とから井芹川へ流れ込む様に変え、それぞれが熊本城の堀として機能するようにした。 城の周辺には武家屋敷を置いたが、普請のために古町・新町や坪井、そして京町の一部に町人街が形成された。 は、この頃初めて造られた城下で唯一白川に架かる橋であった。 細川氏入部後も町は発展し、整備が続いた。 寛永13年(1634年)には細川忠利によってが建立され、これは木山方向への街道に沿った茶屋として発達し、時代には風の回遊式庭園・成趣園が完成した。 享和3年(1803年)には成趣園横に藩営の製蝋所が建設され、この蝋運搬にはからを経て川尻まで水運された。 中世の阿蘇は、神亀3年(726年)縁起とされるを中心に修行やの地でもあった。 しかし戦国時代に衰退し、秀吉の九州統一の際に焼き払われた。 これは清正の時代に、黒川村(現:阿蘇市黒川町)に再興された。 江戸時代には大峰修行の傍ら「阿蘇講」と呼ばれる観光案内も行われた。 宝暦年間(1751年 - 1763年)頃からは地としても知られるようになり、・期(1804年 - 1829年)にはに「湯亭」という温泉業者が現れ、なども建てられた。 保元2年(1157年)にが発見したという説が残るは、既に『和名類聚抄』に山鹿郡温泉郷として記述されている。 肥後国人一揆の舞台ともなった山鹿は、江戸時代にはの宿場町として、また温泉町として発達した。 細川忠利は寛永17年(1640年)に山鹿御茶屋を設け、ここにとを招いている。 古い由緒があるという当地の民芸品は、和紙生産の好地であった当時の山鹿を背景に発達し、寛永9年(1632年)将軍に献上された。 また、も江戸時代に盛んになったとされる。 小西氏改易の後宇土城は廃城となったが、細川氏時代にはが置かれ、細川行孝が初代藩主となった。 ただし城は建設されず、陣屋を拠点とした。 彼は、のを陣屋まで引き込む轟泉水道を建設しているが、この費用は祖父・細川忠興の茶入れや掛け軸などを本藩に売却して得た。 八代城(松江城)はの例外として残された。 これは薩摩の抑え、そして外国船来航に備えるためとされる。 細川氏は正保3年(1646年)、家老職の松井家を城代として入れた。 この細川氏入部に従ってのいくつかの窯元も肥後へ移った。 このうち、忠興とともに八代入った上野喜蔵一族は奈良木で窯を開き、万治元年(1658年)には平山に場所を移した。 これは、または在所の高田手永から取って高田焼と呼ばれた。 のの流れを組む陶器を製作し、藩の御用窯として保護を受けた。 また、八代の特産物としてはが以前から知られており、天正2年(1574年)有田の伊藤孫右衛門が八代から苗木を持ち帰り蜜柑栽培を導入したという説もある。 高田蜜柑は九州遠征時の秀吉への、加藤氏時代から幕府への献上品にされた。 人吉の城下町は、の門前町が中心だったが、近世人吉城が建設されてから市域が東側へ拡大して形成された。 これは慶長12年(1607年)から寛永16年(1639年)頃に出来上がったものとされる。 人吉藩では「小成物」と呼ばれる特徴的な納税制度があり、米以外に綿・茶・・楮、または薪や木材・果物など多様な品物が納められた。 特に五木地方の茶と木材は質の高さで知られた。 これらは商品性が高く藩外へ供給されたが、その商取引や運輸を扱う川船問屋など商人が発達したのも人吉の特徴であった。 代官・は天草の郡村行政体制を整備し、復興のために近隣藩からの協力を得て移農を進めた。 しかし、寺沢氏が一度幕府に届け出た4万2千石という数字に付きまとう徴税は如何ともしがたく、重成は繰り返し幕閣にの半減を働きかけた。 だが先例主義の幕府はなかなか承諾せず、ついに重成は江戸に出府して願書を提出し、自刃した。 この重成の死は幕府を動かし、2年(1659年)の再検地によって天草の石高は2万1千石に改められた。 石高の減少は間違いないが、自刃については、病死説もある。 「」を参照 その後4年(1664年)、天草はのの所領とされたが、6年後に移封される際忠昌は民衆の労苦を思い、天草を天領とすべしとの建議を提出し認められた。 戸田氏は富岡城の本丸・二の丸を破却し、これは「戸田の破城」と呼ばれる。 平地が少ない天草地方は、干拓で得たわずかな田畑のほかにが食生活を支える重要な農産物であった。 天草では「カライモ」「カンチョ」「カンボ」などと呼ばれるサツマイモは、記録上では『天草年表事録』の享保10年(1725年)にある記述が初出だが 、これは江戸・小石川に導入された時期よりも古い。 また海産物も重要な食材であった。 下島最南端ので盛んな漁は天正11年(1583年)に紀伊国から移り住んだ岩崎六兵衛が伝えたと言われる。 イワシは食用のほか、漁の餌やとして商品化され、地域の経済を支えた。 治水・灌漑 [ ] 肥後54万石という石高は、天正16年(1588年)に行われた太閤検地で明らかになった数字である。 入部した加藤清正は領内の治水や新田開発を積極的に進め、各河川の改修や・の建設などを行った。 白川流域の・馬場楠井手 、緑川の鵜の瀬堰 、球磨川下流の遙拝堰 などが清正治水の例に挙げられる。 これらによって慶長13年(1608年)の検地では、肥後石高は75万石にまで上がった。 このような大規模な開発は国人割拠の時代には不可能であり、恩恵を受ける民衆は過去を顧みることはなくなり、清正人気をさらに高めた。 細川氏時代になっても有明海などによる新田開発は続いた。 通潤橋 江戸時代後期、農村の疲弊が問題になると惣庄屋層が救済を目的に行う灌漑工事が増えた。 その代表例になるは、矢部手永の惣庄屋・が立案計画し、らが架橋して完成を見た。 この橋によって水に乏しい白糸台地40町への通水が可能となった。 布田はこの他にも13の石橋を建設、溜池や用水路設置、道路整備などを進めた。 この通潤橋建設の手本となったは、計画・惣庄屋三隅丈八、施工・によって架橋された。 後、三隅丈八は明治政府に招かれて東京やの建設にも関与するなど、肥後の石工技術の高さを示した。 人吉盆地球磨川上流には、支流まで加えると総延長数十に及ぶ農業用水路・がある。 この建設は16世紀末に始まるとされ、球磨川に設けられたから多良木村までが作られた。 以後工事が続けられて支流の原田川まで繋がった水路は流域の田畑を潤した。 何を由来に名づけられたか判らない水路は、 多くの百姓が労力をかけて建設されたものである。 元禄期からは藩士・高橋政重が主導し、が設けられた。 これらの灌漑溝は、新たに1万石以上の新田開発を可能にし、また木材の運搬にも用いられた。 飢饉と災害 [ ] 「」も参照 古代から豊かな農産地として知られ、藩による治水灌漑が盛んに行われた肥後も、江戸時代に起こったの影響を免れることはできなかった。 寛永11年(1634年)の凶作、翌年の大風雨がもたらした田畑や家屋への被害に始まったは高齢者や病人など弱者を中心に多くの者を生んだ。 これは、島原・天草の乱を引き起こした一因ともされる。 寛永18年(1641年)は最悪な状況となり、害虫の発生による田畑への被害はの確保にも支障をきたす程で、幕府や藩は対応に追われた。 では、既に14年(1729年)頃からや大風などによる収穫減は始まっており、また厄介な螟虫が発生し充分な駆除が出来ないままに享保17年の長雨とを迎えてしまった。 そのため発行許可を幕府から得たが、現銀の準備が無いままに発行された銀札は信用に劣り、割引率の高さや取り付け騒動などが起こり、早々に停止された。 の時代、があり、西国大名の手伝い普請のために、藩の財政は悪化した。 「」も参照 3年(1791年)4月朔日、2度の大地震によって島原・が崩落、大量のが海に注いでを起こし、沿岸に大きな被害をもたらした。 熊本藩では死者5520人、家屋流出2252棟、田畑約2252町が損害を受けた。 天草天領では死者343人、田畑の損害は約65町に上った。 百姓一揆 [ ] 熊本藩は一揆が少なく、それは強固な地方支配の傍証とまでされていた。 しかし近年、実際には約90件の一揆が領内で勃発し、人吉や天草を含む近世の肥後国では100件を越えていたことが明らかになっている。 これは、西日本ではと並んで最頻の部類に当たる。 熊本藩で起こった一揆の特徴は、先ず規模の小ささがあり、300人以下の一揆が多かった。 またその理由についても、租税など賦役の減免を求めるものと並び、藩札の信用不安に基づく都市騒動、庄屋や村役人の罷免要求も多かった。 ただし惣庄屋排斥を掲げた一揆の記録は無く、逆に寛政元年(1789年)には惣庄屋転出に反対し矢部の農民が熊本城に押しかけるという例もあった。 延喜4年(1747年)には7000〜8000人が参加した熊本藩最大の一揆が葦北郡で起きているが、これも堤防工事で尽力し 農民に理解を示していた郡代・稲津弥右衛門の罷免取り消しを求めた強訴だった。 寛政年間の頃には、凶作や御普請御手伝などの原因から人吉藩は財政が貧窮していた。 武士の家禄返上など倹約策が続く中、4年(1821年)家老職に就いたによる改革を断行し、殖産興業策として・・などの栽培とによる専売を実施した。 この計画のため椎茸を栽培する山への立ち入りが禁じられ、折からの凶作による飢えをなどで凌いでいた農民の反発を買った。 天保12年(1841年)2月2日に始まった一揆は椎茸山を打ち壊し、9日には総勢15000人の一揆方が町中で特権階級業者の屋敷などを襲った。 これは「」と呼ばれる。 一揆側には門葉(相良一族、小衆議派と呼ばれる)のがつき、農民の要求を藩に受け入れさせることで一揆は収束した。 田代政典は自ら自害に及び、相良左仲は一揆先導の嫌疑にて切腹の命に服した。 天領天草では、銀主(ぎんし)と呼ばれる有力者による実効支配が進んだ。 商工業や貸金などで蓄財し、田地の買占めを行った銀主は農民の小作・貧農家を促進した。 現在の五和町にあった石本家は薩摩のと協力して琉球貿易を行ったり 、幕府への貢納が評価されを許されるなどの権勢を誇った。 飢饉や大庄屋の不正(8年(1771年)の「出米騒動」など)によって鬱積した農民の不満はやがて銀主に向けられ、打ちこわしやへの農民などが生じた。 これらを受け、寛政5年(1793年)と8年(1796年)には「天草郡百姓相続方仕法」(あまくさぐんひゃくしょうあいつづけかたしほう)が発令された。 特に後者は「天下無双の徳政」とまで言われた、農民側に立った画期的政策だった。 だが、文政9年(1826年)に仕法運用期間が切れ3年後に大凶作が襲うと、銀主と仕法復活を望む農民の間で対立が激化し、天保14年(1843年)と弘化2年(1845年)には大一揆が勃発した。 天保大一揆では25000人、弘化大一揆では最大15000人が加わった。 弘化年間の一揆では幕府は強硬策に出て、や島原藩からの出兵により鎮圧。 146人の逮捕と首謀者ので対処した。 農民に対しては、不充分ながら施行された仕法が幕末まで断続的に行われ、多少なりとも不満を慰撫した。 「肥後の鳳凰」細川重賢 宝暦の改革 [ ] 江戸中期の熊本藩財政は厳しい状態にあった。 その頃に当たる4年(1747年)、第5代藩主が江戸表での旗本・に殺傷された。 人違いの末の事件だったが、宗孝には子が無かったため弟のが跡目を継いだ。 重賢は長い江戸藩邸での部屋住み時代に、学問に打ち込むかたわら、自藩の貧窮状態を実感していた。 彼は肥後入国以後次々と宝暦の改革と呼ばれる政策を打ち出して藩の建て直しを行い、熊本藩中興の祖と、また「肥後の鳳凰」と賞賛された。 重賢は入国とほぼ同時に「申聞置条々」を示し、まず綱紀粛正を打ち出した。 次いで、財政再建や行政・刑法改革、殖産興業や創立など、また検地を実施し領内年貢課の不公平を是正するなど、次々と手を打った。 この一連の改革において重賢の右腕となったのは、御用人から抜擢を受けて大奉行となったであった。 宝暦の改革の中で特筆すべき一つは、日本最初の刑法典とされる『刑法叢書』の編纂がある。 従来のを廃止して・刑を追加し、受刑者には藩の公的作業を通して習得をさせるなど生活支援も行った。 殖産興業ではや八代ので栽培されたの育成、藩直営で行われた製造がある。 養蚕も奨励されたが、その結実は寛政期以降になってもたらされた。 4年(1754年)(宝暦5年-1755年ともされる )重賢によって設立された藩校時習館(総教は長岡忠英)は、藩政刷新を担う藩士育成にあった。 寛文年間(1661年 — 1673年)熊本で最も盛んな学問はだったが、幕府の方針に倣い中心へと移行していた。 4代藩主は出身のを重宝し、玉山は宗孝にも仕え、そのまま重賢の時習館で初代教授職に就任した。 ここは、藩士のみならず、足軽や陪臣、果ては庶民の子弟でも承認を受ければ入館できた。 ここには武芸所も併設され、生徒は文部両道の教育を受けた。 時習館とほぼ同じ宝暦6年(1756年)、すでに私塾を持ち、重賢を治療した医師・は細川重賢の命で医学校であるを宮寺村(現・)に創設した。 これは薬園・蕃滋園 を持ち、医学とともに薬学も研究された。 ここでは殖産興業の一環としての栽培研究も行われた。 きりしたん崩れと流人たち [ ] 文化2年(1805年)、天草で大量の隠れキリシタンが発覚する事件()が起きた。 その2年前、(現:河浦町)で牛が殺される事件があったが、これは祝日に牛を神に捧げるキリシタンの行為ではとみなされ、極秘に調査が行われていた。 この探索には国照寺住職の大成と今富村庄屋の上田友三郎が当たっていた。 その結果、4つの村に総勢5200人の信者がいることが判明した。 この処遇について報告を受けた幕府は、稀に見る寛大な措置を取った。 既に取り調べの段階で転宗を説得し、キリスト像の破却やまたは改宗を誓う文書の提出などが行われていたこともあって、最終的には「先祖伝来の風習を盲目的に受け継いでいた」だけとして誰一人処罰されなかった。 この決定の背後には、友三郎の兄・の存在が影響したとされる。 天草行政を委託されていた島原藩松平家は天領で伴天連騒動が起きることを恐れ、以前から宜珍ら庄屋層と接触を持っていた。 「天草崩れ」発覚において信者説得に宜珍らは奔走し、事を穏便に済ませた。 宜珍は天草民衆の貧窮解消にも心を砕き、質が高い地元産のに眼をつけて製造の検討にも乗り出した。 かさむ物流費から陶器製造は頓挫したが、天草石そのものをとして販売する道筋を立てた。 宜珍はまた、天草の歴史を伝える『天草嶋鏡』著述や、編纂のために訪れたから測量術を学ぶなどの事歴を残した。 江戸時代を通じて、天草はの刑地でもあった。 江戸や京・大坂などから遠島処分にあった罪人たちは、各村々に割り当てられた。 彼らと村人の間ではトラブルも多く生じ、天草の住人や村役人たちは何度も流刑地免除願いを幕府に提出したが、認められることは無かった。 その一方で、天保3年(1832年)に讒言で罪を得た門主の大僧都・定舜上人(残夢道人)は当地で学問を授けるなど、その高い徳から尊敬を集めた。 上人は明治政府の特赦を得たが、天草へ止まり、1875年(明治8年)に生涯を終えた。 幕末の熊本 [ ] 実学党と勤皇党 [ ] 6年(1809年)に生まれたは秀才の誉れ高く、時習館寮長を経て江戸遊学を許された。 その地でなどとの交流を持ち、の影響を大いに受けた。 酒の失敗で帰国し謹慎中、彼は勉学を通して的朱子学を教える時習館を否定する側に回り、学派の儒者・の影響を色濃く受け、道理の実践を重視する思想を身につけた。 これには家老のらが賛同し、共に学びながら、やがて政治改革を思考する「」結成へと発展していった。 幅広い支持を受ける実学党は、奢侈排除や農村復興、特権商人排斥などを掲げる「時務策」を示して藩政に意見した。 これには主流派であり時習館教義を採る保守傾向を持った「学校党」の反発を生み、両者は長く対立することになる。 年間に交流があった江戸のらがの処分を受けると実学党も影響を被り、長岡是容は家老職を罷免されるなど発言力を急速に失った。 その後、年間に実学党は、是容を中心とした「明徳派」(坪井派)と、小楠中心の「新民派」(沼山津派)に分裂する。 当の横井小楠はの『』に影響され、開国と策を奉じるが、熊本藩では理解を得られず、の求めに応じてへ活躍の場を移した。 また、熊本藩には国学を掲げる「勤皇党」も生まれた。 はとも親交があり、時習館の教授職時代には同館に国学教科を加えもした。 思想家は紫溟の弟子・に学び、熊本城内の千葉城に 私塾「原道館」を創立し、2000人ともいわれる弟子に国学を教えた。 丑歳騒動 [ ] 幕末、人吉藩はらが教えるが主流だったが、幕府ので世話役を務めていたが洋式兵制を持ち込み、両者の対立が激化した。 2年(1862年)、城下の火災で武具類が焼失したことを期に松本らが藩の武装を洋式へ切り替えるよう主張したが、藩主・は許可しなかった。 元年(1865年)、洋式派が頑なな頼基を廃する計画を立てているとの噂が流れ、藩は山鹿流派に松本らを討たせた。 これは丑歳騒動と呼ばれ、洋式派に同情が寄せられた。 藩は武装の再整備に一部洋式を取り入れたが、慶応3年には次代の趨勢に乗り洋式兵制へ全面的に切り替えた。 この際、人吉藩は指導を薩摩藩から受けたが、その影響によってからへの傾斜が強まっていった。 小倉戦争 [ ] 「」も参照 元年(1864年)8月、幕府は九州各藩に長州への出兵を命じた。 佐幕派となった熊本藩もこれに応じ、沼田勘解由率いる一番手2393人が小倉へ向かった。 11月には有吉将監の二番手5436人、さらに長岡護美の3785人が続き、配下に加わった。 この際にはの内部分裂もあり、戦闘には至らなかった。 しかし慶応元年(1865年)、長州の実権を倒幕派が握ったことなどから幕府はふたたび長州の討伐を実行に移した。 熊本藩はこれに批判的ながら出兵に応じ、前回同様小倉に赴任した。 幕府老中・指揮の下戦闘が始まったが、多くの藩や幕府軍までもが傍観を決め込み、は苦戦した。 熊本藩は唯一救援要請に応え、赤坂方面で長州軍を退けた(赤坂・鳥越の戦い。 現在の北九州市立桜丘小学校付近)。 しかし大局は長州側に歩があり、将軍・の訃報が伝わると幕府側は敗走した。 小倉藩は香春まで退却し、当時6歳の幼君豊千代丸(のちの)や家臣の家族たちは熊本藩が保護した。 一行の熊本滞在は半年間に及んだ。 乗り遅れた肥後 [ ] 幕末の、改革に向かう胎動は肥後では具体的な形になって顕れることは無かった。 3年(1870年)、藩所有の軍艦「龍驤」を新政府に献上するにあたり、当時の藩主・は「当藩は、維新への貢献が何もない」と語っている。 これは、地方ゆえに中央の情報から隔絶されていたわけでは決して無い。 の詳細が船津村(現:熊本市)地蔵講帳に記載され 、来航を描いたの絵が小国町役場文書から見つかっている程である。 幕府が命じた相州警備では、熊本藩士が現在の本牧やで任に当たっている。 このような世情が背景にあったのか、5年(1858年)8月上旬に現れたに、肥後の民衆は社会の激変を予感していた。 「」も参照 しかし、熊本藩は諸党が議論を戦わせるばかりで、藩論の一致を見なかった。 直前は佐幕派が主流だったが、が敗走し追討令が下されると勤皇側の意見が強まった。 しかし、が成り明治時代に入っても藩内は議論ばかりで行動が伴わず、は嘆いたという。 明治2年(1869年)には護久の弟・が婿養子として藩主を務めるを支援するため、の船ハーマン号を雇い350人の兵を送り出したが、沖で座礁し200人以上が溺死する事件も起こった。 明治新政府は人材を各藩にも求め、熊本藩からも細川護久が兼事務総督、弟のが、江戸留守役のが刑法事務掛、その他刑法掛に複数の藩士が任命された。 これら刑法分野への多さは、宝暦の改革以後運用されていた『刑法叢書』が評価されたためである。 一方で横井小楠の召し出しに熊本藩は難色を示したともいう。 この情勢の中、藩論も変わらざるをえず、それまで発言力が無きに等しかった勤皇党も存在感を増し、鶴崎に勤皇党のを隊長とした長州ののような性格を持つ軍隊を組織した。 熊本の維新 [ ] 護久と実学党政権 [ ] のは、作品『竹崎順子』の中で登場人物に「肥後の維新は明治3年に来ました」と語らせている。 幕末の動乱や凶作に曝される熊本の民衆にとって、「御一新」と呼ぶに相応しい変革は明治3年を待たなければならなかった。 明治2年(1869年)の後、熊本藩も藩政と家政の区別や家臣団の改組などを行ったが、人事的には旧態を引き継ぎ、あまり積極的な改革を施さなかった。 この派を抱え込んだままの熊本藩に新政府は不信感を募り、政府に属する細川護久らは対応を迫られ、知藩事を勤める兄・韶邦へ改革の必要性を説いた。 また同時期、実学党も行動を起こし、やらとの接触を持って改革の必要性を実感していた。 このふたつの動きは示し合わせたものではなかったが、目的が一致した両者は共同歩調を取る。 明治3年3月26日、細川韶邦は病気を理由に隠居を決め、5月8日に護久が藩主の座に就いた。 護久は実学党とともに、やが起草した改革に着手した。 7月17日、改革綱領に則り上米など雑税を廃止する知事布告が出され、同時に民衆に対して過去の治世を遺憾とする声明を発表した。 この、為政者として極めて珍しい反省の弁とともに実行された減税は、当時の農民に課せられる負役の三分の一に匹敵した。 また、常備兵や鷹場の廃止も実施され、これらは庶民層から厚い支持を受けた。 また、新たにと(ふるしろいがっこう)を、現在のがある場所に 設立した。 洋学校はアメリカ退役軍人のを迎え明治4年(1871年)9月1日に開校した。 そこでの授業はすべてで、程度のや、、などをジェーンズひとりが講義した。 同校はのであり、学校教育にとどまらず近代的な文化や生活様式を熊本に広める意味でも大きく役割を果たした。 ただ、これら新設された学校は以前から存在していた時習館や再春館の系譜を継がず、完全に別なものとして創立された。 このような形態は以後県政を握った政党によって繰り返されることになる。 また、この洋学校は派キリスト教集団である結成の母体ともなった。 学校の教師館はコロニア様式で建設された熊本初の洋風建築物であった。 古城医学校の教師には長崎からを3年間契約で連れてきた。 、らは途中で東京大学に去ったが、は最後まで残った。 逆風 [ ] 民衆には圧倒的に支持された実学党政権は、しかし改革要領に定めた役人公選制や議院設置は実行できなかった。 鶴崎のや河上彦斎が、長州藩で農民一揆と結託し追われたらを匿い、明治3年には密偵を斬る事件が明らかとなった。 彼らは処罰を受け、熊本藩は政府に目をつけられた。 細川護久は藩内に依然燻る反抗の気分に嫌気が差し、明治4年(1871年)3月、政府に辞意を示した。 を目前にした政府は一旦慰留し、7月の実行を待ってこれを認めた。 弟で参事の護美も同調し、辞職の上翌年にはアメリカへ旅立った。 新たに成立した熊本県の政務を実学党は維持するが、思わぬ逆風が彼らを襲うことになった。 明治3年末、で大一揆が勃発した。 政府は周辺藩に鎮撫隊を派遣させ熊本も軍を送ったが、当地で意外にも彼らは農民からの歓迎を受けた。 一揆は、「肥後支配同様雑税免除」(熊本藩のような減税)を要求したもので 、農民にとって熊本軍は悪政に対する解放軍とみなされた。 このような減税を求める一揆は鹿児島県を除く熊本周辺の各国で1873年(明治6年)頃まで頻発した。 これは新政府にとって好ましからぬ事態であり、熊本県にを派遣して実学党を県政から排除した。 中途に終わった短い期間だったが、熊本の維新は民衆には強く歓迎された。 その痕跡を、10基ほど確認されている「知事塔」に見ることができる。 現在の産山村や阿蘇市および大分県にも見られるこの石塔は、地域では「チイさん」「チシさん」とも呼ばれ、細川家のと「村々小前共江」の文が刻まれている共通点が見られる。 これらは明治初期に建立されたものや、もっと時代が下り建てられたものもあるが、いずれもかつてない減税措置に踏み込んだ県政に対して感謝を、またはその後苛烈に廻った政策に苦しみ過去を懐かしむ想いから地域が出資して作られたと考えられている。 熊本洋学校の男女共学制はなど一部上級生の反発を招いたが、逆にジェーンズに説得されて賛同側に廻った。 女性第一期生のと後に海老名の妻となったらは、後に熊本女学校(現:)や東京の女子美術学校(現:)創立にも大きく関係し、女性の社会的活動を広げる役割を担った。 しかし、革新的な西洋風そしてキリスト教色が強い学風は危惧の眼で見られた。 学内はキリスト教派と反対派に分裂し、大激論が展開された。 さらに、子弟のキリスト教帰依を好ましく思わない実学党のメンバーも棄教を迫った。 明治9年(1876年)、この状況に見切りをつけたジェーンズは、海老名弾正らキリスト教派生徒35名を京都のへ入学させ、熊本を去った。 同年9月、熊本洋学校は閉鎖された。 一方の古城医学校は、私立熊本医学校、を経て1949年(昭和24年)に医学部となった。 この医学校からは、と助手の石神亨 、に影響を受け産婆看護婦学校設立に寄与した らが育った。 自由民権運動の端緒 [ ] 1873年、新政府内では争が巻き起こっていた。 勤皇党出身のは上京中に『征韓之儀』を上奏し、またでは義勇兵を募るなどの行動を取っていたが、やがて反権力思想を強めた。 彼はの『』に大きな影響を受けてに身を投じ、1875年(明治8年)に熊本県初のとなる(第五番変則中学校 )を設立した。 ここではやまたらの思想を教え、また県内外にを派遣する拠点ともなった。 なお、八郎の弟・もまた民権運動に携わり、その後アジア革命に関わって中のを支援し、兄弟の生家に招くなどした。 植木学校設立と同じ年、で開催された地方官議会では「地方民会の事」が議題となり、同時に行われた区戸長会議は「民会興隆之事」を諮問した。 この動きを受け、熊本でも民権運動が盛んになり始めた。 これには県政を追われた実学党も加わって、民会開設を求める論説が『熊本新聞』に掲載されるなど、世論を喚起する行動も見られた。 この動きを受け、1876年(明治9年)、熊本県は「臨時民会規則」を制定した。 これはきわめて進歩的な制度であり、男子戸主すべてに選挙権が与えられ、選出された小区議員が、その互選で大区議員が、そしてさらに互選で県民会の議員が選出されるものだった。 同年10月に植木学校は閉鎖されるが、同校に拠った民権運動家たちは結社を設け、運動を継続した。 近代日本最後の内戦へ [ ] 神風連の乱 [ ] に始まった勤皇党の一派に「神風連」()があった。 彼らは宮崎八郎のように民権運動への転換からも取り残され、不満を和らげるために県内の神社で職を任命されるなどしていたが、政府のやを常々苦々しく思っていた。 そこに1876年が布告され、鬱憤が爆発し反乱を起こした。 10月24日、神の信託(宇気比)を授かったとして総帥・、副師・の下約170名が終結して決起し、熊本城敷地内のを攻め火を放った。 彼らは鎮圧され多くが自刃または処罰されたが、このはらが起こしたともどもを誘発し、また以後薩摩に下っていたの動向に注目を集める結果ともなった。 翔ぶが如く [ ] 「」も参照 1877年(明治10年)2月15日、西郷隆盛起つ。 熊本のはこの報に触れて沸き立ち、西郷軍に馳せ参じる者が多発した。 は時習館出身者を元とする「学校党」の士族を中心に熊本隊を結成、また植木学校系の民権派も協同隊として加わった。 その数は合わせて7000名ともされる。 政府そして熊本鎮台は既に西郷反逆を迎え撃つ準備を進めていた。 参謀長・は神風連の乱で受けた被害が未だ回復していない状況、熊本士族が呼応して決起する可能性を鑑み、政府軍の主力が到着するまで熊本城に篭城する策を採用した。 武器弾薬・食料などの準備、橋の撤去や棚の設置、道路の封鎖やの設置 、藤崎宮など市内要所への守兵配備を急遽進め、福岡や小倉の分営を熊本に終結させるべく手を打った。 19日には射界を確保するため、市街地を焼き払った。 ところが同日午前11時10分頃、熊本城内で火災が発生し、天守閣などが焼失してしまった。 この原因については、不要建築物を取り払う鎮台による自焼説、市街地焼き払いの火が廻った延焼説、薩軍スパイの放火説、逃亡した給仕人の放火説などがあり定かではない。 しかし、いずれにしろ藩の歴史を象徴する熊本城天守閣の焼失には、多くの人々が嘆いた。 鎮台も備蓄食料を失ったため再収集に忙殺される問題もあったが、篭城の準備は一応整った。 この火災が起こる直前の午前8時15分には征討令が届き鎮台は正式に「官軍」となった。 この令は県庁に掲示され、民衆にもこの戦いの大義名分を知らしめた。 熊本城攻防戦 [ ] 川尻(河尻)に集結した薩軍は斥候の存在から官軍の方針を知り、作戦の検討が行われた結果熊本城強襲策が採用された。 2月21日先行した薩軍の一部が熊本城東側で守備兵と戦闘となり、攻防戦の幕は切って落とされた。 翌22日、薩軍は熊本城を包囲し、正面(東側)と背面(西側)の両方から攻撃を仕掛けた。 熊本城の弱点とされる背面は特に激戦の地となり、段山(現:段山本町)と法華坂(現:熊本から国立病院機構北側を通る坂)を襲撃する薩軍一・二・六・七番大隊と官軍の間で激しい戦闘が行われた。 正面でも率いる四番大隊を始めとする部隊との銃撃・砲撃戦となった。 薩軍は本丸へ続くわずか300程度の法華坂を攻略できず、正面からの攻撃でも石垣に阻まれた。 22日には南下する政府軍と薩摩小隊との交戦情報がもたらされ、夜の会議で方針を転換し、一部強硬手段を残しつつも長囲策を採った。 熊本隊や日向からの部隊も加わった攻め手側と鎮台側の攻防戦は3月に入っても続き、熊本城背面は特に激戦を極めた。 片山邸(現:)や旧藤崎神社には砲弾が飛び交い、段山は薩軍に占拠されたが3月13日に官軍がこれを奪取した。 また薩軍は城内に離反を促す矢文を放ったり、坪井川と井芹川の合流点を堰き止めて城の周囲に水を張る作戦を取り、篭城側をじわじわと攻めた。 しかしその頃、の建策が採用され、政府は勅使護衛兵を中心とした別働第二旅団を長崎から差し向けていた。 3月19日、に上陸した部隊は八代を抑えた。 薩軍はを指揮官とする部隊を送ったが、官軍は31日には松橋を落とした。 4月に入り、熊本城では兵糧の減少を危惧した谷が植木方向への出撃を思案した。 しかしこれは参謀のらの反対を受けて取り消され、南から接近していた政府側衝背軍との連絡を試みることとなった。 4月8日、突囲隊が薩摩の包囲網を突破し、宇土で政府軍と合流することに成功した。 政府軍は12日に御船・甲佐を一斉攻撃し、14日には川尻まで進軍した。 さらに陸軍中佐のは独断で部隊を進め、ついに篭城軍との連結に成功した。 こうして、2ヶ月にわたる熊本城攻防戦は死者773名を出して決着し、加藤清正が心血を注いで築いた熊本城は初の戦でその堅牢さを証明した。 田原坂には官軍・薩軍兵士の墓地が点在している。 田原坂・吉次峠の戦い [ ] 一方、2月22日に植木で率いる政府軍と接触した薩軍小隊はこれを急襲。 官軍を敗走させを奪いもした。 翌日も両軍は交戦し、一時退却を試みた官軍を追い薩軍は攻撃をかけた。 福岡から南下中の第一・二旅団は一個中隊を急がせ25日には高瀬を抑えた。 同日午後高瀬川を挟んだ戦闘となったが、この際には官軍は持ちこたえて薩軍は退却した。 26日反撃を開始した官軍はがまで敵を押し返した。 だが兵糧不足を理由に退却の命が届き、しぶりつつも連隊は引き返した。 この時官軍が退却せず田原坂を抑えていれば、後の凄惨な戦いは防げたのではと指摘されている。 2月22日深夜、政府軍の動向を知った西郷隆盛ら薩軍首脳は長囲策に転じ、軍を分けて北へ兵力を差し向ける決定を下した。 北から熊本へ向かう路は3つあり、山鹿から南下するルートには四番大隊、高瀬から田原坂を越え植木に至るルートには一番大隊、ルートには二番大隊と六・七連合大隊が当たることとなり、25日に出発した。 一方薩軍の動きを察知していた政府軍だが、慎重なはすぐに攻撃を指示せず、態勢整備を優先した。 第14連隊との一部を田原坂方面に、残りの近衛歩兵と東京・大阪鎮台兵を吉次峠方面へそれぞれ配置し、3月3日に進軍を開始した。 3月4日、田原坂に総攻撃を仕掛けた政府軍は、天然の要害に拠った薩軍の一斉射撃を浴びて思うように進めない。 吉次峠はさらに凄惨で、畑には死体が積みあがり、側溝には血が溜り、夥しい銃弾のせいで木々は蜂の巣のようになった。 薩軍もが戦死するも意気は衰えず、敗走する官軍は吉次峠を「地獄峠」と呼んだ。 翌日から一部隊を吉次峠に残し、政府軍は田原坂に集中、一進一退の攻防が続くことになる。 警視の活躍によって少しずつ戦局を有利に進めた政府軍は、雨の3月20日に総攻撃を仕掛けた。 砲撃と雨に強い後装式が威力を発する官軍に対し、薩軍が主に用いたは雨に弱く 、さらに弾丸に事欠いて付近住民が拾い集めた弾を買い集めたりする状況の中、田原坂を突破され後退を余儀なくされた。 として従軍したは激しい銃撃戦のために木々やが砕け散った模様を伝えた。 田原坂に入った山縣有朋は、その攻めがたい急峻さと狭窄さを実感し、将兵の死に涙を流したという。 3月21日には山鹿の四番大隊も敗れ、後退した薩軍は植木・木留で官軍を迎え撃った。 一進一退の攻防が続いたが、やがて政府軍が優勢となり、薩軍は辺田野・荻迫(現:JR周辺)まで退く。 この頃には、政府軍がから購入していた投入に乗り出したとの説もある。 しかし戦局は膠着に陥り、官軍内では迂回して進軍する案も出された。 しかし4月15日午後1時、熊本城と衝背軍の連絡を知った薩軍は撤退を始めた。 西郷隆盛が本営を置いた 人吉防衛戦と陥落 [ ] 薩軍は熊本平野東部の木山に拠点を移し、兵を配置して官軍と対峙した。 ここでも両軍は拮抗するが、官軍が御船と大津を押さえたことを皮切りに優勢に立ち、4月21日に薩軍は人吉への退却を始めた。 28日に薩軍は再集結し、西郷はに入って本営を置いた。 ここで態勢を組み直す計画が練られ、食糧確保や弾薬製造のために住民の徴用や課税まで予定され、2年間は割拠する目論見が立てられ、同時に兵力を分散させる作戦も取られた。 しかし政府軍は東の江代方向、北の五木村、西の球磨川下流という3方向から攻め、5月30日に人吉への総攻撃を開始した。 6月1日未明、市街に入った官軍が放つに夜の町は燃え上がり 、薩軍が人吉城址から撃つ大砲の弾が降る中、両者の白兵戦が繰り広げられた。 薩軍は球磨川の南に退却し、橋を落として政府軍を防ぎ、砲撃・銃撃が両岸から浴びせ合う状態が続いた。 午後になり薩軍は退却を始めた。 以後、西郷と薩軍は政府軍の追走を受けながら・などを転戦しつつ、9月24日鹿児島ので壊滅した。 この戦争で被害を受けた一般人の死傷者数は300を越え、一万戸以上の家屋が被災し、記録は無いが耕地などもひどく荒らされた。 罹災した一般人には弔祭料や手当金が支払われ、家屋被災についても助成金が支給された。 宮崎八郎は戦死し、協同隊として参戦した肥後勤皇党の系統は一旦途絶えた。 熊本隊として加わった学校党も鳴りをひそめ、熊本は中央政府主導の県政が敷かれることとなった。 地方の行政と発展 [ ] 廃藩置県 [ ] 「」も参照 本項では明治初期の県名を一律に「熊本県」と表記しているが、(明治4年)に始まった廃藩置県では、旧来の藩に対応する3つの地域が置かれ、その前後に名称変更や合併などを繰り返していた。 大政奉還が行われた(明治元年)、九州の各天領は新政府直轄地となり、天草地方も1871年にとなった。 この県名はにはへ変えられ、にはの一部に編入された。 1871年の廃藩置県実施当初、熊本藩は (第1次)、相良藩はとされたが、肥後南部を統括する県庁が八代に置かれる決定に伴いには人吉県はに改名され、これにが編入、地方が宮崎県に移された。 同様に熊本県も設置される県庁の所在地(現在の熊本市)から(明治5年)に 白川県と名称が変わった。 (明治6年)に両県は合併して白川県に一本化され、県庁の熊本城への移転を経て、(明治9年)に現在に至る 熊本県(第2次)へと改名された。 熊本の政党形成 [ ] 明治4年(1871年)制定されたに基づき翌年が編製されたが、これに伴い戸長・区長が置かれた。 熊本県の場合、彼らはすべて官選で任命されたため、民衆との信頼関係は弱かった。 1873年実学党政権崩壊と以降民費は増大の一歩を辿り、不満を抱えた農民は阿蘇地方などでなどをたびたび起こした。 これには民権運動が関わり、区戸長公選化を求める声が強まった。 1878年(明治11年)が再建されると、熊本でも西南戦争での懲役刑を終えた者たちを吸収しつつ民権運動家が連帯して「相愛社」が設立された。 これは翌年にはの一員に改組されてゆくが、基本的に創設時の「相愛社趣意書」に基づく行動を取った。 相愛社でも作成が行われたがなかなか議論が収束せず、発表に至ったのは1881年(明治14年)だった。 一方、同じく西南戦争熊本隊に加わり捕縛されたが帰郷すると、1879年(明治12年)同心学舎(現:)を設立した。 ここには旧学校党など保守勢力が集まっていった。 佐々はらの助言を受けて紫溟会を設立し、民権運動取り込みを画策する。 しかし度重なる論争の末、1881年設立時の民権派参加は実学党のみに止まり、これも2ヶ月後には脱退した。 後らがを設立すると、熊本でも民権系結社の組織化が進み、1882年(明治15年)九州改進党が結成される。 これは一度解党されるが、九州連合同志会などを経て1890年(明治23年)に結成された立憲自由党に引き継がれてゆく。 そしてこれは、1888年(明治21年)に改組されて熊本国権党となった保守勢力の紫溟会と県政を二分する勢力になっていった。 この対立の模様は「肥後の議論倒れ」とも呼ばれる熊本人の気質を助長するひとつにもなった。 熊本大学五高記念館。 1890年の第五高等中学校新設キャンパスを今に伝える。 五高開校 [ ] 1886年(明治19年)発布されたに基づき、福岡や長崎との誘致合戦の末 熊本に第五高等中学校(現:)の設置が決定した。 翌年、旧熊本洋学校や古城医学校の校舎を用いて開校し、1890年(明治23年)には黒髪村の新キャンパスに移転した。 1894年(明治27年)からはによりとなった同校では、ラフカディオ・ハーン()やが教鞭をとったことでも知られる。 インフラ整備 [ ] 1884年(明治17年)、宇土半島先端のでは、国主導の国際貿易港整備が始まり、3年後にとして開港した。 これに関連し付帯工事として建設も計画され、1886年(明治19年)には - 三角間の敷設が許可された。 これには、終息と企業活動の活発化を背景とした鉄道待望論の盛り上がりがあった。 1891年(明治24年)7月1日、・高瀬駅(後の)・・池田駅(後の)を経由してまで繋がる鉄道が開設した。 池田駅と熊本駅は市街よりもかなり西側に設置されたが、これは純粋に用地買収問題に拠るもので、鉄道忌避論の影響はなかったとされる。 鉄道は順次延伸され、1908年(明治41年)にはまで敷設された。 これは、人吉藩家老家出身の渋谷礼ら有志による誘致運動が好を奏したもので、後にとなったが推した海岸線ルートが採用されなかった背景には、軍部の意見もあった。 球磨川沿いの鉄道路線は地域住民の足として、また観光コースとしても賑わった。 翌年には鹿児島県までの路線が開通し、や日本初のループ式路線が採用された。 天草のキリスト教ふたたび [ ] 明治政府は当初、キリスト教信仰を解禁しなかった。 だがをアメリカやから激しく非難されると、政府はキリスト教布教を認めた。 しかしこの認可は地方まで速やかに知らしめられた訳ではなく、天草の人々は長崎「神の島」の漁民からこれを聞いた。 1876年(明治9年)大江(天草町)住民15人、翌々年には大江や(河浦町)住民14人が熊本県令にキリスト教帰依を届け出たが、県はこれを受理しなかった。 それどころか、葬儀をキリスト教式で行ったとして崎津の住民が処罰されるなど、地方政府ゆえの無理解もあった。 しかしやがて天草に宣教師が向かうようになり、キリスト教への理解も進んだ。 1892年(明治25年)天草に赴いた人神父は、50年に亘り天草での布教活動を続け、建設やの建設などに尽力した。 彼はフランス語調で「パーテルさん」(『』では「バアテルさん」)と呼ばれて親しまれつつ、1941年(昭和16年)その生涯を天草で閉じた。 熊本の戦争と現代 [ ] 軍都・熊本 [ ] 西南戦争を戦ったは、1888年(明治21年)にに改組された。 熊本市がその地となり、師団司令部が置かれた熊本城を中心に、周辺にはや、また連隊が置かれた。 や1902年(明治35年)のを迎えた軍事演習などを経て、熊本市は軍都としての性格を強めた。 で熊本は捕虜を収容する場のひとつとなり、大江鹿渡の練兵場などに約5000人を受け入れた。 この中には後の・や、革命運動家らがいた。 以後のにおいても、熊本は重要な軍事拠点であった。 「大熊本市」の整備 [ ] このように戦時体制を支え、自らも成長する熊本市だったが、この二つの兼ね合いに問題が生じた。 西南戦争で焼け野原となった市の中心部に置かれた山崎練兵場が交通を分断し、発展を阻害する要因となってしまっていたことが1881年(明治14年)頃からクローズアップされ始めた。 世論を考慮した陸軍省は工兵隊や藤崎台兵舎などを渡鹿や大江村へ移転したが、肝心の練兵場は手付かずのままにされたため、移転要求は燻り続けた。 1891年(明治24年)2月22日付『熊本新聞』は、この練兵場移設問題が放置されている様を「熊本市内三馬鹿の第一」と痛烈に批判した。 1897年(明治30年)に熊本市会は陸軍大臣に移転の要望を提出し、陸軍側も施設拡張が限界に達していた事情もあって、幾度もの交渉の末これを受けた。 翌年から練兵場が大江村に移転される諸工事が始まったが、これは熊本市の負担とされてしまった。 市街地に広大な用地を得た熊本市は、発展に向けた都市計画を実行に移した。 練兵場跡地は縦横の道路が整備され、「練兵町」や当時の市長・の姓から取られた「辛嶋町」などが置かれた。 ここ一帯は「新市街」と呼ばれ、一大繁華街へと発展してゆく。 市内の公共交通機関として、1907年(明治40年)にはが開業した。 これは大正時代に熊本電気鉄道を経てへと変わっていった。 また、用地には中央官庁の出先機関設置を誘致し、その先駆けとして1911年(明治44年)には現在のがある立地に煙草専売局が建設された。 膨張する都市を賄う上水道の整備も行われ、1924年(13年)にはやを水源とする上水道網が完成した。 この土地整備・市電敷設・上水道整備は近代熊本市の三大事業とされ、都市発展の基盤づくりが完成した。 災害と防災 [ ] 中、熊本県が初めて直接空襲を受けたのは1944年(昭和19年)11月21日、熊本市に飛来した80機のによるものだった。 翌年7月1日深夜には154機のB29が飛来・爆撃を行い、熊本市街地の三分の一が焼け野原になる熊本大空襲があった。 住居一万戸が罹災、実態は不明だが300人以上が死亡した。 戦後、森林の乱伐と河川整備の遅れによる水害が毎年のように日本各地を襲ったが、熊本県も例外ではなかった。 1949年(昭和24年)のおよび、翌1950年(昭和25年)にはでが氾濫し人吉市や八代市が被害を受けた。 さらに1953年(昭和28年)6月のではを始めとして北部九州のすべての河川が過去最悪のを引き起こしたが、熊本県ではやといった県内北部の河川による洪水被害が甚大であった。 熊本市の白川では阿蘇の爆発のヨナが混じり、泥土が混入、復旧に時間を要した。 なお、熊本ではこの水害を通称6. 26水害と称している。 河川を管理する(現在の)はこうした水害を防ぐためにによるを計画、球磨川にを1959年(昭和34年)完成させたのを皮切りににを、菊池川には支流の迫間川にを建設した。 現在は白川にを建設している。 またが1964年(昭和39年)に改正され、県内の河川のうち菊池川、白川、緑川、球磨川の四河川は国が管理するに指定された。 蜂の巣城と川辺川 [ ] の建設予定地。 計画発表から40年以上経ってもダム建設に着手していない。 こうした治水事業、特にダム事業は父祖伝来の土地が永久に湖底に沈むことで地元の反発は大きいものがあったが、熊本県では特にこうした反発が強かった。 その一つは1959年より筑後川上流に建設が計画されたとに対する地元住民によるダム反対闘争・ である。 事業者である建設省の強権的な態度に反発した小国町の住民・は下筌ダム建設予定地にを築き、水没予定地の住民と共に建設省に対して猛然と抵抗した。 この紛争は1960年(昭和35年)には「代執行水中乱闘事件」にまで発展する流血の事態となったが、1970年(昭和45年)の室原の死によって幕を閉じた。 しかしこの事件はその後の国による河川行政のあり方を大きく転換させ、1973年(昭和48年)にはが制定されて水没住民の生活再建などが法律によって義務化され、「住民の許可がない限り、ダム事業は着手できない」という不文律を形成した。 そして現在、熊本県最大の公共事業として全国的に問題になっているのが、とに建設が計画されている である。 1966年(昭和41年)に計画が発表されたこのダム計画は、完成すれば熊本県最大のダムとなる。 だが五木村・相良村の反対運動、さらに以降の見直しの風潮によって計画発表から40年以上経過した現在も工事には着手していない。 2001年(平成13年)には当時のによって「川辺川ダム住民討論集会」が開催され、を巡って活発な議論が交わされた。 この間事業費の増大に耐えかねた川辺川・球磨川流域の農家が「川辺川利水訴訟」を起こし、事業計画の取り下げを訴えこれが2003年(平成15年)に福岡高等裁判所で認められると、2007年(平成19年)には川辺川ダムにかんがい事業者として参加を予定していたがダム事業から撤退を表明。 同時に事業に参加を予定していたも事業からの撤退を表明。 川辺川ダムの事業意義が問われるようになった。 流域自治体の五木村や八代市、などはダム事業の早期推進を訴えているが、人吉市と相良村、そして熊本県は反対・計画の白紙撤回の姿勢を示しており、今後ダム計画が存続するかどうかは事業者である国土交通省の対応にかかっているといわれている。 なお、潮谷熊本県知事在任中に球磨川に建設していた県営の水力発電用ダム・の撤去が決定されていた。 施設の老朽化による維持費捻出困難がその理由であり、2010年(平成22年)にが失効すると同時にダムは撤去される予定であった。 こうしたダム撤去は日本初のケースとして注目されていたが、2008年(平成20年)6月4日、潮谷知事の後を継いだ知事が「撤去に伴う費用が増大し、費用対効果に疑問がある」として撤去を凍結する方針を発表した。 しかしこの決断に対し、長年ダム放流による振動や冠水、井戸枯れの被害に遭っていた流域住民から怒りの声が上がり国交相は水利権更新を認めず、知事は凍結方針を撤回する。 2012年からダム撤去工事が始まっている。 熊本の産業 [ ] 古代から豊かな農産物で知られた肥後では、近代そして現代熊本となっても農業が有力な産業であり続けた。 明治新政府は、殖産興業の一環として 1893年(明治26年)農商務省九州支場(現:独立行政法人九州沖縄農業研究センター)を熊本にも設立し、1911年(明治44年)に設置された県立の農事試験場ともども、養蚕業・イグサ・野菜類や茶などの栽培や試験などを主導した。 戦後になっても熊本は屈指の農業県であり、従事者数や農業・畜産生産額は全国でも高い水準にある。 特産品としては、1991年(3年)から出荷が始まった など柑橘類、や、出荷時期が他地域よりも早い などや球磨川流域の寒暖差を利用した 等が知られている。 しかし近年は、担い手不足やなどの自然災害、また輸入農産物との競争激化などの問題が顕在化し、県は2001年(平成13年)に「熊本県農業計画(チャレンジ21くまもと)」を策定して農業の将来展望を開く対策を行っている。 熊本県の就業人口比率を見ると、全国平均の2倍を上回るに対し、比率は平均を下回っている。 熊本初の近代工業は、実学党政権下の明治初期、諮問された養蚕業振興策に則り1875年(明治8年)に設立された 緑川製糸場に遡る。 のひとつ、そして士族子女らが女工として働いた製糸場は、当初こそ粗末な町工場に過ぎなかったが、順次規模や設備を充実していった。 製糸場は1881年(明治14年)の「」 のあおりを受けて廃業したが、1893年(明治26年)には熊本製糸が、翌年には八代で熊本紡績が設立された。 これらの企業は現在に命脈を繋いでいないが、日本の・産業を支える一翼を担った。 1964年(昭和39年)に建設促進法が施行されると、地区指定を受けた熊本でも工業化が加速された。 特に九州には大手企業の進出が続き、熊本にも一貫生産や組立・パネル企業の工場が建設された。 これらの動きを指して、九州を「」と呼ぶ向きもあったが、その実体は企画や設計機能が伴わない生産に偏重したもので、「頭脳なき拠点」とこき下ろされる一面もあった。 による低迷の後、熊本県は「構想」を打ち上げ、1983年(昭和58年)に制定された「高度技術工業集積地域開発促進法(テクノポリス法)」に則り翌年に全国で9箇所指定された産学住の調和を目標とした地域創設のひとつ「熊本テクノポリス」建設に乗り出した。 自動車や重化学産業には遅れた熊本は、半導体に焦点を絞った産業誘致政策を進め一定の成果を挙げた。 しかし、競争激化や景気後退による半導体不況もあり、県の製造業総出荷額も落ち込みを見せた。 企業進出を促す助成金や税制優遇は九州でも高い水準にあるが、全国的には必ずしも目につくものではない中、県は「セミコンフォレンス構想」などインセンティブを高める施策を打ち出している。 近年熊本に進出した企業は、その理由として豊富な水資源や、九州の中心や地域とのアクセスなど地理的条件等を挙げている。 熊本県には豊富でダイナミックな自然や歴史的建築物、また数多い温泉地などがある。 しかしながら、のような成功例を除けば、現実は観光地としての魅力に欠き、宿泊客や観光消費総額は伸び悩んでいる。 2011年に全線開業が予定されているには市場拡大や観光客増加への効果が期待されている が、その一方で空洞化を懸念する声もある。 観光立県をめざす熊本には、他地域との差別化やホスピタリティの向上、また広報活動などが求められ 、それらの実現に向けた具体的取り組みも行われている。 水俣の受難 [ ] 「」も参照 1908年(明治41年)11月水俣市で稼動を始めた日本窒素肥料株式会社(日窒、現:)は、を皮切りにであるそしてへと事業を拡大していった。 これには、1923年(大正13年)の水害発生を受けて都市災害対策に主導権を発揮するためとされたが、一方で1918年(大正7年)以来続いていた排水を巡る漁業組合との補償問題を政治的に解決しようとする意図もあったという。 漁業補償を排出水についての苦情を永久に取り下げることを条件に見舞金を支払って決着させ、日窒は排水を継続した。 1930年(昭和5年)頃から日窒水俣工場は主製造品を、を原料とする・などに転換した。 この原料を製造する過程で、第二を使用する工程でが高いが生成された。 日窒は処理を行なわず、排水を水俣湾に放出し続けた。 この結果、1941年(昭和16年)に初めて患者が発生した。 戦時中の空襲で工場は破壊されたが、戦後復興し、ふたたび排水放出は始まった。 1932年(昭和7年)から1968年(昭和43年)までの間に放出された量は200にのぼる。 水俣の「奇病」が公式に発見されたのは1956年(昭和31年)、これがメチル水銀を原因とする旨の認定がなされたのは1959年(昭和34年)であった。 しかし、1963年(昭和38年)には水銀が水俣工場の排水に起因すると指摘されたにもかかわらず、政府がこれを認めたのは5年後だった。 1969年(昭和44年)から始まった患者による訴訟が和解締結によって結審を見たのは1996年(平成8年)であり、唯一続いていた関西訴訟も2004年(平成16年)に結審し、国と県の敗訴が確定した。 日本思想史研究家のヴィクター・コッシュマンは「水俣病患者」の英訳に「patient」(患者)ではなく「sufferer」(受難者)という単語を選択している。 ここには、水俣病は医学的問題だけではなく、企業や行政倫理および社会構造の問題でもあるという氏のメッセージが込められている。 水俣病患者は、現在でも病気との闘いを強いられている。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 出典『熊本県の歴史』に倣う 10p。 出典『熊本県の歴史散歩』では80ヶ所以上とある 2p。 『日本三代実録』貞観十一年(869年)九月十四日条には「肥後国に大風雨あり 官舎民居顚倒する者多く」とあり、洪水による破壊の傍証となる• や、、など官位の高い者さえ卒伝は載せられていない中、道公首名は特異な例に当たる。 この蚕養駅遺構は、現在の黒髪キャンパスにある黒髪町遺跡(熊本市黒髪2丁目)とも推定されている。 詳細はにて解説されている。 この評は、『熊本史学』16-17号(1959年)に志方正和が発表した論文「菊池氏の起源について」にて分析されている。 志方は、同時代に記された藤原実資の『小右記』や藤原資房の『春記』などを検討し、この結論に至っている。 出典『熊本県の歴史』に倣う 91-93p。 この解釈は、『鹿子木荘条々事書』が元寇後に起こった神領回復運動において起草された論争的文書だという点から研究された近年のもので、他の文献では沙弥寿妙を開発領主とみなしているもの(『街道の日本史51』p9、『熊本県の歴史散歩』p5・p132)もある。 ただし、寿妙の孫・高方が上分寄進を行っている点から、鹿子木荘を寄進地系荘園に分類することは誤りではない。 出典『熊本県の歴史』では「大友頼泰」とある p112 が、大友氏3代当主とは時代が合わない。 『』には、楠木正成が博多合戦における菊池武時らの討死を勲功第一と賞賛したことが記されている。 これは『新撰事蹟通考』を根拠に、一般にの簒奪行為とされるが、阿蘇品保夫はこれを隈部上総介の謀反であり、島原に去った菊池能運の後任として国侍たちがを推挙したとする新説を『新熊本史』「通史編第二巻中世」に著した。 木村忠夫「大友氏の豊後支配」によれば、阿蘇惟長(菊池武経)失脚直後から大友氏が菊法師丸(後の菊地義武)の名義で菊池氏の家臣に所領安堵を行っている、と指摘する。 清正の隈本城修復を直接証拠づける資料は現存しないが、『熊本細工町地割図』には天正19年(1591年)に細工町の職人街を末町に移す記述があり、修理が一段落したため職人の居住地を移す様子が見られる。 出典『熊本県の歴史』では、これらの傍証を根拠に清正の古城修繕があったものと結論づけている。 なお、改易は免れたものの天草領の没収と出仕停止の処分を受けたは、後に自殺したために唐津の寺沢氏も改易となっている。 この説話は司馬遼太郎が『この国のかたち』などにて紹介しているが、『街道をゆく』三「肥薩のみち」にて司馬は、この話はから聞いたと記している。 『寺社例帳』には、山鹿の灯籠を燈した祭礼の盛んな様を記している。 出典『熊本県の歴史』では村井見朴が再春館創立を申し出て、細川重賢が許可したとある。 出典 [ ]• 工学部海洋システム工学課.

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今川義元は領土を拡げ今川家の全盛を築いた武将!桶狭間の戦いで破れた暗愚な人物?

刀根 坂 の 戦い と は 次 の うち どの 大名 が 滅亡 する 直前 の 戦い か

大震災から2週間が経過した。 大震災の大津波で発生した福島第一原発事故はいまだ一進一退の復旧作業が続いている。 ところでその事故であるが、今後の日本経済、安全保障面に重大な危機をもたらすことになりそうだ。 正直原発というと、放射能汚染ばかりがクローズアップされるが、国家単位で考えると経済、安全保障面での問題の方がはるかに大きい。 だからこそアメリカのスリーマイル島事故の全容は、いまだにアメリカの国家機密なのである。 1986年にチェルノブイリ原発事故が起こったあと、3年後にベルリンの壁が崩壊、その2年後にソ連が解体したことを考えると、もともと悪化していたソ連経済にチェルノブイリ原発事故がとどめを刺した可能性が高い。 それだけ 電力というのは国家経済の要なのだ。 今後の日本の原子力政策は福島第一原発事故によって、急ブレーキがかかる可能性が高い。 原発推進派の地方議員は軒並み落選。 原発の新設はおろか、今ある原発の存在すら危ぶまれる。 原発は危険である。 だからこそ地震に対する備えが必要なのだ。 反原発派の人間は福島第一原発の事故ばかり問題にするが、今回の震災で無傷だった女川原発をスルーするのは片手落ちでないのか。 福島第1原発が多くの住民を故郷から引き離した半面で、女川原発には壊滅的被害となった女川町民が避難所として身を寄せている。 2つの原発の明暗が分かれたのは福島第1原発では想定された津波の高さが約5・6メートルだったのに対して女川原発は9・1メートルに設定した立地のわずかな違いだった。 震災後の停電はなく、水の備蓄もあったため、女川原発は津波で壊滅的被害を受けた女川町民の救いの場所になった。 原子炉等規制法で一般住民は許可なく原発敷地内には入れないが、人道上の配慮から開放され、最大で330人が事務建屋の別館と体育館に避難した。 (産経新聞) 福島第一原発は日本の原子力政策の観点から、女川原発を参考につくり直すべきである。 電力の供給不足から、すでに老朽化している火力発電の再稼動が始まっている。 火力発電は高騰し続ける石油を大量に消費し、現在問題になっている二酸化炭素を大量に排出する。 そればかりか日本の電力供給能力を30年〜40年前に逆戻りさせる。 企業経営者は前向きの事業計画を考えることはあっても、後ろ向きの事業計画を考えることはありえない。 日本の経営者が日本で安定した電力の供給が得られないならば、中国に最新式の原発(もちろん日本人の税金で)をつくって、そこに日本の最先端の工場を移設。 日本企業が中国を拠点にグローバル経済に打って出るということを考えても不思議ではない。 「それでもいいんですか?」という話である。 このことこそが、今回の原発事故の真の危機なのである。 下の図は日本の財政問題を説明するときによく用いられる、財務省のサイトに掲載されているグラフである。 日本、アメリカ、カナダ、イタリア、ドイツ、フランス、イギリスの先進7カ国(G7)の債務残高の対GDP比率を表している。 この図を見ると、確かに日本の債務残高比率だけが異常に突出し、95年の80%台から一貫して上がり続け、2009年には180%を超えていることが理解できる。 この図を見せられれば誰でも「日本は一刻も早く財政再建に着手しなくてはいけない」と思うことだろう。 しかし、日本の債務残高比率だけが一貫して上昇しているのは、何も日本だけが債務残高を増加させ続けているのが原因ではない。 他のG7各国も一貫して債務残高を増加させているのだ。 しかし、不思議なことに、債務残高の国際比較をGoogleで検索しても、それを示すグラフは一向に見つからない。 仕方が無いので、筆者が作成してみた。 なお、用いたデータはIMFのWorld Economic Outlook Databaseである。 データは各国の債務残高を1989年を基点(100)として20年間のデータをプロットしたものだが、赤線で示した日本は確かに債務残高を一貫して増加させてはいるものの、他国と比較して特別に突出しているわけでもない。 フランスやドイツの債務残高の増加割合は日本よりも高い。 ではなぜ、財務省のグラフでは日本の債務残高だけが突出して見えたのだろうか?種明かしをすると、最初のグラフは債務残高の対名目GDP比を示したものだからである。 日本を除く他国はこの20年間、一貫して名目GDPの成長を達成していたのに対し、日本だけが成長していなかったのだ。 次のグラフはG7の名目GDP成長を比較したものである。 同じく1989年を基点(100)として、20年間のデータをプロットした。 この20年間で日本を除く全てのG7加盟国が軒並み2倍から3倍のGDP成長を見せている中で、日本のグラフだけほぼ水平を這っている。 なんたるざまだ・・・・・ またここで種明かしをすると、日本の名目GDPだけ成長していない原因はデフレにある。 下のグラフは先進7カ国の1989年から2009年までのインフレ率を2000年を基準点(100)として示したものである。 G7の中で、水色で示した日本だけがほぼ水平、いや、むしろ下落していることが確認できるだろう。 この20年間、日本、アメリカ、イギリス、イタリア、カナダ、ドイツ、フランスの先進7カ国(G7)の中で日本だけがデフレで停滞し、他の国々はインフレを伴った経済成長を達成していたのだ。 よく、デフレの原因として中国からの安い製品の輸入を挙げる人たちがいるが、中国が原因ならば、日本を除く他のG7各国がインフレであったことの説明がつかない。 つまり、この20年間のデフレは日本固有の問題なのだ。 そして、このデフレこそが日本の債務残高の対GDP比を突出させた元凶だったのである。 債務が長期的に見て持続可能であるか、それとも財政破綻するかは債務の(名目)利子率と名目GDPの成長率で決まる。 なぜなら、債務(国債)は利子返済ができている限りにおいては破綻しないし、利子返済ができるかどうかは歳入によって左右されるからだ。 そして歳入(税収)は名目GDPに比例して増加するので、名目GDPの成長率が利子率よりも大きければ破綻しえないのである(ドーマーの命題)。 財政問題の議論では、すぐに「増税」と「緊縮財政」により歳入を増やし、歳出を減らすことが解決策だと説明される。 しかし、以上の議論により、それが全くのデタラメであることが示されただろう。 デフレ不況下の日本で増税・緊縮財政などやれば、経済はますます縮小し、デフレはより深刻化、名目GDPがマイナス成長すれば増税を持ってしても国債の利子返済が可能な歳入が得られなくなり、本当の財政破綻へと突き進むことになることは目に見えている。 財政再建のために日本が一刻も早くやらなくてはいけないことは、まず、デフレの克服である。 デフレを克服しない限り、名目GDPの成長は達成されない。 そしてそれは、 日本銀行によるインフレ目標を伴った金融緩和(リフレ政策)なしには達成されないのだ。 大石氏の著書『国土学再考』で最も印象に残っているのは、公共投資の重要性の件もさることながら、日本文明を 「自然災害史観」と名づけ、大陸(欧州や中国)とは言語の意義からして、全く異なる文明として位置づけている部分である。 大石氏は欧州や中国などのユーラシア各国の文明を、 「紛争死史観」と定義している。 紛争死史観とは、欧州や中国では数百年、数十年、時には数年ごとに「住民が皆殺しにされる規模」の大量殺戮が発生し、街や言語がそれに対応し進化してきたことを意味している。 例えば、欧州の都市は、その多くが分厚い城壁に囲まれている。 それに対し、日本は「城下町」という言葉の通り、城を囲むように市街地が発展した。 街と「外」との境界は、それほど明確ではないのである。 欧州は異民族や、時には同じ言語を共有する人々が、兵士の集団として押し寄せ、街の住民は協力してそれに対しなければならなかった。 結果、街を城壁で囲むとともに、住民たちはそれぞれが「兵士」として、襲来者と戦わなければならなかったのである。 そのため、欧州の言葉は単語やフレーズの「定義」が明確で、誰もが誤解なく理解できるように進化した。 誰かが命令文の解釈を誤った結果、街の住民が危険な目に会う可能性すらあった以上、言語もそれに基づき発展せざるを得なかったわけである。 それに対し、「異民族襲来と虐殺」という歴史を持たない日本では、言葉が「各単語の意味や定義が幅広い」スタイルで、自由気ままに発展していった。 異音同義語が極端に多い(英語の「I」の日本語訳の数を数えて欲しい)上に、単語の意味がそれほど厳密に定められているわけではない。 読む人や聞く人により、様々な解釈が可能なのだ。 その言語的曖昧性故に、日本では恐ろしいほどに懐が深く、普遍色が強い独自の文化が発展したのだ。 現在の日本文化が、世界の様々な国々で広く受け入れられ、楽しまれているのは、この日本語が元々内包する力が極めて大きいと考える。 しかし、この「定義が曖昧」な日本語は、二つの点で困った問題を引き起こす。 一つ目は、契約書や法律など、 「誰もが同じ解釈をしなければならない」文書であっても、人により解釈が異なってしまうという点である。 何しろ、国の根幹たる法律である「憲法」でさえ、解釈論争が発生してしまうくらいである。 二つ目は、 定義が曖昧故に、センセーショナルな「見出し」の影響が大きくなってしまう点である。 たとえば「財政破綻」という言葉が典型だが、新聞の見出しなどで、「日本政府の財政破綻、秒読み段階に!」などと書かれると、普通の人は怯えるだろう。 その際に「財政破綻」の定義は何なのか、「秒読み段階」とは具体的にどれほどの期間なのかなどは、読む人は特に深くは考えない。 それぞれが「財政破綻」や「秒読み段階」などの言葉がもたらす印象に基づき、意味を勝手に解釈してしまうのである。 結果、各個人が事実についてイメージに基づいた理解を重ね、情報が曖昧なまま流布してしまう。 メディアがセンセーショナリズムを求めるのは、確かに世界的な傾向だ。 しかし、日本の場合は、新聞を読む層の割合が(欧米などと比べて)元々多いことに加え、日本語特有の曖昧性という問題もある。 印象論に基づいたミスリードが、相対的に行いやすい環境にある可能性が高いのである。 アメリカの同時多発テロ事件から5年になる。 この事件は近いところでは「ベルリンの壁崩壊」「ソ連解体」に匹敵する世界史の転換点である。 当然ながらこの5年の間に様々な専門家、識者による検証が行われてきた。 ここはひとつやぴぴの兄も加わって専門家にはない視点でこの事件を大いに検証してみたい。 まずこの事件を語る前に、人類の有史以来ずっと続けてきた「戦争」について語らなくてはいけない。 それは何かと言うと人間がだんだんと戦争を嫌がるようになってきたということだ。 21世紀に入ってからも相変わらず世界の各地で戦争が続いている。 しかしそれは戦争と言うよりも、紛争と形容した方がいいいような小規模なものばかりである。 かつての第一次、第二次世界大戦のようなスケールの大きな戦争はめっきり減った。 おそらくそのような戦争はベトナム戦争あたりが最後ではないだろうか。 日本も戦争をやらなくなって60年になる。 ヨーロッパも近年ではユーゴスラビアの民族紛争があったぐらいで、いたって平穏である。 今フランスとイギリスの間で戦争になるだろうか。 今ドイツ軍がポーランドに侵攻するだろうか。 かつては当たり前のように行われてきたこのような戦争も、現在では、ほとんど起こる可能性がなくなってきている。 1990年前後にソ連、東欧で起こった革命も無血革命であった。 ルーマニアでチャウシェスク大統領が殺されたぐらいなものである。 戦争大好きのアメリカもだんだんと戦争がやりにくくなってきている。 戦争が長引いて、自国民に大量の死者が出れば、大統領の支持率が急落して、政治的求心力を失ってしまうからだ。 今戦争を熱心にやっている国は、世界の警察を自認するアメリカとその子分であるイスラエル、そして各々の後進国ぐらいなものである。 そのうちアメリカは白兵戦をやめて、遠隔操作によるロボット戦に切り換えようとしている。 あれほど世界をまたにかけて戦争をし、人を殺しまくってきた人類がなぜ今頃になって戦争を嫌がるようになってきたのだろうか。 ひとつは 生活が向上して、3K(きつい、汚い、危険)なことをやりたがらなくなってきたというのがある。 10年以上前に日本の若者が3K仕事をやりたがらなくなったことが問題視されたが、この傾向は日本に限らず世界的なものである。 ある程度生活が満たされれば、しんどいことはやりたくない。 楽をしたい。 特に戦争なんかは3Kの最もたるもの。 誰も好き好んでやりたくない(軍事マニアはのぞく)。 よほどのハングリー精神がないと務まらない。 アメリカの海兵隊も貧しい階層の出身者ばかりだという。 もうひとつは 戦争が映像によって記録されるようになったことも大きい。 昔は戦争体験のない人間が戦争を知るには口伝えしかなかった。 当然それは「英雄談」「武勇伝」となって語られ、美化された戦争がインプットされ続けてきたのである。 しかし20世紀に入ると映像技術が発達してありのままの戦争が記録されることになった。 当然戦争を体験をしたことのない人間も、戦争の実態がどういうものか、ありのままを知ることができる。 あれを見て戦争をやりたいと目をギラつかせる人は少数(軍事マニアだけ)だろう。 人類が長い間続けてきた戦争が、生活水準の高い先進国を中心に縮小傾向にある。 これは事実である。 ならばそういった流れの中で起こったアメリカの同時多発テロ事件はいったいどういう位置づけになるのであろうか。 今度は視点をぐるりと変えて治安を担う「警察」について考えてみたい。 アメリカの同時多発テロ事件が起こったあと、しばらくして、日本では北朝鮮による拉致事件が明るみになった。 これを日本の歴史的転換点として「日本の911」と呼ぶ人もいる。 しかしこの問題が発覚して4年もなるのにいまだに解決していない。 なぜだろう。 このことをみな不思議に思わないのだろうか。 もしやぴぴの兄が北朝鮮と同じような犯罪を犯せばどうなるか。 少女を拉致し、国外へ連れ去り、偽札を作り、麻薬を密売する。 おそらくそれぞれが重大犯罪であることから警察に捕まって死刑になるはずである。 しかし北朝鮮の拉致事件で、誰かが捕まったり、死刑になったという話を聞いたことがない。 いやそれどころか被害者の生死や事件の全貌すらわからないのである。 国内の事件でこんなことはあり得ない。 なぜなら110番すれば警察が来て、事件の解決にあたってくれるからである。 しかしこれがひとたび国交のない外国が絡む事件になると、国内の警察では対応しきれない。 ではどうすればいいのか。 実はどうすることもできないのである。 なぜなら 日本の国内には警察がいても、世界には警察がいないからである。 110番しても誰も来てくれない。 いや110番すらないのである。 世界には一応国連という組織がある。 見た目は世界の平和を守る警察のように見えるが実態は違う。 なぜなら何の力もないからである。 警察の役割を担うなら強制力を伴った暴力が不可欠だ。 日本の警察でも、犯人に対して警棒をふるい、手錠をかけ、いざとなったら発砲する。 しかしそんなことのできる組織は世界にはない。 その証拠に拉致事件の首謀者である金正日がいまだに逮捕されていない。 国連は強制力を伴わない口先だけの組織である。 国連とは別にアメリカが世界警察みたいなことをやっているが、あれは自国の利害だけで動いているので、到底警察とは呼べない。 強いて言うなら 暴力団である。 日本の国内に例えれば、日本の治安を山口組が仕切っているようなものなのだ。 しかし、そうは言いつつも世界の平和を守る警察がそろそろ必要になってきているのではないか、ということにみな気づき始めている。 しかしいざ作ろうと思うとこれがなかなか難しい。 なぜなら 世界各国の利害が一致しないからである。 例えば中東にイスラエルという乱暴者がいる。 治安を乱して周囲に大変な迷惑をかけている。 しかし親分であるアメリカは子分のイスラエルを特別扱いして、暴力行為を放任している。 アラブはそれに対して暴力で応酬する。 ヨーロッパ、ロシアは両者とは距離を置いておいしい部分だけをかすめ盗ろうとする。 これでは公共の利益を守る警察などできっこないのである。 世界警察をつくろうと思ったら世界の利害が一致しないと駄目だ。 一番手っ取り早いのは、地球に宇宙人が攻めてくることだ。 これなら世界の利害が一致するし、団結もできる。 しかし地球に宇宙人が攻めてくることはそうそうありえない。 ではどうすればいいだろうか。 日本もかつては現代の世界のように国がバラバラだった。 そして国同士で戦争を繰り返していた。 戦国時代がそのいい例だ。 それが明治以降統一され、警察が誕生し、世界に冠たる平和な国になった。 このような日本の過程を踏めば、世界にも警察が生まれ、世界平和が実現するのではないかと思う。 ではなぜバラバラだった日本が国を統一できたのであろうか。 それは 欧米に侵略されるかもしれないという危機があったからである。 欧米という敵がいて、初めて日本は国を統一できた、警察ができた、平和になった。 ならば世界も人類共通の敵を作る必要がある。 それは誰が良いか。 宇宙人は来ない。 ミュータントも現れない。 いや待てよ。 自爆テロによって、何の罪もない人々を大勢殺しまくった尋常ならざる異常な集団がいる。 テロリスト。 そうだテロリストだ!テロリストを人類共通の敵として、いやスケープゴードにして、世界を統一し、世界警察をつくれば、世界平和が実現するかもしれない。 実際そう考えて動いている人間もいる。 ここで先の「人間が戦争を嫌がるようになってきている」ことと結びついていてくる。 世界警察が実現しない限り、世界は暴力が支配する無法地帯である。 そんな状況下で身の安全を守ろうと思ったら、自分の身は自分で守らなくてはいけない。 すなわち国防である。 現在日本でも国防をしっかりしようという気運が高まってきているのは、こういった現実があるためだ。 しかし自分の身を自分で守るには3K(きつい、汚い、危険)である戦争をしなくてはいけない。 それはもう嫌だ。 そこで国防をしなくても身の安全が保障される「世界警察」の待望につながるわけだ。 アメリカの同時多発テロ事件が世界史の転換点となった。 それは、ひとつには 人類有史以来初めて人類共通の敵が現れたことであり、もうひとつは 人類有史以来実現不可能とされてきた世界警察誕生の布石をつくったところにあると断言できる。 あなたの携帯には、何人の電話番号が登録されているだろうか。 相手の顔を思い浮かべることができて、これからも電話をかける関係だ、と思える人の数は、100〜200人くらいだと言われている。 英国の人類学者R・ダンバーは、様々な共同体、軍隊、企業、宗教組織などの集団の大きさを調べた。 その結果、目的を共有し、心を通わせながら一体となって活動するユニット(軍隊の中隊、企業の機能単位、1教会の信徒数など)の規模は、ほとんど100〜200人の範囲で、その平均は150人だった。 軍隊は、互いに命を預け合う究極の運命共同体だが、中核をなす行動単位である中隊の規模は洋の東西、時代を超えて150人ほどだった。 古代ローマ軍の歩兵中隊は120〜130人。 第2次大戦時の各国軍も、130〜220人とほとんど変わっていなかった。 この結果、ダンバーは、機能集団の維持にはメンバー間の直接的、個人的つながりが不可欠で、その最適規模が 「150人」なのではないかと考えた。 この数字には、どんな意味が隠れているのだろう。 チンパンジーやゴリラ、人間などの霊長類では、脳(大脳新皮質)の大きさと、共同生活を送る群れの大きさの間に比例関係があることがわかっている。 人間の脳から推定される社会集団の規模を算定すると、やはり150人となる。 人間は脳を巨大化させることで言語を獲得し、道具を使いこなし、複雑な人間関係を処理できるように進化してきた。 人間の脳は、150人くらいの集団で暮らすのに最適化しているということができる。 人間は相手の心の中を読み取り、人間関係を良好に築こうと心を砕く社会的動物だ。 人間が3人いる場合の関係は、AとB、AとC、BとCの三つと単純だが、30人の集団では435の多角関係になる。 規模は10倍だが、関係は150倍になる。 これが150人の集団になると、関係は1万1175通り。 人間はこの複雑な関係に配慮しながら、共同生活を維持していく能力を備えているのだ。 「150人」という数字は、さらに驚くべきところにも顔を出す。 今や66億まで増えた人類だが、 直接の祖先となった集団は約150人だったことが、最新の遺伝子解析でわかったのだ。 約7万年前にアフリカを出た小さな集団は、未知の環境に適応し、世界の隅々まで勢力を広げていった。 この祖先集団が数十人の小ささだったら、厳しい自然というミキサーにすりつぶされ、消滅していただろう。 200人より多かったら、派閥抗争が起こって分裂し、共倒れで全滅していたかもしれない。 私たちの祖先は、絶妙のスタートを切ったのだった。 ある著名なアメリカの科学者が書いたSF小説に次のような名シーンがある。 3.14・・・と円周率を無限に計算していくと、ある時点で1と0しか出現しなくなる箇所がある。 コンピューターがはじき出す数列は、ディスプレー上に1と0を無機的に並べていく。 ぼんやり眺めていた主人公の眼は突然、釘付けになった。 画面上の1を背景に、0が作り出した図形が浮かびあがったからだ。 それは正確に円の形をしていた・・・。 この場面が意図するものは明らかだ。 自然の中に神は自らの存在を示すメッセージを密かに仕組んでいる。 彼ほどの科学者であっても、見えざる力へのナイーブな接近があることを知り、私は興ざめした。 それを禁じてこそ科学者ではないのか。 その点、本書の著者はそうした誘惑を拒絶する姿勢を終始堅持している。 この世界は、単なる偶然から生まれたにしてはあまりに複雑で完璧だ。 これは何らかの造物主のなせるわざとするしかない。 ゆえに造物主たる神は存在する。 この論理は正しいだろうか?答えは否である。 9月11日は1年の第254日目である。 2、5、4の和は11となり、9、1、1の和も11。 9月11日以降の1年の残り日数は111日。 倒壊した世界貿易センタービルの2棟は11に見え、衝突した最初の旅客機は11便だった。 テロに関連するNew York City, Afghanistan, The Pentagonの3語はすべて11文字。 この特筆すべき符号には何か意味があるのだろうか?答えは否である。 単なる偶然に特別な意味を付与したい。 これは私たちの脳の性向である。 進化の過程で獲得した優れたパターン抽出能力は、同時に私たちの足元をすくう認識の陥穽にもなりうる。 およそ10万年前、アフリカの洞窟でその書物は生まれ、時を隔てて写本が作られた。 写本はよその土地へ運ばれ、行く先々で別の写本が生まれた。 写本は全世界に散らばって今に至る。 写本と写本を比べその細かな差異を調べると、写本の系譜が判明し、それらがいつどの枝から分岐したのかがわかる。 私がここで写本といっているのは、男が運ぶ Y染色体のことである。 母系で受け継がれるミトコンドリアの解析は、人類すべての祖先がアフリカで生まれたひとりのイブであることを明らかにした。 一方、Y染色体の多型解析は、その後の人類の軌跡を鮮やかに照らしだした。 これまでの常識はことごとく塗り変えられた。 イブの子孫たちは、三回にわたって出アフリカを果たし、ヨーロッパ、インド、アジア、そして北米、南米へと移動した。 その途上、あるものたちはそこに留まり、あるものたちはさらに進んだ。 後から来たものたちとの間で諍いが生じた。 アフリカに留まったものたちを含め、現在、人類のY染色体の写本は、18のタイプに分類される。 世界の各地域ごとに多型解析をすると、このうちどの系統が優勢かによって、出アフリカ何回目のどの枝の子孫かが判明する。 いわゆる白色人種、有色人種といった分類は決定的な誤りであり、その内部の多様性こそに意味がある。 もっとも興味深いのは日本人の解析である。 DNAから見ると、出アフリカを果たした三つの系統が流れ流れて分岐したあと、もう一度落ち合った特別な場所として日本列島が現れる。 日本こそが「人種」のるつぼなのだ。 「かんの虫に効く」「虫の居所が悪い」・・・。 そんな表現が示すように、日本人は古来、病などを引き起こす虫の姿を想像してきた。 それらの虫のカラーイラストと退治法などを記した戦国時代の古医書『針聞書』が近く、復刻出版される。 16世紀半ば、現大阪府茨木市付近に住んでいた針の今新流開祖、茨木元行が編さんした書物で、縦24センチ、横21センチ、約140ページ。 類例のない奇書で、医療史の資料としても貴重だが、近年まで存在が知られず、2003年に古書市場で発見され、以降研究員らの手で読解が進められた。 当時、いると信じられていた63種類の虫について、イラストを添え、関連の病、その治療法を述べている。 ぎっくり腰を起こすという虫は、胴長のトンボのような姿で、飛来して体に侵入し、背骨に巻き付いてとげで刺す、とある。 甘草などを服用すれば治ると書いてある。 「肺積」という虫は、人面が付いた小さな雲の形をし、胸の中で肥大化して気分を憂鬱にする。 針が効くという。 このほか、大酒飲みの原因となるきんちゃく形の虫や高熱を出させる赤いヘビのような虫も出てくる。 これらは、戦国期の人々の想像力と、寄生虫や遺体ににつく虫のイメージなどが重なり合い、生み出されたと考えられる。 研究員は「虫の仕業として、病の状態を具体的につかみ、治療したことがわかる。 中国伝来の針治療などが、近世日本で独自の発展を遂げたが、これはその源流にあたる」と説明する。 この書物に現れている感性は、 虫歯予防ポスターで歯を砕く悪魔が描かれる現代日本にも通じる部分がありそうだ。 筆者が鳥取県知事を務めていた頃、鳥取から大阪を見ていてなんとも歯がゆく、時にはいらだちを覚えることさえあった。 大阪はなんといっても西日本の中心である。 山陰に限らず北陸でも四国でもそうだが、農産物の最大の市場は大阪である。 また、観光客の多くも東京からではなく、大阪をはじめとした関西圏からである。 これらの地域の人たちは常に大阪に関心を持ち、その動向に注意を払っている。 ところが、その関心や注意は一方通行でしかない。 特に、大阪の政治・行政に携わる人たちの周辺地域に対する関心は極端に低い。 このことは、これらの地域にとって切ないことではあるが、それ以上に大阪にとっても実にもったいない。 その関心の薄さが、大阪自身の潜在能力を押し殺しているからである。 例えば、交通体系を東京圏と比較すると大阪のウイークポイントがよく理解できる。 東京圏は東京を中心に高速道路が四通八達している。 全て東京を起点に、東京の関心に従って整備されている。 一方大阪はどうか。 例えば、鳥取県の県庁所在都市である 鳥取市から高速道路で直接大阪へ行くことはできない。 現在鳥取市から兵庫県の佐用までの区間を工事中である。 数年前の高速道路の見直しの際、この工事が途中やめになる可能性があったため、大阪府や大阪市に力添えを頼んだことがある。 しかし、田舎の高速道路には殆ど関心を持たないようだった。 この道路の目的が「大阪に少しでも早く到達すること」にあり、大阪の後背地が実質的に拡大することにつながるにもかかわらず、である。 大阪の関心が大阪の区域内に終始するのであれば、所詮その力は知れている。 大阪府にしても大阪市にしても小さな面積でしかないからだ。 東京都も区域でいえば小さな自治体であるが、関東近県はもとより東北、東海、信越など周辺の広大な区域とその人口を引き付け、それを自らの「栄養」にして肥え太っている。 大阪になぞらえれば当然山陰や北陸、四国が「栄養源」だが、大阪は未だこれらの地域を引きつけるに至っていない。 大阪も近畿圏の自治体とは定期的に会合を開くなど、連携を取ろうとしている。 しかし、傍らから見ていると、その中で大阪がトップリーダーとして振る舞っているようにはとても見えない。 むしろ、神戸や京都との綱引きや牽制の方が目につくようだ。 大阪はこの点でも連携の枠組みを拡大した方が賢明だろう。 ここで「遠交近政策」を大阪に説けば、近隣大都市との間に波風を立てることになるから敢えて持ち出すまい。 ただ、 大きい星ほど中心に向かう重力が大きくなるのと同じように、大阪が関心と連携の対象を拡大すれば、それだけ大阪に向かうエネルギーは増幅する。 ともあれ、大阪は自ら押し殺している潜在能力があまりにも多い。 今後は視野の広いリーダーシップを発揮してもらいたい。 縄文時代160センチ、弥生時代163センチ、江戸時代155センチ、現代の17歳170・9センチ。 江戸時代以前の時代別の男性平均身長は、 弥生時代だけずぬけて高い。 その理由を西本教授の研究室にずらりと並ぶ 弥生豚の骨たちが教えてくれる。 縄文時代の家畜は犬だけだったが、弥生時代になって、水田の稲作とともに初めて豚が大陸からやってきた。 豊富なたんぱく質を摂取できるようになり、日本人の平均身長がぐんと伸びた。 しかし、奈良時代の8世紀になって、殺生を戒める仏教を篤く信仰した聖武天皇の命令で、豚は野に放たれた。 以降、日本人の食卓から、豚などの獣肉メニューが消えていった。 それに伴い、日本人の背は再び低くなった。 豚が野生化してイノシシへと戻ってから約1200年。 日本人はようやく弥生時代の身長を追い抜いたのだ。 実は20年ほど前まで、弥生時代の遺跡から出土した豚の骨は野生のイノシシだと考えられてきた。 鼻が長く、一見すると現代のイノシシに似ているからだ。 しかし、縄文人が獲物としたイノシシとシカの比率は半々なのに、弥生時代にはイノシシが8対2と、圧倒的に多くなる。 西本教授は、この不自然さに注目した。 豚とイノシシを区別するポイントは、後頭部が丸い点や下あごの骨の厚さなど。 しかし、その差は微妙だ。 見極める目を養うため、3年間、イノシシ解体業者のもとに通い詰めた。 こうして1989年、大分市の下郡桑苗遺跡で出土した三つのイノシシとみられる頭骨を分析し、豚であると識別することに成功した。 弥生時代に豚はいなかったという定説が覆されたのだ。 発表後は鑑定依頼が相次ぎ、家畜化された豚が全国に浸透していた実態が浮かび上がった。 一方、豚がいなくなった後の日本についてはこう説明できる。 江戸時代の絵にある日本人はみな小顔で出っ歯である。 これも動物性たんぱく質をあまり食べなくなったことで、顔とアゴが小さくなり、歯が出てきた結果なのである。 豚がいるか、いないかで、人間の顔の形までが変わってしまう。 動物が文化や歴史へいかに影響を与えてきたのかを探る 動物考古学ならではの興味深い結論だ。 そこでは番組制作を取り巻く様々な問題が指摘されている。 だが、製作に協力してきた 「専門家」のことも、忘れるべきではない。 見方を変えれば、それこそが問題の本質かもしれないからだ。 日本学術会議は、近年の科学者の不正行為多発を受けて、昨年「科学者の行動規範」を策定した。 今回の問題に対しても、テレビ番組における「実験」も科学の活動の一つととらえ、科学者の倫理的規範を順守すべきとの会長談話を出した。 これは表面上は、科学の職能集団からメディアへのメッセージである。 だが、この種の番組が科学者や医師などの 「専門家」の協力の上に成立していることを考えると、メディアに登場する専門家への「注意喚起」の意味もあるはずだ。 少なくとも、テレビ番組において「専門家」としてコメントすることに、一定の社会的責任を伴うのは至極当然だ。 だからといって専門家が「君子、危うきに近寄らず」的な態度を取ることは、問題の解決につながらない。 それは結果的に適切でない「専門家」の登場を許すことになるからだ。 ここで指摘したいのは、売名や個人的利益の追求を狙うような「インチキ専門家」のことだけではない。 何も悪意がない場合でも、問題となりうる。 それはなぜか。 現代は、あらゆる学術の専門分化が著しく、真っ当な「専門家」であっても、少し分野が異なると急速に理解が困難になるという現象が起こっている。 いわゆる「タコツボ化」の問題だ。 一方で、メディアが適切な専門家を探すにも、時間と知識が必要だ。 しかし、低予算で視聴率競争に追われる製作現場では、そのような余裕は少ないだろう。 もっと言えば、逆説的だが、 その専門性の微妙な差異は、当該分野の専門家でないと本来は分からないのだ。 その結果、「専門家の使い回し」が多発する。 メディアに登場する人物の正当性は、メディアへの露出度そのもので担保されるという、循環論法に陥るのだ。 もし適切な専門家が、今回の事件を「教訓」にメディアと距離を取るようになれば、この傾向は更に加速され、悪貨が良貨を駆逐してしまうだろう。 世間的にも「コレクター」というと、やはり「男がやるもの」のイメージが強いのではないだろうか。 確かに人生のすべてを賭けるような、気合いの入ったコレクションを築くのは男性が多い。 では、女にコレクターはいないのか。 そんなことはない。 お気に入りの小物を集めたり、可愛い洋服を集めたり、素敵なティーカップやヌイグルミを集めている女性は現実に多いではないか。 古い例で恐縮だが、70年代前半のアイドル女優だった岡崎友紀はスヌーピーの大ファンで、キャラクターグッズを部屋一杯に集めていたし、黒柳徹子は40年来のパンダ・フリークであり、パンダのぬいぐるみやパンダ絵の入った小物を集めているという。 一般的に男性は古本やソフビ怪獣、萌えフィギュアは集めても、洋服や素敵なティーカップを集める人は少ない。 まあ俺の知る限りでは皆無だ。 女性がコレクションとして好む分野と男性が好む分野には、ジャンルの違いがあるのは確かである。 しかし言いたいのは、「集める対象」の差異についてではない。 どちらかといえば「集める行為」そのもの、その行動パターンにこそ、男と女には容易に通じ合えぬ、根源的な違いがあるのだと考えている。 これはけっこう説明が難しい部分だ。 抽象的になるが、こういう言い方はどうか。 女のコレクションが「自分の好きなモノ」だけを集めるのに対して、男のコレクションは 「世界」を、あるいは 「宇宙」を集める行為だと言えるかもしれないのだと。 そのために男は、あえて「好きでないモノ」でさえ集めることもあるのだと。 「世界」「宇宙」を集めるとはどういう意味なのか?それに「好きなモノ」を集めることはコレクターとして当然ではないか?反対に「好きでないモノ」を集めるコレクターなど、存在するのかという疑問もあろう。 以上を説明することは、大変難しいのだが、重要なポイントなので避けるわけにはいかない。 たとえばコレクションの王様と呼ばれる「切手収集」を考えてみよう。 俺の子供の頃は少年雑誌に必ず切手コーナーがあって、すさまじいブームであった。 切手には長大な歴史があり、圧倒的に豊富なバリエーションがある。 値段も高価なものから額面通りに買える手頃なものまで揃っていて、奥が深いと同時に子供にも手が出しやすい手頃なコレクションであった。 切手には「通常切手」と「記念切手」がある。 通常切手はもちろん葉書や封書を出す時に貼るもので、一方の記念切手も通常切手と同様に使うこともできるが、普通は「コレクション用」として扱われることが多い。 世界の国の中には、外貨目的で他国に向けて記念切手を発行している小国もある。 そして記念切手はたいていの場合、「シリーズ」として何枚組かで発行される。 コレクターの心理として、できればシリーズを全部揃えたいという衝動に駆られるのが普通だ。 「完揃え=コンプリート」の誘惑である。 記念切手に限らず、食玩など、もとから「シリーズ」で発売されることが多いものは、マニアのコンプリート欲を刺激するため、わざとそうしていたりするわけである。 この「コンプリート欲」は男性に多く、女性にはあまり見られないと思うのだが、どうだろうか。 俺もかつて60年代末の「少年マガジン」バックナンバーを集めていたときには、ある年のある号だけがどうしても見つからず、都内の古本屋をほぼ踏破したことがあった。 しかも、その内容が特に読みたかったわけではないのだ。 背表紙をズラリと並べたときに、その号だけ欠けているのが「気持ち悪かった」からである。 もはや理屈も何もない。 どんなにカネや時間がかかろうとも、「それ」を集めずにはいられないのだ。 当時は、寝ても覚めてもその号のことだけを考えていた。 内容は「どうでもいい」のに、である。 これが俺が言う「好きでないモノでも集める」ということである。 より正確に言うなら、当時の「マガジン」はもちろん「好き」なのだが、「欠落を埋める=コンプリートする」ことに頭が完全に支配されてしまい、「中身」のほうはもうどうでもよくなっているということである。 パンダマニアの女性がいたとして、本当に「パンダならなんでも」集める女性がどのくらいいるのだろうか。 多くのパンダグッズの中には、正直「可愛くない」ものもあるのではないか。 それでも「欲しい」女性がどのくらいいるものなのか、俺にはよくわからない。 男コレクターの場合、「それなくしてコンプリートできない」となったら、可愛かろうがそうでなかろうが、個人的な興味などどうでもよくなるはずだ。 「コンプリートすることで、世界を完成させる」ことが、より重要な目的になるからである。 俺がコレクションを考えるうえで、 「世界」や 「宇宙」という言葉を使ったのはこういう意味においてである。 男にとってコレクションとは、コンプリートすることで 「体系」を完成させる、要するに 「世界」なり 「宇宙」を完成させることではないかと思うのだ。 彼はコレクションすることで壮大な観念のジグソー・パズルを完成させようとしているのである。 女性にそういう人がまったくいないとまでは言わないが、少ないことは確かだと思う。 多くの女性にとってのコレクションは、どこまでも「好きなモノ」を自分の手元に寄せる行為だと思うからである。 一方、集めることによって「世界の模型」を作らざるをえない「男」に対して、俺はある種の 「哀しみ」を感じざるをえないのだ。 これは個人的な仮説なのだが、 男にとってのコレクションとは、「子供を産むことができない」ことへの「代償行為」ではないかとさえ思うのである。 女は子供を産む、即ち一個の生命を自らの体内に形成することができる。 男は子作りに「協力」することはできても、自ら生命を生み出すことはできない。 そこでその替わりとして「コレクション」があるのではないか。 コレクションとは、本質的に 欠けた機能を、モノによって補完する行為なのではないか。 しかしモノはどこまで集めてもモノなのであり、生命がそこから誕生するわけではない。 これが男にとっての本質的な 「哀しみ」でなくしてなんであろう。 女のコレクターは、好きなモノに囲まれて幸せそうだ。 一方、俺が男のコレクターに感じるのはただ 「業」の深さであり、おのが因果を見つめての 「嘆き節」である。 俺は以前、ブックコレクターとしても著名な荒俣弘氏にはじめてお会いしたとき、会話の中で氏が何度も「なんで本なんかを集めてしまったんだろう・・・」と嘆いていたことを思い出す。 「20〜30年代のアメリカのパルプマガジンなんか、積み上げれば数メートルに達するくらい集めたんですけどね。 あるときアメリカの古書店に発注して、丁寧にパックされたものが届いたんですが、ビニールの封を解いた瞬間、雑誌が粉みじんになって飛び散ったんです。 こんなこともあるんですね。 もともと紙質が悪い上に、何十年も封印されていたものですから、急激に外気にさらしたボクがバカだったんです。 諸行無常といいましょうか、そのときボクは、こんなものを集めざるを得ない自分の宿命を呪いましたよ・・・」 荒俣氏の述懐を聞いて、思わず身が引き締まる思いにかられた。 そんな荒俣氏であるが、80年代末に小説『帝都物語』が大ヒットして、いきなり2億とも3億ともいわれる巨額の印税が転がり込んだとき、氏はそれを全部古本購入に使ってしまったそうである。 その中には一冊一千万もする17世紀ヨーロッパの手彩色銅販画の図鑑があり、それが氏の大著『世界大博物図鑑』(平凡社)のネタ本にもなった。 しかし翌年の確定申告で、同書購入を「必要経費」として申告したところ、税務署は最後まで認めてくれなかったそうである。 「一冊一千万もするような本は、経費とは認められない、宝石と同じく資産扱いになるというんですよ。 ボクにとっては必要経費なのに・・・」こう言って荒俣さんは「本なんか集めるもんじゃありませんよ。 不幸になるだけなのに・・・」と、深くため息をついた。 その顔は、不治の難病を宣告された患者のそれであった。 リコーから、GRデジタルというカメラが発表されました。 今やケイタイでも当たり前な"ズーム機能"の無い、"単焦点"のレンズが、大型の一眼レフなみの画質を生み出す、プロやマニア向けの高級カメラです。 私はリコーのデジカメが、使いやすくて好きなので、この新製品にも興味があるのですが、それ以上に感慨深いのは、このニュースの見出しに"銀塩時代"という表現があったことです。 "GR"というネーミングが、デジタル以前の名機を引き継ぐものだからです。 白黒フィルムは、光が当たった部分を現像すると、"塩化銀"が生じて黒くなります。 それが"銀塩"の語源です。 今、カメラといえば、デジカメのことが多く、フィルムを使うカメラを区別するときは"銀塩カメラ"や"フィルムのカメラ"と呼ばれます。 10年くらい前、デジカメが出てきたときは、もちろんカメラといえば銀塩のことで、デジカメは"デジタルカメラ"と、常にいわれていました。 デジカメが"銀塩"の売れ行きを追い抜いたのは、もう3年前のことなので、カメラ=デジタルという表現に違和感が無いのも当然のことです。 そして、古いものには、古い名称"銀塩"がつけられるわけです。 モノには、名前があり、言葉が与えられます。 英語でcarといえば、誰でも自動車のことを思い浮かべます。 しかし、自動車が発明されたばかりの頃、それは "ウマなし馬車" horseless carriage と呼ばれました。 クルマには馬がつきものだった時代には、そう表現するのが普通だったからです。 "銀塩"カメラという言葉には、かつての"馬車"のように、不便ではあるものの、ノスタルジックで優雅な響きが付け加えられようとしています。 日本の出生率が下がり続けている。 少子高齢化が問題になって早ん十年。 一向に改善する気配がない。 政府も危機感を募らせて様々な施策を打ってはいるが、効果は薄いようだ。 出生率低下は日本だけでなく先進国共通の悩み。 後進国でも富裕層を中心に出生率は低下傾向にある。 出生率低下は社会的な問題や経済的な問題など、いろいろ言われているが、一般的に生活水準が高くなればなるほど出生率は低下するようである。 なぜ生活が向上すると出生率が低下するのか?それは人間が動物であり、生物であることと密接な関係がある。 もともと人間を含む哺乳類は他の生物に比べて出生率が低い。 なぜなら 子供の生存率が高いので、たくさんの子供を生む必要がないからである。 哺乳類の子供の生存率が高いのは子供が母体の中で安全に育てられるためで、逆に哺乳類以外の動物は自然界に直接卵を産み付けるため、子供の死亡率は極めて高い。 だから下手な鉄砲数撃ちゃあ当たるってな感じでたくさんの卵を産むわけだ。 人間でも大昔多産だったのは貧しい食生活、劣悪な医療、天災の直撃、幾多の戦争により子供が数多く死んで、子供をたくさん産む必要があったためだ。 後進国の出生率が高いのもほぼ同じ理由だ。 これからいくと出生率を上げようと思ったら、生活のレベルを下げて、子供が死にやすい環境をつくるということになる。 加えて一般に女の子より男の子の方が死亡率が高いことから、その希少性ゆえ「一姫二太郎」「男系男子」といった種族保存を男の子中心に考える傾向もある。 また出生率の低下は子供の生存率との相関関係だけが原因ではない。 要は「増えたものは減る」「減ったものは増える」「上がったものは下がる」「下がったものは上がる」といった 自然法則も関係してくる。 だいたい出生率が人間の都合のいいように一本調子で上がっていくと考える方がおかしい。 普通は人間の体重や血圧のように、またオシログラフ、株価チャート、地震波形のように上がったり、下がったりするのが自然である。 出生率もまたしかり。 出生率の低下は単に 「今まで増えてきたものが減っただけ」と結論付けることもできるのだ。 出生率低下は 自然法則に基づいている。 そういった自然界の実態を無視して、少子化は日本の危機だとか、日本はもうお終いだとか不安を煽りに煽るコメンテーターたちは正真正銘の愚か者なのである。 出生率低下を目の当たりにして、我々がとるべき態度とは、いたずらに不安がるのではなく、現実をありのまま受け止め、日々あるがままに生きる。 ただそれだけだ。 無理に出生率を引き上げるのではなく、人口減少時代に見合った分相応の生き方を探れば良いのである。 男と女とどっちが強いのだろうか。 なんでも原点のそのまた原点からスタートしないとものごとを考えられない筆者はアメーバにまでとんでしまうのである。 アメーバにはオスもメスもない。 これは当り前だ。 原始的な生物は分裂してふえたり、芽が出てふえたりする。 それが進化すると、ミミズのような雌雄同体の生物が登場する。 一体完結型ではなく、2匹で相互に精子を交換するので、進化の可能性が大きくなる。 このタイプについてはメスがオスの機能も持っていると考えることができる。 メスが主体である。 さらに進化するとオスとメスが分離して別の個体になる。 といっても依然メスが主役であって、オスは酒の肴、刺身のつまだ。 小さく、弱く、寿命も短い。 この手の生物は概して卵の数が多く、全部が育ったら、アッという間に大繁殖して、食糧危機で全滅するはずだが、実際は個体の能力(攻撃力、防衛力、適応力、知能)が低いので、生き残るのはごくわずか、それでバランスがとれている。 個体の能力が向上した生物では卵の数が減る。 そうでないとバランスがとれなくなる。 生き残るのはバランスのとれたものに限るのだ。 これは哺乳類のような高等な生物でも変わりはない。 能力は低いが子供が多いか、子供は少ないが能力が高いかが生き残る条件。 またどの場合でも メスは環境への適応力が高く、体力的には瞬発力はないが持続力はあるというのがふつうである。 オスは瞬発力はあるが持続力はない。 その典型がライオンだ。 ノミの夫婦などという、下等な生物では当然メスが主役だが、オスが立派に見える鳥類や哺乳類でも実はメスが主役だ。 オスはアクセサリーであり、用心棒でしかない。 観音さまと仁王さま、実は観音さまが主役なのだ。 なんといっても動物の世界では、子供を生んで育てて、食料を調達するやつが上なのである。 では人間はどうなのか?人類が誕生したばかりの頃は弱い存在で、猛獣、天災、細菌等にやられて生きのびるのがたいへんだったにちがいない。 となると女が主役であり、男はやはりアクセサリーであり、用心棒だったろうにちがいない。 ただ、肉食と菜食ではずいぶんちがう。 狩猟は成年男子の仕事だが、農耕や採拾(木の実を拾い、草の根を堀り、貝をあさる)は女子供でもできるので、ますます女性優位になる。 ただ、食って寝るだけのサルなみの生活を卒業して文化と名のつくものを持つようになると、男がのさばり出す。 石器を作る、弓矢を作る、小屋を作る、船を作る、各種の土木工事を行う。 いずれも力仕事なので男が主役になる。 さらに人間がふえてくると、相互の争いもひんぱんに起こるので、これまた男の出番となる。 さらに文化が進んで、機械文明の時代、これまた男の独壇場、機械を動かすには力がいるし、ものによっては瞬発力も必要。 また、数学だ、力学だ、電気だと、抽象的な学問も必要、これも男性向きである。 オスというものはもともとがメスの幽体のような形で分離された 抽象的な存在であり、種の保存についてもメスは卵や子供を生んで育てるのだから極めて具体的だが、オスの役割は極めて抽象的、本当にオレは種の保存に役立っているのかなと、疑心暗鬼のオスも多いにちがいない。 従って頭の中身も抽象的思考に向いているのだときめつけてしまおう。 文化のひとつ、技術のアクセサリー的存在として芸術がある。 とんでもない、芸術こそがすべてであり、技術は芸術に奉仕するアクセサリーにすぎない、という主張もあると思うが、そんなことはどうでもよろしい。 とにかく芸術というスパイス、嗜好品がある。 生活には関係のない部分に情熱を燃やすという点からすると、芸術もトータルでは抽象的だ。 芸術の中でも具体性の強い文学、美術では女性も結構がんばっているが、抽象性の強い音楽(作曲)には女性は少ない。 さて、狩猟民族の白人と、農耕民族の日本人とではやっぱりちがいがあって、欧米では昔から男が強い。 体格だって男女差が非常に大きい。 レディファーストというのは単に女をこわれもの注意として扱っているにすぎない。 欧米では今でも主人が一家を支配しており、毎朝1日の生活費を夫が妻に渡す。 何を買うにも夫から金をもらわなければならないので、夫からの贈り物で妻が有頂天になる。 欧米の夫はまさに主人と呼ぶにふさわしい。 日本では昔から男女同権で、 男女の体格差も少ない。 だから 歌舞伎も 宝塚も成立する。 日本では妻が一家を支配しており、夫は妻から1日のお小遣いをもらって出ていくその日暮らしの生活。 妻はほしいものを勝手に買う。 日本では本当の主人は妻なのだが、表面上は夫を主人として奉っている。 欧米のレディファーストと同じような意味でのジェントルマン・ファーストなのである。 世界のどこでも創造神や、ナンバーワンの神さまは男性だ。 夫婦神というのも一部にはあるが、独身女性でナンバーワンになったのは天照大神ぐらいのものだろう。 そして古代には女王ヒミコがいて、さらに実質的な女帝として神功皇后登場、公式的にも女帝となったのは推古天皇(在位592〜628)で、その後も皇極(後に再登場して斉明)、天明、元正、孝謙(後に再登場して称徳)と女帝が続く、孝謙の母の光明皇后も実質的な女帝だった。 イギリスに女王が登場するのは1553年だから1000年も後の話である。 女宰相、尼将軍北条政子にしても13世紀の初めである。 女流作家紫式部が10世紀末から11世紀初めにかけて活躍、源義仲に従って、群がる敵をばったばったとなぎ倒し、斬り倒し、しめ殺したという女武者、巴御前(12世紀)なんていうのも欧米にはいない。 ジャンヌダルク(15世紀)にしても指揮官であって武者ではない。 現在の女子プロレスを凌ぐ人気を集めたという女相撲も1750年頃の流行だというから、欧米ではジャン・ジャック・ルソー、ヒューム、ヴォルテールの時代だ。 日本の女は昔から強かった。 戦中戦後の食糧難時代でも女は強かった。 戦争中、撃沈されてイカダで漂流して助かった、というより、漂流者のリーダーとなった小学生の女の子の話。 アナタハンという無人島で5人の男を従えて君臨、映画にまでなったアナタハンの女王、つい最近は日航機事故で生き残った4人の女性。 乗客は男性の方が多かったのに、生き残ったのは女性だけというのはショッキングだった。 ところで、これから先はどうなるかというと、あらゆる条件がますます女性優位を示唆している。 自動車がいい例だが、すべての機械がマイコン・オートになり、筋肉運動が不要になるので、筋力が弱くても持続力のある女性が有利。 頭脳労働の方も同じだ。 これからはコンピューターの時代、天才的な閃きは必要ない。 どうしても必要ならコンピューターにそのような機能を持たせることもできるはずだ。 たいせつなのはコンピューターとの根気のよいつきあい。 それはタイピストの仕事にも似ており、女性に有利だ。 キーボードの操作は指が細くしなやかな女性向き。 女性専用とすればキーボードそのものも小型化できる。 さらに音声入力のコンピューターとなっても、明瞭度の点で男性より女性が有利だ。 未来社会はコンピューターが支配するが、コンピューターを支配するのは女性である。 コンピューター労働者は女性中心、力仕事はロボットがやる。 男性はロボットに不向きな力仕事、あるいはロボットにやらせるとコストアップになるので人間にやらせた方が安上がりというような雑用を受持つ。 おそらく家事育児も男性専科となり、夫は一家の主夫として、あるいはアクセサリー、用心棒的存在として生活を保証されることになるだろう。 その代り、芸術は男性のものになる可能性が出てくる。 家事、育児にそれほどの時間をとられることはないので、余った時間を芸術に振り向ける。 南方の農耕中心の未開部族の間では、女がひたすら働き、男はおしゃれと、おしゃべりと、踊りと、芸術品作りに明け暮れる。 未来社会は同じようになるにちがいない。 脳やDNAに関する最新研究を紹介するバラエティ風科学番組(「サイエンス・ミステリー」フジテレビ)で、「ある日突然芸術衝動に駆られるようになり、そのかわりに愛を失った男性についての話」というのがあり、興味深かったので見てみた。 主人公はアメリカのとある60代の男性。 脳卒中で倒れ、手術をして回復してから、(それまでは全くアートとは無関係の一労働者の生活だったのに)わけの分からない創作衝動に駆られるようになり、止まらなくなったと言うのだ。 部屋の壁一面に奇妙な絵を描き、粘土をこねて不気味な彫刻を作り、紙には詩を書きつける。 文字通り寝食を忘れ、ひたすら孤独かつ寡黙に造り続ける。 その姿は完璧に「芸術家」なのだが、問題がひとつ。 それが「芸術性ゼロ」だということ・・・。 うーん。 でも、これって芸術家としてはごく普通(?)の性質じゃないんだろうか。 どこか障害なのかサッパリ分からない。 私もほぼ100%この通りだし(笑)。 ただ、一見「プラス」の性格要素のように見える「創作(芸術)衝動」というものが、(実は脳のシステム不全によって)孤独癖や人間嫌い・躁と鬱の交代や多重人格・社会的不適応といった「マイナス」の性格要素と表裏一体のように現れる・・・と言うのは、話としてはちょっと面白い。 たぶん〈才能〉というのは、普通の脳にプラスとして組み込まれる追加機能ではなく、マイナスの欠損部分を補うために発生する補助機能なのだ。 だから、目が見えないと勘が鋭くなり、言葉を失うと表現力は研ぎ澄まされ、望みがないほど夢は広がり、満たされないほど愛は深くなる。 「そもそも〈芸術〉も〈愛〉も両方とも手にしようなんて、それではあんまり虫が良すぎるんじゃないかね」・・・と、そう言って微笑む神の声が聞こえる(笑)。 都市生活が当たり前になっている昨今。 ついつい陸を中心に物事を考えてしまう。 しかし文明発祥以来。 歴史の中心は海だった。 特に海に囲まれ、面積の大部分を山が占める日本は、大陸のように平野部で大規模な農業や牧畜を営むのが難しかった。 古くから日本人はその拠り所を海に求めて生きてきたのである。 最近「道路」の問題がクローズアップされている。 無駄な道路が多すぎる。 いや欧米に比べると道路の整備が遅れていると。 道路の整備が欧米より遅れているのは事実で、それは政治的な問題ではなく、日本は長らく運輸・交通の中心は海だったからである。 ヨーロッパのようになだらかな地形が延々と続くわけではないので、山あり谷ありの地形に道路をつくるというのは至難の業だった。 五街道と言ってもあぜ道に毛の生えたようなもので、とても道路と呼べるようなものではなかった。 運輸・交通の中心は海というか水上だったのは何も日本だけではない。 四大河文明が大河のほとりに文明を築いたのは、飲料水の確保や農業用水の調達以外に川を使って運輸・交通をスムーズにする狙いがあった。 陸上の運輸・交通がいかにハードなものであるかは遊牧民の生活を見れば一目瞭然。 ひるがえって水上では 「重いもの」を 「大量に」しかも 「遠方へ」「速く」「効率的に」輸送・運搬することに長けていた。 なぜなら 浮力、水流、風力といった自然の物理的エネルギーによって、最小限のエネルギーで最大限の輸送・運搬が可能だったからである。 シルクロードがNHKのドキュメントなどで有名になったおかげで、東西の交流があたかも陸上中心だったような印象を与えるが、実は東西の交流も海が中心だったのである。 造船技術と航海術は国の繁栄に欠かせないものとなった。 現代は空を制するものが、世界を制するが、昔は海を制するものが世界を制したのである。 北欧や日本が現代においても先進国なのは造船技術と航海術が発達したおかげである。 北欧や日本でなぜ造船技術や航海術が発達したのか。 それは海難事故が多発する地域だったからである。 日本の例で言うとモンスーンで海上が時化やすく、海流が複雑(日本の海はちょうど暖流と寒流がぶつかる地点)。 元寇で神風が吹いて、敵の船が沈んだとあるが、造船技術、航海術が少しでも劣ると、日本の海の航行は極めて危険であることを象徴的に物語っている。 現代人が歴史を陸上中心に考えるようになったのは 近代化して、都市化が進んで、生活の中における海の役割が減ったためだ。 そして 最近の歴史学は遺跡発掘による科学的検証で発達した経緯があり、遺跡といっても何も残らない海が、歴史の記憶から遠ざかるのは無理もないことなのである。 私は、二十代半ばから古い着物に興味を持ち始め、それらを通して 「見る」ということの楽しさを知った。 例えば、上等の麻の布を「上布」というが、上布にもいろいろな種類がある。 宮古、越後、能登上布に近江上布など。 それらは織られた産地によって特徴がある。 柄はもとより、最終的なものの見極めは、糸の細かさや縒りの違い、すなわち繊維のレベル。 ルーペの世界である。 それがいかなるものであるのかを「見抜く」ためには、知性や感性はさておき、まずはよく見なければ始まらない。 それは 「気力」と 「視力」のいることでもある。 ものの細部までを見るということは、そこからさらに深い世界を知る入り口にたつことでもある。 しかし、これは気力と視力が充実している若いうちに癖をつけておかねば、そうそうできることではない。 若い頃に一つのものに執着し、自分の目でよく見、触った感触の記憶は貴重である。 何もむずかしいことではない。 昆虫を捕まえ一夏大切に見守る。 ものを見るというのは、子供の頃のそういう経験から始まるものかもしれない。 このことは、演奏においての 「聴く」にも共通する。 演奏家をめざすなら、自分の音を細部まで丁寧に聴くということを、耳が鋭い、そして時間のたっぷりある若いうちに身に着けておかなければならない。 これらは、 若いと言われる年代を過ぎた頃に、実感することでもある。 差別とは何か?と問われた場合返答するのはとても難しい。 それは人間社会に起こる特有の現象であり、なおかつ一般に社会科学的な視点で議論するため、客観的に分析することが難しいためだ。 そこで試しに自然科学的な視点で差別を考察してみてはどうか。 ということを提唱してみたい。 差別は人類が文明を発展させ、近代化が進むごとに深まってきた。 例えば死刑執行人はもとは「死刑」という名の宗教的行事を司る祭司であった。 それが近代化するにつれて賤民となった。 「穢多」ももとは御祓いをして穢れを取り除く職能であった。 それが近代化して身分が固定され、差別の対象となった。 一般に人間のもつ動物性があらわになる職業ほど差別の対象となる。 例えば売春(性)、食肉加工(食)、死刑執行人(殺人)、清掃作業員(排尿、排便)。 文明社会を生きる人間は、人間が本来もっている動物性があらわになることをことさら忌み嫌う。 「性」はいやらしい、恥ずかしい、破廉恥だと封印し、暴力は残酷、野蛮だ、人権侵害だとして糾弾する。 文明の発祥は人間がもつ動物性の否定から始まっており、文明が進めば進むほど動物性の否定が進む。 しかし人間が動物であることはどんなに文明が進んでも変わりがない。 このことの乖離こそが差別につながるのである。 差別について考えるということは、文明について考えるということだ。 その場合の文明とは何かというと、それは文明の象徴としての都市、そして中央集権的な集団生活に集約されると思う。 人間は最初から都市生活、集団生活をしていたわけではない。 アフリカの原野に始まる人類の曙は樹上生活だった。 それが地上での生活に移り、移動が始まり、全世界に散らばって行った。 そしてようやく大河のほとりに根を下ろし、都市生活、集団生活を始めるのである。 人類が樹上から地上へと生活の場を移したのは、地上に生息するインパラ、ムー、ゼブラ、ライオン、キリン、ハイエナ、ゾウ、カバといった動物を観察し、その生態を取り入れたものと思われる。 人類は原初から学習能力に長けていた。 他の生物の生態を取り入れて、自身の生活範囲を著しく広げていったのである。 人類の世界規模の大移動も空を飛ぶ渡り鳥、海を回遊する魚たちにヒントを得たものと思われる。 では都市生活、集団生活は何にヒントを得たのだろうか。 これは推測だが 蜂や 蟻の生態にヒントを得たのではないかと思われる。 蜂や蟻が作る複雑な 巣は人間の造る 都市と似ている。 また 兵隊蟻からは 軍隊を、 働き蜂からは 労働者を。 女王蜂(蟻)を頂点とした ピラミッド型の社会構造はそのまま人類の 中央集権的な社会構造へと受け継がれた。 それが集団生活をする上で最も合理的な 「かたち」として捉えられたのだろう。 結果 蜂や蟻がもっていた縦社会の構図がそのまま「差別」として人類の社会に受け継がれた。 おそらくこれが差別の原点かと思われる。 なおこの説はやぴぴの兄のオリジナルであり、どの論文、学説にも載っていない。 いや世界は広い。 似たような考えをした学者が過去何人かはいたかもしれない。 マンガチックで突飛な考え方だが、個人的には結構「筋」は通っていると思う。 キリスト教の伝来が1549年。 以来500年近くになるが、思ったほどキリスト教の信者は増えていない。 伝来の時代が違うとは言え、神社とお寺さんの区別がつかないほど広まった仏教とはえらい違いだ。 一神教の考えがなじまないというのもあるかもしれない。 しかし本当の要因はキリスト教の布教活動の歴史にあるのではないだろうか。 キリスト教は伝来以来、豊臣秀吉、徳川幕府などから幾度となく激しい弾圧を受けている。 そのキリシタンへの拷問の凄まじさは後世に語り継がれるほどである。 日本のように比較的 宗教に寛容な国でなぜここまでの拒否反応が起きたのだろうか。 学校の歴史の授業では「封建的な身分制度の上にあぐらをかいていた当時の権力者が、人間の平等を説くキリスト教の布教を必要以上に恐れたため」と教わった。 確かにそういった面はあったかもしれない。 しかし理由はそれだけだろうか。 まず考えなければいけないのは キリスト教の布教活動は日本だけで行われていたわけではないということだ。 キリスト教の布教活動は大航海時代の後押しもあって、全世界的規模で行われていた。 しかもその布教活動は実に 先住民族の大量虐殺、略奪、強姦などと共に行われていたのである。 北米のインディアン、南米のインディオ、オーストラリアのアボリジニ。 地域によっては永らく栄えていた古代文明や帝国がヨーロッパ人によって滅ぼされたところもある。 秀吉や徳川幕府が恐れたのはまさにキリスト教の布教活動と共に行われていたヨーロッパ人による虐殺及びその支配であったと断言できる。 日本の歴史教育ではなぜかキリシタン弾圧に触れても、ヨーロッパ人が世界中で行っていた虐殺行為にはあまり触れられていない。 また徳川幕府が長い間行っていた「鎖国」についても、多くの歴史家は日本の閉鎖性を誇張し、世界の潮流に取り残された元凶のように批判してきた。 しかし今思うにこの「鎖国」はヨーロッパの植民地支配から逃れるための 日本の防衛政策だったのではないかと思ってしまう。 実際徳川300年。 一度たりともヨーロッパの植民地支配を受けていない。 インドや中国といった四大河文明を担う2つのアジアの大国が欧米の植民地支配を受けていたことを考えれば、「鎖国」は英断と呼ぶべき施策であったろうと考える。 しかもアメリカ軍基地に頼ってようやく60年の平和が保たれている現代日本と違って、どこの国にも頼らず、 自給自足で防衛政策を継続できたのは驚愕に値する。 欧米列強と戦ったのは明治維新以降のことと思われがちだが、実はキリスト教を弾圧した秀吉、徳川幕府の頃からヨーロッパとの戦いが始まっていたのだ。 時として悪者扱いされる、秀吉、徳川幕府だが日本を侵略者から守った偉い人たちという一面を持っていたことは事実だろう。 「方言札」をご存じだろうか。 明治末期から昭和30年代に至るまで、「方言撲滅・標準語励行」を旗印に主に沖縄の小中学校で用いられたもの。 学校で方言を使うと、罰として首からぶら下げさせられた木札のことである。 札には「方言ばか」あるいは「わたしはほうげんをつかいました あしたからはつかいません」などと書かれており、強引な沖縄同化政策として悪の象徴とされているのだ。 ところが本書によれば、方言札は法令や条例等で定められたものではなく、沖縄の教員たちが自ら「草の根運動」のように始めたらしい。 札を下げた生徒は次の違反者が出るまでずっと下げていなくてはならない。 そこで子供たちは同級生の足を踏み、「アガー(痛い)」と叫ばせて札を渡す。 学校を出れば方言も自由だったが、札を持ち帰って違反者を探す者も。 逆にわざと方言を使い、札を下げて目立とうとする子もいたらしく、罰則はまるでゲームの様相を呈したのである。 そもそも沖縄には旧来から罰札制度が存在していた。 トラブルなどを起こすと大人も罰札を下げさせられる。 その者には罰金が課せられ、それが村の運営資金になっていたという。 罰札の循環が村財政を支えていたのだ。 そして彼らが標準語を学ぶのも、本土との同化ではなく、沖縄内の標準語(首里士族語)を話す上流階級と対等になるためだった。 こうした実情を知らない本土の文化人が、美しい方言を守るべきなどと勝手に糾弾したことから、方言札は「悪魔的な性格を有する罰札」と解釈されるようになったのである。 私はふと沖縄の米軍基地近くにあった小学校のことを思い出した。 「騒音反対!」と本土マスコミが繰り返す中、子供たちの間では騒音を聞いただけでその戦闘ヘリの機種を当てる遊びが流行っていた。 行き先の定まらない基地問題もひとつの札のようなものかもしれない。 筆者は人間とサルとの間に決定的なちがいはないと信じている。 サルの中にはバーテンダーとして、獣医の助手として、人間以上の働きをしている秀才もいる。 人間の中にはサル以下、いや、植物同然というのもたくさんいる。 人間のカンちがいの中で最もたるものは「人間は意志を持っている」ということだろう。 人間は自分の意志に従って行動していると思っているが、これは大まちがい、 人間の行動はすべて物理的、化学的な反応の集積として自動的に決まっていくものであって、意志というような抽象的な力のつけいる余地はないのである。 行動のパターンが、いかにも意志が働いていると見えるだけのことなのだ。 これは 動物すべてに共通する。 鳥が卵をあたためるのは子供のことを考えているわけでも何でもない。 ただ、季節とホルモンの関係で胸が熱を持つから、それを冷やしているにすぎない。 卵と同じ形をした磁器でもプラスチックでもいいのである。 石ころや水でもいいのではないか?確かにそうである。 そういう鳥もいた。 しかし、それでは種の保存は不可能なので絶滅した。 卵で胸を冷やした鳥だけが生き残ったのである。 鳥は巣からころげ出した卵は見向きもしない。 子供のことを考えているわけではないからである。 ヒナに餌をやるという行動についてもまったく同じで、色と動きさえ似ていればプラモデルにでもブリキのオモチャにでも餌をやる。 逆に本当のヒナであっても巣からこぼれ落ちたら、これはもう単なるゴミなのである。 すべては単純な物理的、化学的な反応の集積にちがいない。 植物についても状況は同じだ。 蜂や蝶をひっかけようとして色とりどりの花を咲かせているわけではない。 そう見えるだけである。 実は機械も同じだ。 SLは自分の意志で、懸命に列車を引っぱって走っているわけではないし、ロボットも人間のごきげんを伺って動き回っているわけでもない。 要するに、 人間もサルも、鳥も虫も、植物も機械も、岩石も土も、雲も水も空気も、分子も原子もクォークもみんな同じである。 だから逆に、人間に意志や感情があると認めるならサルにはもちろん、原子やクォークにも意志や感情を認めないわけにはいかないのである。 小泉構造改革の結果生じた「格差社会」に批判が集まっている。 「格差社会」はいつの時代も、どこの国でもあることだが、なぜ今改めて「格差社会」が問題になるのか。 まずは現在の日本と高度経済成長時代との比較から検証してみたい。 高度経済成長時代にも「格差」はあった。 しかも現在の「格差」よりもひどかった。 黒澤明の映画「天国と地獄」(1963年)、内田吐夢の映画「飢餓海峡」(1965年)を見れば、そのひどさは一目瞭然である。 しかし高度経済成長時代には 「格差」もあった代わりに 「希望」もあった。 頑張って仕事をすれば報われるという社会の雰囲気があった。 そして事実頑張って仕事をした者は報われていったのである。 なぜなら日本は右肩上がりの経済成長を続けていたからである。 しかし現代はどうであろうか。 旧来のように頑張って仕事をすれば報われるのだろうか。 そもそも極貧からのスタートの高度経済成長時代と違って、現代は相当に生活水準の高い、満たされた社会からのスタートである。 しかも日本は着実に右肩下がりを続けている。 日本人の生活の拠り所になっている「企業」の実態を見ればわかりやすい。 現在景気が良くなった、良くなったと言われている。 雇用も以前よりは積極的に行うようになっている。 しかしその実態はほとんどが非正社員であり、正社員の雇用が進んだわけではない。 また以前はスポーツチームやスポーツ選手を企業の広告塔として抱えることも多かったが、景気回復が続く現在でもスポーツ部門の縮小は続いている。 そういえばバブル時代にはメセナ(芸術支援)ということもやっていた。 今はどうなっているのだろうか。 広告も停滞気味だ。 テレビ番組は金のかかってないようなトーク番組ばかりだが、それはスポンサーである「企業」がテレビの広告にお金をかけられなくなっている証拠である。 企業は昔に比べると着実にお金が回らなくなってきている。 昔のサラリーマンは企業が出す出張手当を貯金に回すことができたが、現代では、貯金どころか出張に際して自腹を切るよう迫られることもある。 このように時代は右肩下がりである。 そして 右肩下がりの中で「格差」が広がっている。 まさにここに現代の「格差社会」が批判を集める最大の要因があるかと思われる。 ではなぜ日本の企業にお金が回らなくなったのか。 それにはまず一見「格差社会」を考えるうえで何の関係もないように思える 「戦後」について考えなくてはいけない。 日本で言う戦後は1945年。 太平洋戦争が終結した年である。 太平洋戦争が終結した時点で第二次世界大戦が終わったのだから、世界の戦後も1945年。 だと日本人は思っている。 ところが 1945年の時点で戦後を迎えたのは日本だけである。 その他の国々は第二次世界大戦が終わったあとも、新たなる戦争を続けたのである。 「冷戦」である。 この冷戦のおかげで多くの国々は軍事面にエネルギーを費やし、経済を疲弊させた。 特にヨーロッパは冷戦に加え、2つの世界大戦のダメージ、植民地の独立もあって急速に衰えた。 アメリカもベトナム戦争の敗北で大混乱。 ソ連に至っては膨大な軍事費に経済が回らなくなってとうとうつぶれてしまったのである。 そういった中で日本だけは蚊帳の外であり続け、経済を発展させていったのである。 これが 高度経済成長の正体だ。 日本が冷戦に巻き込まれなかったのは、ベトナム、朝鮮、ドイツのように国が2つに分割されなかったことと、アメリカ軍基地を置いたからに他ならない。 アメリカ軍基地があることによってソ連は容易に日本を攻めることができなかった。 日本の平和は憲法9条ではなく、アメリカ軍基地によって守られてきたのである。 日本は自らを「不沈空母」と称することによって、豊かな経済と半世紀以上にわたる平和を国防という自助努力なしに享受することができたし、アメリカも北東&東南アジアの共産圏(ソ連、北朝鮮、中国、ベトナム、カンボジア)の脅威に対抗するのに、日本は軍事基地を置くうえで格好の場所にあったわけで、まさに両者の利害が一致していたわけだ。 当時の日本の政治家はこの点を利用して、かなりうまく立ち回ったと言ってよい。 しかしその冷戦も「ベルリンの壁崩壊」(1989年)「ソ連解体」(1991年)で終結する。 これが世界(一部を除く)の事実上の 戦後になる。 世界の戦後復興はまさにここから始まるのである。 アメリカは90年代、ITと金融ビジネスで好景気に沸いた。 ヨーロッパもワルシャワ条約機構の解散、ヨーロッパ共同体による通貨統合などで復活。 ブリックス(インド、中国、ロシア、ブラジル)なる新興勢力も台頭。 世界経済は激しい競争の時代に入ったのだ。 しかし日本だけは高度経済成長の成功体験を引きずったまま、世界の大きな変化についていけなかった。 まるで遠くのかなたで起こったチリ大地震の大津波が日本の沿岸部に大被害をもたらしたように、遠くのかなたで起こったソ連崩壊という大津波が、日本の中小企業や小さな商店街を襲って飲み込んでしまったのである。 これが バブル崩壊以降長く続いた不景気の正体だ。 ソ連が崩壊して世の中がらりと変わり、競争が激しくなった。 ソ連が崩壊する前は日本は競争相手もなく、ほとんど独り勝ちだった。 これが日本の企業に多くのお金が回り、昔のサラリーマンが出張手当を貯金に回せた理由。 ソ連が崩壊して以降は日本以外にたくさんの競争相手ができて、日本の企業にお金が回らなくなった。 これが今のサラリーマンが自腹で出張せざるをえない理由。 あるいは昼飯に吉野家の牛丼や100円マックを食わざるをえない理由である。 日本の「格差社会」の広がりはまさに、90年代以降の世界の「戦後」と密接に結びついている。 偶然にも 日本の「平成」の始まりと時を同じくしているところが面白い。 「昭和」から「平成」は、ひょっとすると平安時代(貴族社会)から鎌倉時代(武家社会)、江戸時代(地方分権)から明治時代(中央集権)以来の大変革だったのかもしれない。 もはや「昭和」の常識は通用しない。 「格差社会」の広がりは新たな社会に移行するうえでのひとつの過程なのかもしれない。 今年は終戦60周年。 人間で言えば還暦にあたる。 60年経って今思うことは日本はアメリカとの戦争になぜ負けたのかということだ。 今までそのことについてあまり検証されなかったように思う。 検証されていれば、国防をアメリカに任せっきりにして、口だけ平和を唱える今の現状はなかったように思う。 戦争を語るといえば、判で押したように「戦争の悲惨さ」「戦争の愚かさ」である。 あくまでも太平洋戦争は「悲しくも美しい物語」にとどめておきたいようだ。 そこらあたりが戦争に対する日本人の思考停止を招いているように思われる。 敗戦は作戦面の不備など、軍事専門的な視点からの検証もあるかと思われるが、自身は軍事専門家ではないので、もっと別の視点から敗戦を検証していきたい。 マンガ家の水木しげるがラバウル戦線に従軍していた頃、敵の襲撃にあって撤退。 前線の現状を上官に報告したところ 「なぜお前は戦って死ななかったのか!」と上官に一喝されたという。 現在の感覚からいうと、何という人でなしの上官かと思ってしまうが、当時はこれが当たり前だったのだ。 前進命令を出された部隊が池にぶつかり、そのまま池に沈んで溺死した事件でも、溺死した兵隊は軍人の鑑として賞賛され、泳いで助かったものは天皇の菊の紋のついた銃を池に捨てたということで厳罰に処せられた。 今では人命は地球よりも重いことになっているが、むかしの人命は一丁の銃よりも軽かったことになる。 このようなメンタリティが二百三高地、爆弾三勇士、神風特攻隊、回天、玉砕につながったのだと思う。 一方アメリカの部隊は、映画「プライベート・ライアン」に描かれていたように、兄弟の大半が戦死。 残った一人の息子だけでも母親のもとへ帰還させようと、部隊が二等兵の救出作戦に出かけるということをやっていた。 映画だから描かれていることには美談や誇張もあるかもしれない。 しかし当時の日本兵の扱われ方と比べると、なんと対照的かと思ってしまう。 また2001年9月に起こった米同時多発テロ事件で、旅客機ごとビルに突っ込んだテロリストを「まるで米艦隊に突っ込む神風特攻隊のようだ」とメディアが評したことは記憶に新しい。 個人的にも両者をイスラム教、あるいは天皇教(国家神道)による宗教的狂気かなと思っていたが、最近になって両者には決定的な違いがあると感じるようになった。 そのきっかけとなったのは、自爆テロをする直前のテロリストの映像を見たときである。 テロリストは聖戦(ジハード)を戦いぬくことによって、死んだあと、神の御もとへ行き、祝福されると信じきっている。 だから表情はややトランス状態にあった。 ところが神風特攻隊は「天皇のために死ぬことは日本人として最大の喜び」と教え込まれていたにも関わらず、特攻の直前、みな泣いていたのだという。 天皇のために死ぬことが最大の喜びであるならば、 なぜ泣くのか?このことからも両者の間には決定的な違いがあると感じたのだ。 結論をいうと、宗教的狂気というよりは日本の文化的背景。 すなわち日本人自身が 死ぬことに美しさを感じる国民だからということにつきると思う。 切腹という様式美、心中ものブームから、桜のようにぱっと散るということに美しさを感じるところまで。 近年日本では自殺者の多さが問題になっているが、それは不景気というよりも日本人のこういったDNAによるところが大きいのではと思われる。 死にたくなければ逃げればよい。 しかし多くの日本人は逃げなかった。 四方を海に囲まれているとはいえ、ベトナム戦争でボートピープルと称して、ベトナム人の多くが海を渡って国外に脱出したのとはえらい違いだ。 日本人の頭の中に国外脱出というのはなかったのだろう。 もうひとつ日本人には 負けるということにも美しさを感じる国民である。 最近の連戦連敗の競走馬「ハルウララ」が人気になったことなどはそのいい例だ。 弱い者を応援する「判官びいき」という言葉は源頼朝に追われて都落ちした義経への同情からきたもの。 また「平家物語」は滅びゆく平家を美しく語った物語。 日本人のメンタリティはなんと千年以上変わっていないのだ。 これなら負けるとわかって太平洋戦争をやった当時の日本人の感覚も少しは理解できる。 はなから勝とうとして戦争をやっているわけではないのだ。 負けるはずである。 サービス残業をやらせて、サラリーマンを酷使し、そのくせ営業収益は少しも上がらない日本企業とどこか似ている。 サービス残業は収益の向上でやっているわけではない。 ましてや労働の美徳でやっているわけではさらさらない。 労働によってひたすら汗し、苦しむ姿が美しいからやっているのだ。 日本人は 苦しむということにも美しさを感じる国民である。 「闘病日記」などというような、他人が病気で苦しんでいる姿を喜んで読むような人種は日本人だけである。 死ぬ、負ける、苦しむ、それに加えて不幸、貧しい、別れる・・・。 そういったもろもろの ネガティブなことを日本人は美しいと感じてきた。 だから日本人は太平洋戦争で300万人も死んだ。 いや戦争が長引けば、本土決戦になればもっと死んだはずである。 もしかしたら原爆によって滅んでいたかもしれない。 別にA級戦犯が悪いわけでも、誰かが悪いわけでもない。 日本人はそういう国民だということだ。 今度戦争になった場合、日本人が以上のようなことを認識してないと、今度は負けるどころか滅ぶ危険性がある。 なぜなら日本人自身が 滅ぶことに美しさを感じる国民だからである。 「己を知り敵を知れば百戦危うからず」 日本人は戦争に勝とうと思ったら、まず自分自身を知るべきである。 三種の神器と言えばテレビ、冷蔵庫、洗濯機。 いや本来は八咫鏡(やたのかがみ)、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)のことを指すはずだが、家電で使われて以来、広く《3つの大切なもの》という意味で使われるようになった。 人類の三種の神器というと 「宗教・政治・経済」か。 ただ大切さの度合いは宗教>政治>経済の順番になっている。 新聞を見ても日経新聞をのぞいて経済面が政治面よりもトップにくることはない。 経済はお金のやり取り、政治は命のやり取りをするものである。 「命の次に大切なものがお金」という考え方からすれば、当然命のやり取りをする政治の方が経済より上にくるのは当たり前だ。 今の日本に住んでいると、政治が命をやり取りをするものというのはあまりピンとこないかもしれない。 しかし歴史を見てみれば、政治家というのはたいてい大量殺戮者であることがわかる。 太閤記の信長、秀吉、家康は言うに及ばず、戦国武将、明治維新。 歴史上人気のある政治家は必ずといっていいほどたくさん人を殺している。 現在でも海外の政治家は大量殺戮者である。 アメリカはイラクやアフガニスタンで、ロシアはチェチェンで、中国はチベットで。 たくさん人を殺している。 人を殺さない今の日本の政治家は極めて特殊な存在だと言える。 政治>経済というのはわかった。 しかし命のやり取りをもしのぐ宗教と言うのはいったいどれほど大切なものなのか。 新聞では政治面、経済面はあっても宗教面はない。 これは聖教新聞などの宗教広報新聞をのぞいて、新聞ごときが宗教を扱うのは畏れ多いことを意味する。 映画「屋根の上のバイオリン弾き」を例にとるとわかりやすい。 家長父のテヴィエには三人の娘がいました。 三人の娘は年頃の年齢になりお婿さんを迎える時期に来ました。 むかしは父親がお婿さんを決めていましたが、近代化により、娘は恋愛による結婚を望むようになりました。 長女は経済的に貧しいお婿さんを選びました。 最初父親は難色を示しましたが、娘が望むのならとその結婚を許しました。 三女は政治運動に身を投じるお婿さんを選びました。 これも最初父親は難色を示しましたが、娘が望むのならとその結婚を許しました。 次女は宗教の違う異教徒のお婿さんを選びました。 これには父親も激怒し、とうとう最後まで結婚を許しませんでした。 「宗教、政治、経済」には共通点もある。 それは人間の わがままから派生しているということだ。 経済は基本的にお困りごとの解決である。 困ったことは自分で解決すればいいはずだが、人間はわがままなのでそれを他人にやらせてしまう。 そこに経済の発展があるわけだ。 政治は2人以上の人間がいた場合の利害調整である。 わがままとわがままのぶつかり合い。 その間をアメやムチを用いながら取りもつのが政治である。 そして宗教は人間の最大のわがまま 「死にたくない」というのがもとになっている。 人間は「死にたくない」と思うからこそ、来世があり、天国があり、輪廻があり、彼岸があると信じるのだ。 人間が死にたくないと思う限り、宗教は永遠なのだ。 岩井克人は戦後生まれでは最も注目されている経済学者である。 彼は『貨幣論』で、この率直きわまりない書名が示すように、貨幣とは何かについて考察する。 経済学の根源的なテーマの一つである。 そして、根源的であるが故に、いわゆる経済問題に疎い人にもかえって興味が湧くテーマである。 貨幣については、既に経済学の巨人たちがいくつもの業績を残している。 貨幣がどんな商品とでも交換できる特殊な商品だからだ。 では、その貨幣の価値はどこから来るのか。 貨幣と交換されるさまざまな商品に価値があることはわかる。 それなら、さまざまな商品と交換できる特殊な商品である貨幣は、何故に価値があるのか。 これについて、資本主義の矛盾を労働者階級の歴史的使命によって解決しようとしたマルクスは、労働価値論を唱えた。 貨幣には、その原初形態である金貨・銀貨などの原料である金・銀を採掘し加工するのに必要な労働が込められているのだ、と。 しかし、現在、含有される金・銀の価格と同じ額面の通貨は存在しない。 金貨だろうと銀貨だろうと、一枚十円になるかならないかの紙幣だろうと、貨幣としての価値は同じである。 さらには、カードなどに見られる電子マネーさえも使われるようになっている。 ここに労働が込められているとは言えないのだ。 貨幣はまさしく数値にすぎないのである。 数値にすぎない貨幣が流通するのは、それを受け取った人が、別の商品と交換でき、しかもそれはさらに次の人に対しても、次の次の人に対しても、同じように交換できるからである。 では、その連続する交換の一番最後の人は誰か。 当然、 無限の未来の人間だということになる。 岩井克人はこう言う。 「たんなる一枚の紙切れが、貨幣として使われているということによって、紙切れとしての価値をはるかにこえてもつことになる一万円という価値とは、 無限の未来に住む人間から今ここに住む人間へと送られてきた、気前のよい贈りものにほかならない」 究極の抽象的商品である貨幣の不思議さがよく表現されている。 貨幣は抽象的であるからこそ自由に流通し資本主義を作り上げた。 また抽象的であるからこそギャンブルに最も適した賭物にもなった。 人間は不思議なものを生んだのである。 生命の不思議さとは何か。 いろいろなものが考えられるだろうが、文字通り「生きている」ことが最大の不思議だろう。 これをシュレーディンガーは 「負のエントロピー(ネゲントロピー)」という言葉で説明する。 動いている物質と止まっている物質を比較してみよう。 動いている物質の中には、必ず物理的・化学的な 落差が存在している。 坂の上から玉を転がせば、高低差があるからそれは転がり落ちる。 電池の入った玩具が動くのは、電位差があるからだ。 この高低差や電位差がなくなったとき、動いていた物質は止まる。 すなわち、落差は平衡状態になったのである。 これを エントロピー最大状態という。 ところが、生命体だけは他の物質とはちがって、容易には平衡状態にならない。 これを古代から神秘的な 生命力と呼んできた。 しかし、先程のエントロピー(落差のない平衡状態)という考えを取り入れれば、 生命体はネゲントロピーを摂取し、エントロピーを排出する存在として説明できる。 神秘主義に頼ることなく物理学の立場から生命を論じることは可能なのだ。 しかも、シュレーディンガーのこの考えは、純粋に科学的な彼の意図を超えて宗教や哲学に寄与する面もある。 成すべき仕事を終え、安らかな老後を送っている人の顔はなぜ穏やかなのか、そしてまた、穏やかな顔つきの老人にはなぜエネルギッシュな仕事ができないのか。 彼の心の中には落差はなく、平衡状態になっているからである。 安らぎと仕事が本質的に対立するものであることも、この古典的名著「生命とは何か」は教えてくれる。 いまの世界で「唯一のスーパーパワー」などと評されてきた強大で富裕な国家のアメリカが一瞬にして世界の最貧国のような惨状をみせるとは、ショッキングだった。 ハリケーンに襲われ、大規模な水害が起きて、アメリカ南部の各州が建国以来の歴史でも最悪の被害を受けたのである。 おびただしい人命の損失と、巨大なビルや住宅の破壊の跡をみると、その原因となったハリケーンに「カトリーナ」などと女性の名前をつけるアメリカの慣行がいかにも無神経で不自然にも思えてくる。 このニューオーリンズの悲惨な状況のなかでもとくに衝撃的なのは一部の市民たちによる略奪の光景だった。 その様子はテレビでもふんだんに映し出されていた。 広大なスーパーマーケットに侵入して、食物や飲料を片はしからカートに投げ込んで、走り去る青年、ドアの破れた薬局から医薬品を山のように盗んでカゴに下げ、水浸しの街路を歩いていく中年女性、テレビやラジオなどの電気製品を肩にかついで逃げていく中年男性、色とりどりの衣類を腕いっぱいに抱え、笑顔をみせ、走っていく少女、なにかの商品を入れた箱を引っ張り、誇らしげに片手を宙に高々と突き出す少年・・・みな他人の財産を奪い、盗んでいるのだった。 現地からの報道によると、略奪者たちはフォークリフトまで使って、高級商店の入り口をぶち壊して、宝石や家具などを盗んでいた。 銃砲店に侵入した一味はライフルやピストルまで持ち出していた。 要するに 災害にあった市民たちが生存のために、やむにやまれず他人の食糧を入手するという種類の行為ではないのだった。 水害で食べ物、飲み物がなくなり、近くの商店から飲食物を生きるために調達するという性格の行動ではないのだ。 金目の商品を手当たりしだい、という悪質な略奪であり、窃盗なのである。 被害者が水害に遭って避難した人たちであることを考えれば、その留守を狙って、被害者の財産を奪うというのは、きわめて悪質だといえる。 しかも街全体でそんな略奪行為が展開されているのだ。 日本では考えられない事態だといえよう。 この略奪にはさらに重要な特徴があった。 こうした略奪を働く人間たちのほぼ100パーセントが 黒人なのである。 テレビの映像や新聞の写真でみる限り、略奪者はみなアフリカ系市民、つまり 黒人だった。 この事実は現地からの他の一部の報道でも裏づけられていた。 いったいなぜみな 黒人なのか。 南部のニューオーリンズ市は総人口48万のうち67パーセントが黒人である。 だから住民の多数派は黒人なのだが、それにしても略奪者は100パーセント 黒人なのである。 ハリケーンによる水害は自然発生の緊急事態として市民みんなに平等に襲いかかった。 被害を受ける可能性は人種や民族の相違にかかわらず、みな平等である。 だから被害を受けたことを原因として盗みに走るならば、略奪者のなかに白人やアジア系の市民が少数でもいたほうが自然となる。 ところがそれが いないのだ。 しかもさらにおもしろいことに、ニューヨーク・タイムズ、ワシントン・ポスト、CBSテレビといった大手マスコミは略奪に走る住民たちが判でおしたように 黒人である事実を報じていない。 大手テレビは映像で黒人の略奪の光景を流しても、解説のなかではその単純な事実には触れようとしない。 略奪自体については報道も論評も山のように伝えても、その行為の実行者たちがほぼすべて単一の人種に限られることは伝えないのだ。 こうした現象について日ごろ大手マスコミのリベラル偏向を大胆に非難する保守派の論客ラッシュ・リムボウ氏が論評していた。 「大手マスコミは人種差別主義だと非難されることを恐れて、略奪者がみな黒人だという重要な事実を報じないのだ。 リベラル派の政治家たちは逆に『黒人は日ごろ抑圧されているので、緊急時に略奪をすることも理解できる』という態度をとる。 いずれも間違った対応だ」 どう考えるにせよ、いまのアメリカ社会がなお人種や階層のギャップという複雑で深刻な課題を抱えていることがこうした現象を生むことは間違いない。 たしかにニューオーリンズなどの都市では黒人の所得は平均を下回る。 学歴も黒人は平均より低くなる。 その原因が社会全体の黒人に対する偏見や差別だという説にも理はあろう。 とはいえ偏見や差別ならば、アジア系市民も対象になる部分がある。 だがアジア系の略奪者は 皆無なのだ。 なぜ 黒人だけなのか。 この点、リムボウ氏はびっくりするほど大胆な考察を一日三時間もの自分のラジオ番組で述べていた。 「ニューオーリンズでここ数日、起きたことは数世代にもわたる エンタイトルメント(社会福祉の受給権利)の失敗の現象なのだ。 自分の努力よりも政府からの福祉の受給に依存する心理が『自分たちは社会で恵まれない層だから、社会や政府から特別の恩恵を受けることのできる特権がある』という潜在意識を生んできた結果なのだ」 つまり黒人は 政府への依存が強すぎて、いざという事態には他者の財産をも入手してよいとみなすような独特の心理を抱きがちだ、と示唆しているのである。 その示唆の背後には社会福祉を拡大してきたリベラル派の「大きな政府」への辛辣な批判がある。 黒人の側からすれば、飛んでもない糾弾ということになろう。 だが略奪者はみな 黒人だという事実を否定することもできないのである。 しかも過去の天災や暴動の際に大都市で起きた他の大規模略奪も、実行者はほぼすべて 黒人だったというのも事実なのだ。 日ごろは表面に出ることが少なくなったアメリカ社会の人種がらみのジレンマが未曾有の大水害という非常時にまたその姿をみせた、ということであろう。 さて地震のときの基本行動と言えば、 ・戸を開けて出口を確保する ・机の下にもぐり込む ・テレビをつけて情報を得る そしてもうひとつ、 ・ガスを消す そう今回はガス栓がテーマである。 つけやすさと消しやすさ。 ガスコンロのつまみは回転方向が決まっている。 反時計回りで点火するようになっている。 しかしその方向はどちらかというと、左手で扱うのに適している。 左右の手は構造上、それぞれ内側よりも外側に回転しやすくなっている。 だから反時計回りは左手に有利なのだ。 右手でコンロをつけるとき、カラダを妙によじっているのではないだろうか。 それは手首がそれ以上回らないので、身をくねらせているのだ。 その点、左手で着火する僕はラクなもんである。 スマートな姿勢で火をつけることができる。 ところが、もうお気付きかと思うが、ガスコンロはつけたら消さなければならない。 消すときは回転が逆になるので、右手の方がスマートに消せる。 左手では消しにくいのだ。 一度つけたら一度消すので、回すのは左右同じ回数になる。 結局は左右平等なのでは?と思ったりしがちだ。 ところが世の中そうじゃない。 左右の違いは、 緊急度の違い。 さきの地震だけでなく、ナベがふきこぼれているときなど、とっさにガスコンロを消さないと危険だ。 つけるときより消すときのほうが 緊急度が高いのである。 歩いていてつまづいたときなど、とっさに左手が出てしまう僕の場合、いざ緊急のときには、はたしてどちらの手でガスを消すのだろう?やはり左のような気がする。 それでまごまごして、ほんの一瞬の遅れが災害をまねくかもしれない。 それを考えるとちょっと不安だ。 このように 左右の違いは生命にかかわることもある。 左利きの人が自己防衛を心がけるのは必須だが、ガス機器をつくっているメーカー側もこの点、多少でも考慮していただきたい。 毎朝、最寄りの駅まで自転車で通っている。 寒いので手袋は必需品だ。 さて、ある日ふと思い立って、手袋をどちらの手からはめるのかと注意するようになった。 意識して自分を観察してみると100%右手からはめていたのだ。

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刀根 坂 の 戦い と は 次 の うち どの 大名 が 滅亡 する 直前 の 戦い か

たまなびのキャラクター 「たまにゃびちゃん」 ついにメジャーデビュー。 まずは、 「東京・原宿・カワイイ展2」に出展します。 しかも新バージョンの 「究極開運バージョンたまにゃびちゃん」 として登場します。 「東京・原宿・カワイイ展2」は 期間:4月10日~16日 場所:デザイン・フェスタ・ギャラリー原宿 時間:11時~20時 入場料:無料 是非、「たまにゃびちゃん」に会いにきてくださいね。 明治通りの交差点を渡り、 ムラサキスポーツ手前から左方向へ進み、原宿通りへ。 左手に読売新聞販売所が 見えたら、 そこから右折。 赤い鉄パイプが見えたら到着です。 KDDI DESIGNING STUDIOが見えたら、 ムラサキスポーツとの間の原宿通りへ右折。 まっすぐ進み、 2個目の左への曲がり道へ入り、直進。 神宮前交番から右に曲がる 遊歩道へ入る。 しばらく直進した後、十字路になるのでそこを直進し、 すぐ左と右の分かれ道になるので左の細い路地に入る。 するとDESIGN FESTA GALLERY EASTに到着。 中を通り直進するとGALLERY WASTにも行けます。 「東京・原宿・カワイイ展2」HP 投稿者 たまなび : 2010年04月07日 鉄音の達人 今回、お迎えした達人は、鉄音の達人 向谷実さん 向谷実さんは「カシオペア」のキーボーディストとして活躍されていまますが、 実はここ数年、作曲家として九州新幹線、京阪電鉄、阪神電鉄の 発車メロディを手がけられていて、 これまでにないその発車メロディが話題になっています。 京阪電鉄の場合は、各駅のメロディをつないで1曲になっている。 原則としては終わりにしない曲を作りました。 発車メロディとしては、私の音はかなりゴージャスです。 だってその方が楽しいから。 いま、ほとんどの駅で採用されている 発車メロディは、電子音のシングルトーンです。 オーケストレーションがない。 だから単純でつまらない音になっている。 発車メロディはシンセサイザーなど電子楽器で作ります。 ただし電子音に頼らずに、なるべく生音を取り込み、手弾きの部分を 多くしています。 人間が聴くんだから、もっと人間の感性を 大事にしたいと考えているからです。 ちょっと落ち着いた感じ。 そして次に地上の京橋、ここでメジャーに変わる。 自分のイメージで、トンネル、トンネル、地下を走って、地上に出る。 ホームも広い、わぁ、って開放感。 それを再現しています。 ここでは私の今までとりためてきた鉄道に関する音や、楽曲の数々が 用意されています。 また、4月24日より鉄道博物館に私の会社が 同時に25名の方が運転方法を学べる「運転士体験教室」をオープンします。 是非、チャレンジして見てください。 投稿者 たまなび : 2010年04月05日 オヤジ学部「全面禁煙とその影響」 4月1日から、神奈川県では 「動喫煙防止条例」 が施行されました。 受動喫煙による健康への悪影響を防止するのが目的で このような条例は他の自治体では例がなく 全国初の取り組みになっています。 そんな中、今年の10月から政府が予定しているタバコ税の 引上げにより、タバコの値段が 1本につき5円(1箱あたり100円) ほど上がる。 そんなニュースも飛び込んでいます。 という事で、番組独自でインタビューをおこなってみました。 「あなたはいくらになったら、タバコをやめますか?」と質問したところ 平均660円という結果になりました。 受動喫煙防止の波が迫る中、JTでは5月中旬から東京都限定で 火を使わず煙の出ないタバコ 「ゼロスタイル・ミント」を発売します。 パイプ状の本体にタバコの葉が詰まった専用のカートリッジをセットして タバコの味や香りを楽しみます。 1本のカートリッジで半日~1日楽しむ事ができます。 本体1本とカートリッジ2本入りで300円。 詰め替え用カートリッジ4本で400円。 最後に、これを機にタバコをやめようと思っていらっしゃる方は tasupoダイヤルという専用番号に電話をすると 退会手続きができます。 特に必要な書類というのはありません。 喫煙スペースが限られてきて、タバコを吸う人には肩身の狭い思いになりますが タバコを吸う人も吸わない人も一緒に生活できるように、喫煙者の方はマナーを 守って、タバコを吸いましょう。 投稿者 たまなび : 2010年04月02日 チェック魂 今週の深層心理テスト、まずはこちらからチェック! あなたはいま夢の中で大ホールのステージに立っています。 オタク度は普通ですが、色々な分野で かなり豊富な知識を持っています。 また、知らないことかあると研究して 最低限の知識は身につける人。 あなたのその好奇心の強さは仕事や プライベートでもうまく生かされていて人気者です。 自分の興味のないことに関してはまったく無関心でその知識も必要ないと 思っています。 したがって興味は自分の気が向いたもの限定。 ただし自分が好きになったものに関してはいささかストイックなまでに 徹底的に調べあげ、また、知識だけではなくそれを応用して新しいことを 考えたりします。 非常に冷静で今現在だけではなく将来のことを考えています。 また否定する人には理論武装と豊富な知識で話し合いを挑みます。 欠点は自分の世界をそうやって人に強要すること・・・。 しかし実は ちょっと気が弱くてやさしく甘えん坊の一面も。 いま現在、 仕事や友達との関係に支障はありませんが、あまりにのめりこみ過ぎて、 大切なものを忘れることも。 とことん突きつめたり、一直線な性格は判りますが、 たまには新しい趣味や興味を持ってください。 やることは三枚目ですが、 中身は2枚目を目指しています。 趣味を生かすことは大切だと思っていますが、どうせひとつを研究するなら 仕事に生かしたいと資格を取る方向に走りがち。 割とクールな性格で沈着冷静、熱くなりにくく、しかも冷めやすい。 夢中になることはありますが、俯瞰的な視野で自分を見つめ、 自問自答して向いていないと思うとすぐにやめるタイプ。 新しいもの好きで情報キャッチ能力は かなり高いのですが、長続きはしません。 しかし、またそれを 仕事にも生かせないかと考慮中。 自分の趣味や興味をいい意味 仕事などに生かす系のオタク。 しかしあまり役立つ情報ではない場合が多く、仕事や会話の きっかけにもなりません。 情報選択能力を鍛えましょう! さて、あなたは当たっていましたか? 来週も、お楽しみに。 投稿者 たまなび : 2010年03月31日 買い物上手の匠 今回、お迎えした匠は、買い物上手の匠 金子哲雄さん もうすっかり御馴染み、とにかく安いものを追求する流通ジャーナリスト、 また値切りの匠としても活躍されています。 今日は、今日、そして4月以降安くなるモノ、買い時を教えていただきます。 他に野菜でいえばキャベツ、ニンジン、ピーマン、小松菜などが安い。 ですから今日はカレーを作りましょう。 そして、それを食べた後は、是非、テレビを買いに家電量販店に行くべし。 明日以降、エコポイントが切れる大型テレビがあります。 ですから今日買いに行くとかなりお得です。 この時期に課っておくと得するものがあるとか? コンテナガーデンで『大葉』を是非とも育てて下さい。 夏はそうめん、冷麦などを食べる機会が増えます。 あると夏にはちよっとした薬味として利用できるのでお得ですよ。 1000円で購入しても、3000円分くらいは育ちます。 したがって2000円くらい得します。 新年度の1週目はまだ勉強や趣味でいろいろと燃えていますが 2週目に入るとやる気がダウン。 それに伴って値段も下がってきます。 お買い得は2週目以降ですよ。 チラシの得するお話が満載、よろしくお願いします。 投稿者 たまなび : 2010年03月29日 オヤジ魂「1ヵ月後に迫った上海万博の見どころ」 今日は3月29日、あと1ヶ月もするとゴールデンウィークがやってきます。 今年のゴールデンウィークの1つの目玉となるのが、上海万博です。 上海万博は5月1日(土)~10月31日(日)まで、半年間行われます。 玉川さんが行った万博は、90年に行われた大阪の花の万博だったそうですよ。 という訳で、今日はこんなテーマでお勉強したいと思います。 「1ヵ月後に迫った上海万博の見どころ!」 「Better City,Better Life」(より良い都市、より良い生活)をテーマに、調和の取れた都市づくりを目指します。 二酸化炭素の排出量の少ない、低炭素万博を目指しています。 中国のテーマ館では、屋根を巨大な太陽光発電システム、外壁を植物で覆います。 スイスのパビリオンでは、自然に分解される大豆繊維の天幕を、 ブラジルのパビリオンでは、再利用可能な木材の骨組みを使っています。 中国の上海市の都心部を流れる黄浦江(こうほこう)と呼ばれる川の両岸で開催されます。 観覧エリアは328ヘクタール(東京ドームおよそ70個分)、愛知万博の倍。 参加国数は、日本をはじめ200もの国や国際機関が参加します。 入場者数は7000万人を予定しています。 日本からは3つのパビリオンが出展します。 「きれイ、かわいイ、きもちいイ」をサブテーマに、応接間のようにきれいな「世界一トイレ」が設置されます。 見どころは、何も上海万博の会場内だけとは限りません。 浦東国際空港と上海市内の龍陽路とをリニアモーターカーが結んでいます。 30キロの距離を8分という速さで結びます。 最高時速は300キロ。 世界最速のリニアモーターカーです。 15分間隔で運行されているので、待ち時間も少なく上海中心部へ移動できます。 料金は、片道50元(およそ700円)、往復80元(およそ1100円)。 各旅行会社から観光を含めた色んなツアーが出ていますので、今からチェックしてみてはいかがでしょうか? 投稿者 たまなび : 2010年03月26日 チェック魂 今週の深層心理テスト、まずはこちらからチェック! あなたのドイツのビアホールにいます。 過去に手伝って「邪魔」と 言われたことがトラウマになっていませんか?それでも手助けしたいという 気持ちが強くてジレンマになっています。 素直にパートナーに 手伝って欲しいことを聞いたほうが早いと思いますよ。 あなたのやさしさは充分、伝わっていますからね。 たとえ将来どうなろうとも一緒に 楽しんでいこうという姿勢が、相手にはとてもよく理解されています。 相手もあなたとだったらこの先ずっと一緒にやっていけると考えています。 お互いが頼り頼られ、さらに単なる協力だけでなくアドバイスや 影響も与えられるというベストカップル。 あなたの思いやる気持ちが パートナーを助けてあげたいという気持にストレートに繋がっていて、 相手も感謝しています。 ただし同じ歌を歌うだけではなく、時にあなたが 積極的にリードしたり、反対に相手が道を指し示してくれるなど、 新しいことへのチャレンジも大切かと…。 ただし、相手のことを励ましたり、 陰でしっかりとバックアップするのはかなり上手。 見えないところでの 協力は素晴らしいのですが、もう少し自分をアピールしてもいいのでは…。 極論を言えばふたりで協力よりは結果だけを報告してお互いがライバルの ような存在。 まったく協力はしませんが、邪魔もしないというクールな 関係です。 しかしたまにはふたりで何かを成し遂げ、歓び合うということが あってもいいのでは。 もうすこし二人で協力して乗り越えることがありそう。 基本的に 頑張り屋の性格で独立心が強いので相手にあまり頼ろうとしませんが、 二人だと簡単にクリアできることがありそうですよ。 困っている相手をみて、 そこで初めて、はっとしますが、困る前に手を差し伸べあいましょう。 最後の最後まで お互い協力して頑張りましょう。 辛いとつい相手に丸投げしてしまう場合も。 夢とか目標を大事にしているので 最後まで二人で頑張って下さい。 二人の将来にはとてもいいことがありそう。 さて、あなたは当たっていましたか? 来週も、お楽しみに。 投稿者 たまなび : 2010年03月24日 10円分の匠 今回、お迎えした匠は、10円玉換算の匠 さくらいよしえさん さくらいさんは、イクラの10円分は何粒くらいか?公共料金で 10円分ってどれくらい?あらゆるものを10円分体験するとどうなるか?を 徹底的に調べた 「10円で幸せになる! 10円閻魔」という本を書かれたエッセイストの方。 10円は意外にその価値が大きい。 10円あったらこんなに幸せ!を 探そうと思ったのがきっかけ。 レントゲンの10円分の撮影。 探偵会社の10円分の調査量。 こららもよろしくお願いします。 投稿者 たまなび : 2010年03月19日 チェック魂 今週の深層心理テスト、まずはこちらからチェック! 夢の新製品が発売されました。 夢を追うのは同じですが、科学的な興味のほうが強く、また、ひとりで 物事を追求するよりは集団の中にいるのが好き。 刺激を求めて 色々なことにチャレンジもしますが、弱点はあきらめが早く、 また飽き性なところ。 人を見る目が優れているので、出会った人の中で、 出来る人とそうでない人をしっかりと見極め、出来ると踏んだ人のことは 最後まできっちりと面倒をみて育成します。 人が大好きで人の成長が 励みになりますが、気がつくと裏切られていたりします。 絵画とか音楽というよりは、コツコツと作り上げる小説家が似合います。 しかし、自分の興味のほうが勝ってしまい、勝手に人の心に土足で 上がったりして非難を受けることも・・・。 困ったことにそんなトラブルも客観的に見て楽しんだりしています。 ユニークな発想や奇抜なアイデアとかを 持っているのですが、とにかく長続きしないという欠点が。 いつか、きっといつか成し遂げたいと思ったまま、気がつくと 誰かに先を越されているというパターンです。 今一度、踏ん張って。 自分が見聞きしたものを自分なりの 表現で残したいと考えます。 プラス、一度取り掛かったことは最後まで 絶対に諦めず、何度でもその完成まで一心不乱にチャレンジしつづけますが、 その間、他のことは一切関心をなくしてしまうという欠点も。 また、なかなか理解してくれる人が少ないというのも淋しいですね。 自分でするよりは芸術を楽しむタイプ。 ちゃんと見る目を持っていますが 小難しい話より、自分のインスピレーションで好きか嫌いを判断。 しかし興味津々で引退後に、と考えていたりします。 時間に余裕があって、真剣にトライすると何かが生まれるかも。 さて、あなたは当たっていましたか? 来週も、お楽しみに。 投稿者 たまなび : 2010年03月17日 食の匠 今回、お迎えした匠は、食の匠 丸尾歩さん 丸尾さんは、食文化、食のトレンド情報など、食の魅力や感動を伝える フードアナリスト協会で日本の食の魅力発信する親善大使のお仕事を されています。 そんな私が出会ったのが フードアナリスト主催の『食のなでしこ』というコンテストでした。 他に、占いやカウンセリングができるお店。 私自身が体験したサービスは、何度も足を運んでいたお店での出来事。 「いつもご利用ありがとうございます。 お礼と言っては何ですが」と言われ 割引チケットを頂きました。 チケットを頂いたのも嬉しいのですが、なんと言っても私の事を 覚えていてくださったことに感動しました。 そういったスタイルのサービスが増えています。 リリース予定など… フードアナリストの資格に興味がある方は、 3月31日、4月19日、4月21日に東京の麹町にある 日本フードアナリスト協会セミナールームで「フードアナリスト」の 資格説明会があります。 説明会は無料ですので、この資格に興味がある方は 是非聞きに行ってみてください。 お問い合わせは、日本フードアナリスト協会のホームページにて掲載されております。 あと、私のブログにも遊びに来てください。 素敵なお店やお気に入りのお店をご紹介しています。 私のブログは、! 投稿者 たまなび : 2010年03月15日 オヤジ魂「社会に役立つ依存学」 皆さんは趣味やはまっている事ありますか? 月曜スタッフには、 「鉄道依存症」と 「川崎フロンターレ依存症」がいます。 依存症になる可能性がある人の特徴というのがありまして…。 といったものが挙げられます。 今日紹介するのは、これから研究が進められる学問「依存学」についてです。 「依存」と聞くと、悪いものというイメージがありますが、良い面もあります。 好奇心がきっかけで何かに夢中になることは、成長の過程で欠かすことの できないものです。 お酒を飲んだり、ギャンブルやゲームをしたりするなど、はまる対象になる ものは、適度に楽しむとストレス発散や脳の活性化などの効果があります。 また、「はまる」という感覚が成長していくと、依存症へつながる可能性も ありますが、大発明や大発見、文化の創造へつながる事もあります。 例えば… 2008年のノーベル化学賞を受賞したボストン大学名誉教授・下村脩さん。 光るクラゲの体の中から、緑色に光る「蛍光たんぱく質」を世界で初めて 発見しました。 この発見をするために、下村さんは、100万匹のクラゲを毎日毎日採取 していました。 普通の人から見ると、後ろ指をさされそうな行動ですが、これが新たな 発見につながり、人々から評価される成果が現れたのです。 依存とは、大なり小なり、誰でも持っているものと言われています。 人に迷惑をかけない程度なら必要なもので、何かに依存するモノが ある人は幸せだと思います。 あなたは、今、何か依存できるものはありますか? 投稿者 たまなび : 2010年03月12日 チェック魂 今週の深層心理テスト、まずはこちらからチェック! 大好きな人がプレゼントをくれました。 包みを開けるとアクセサリーが入っていました。 ただし何事も自分の型にハメてしまおうとする傾向があります。 また物事をパターン化して見るというクセもあります。 いい意味、真面目で 動じませんが、裏を返せば冒険心やチャレンジ精神がないということにも なります。 自分の思考に柔軟性を持つことで、新しい自分に出会えるかも。 じっと自分を見つめて耐えていますが、たまに酔って本音を吐いたりします。 ガス抜きをお忘れなく。 常に冷静で先を読み計画的に動きます。 あまり常識をはずさない性格ですが、その分面白みがないと思われるケースも。 たまには突拍子もない言動で周囲を巻き込んであなたの新しい魅力を アピールしてみて下さい。 しかし普段抑えられているものの、つい調子に乗ると周囲に迷惑を かけるほどの行動を起し唖然とされます。 「えっ?あの人が」と言われることが 多いタイプ。 適度にわがままや 気まぐれが許してもらえる特な性格なので普段から本当の自分を 見せておいてギャップを広げないように。 あなたの言動に周囲の人は知らず知らずのうちに 巻き込まれてしまいます。 その場のノリや勢いで行動するタイプで、 成功と失敗は常に五分五分です。 ただし人を惹き付ける魅力がかなりあって、グイグイと引っ張っていきます。 周囲にナンバー2的な縁の下の力持ちがいると成功率はぐっと高まりますよ。 自分をしっかりと持っていてあまりその日の気分でフラフラと 動いたりはしません。 ただし、いささか頑固で融通がきかないときも。 それがすぐにバレます。 好きなこと以外はまったく心が上の空です。 反面、好きなことだと 周囲が見えないくらいうるさくなります。 しかもかなりの短時間で チェンジ、好奇心旺盛でチャレンジ精神も豊かですが周囲の人から 呆れかえられるときも。 さて、あなたは当たっていましたか? 来週も、お楽しみに。 投稿者 たまなび : 2010年03月10日 パワー・スポットの匠 今回、お迎えした匠は、パワースポットの匠、 若月佑輝郎さん 若月さんは、このほど日本全国を実際に廻って書かれた 「このパワースポットがすごい!」という本を出されました。 外宮では、自分のお願い、健康だとか仕事だとかをお願いし、内宮では 日本の幸せだとか、世界平和など個人の事でないことを願って下さい。 内宮に入ったら入り口の火除け橋から一の鳥居、二の鳥居をくぐり、 正殿をお参りし、別宮である土宮、風宮、多賀宮へ。 これで外宮すべての気をいただける また正殿と御池の間にある注連縄で囲まれた「三つ石」では 心を鎮めて手を合わせて下さい。 気持ちが晴れていくことを 実感できると思います。 ぜひご参拝ください。 また、自分が生まれた土地の地元の神社がいいのですが、残念ながら、 そういう場所がきちんとおまつりされなくなっていることも多いので、 「子供の頃、生まれ育った土地を守っている神様」と「大地の力」を イメージして、その神様に祈ってください。 願望成就するため一番基本となる力を援助してくれます。 さまざまな願いも受けとめてくれますが、捻じ曲がった願い事は一喝され 修正を求められます。 何百年も何千年も、人々に幸せを与え、他の生命に生命力を与える、 素晴らしい場所であり続けるように、尊重してあげてください。 お手水の柄杓に直接、口をつけて水を飲んだり、散歩中の犬に柄杓で 水を与えたり、柄杓を子供のおもちゃにしたりすることがないように してください。 ご神前など、人々が祈っているところでは、自分の祈りの順番でなくても、 静かにしていてください。 並んでいる場合は、時間をかけずにその場を一旦離れて 静かな場所であらためてもう一度お願いするのも構いません。 今年の注目は、埼玉西武ライオンズの雄星投手。 「菅野詩朗 大予想!」 クライマックス・シリーズに行く3チームと各リーグの優勝予想をします。 パ・リーグ 1位:埼玉西武ライオンズ 2位:千葉ロッテマリーンズ 3位:オリックス・バファローズ セ・リーグ 1位:読売ジャイアンツ 2位:阪神タイガース 3位:中日ドラゴンズ パ・リーグは3月20日(土)、セ・リーグは3月26日(金)開幕です! 投稿者 たまなび : 2010年03月05日 チェック魂 今週の深層心理テスト、まずはこちらからチェック! あなたはこれから大事なパーティに出席します。 常識をそなえて行動できる人。 ただし、自分の考えている大人としての 生き方を、他人にも求めてしまう傾向があるので気をつけてください。 現状を冷静に見つめつつも目標を高く持つことで、大人への成長を 促しています。 手を抜かず諦めず、前向きな努力がもう少しで実を結びそうです。 いつまでも大人になりたくないという一面がありませんか? 自分の興味がないことには、まったく見向きもしないし、学びたいとも 思わないタイプで、楽しい事のみを追求しがち。 さらに飽き性の一面があって 興味がなくなるとすぐに新しい刺激を求めます。 好奇心旺盛で、 様々な経験をしていますが、残念なことにそれが自分の身になっていません。 重ねた経験を大切にして自分を少しずつ変貌させていって下さい。 そろそろ自分を変えたいと思って努力していますが、どこかに残る幼さに 挫折しがち。 正直で根が真面目なだけに、先輩や有名人、歴史上の人物などの 影響を受けやすくそんな尊敬する大人の人物になりたいと憧れていますが、 どうもうわべだけの大人に陥りがち。 あなたなりの大人のなり方があります。 人真似ではなくじっくりと自分と向かいあって下さい。 子どもの頃から考えていた自分の生き方や夢に沿った生き方が出来ています。 かなり出来る人ですが、リーダーというよりは陰の人として尊敬を集めるタイプ。 また、あなたの大人としての素晴らしさは度量の広いことです。 年齢に関係なく 若い人でも素晴らしければ、素直に相手を称えることが出来ます。 またトラブルに対する対処能力も高く、 自分なりの大人の解決方法を持っています。 さらに、あなたの豊富な経験を 見習いたいと思う周囲の人間も多く尊敬の対象でもあります。 真に成熟した生き方が出来る大人です。 考え方が若い分、まだまだ成長期です。 かなり時間はかかりますが 身近にいる大人に学んでもうひとまわり大きくなりましょう。 そして今後も経験値をたくさん積んでください。 子どもの部分の夢やロマンを 語るのは魅力ですが、冷めた周囲の大人からは敬遠されるかも。 あなたが成長した部分で、 説教よりは経験や本当に大切なことを教えてけあげて下さい。 憧れの的ですが、その分、あなたに近づいて 利用しようと考えている人たちにはご用心。 ま、それを見抜く力も かなり高いですが、油断禁物です。 さて、あなたは当たっていましたか? 来週も、お楽しみに。 投稿者 たまなび : 2010年03月03日 洞窟の匠 今回、お迎えした匠は、洞窟の匠 中野純さん 中野さんは自らで体験を作り、その体験を書く、体験作家で 関東にある洞窟に潜った「東京洞窟厳選100」という本を出されました。 今日は、洞窟の魅力、闇に惹かれる理由を伺います。 洞窟にちょっと入っただけで(覗くだけでも)、そこはまったくの 別世界です。 その強烈なギャップが、なによりの魅力です。 あらかじめ申し込んでおくと長野の善光寺と同じく地下の 戒壇めぐりが出来ます。 また、5月8日に朝日カルチャーセンター千葉の公開野外講座として、 「貝の岩屋と水明かりの印旛トワイライトウォーク」という闇歩きツアーを 行います。 投稿者 たまなび : 2010年02月24日 オーケストラの匠 今回、お迎えした匠は、オーケストラの匠 緒方英子さん 緒方さんもご自身でサクソフォンに関する研究されている他 オーケストラの演奏者にインタビューされて陰の努力、面白エピソード、 雑学をなどを 「オーケストラが好きになる事典」という本にまとめられました。 F字口という穴から入れてシェイク。 取材させていただいた方曰く、頭がプラスで足がマイナスで アルミを入れることで遠くまで音を響かせることが出来るとのこと。 ピアノの音色によって、いっきに別世界に連れて行かれるような 不思議な体験です。 投稿者 たまなび : 2010年02月19日 チック魂 今週の深層心理テスト、まずはこちらからチェック! 明るく振舞っていますが、ひとりになると精神的な疲れに打ちのめされそうです。 ひとりで戦ったり、悩みを抱え込まず尊敬できる先輩や友人、愛する人と何事も 共有しましょう。 性格的には短期決戦型。 スタートが肝心ですよ。 トラブルや困難もすべて自然に 対処できる人ですし、反対する人の意見にも真摯に耳を傾け、 自分の気持ちを確実に伝え説得することも出来るタイプ。 また凝り固まらず 変幻自在な一面があります。 それに好奇心旺盛で、どんなことにも チャレンジして自分のアイテムを増やします。 弱点は、人の意見を聴かない身勝手な人に弱い事。 自分をしっかりと 持っているので、周囲の雑音や身勝手な行動に流されることはありません。 また自分の主義主張に反することはたとえ上司でも断固として戦うし、 さらに正義感が強いので不正や社会常識の無い人に対しては、きちんと 注意や忠告ができます。 しかし、あまりにイライラすることが多くて 怒り疲れた場合などにストレスが一気に溜まります。 お酒を飲んで美味しいと思う場合は、ストレスがなく明るいお酒の席になるし、 溜まっている場合は他人の悪口の連発、説教、愚痴となります。 ものすごく正直な人なので、どっちにしろすぐに態度に出てしまいます。 出来れば楽しく美味しいお酒の席を目指して下さい。 我慢強い性格なので愚痴や弱音を吐きませんが、気がつくと取り返しが つかないところに自分が居たりします。 追い込まれる前に、深呼吸をして落ち着いて次の行動に出るか、 リラックスタイムをところどころに設けて、リフレッシュして ゆっくりと進むことが必要です。 せっかちな人で、てきぱきと事が進まないと嫌な性格。 何事もスピード感が一番、しかも自分と同じペースでないと カリカリするタイプ。 内弁慶ではなく外でも自信を持って。 その余裕から人を助けたり的確なアドバイスが 出来ます。 ただし、マナー違反や社会的常識が欠如している人には 瞬間的にカッと怒る人。 しかし、あまりに堂々としすぎ…少しは慌てる姿も可愛いものですよ。 さて、あなたは当たっていましたか? 来週も、お楽しみに。 投稿者 たまなび : 2010年02月17日 青春18きつぷの旅 今回、お迎えした匠は、青春18きっぷの匠 芦原伸さん 芦原さんは、ジャーナリスト、紀行作家として活躍、このほど 「60歳からの青春18きっぷ」という本を書かれました。 犬と猫を合わせた数と子ども(15歳未満)の数、どっちが多いと思いますか? ペットフード工業会が2008年度に調べたものなんですが、 ペットが2600万匹。 子どもが1700万人。 実はペットの方が多いんです。 これは世界から見てもかなり珍しいケースなんだそうです。 そして今日最も時間を割いたのが、殺処分問題。 毎年30万匹近くの犬や猫が殺されています。 残念ながらペットが捨てられる理由は 私たち飼い主側に原因があるパターンが多いようです。 その中でも注目を集めているのが熊本方式と呼ばれる方法。 熊本市では官民の連携で5年間で殺処分を10分の1に減らしたそうです。 このような方法で、ペットを救っています。 皆さんもペットを飼う前に、もう一度考えて下さい。 最後まできちんと面倒、見きれますか? 投稿者 たまなび : 2010年02月12日 チェック魂 今週の深層心理テスト、まずはこちらからチェック! 春の小川、メダカが大群でどこかへ向っています。 真面目な性格だけに相手から 嫌われたくない、また嫌な思いをさせてもいけないと考えすぎて 初対面の人の前では緊張しっぱなし。 素直な自分が出せずに墓穴を掘ります。 もっと自分に自信を持って行動して下さい。 ただし、一目惚れに関してはいつもの 自分ではないくらいに積極的な行動に出ます。 カッと燃え上がるので、 たまに空気が読めないときも・・・。 だれに対しても自分から話しかけ、 話題の豊富さと奥深さにどんな人ともすぐに仲良くなれます。 陰で努力していることもありますが、第一印象でしっかりと相手に 強い記憶を残せます。 あなたの築いた人間関係は、将来、あなたの 強い味方になります。 初対面の人に対しても常に笑顔で、 さわやかな印象を残します。 友人は多いのですが、実は広く浅くの 付き合いがほとんどで、真の友達はごくわずか…親しい人を大切に。 八方美人と誤解される可能性も高いです。 また言葉遣い、ファッションなどの第一印象での好き嫌いを決めてしまいがち。 見た目のみで判断してしまうので大切な出会いやチャンスを逃すことも。 出会いをもう少し大切に。 真面目で固い性格。 相手から溶け込んできてくれると気軽に 話せる人だしとても気さくな人ですが、自分からは決して打ち解けない人。 警戒心が強すぎます。 かたくなにならずもう少し大きな心で。 来る人拒まずですが、多少人を見る目が 足りないかも。 騙されないようにご注意。 リーダー的存在ですが、あまりの厳しさに ついていけない人も。 社交性度は高いのですが、自分のペースに引き込みすぎ。 もう少し優しく接することを覚えて下さい。 さて、あなたは当たっていましたか? 来週も、お楽しみに。 投稿者 たまなび : 2010年02月10日 世界のオモシロ商売の匠 今回、お迎えした匠は、世界のオモシロ商売の匠 盛田則夫さん 盛田さんはインド・アメリカ・シンガポール・スペインなど 世界十数ヵ国に滞在し、実際に各国を見てきた方、 本日は本当にある世界の珍商売を伺います。 そこでイタリアには 電話一本で駆けつけてくれる靴の履き慣らし屋さんがいる 1時間ほど歩く・走る・ジャンプするなどして柔らかくしてくれます。 細かい何本限定ではなく 総入れ歯がほとんど。 その場で口に入れて自分に合うかどうか確かめる。 例えば本屋さんからの依頼があれば、その泥棒は万引きをしますが、 店員にあえて掴まり、こっぴどく怒られるというもの。 つまり他の客への見せしめで演技をするのです。 実は、世界的に見てもユニークな仕事が多い国なのです。 現在13名 実は、被告人の顔も入ってすぐに背中を向けるので入廷のときに 10秒くらいしか見ることが出来ない…そのわずかの時間に スケッチして描き上げる。 宇宙医学の実験で寝てるだけだと 人間の体がどのくらい影響受けるか調べるもの。 盛田さんが書かれた世界のオモシロ商売が100種類ほど収められた 本「世界のオモシロお仕事集」(中公新書ラクレ)は 絶賛、発売中です。 題名は「(未定)」です。 こちらもよろしくお願いします。 投稿者 たまなび : 2010年02月08日 オヤジ魂「注目の面白ガイドツアー」 本日は菅野詩朗アナに代わり、斉藤一美アナが紹介してくれました。 参加費は1人2000円。 現在、世界最大の原子力空母ジョージ・ワシントンや 初代南極観測船しらせも停泊中です。 参加費は大人1200円、小学生600円。 「神田川・日本橋川ツアー」「小名木川ツアー」、「天王洲・芝浦ツアー」の 3つがあります。 2時間で回る半日コース 大人4000円。 4時間で回る1日コース 大人5000円。 夜の2時間ナイトコース 大人4000円。 お寿司屋さんでの食事を済ませて、その後はオリジナルガイドブックを見ながら の買い物で楽しめます。 料金は平日4980円、土日祝日5480円。 ラジオ会館、万世橋、ロボットショップ、メイドカフェ、東京アニメセンター などを巡ります。 料金は2時間で1人2980円。 あなたは春の新しい服を購入しました。 自分をしっかりと持っている人なので、たとえ相手が 理想のルックスだからといって決して妥協はしません。 顔かたち以外に、 それなりの教養や将来性が備わっていないと即刻却下です。 相手が気に入らなくなったとき、あなたはあっさり見切りをつけてしまいます。 その場を楽しく過ごすことは 出来るのですが、基本ルックスも大事だけれど自分としてはやはり性格が 一番だと考えているので、最終的に付き合うのはその性格が自分に フィットするかしないかです。 キャーキャー騒いでいますが、心の中は しっかりとその人の性格を探っています。 そして自分が無理していると判っていても、 つい相手に合わせてしまいます。 ただしそんな無理している自分に気がつき 始めていて、悲劇のヒロインとして自分を演出しがち。 あなた自身の魅力で 振り向かせるという努力がそろそろ必要では。 しかも芸能人の誰かを本気で 愛してしまいときに真剣に結婚などを考えます。 夢見がちで自分の理想の 追求に対して決して妥協と努力を怠るということがない人だけに一途です。 ただしあまりに相手を理想化してしまうため現実を知るとショックをうけてしばらくは 立ち直れません。 現実をしっかりと見つめて。 ルックスはほぼ関係ない人です。 唯一、生理的にダメという人だけを拒絶するだけ。 自分のパートナーは ふたりで一緒に夢に向って歩いて行ける人だったり、お互いバックアップできる人。 ただ非常に飽き性なのが難点。 バランス感覚にすぐれた人。 恋に関しても、全く顔にこだわらないわけでは ありませんが、性格や価値観、経済力や将来性など、他の諸々の 条件考えて冷静に判断します。 また最初は見た目だけで好きになりますが、徐々に性格や言動に 惹かれて考えを改めるタイプ。 ただ好みが一貫しているわけではなく、アイドル顔や 流行顔など、カッコいい素敵だと騒ぐ周囲の人に負けたくないと 夢中になる性格。 一途に好きになりますが、人からの影響が大きく左右して 自分で自分の好みが判っていないかも。 ブームで好きになるので、 流行が去って気が付くと、ひとり置いてけぼり状態ということも。 さて、あなたは当たっていましたか? 来週も、お楽しみに。 投稿者 たまなび : 2010年02月01日 オヤジ魂「バンクーバーオリンピックを1000倍楽しむ方法」 バンクーバーオリンピックを1000倍楽しむ方法 その1 JOC日本オリンピック委員会のホームページへ行ってみよう! 選手やコーチらによるビデオメッセージを動画で見る事ができます。 競技は、スキー、スケート、アイスホッケー、カーリング、リュージュ、ボブスレー、バイアスロンの7競技。 種目は、スキーの中に、ジャンプ、ノルディック複合、スノーボードなど。 その3 最年少選手を調べてみよう! 最年少選手はスピードスケートの高木美帆選手。 15歳。 その4 最年長選手を調べてみよう! 最年長選手はボブスレーのスケルトンに出場する越和宏選手。 45歳。 その5 バンクーバー金メダル1号に注目! 過去に日本は冬季オリンピックで9つの金メダルを獲得してきました。 よって今大会の金メダル第1号が日本の記念すべき金メダル10個目になります。 目黒萌絵選手は「今まで積み上げてきた努力の結晶としてオリンピックで力を発揮したい」とコメントしています。 その他にもチームリーダーの本橋麻里選手は写真集やイメージDVDも出しているので、世の中の男性はこちらにも注目を! その7 同じ苗字の選手を探そう! 残念ながら玉川選手という人は出場しないので、今回は光裕さんの苗字と同じ鈴木選手を紹介。 女子フィギュアスケートの鈴木明子選手。 女子バイアスロンの鈴木芙由子選手。 男子ボブスレーの鈴木寛選手。 その8 イケメン選手を見つけよう! ノルディックスキー複合のエース小林範仁選手。 27歳。 スピードスケート・ショートトラックの吉澤純平選手。 24歳。 ぬいぐるみは1個2000円。 ぬいぐるみを抱きながら選手を応援すれば、楽しさ倍増。 その10 時計の針を17時間遅らせよう! ほんとにバンクーバーオリンピックを1000倍楽しみたい人は日本との時差は17時間です。 時計の針を17時間遅らせて、この2週間をカナダ・タイムで生活して下さい。 以上、たまなび版「バンクーバーオリンピックを1000倍楽しむ方法」でした。 投稿者 たまなび : 2010年01月29日 チェック魂 今週の深層心理テスト、まずはこちらからチェック! あなたはペットショップで一匹の犬を買いました。 家につれて帰ってくると、 突然、 その犬が人間の言葉をしゃべり出しました。 「びっくりさせてごめんなさい」そのあと、話したことは何だったでしょう? 1 私には恋人の犬がいます。 それも一緒に飼ってください 2 魔法使いに犬に変えられてしまい困っています 3 ふ、ふ、ふ…あなたの秘密は全部知っていますよ 4 ここはどこですか? 5 宝のありかを知っています。 愛する人のことを考えるとミスが連発。 優しい性格が裏目に出て相手を いらぬことで傷つけることも。 カッと燃え上がるだけではなくときに 冷静に判断して、慎重な行動を。 しかし、慣れには弱く忘れた頃にうっかり大きなミスを 犯す可能性があります。 油断大敵で頑張って下さい。 正直者なので嘘がつけず聞かれていないことまでペラペラと 話してしまいます。 悪気がないのに人を傷つけることがあります。 人との対応はひとつ間を置いて深呼吸してから…。 それがあなたの最大の弱点になっています。 待ち合わせの場所や時間を忘れたり大切なものを置き忘れたり… うっかりミスが連発しがち・・・信用をなくす前にもう少し集中力を 養いメモを取るようにしましょう。 ロマンチックで冒険大好きな 大きな心の持ち主ですが、うっかりミスがあまりに多すぎます。 行動の前にまずは慎重なシミュレートを。 かなりのしっかりものです。 失敗とかミスの少ない人として 信頼されていますが、そんな人の評価から自分はしっかりしなくてはと あまりにプレッシャーをかけすぎかも。 少しはリラックスして下さい。 苦手なものこそ、何度も何度でも再確認が必要ですよ。 可愛い一面があって許されていますが、あまりに繰り返すと 呆れかえられます。 今年の春には注意力散漫からの卒業を。 歩くだけでポロポロとミスが零れ落ちます。 仕事でのほうれんそう 報告・連絡・相談 をしっかりと守ってください。 また周囲の人からの助言を大切に守ってください。 さて、あなたは当たっていましたか? 来週も、お楽しみに。 投稿者 たまなび : 2010年01月27日 地方条例の匠 今回、お迎えした匠は、地方条例の匠 長嶺超輝さん 長嶺さんは、実は3回目の登場。 「おっぱい体操」「おっぱいの歌」も あって年に一度のお祭りは大盛況。 県の命令に違反したり、立ち入り調査を拒んだりするなど、 禁煙・分煙義務に反した施設の管理者に対しては、最高で5万円の過料が 科せられます。 受動喫煙(副流煙の影響)については、国は「健康増進法」で、WHOは 「たばこ規制枠組み条約」で、防止の努力義務を課していますし、 どうやら、その流れは簡単に止まりそうもありません。 値打ちのある・こだわりのあるメニューというものには お客さんはやってくる。 食材を大量に一括で購入でき、調理方法も限られ、 調理器具も少なくて済み、コスト削減につながる。 現在の外食産業は、この3点に力を注いでいるそうです。 ファミレスに行った時は、こんなところに注目してお店を見てみると 「通」かもネ! 《おまけ》 菅野さんの外食の思い出。 それは、フォークの背中にご飯を乗せて食べるという事。 「俺は、マナーとして教わったんだ!(泣)」 (by菅野詩朗) 投稿者 たまなび : 2010年01月22日 チェック魂 今週の深層心理テスト、まずはこちらからチェック! もうすぐやってくるバレンタインデー。 恋人、パートナー、片思いの人。 相手のことを一番に考えるやさしい性格ですが、相手とは ちょっとすれ違いがあるかも。 相手があなたに求めているものは もっと普通のものであなたらしい物かもしれません。 頭で理想ばかりを追求するだけではなくもう少し話し合ってみて下さい。 絶対に裏切ったり浮気などはしませんが、相手の気持ちを考えるより 自分の事を何より知ってもらいたいという気持ちが強くて、 いささか相手が重荷になる場合があります。 自分を知ってもらうことも 大事ですが、相手のことをもう少し優先して考えましょう。 相手を信じているからとすべて無言でやり過ごす ことが多いのですが、もう少し深く話し合ってお互いの考えなどを 確認しましょう。 耐えるばかりが純愛ではありませんよ。 ささやかだけど相手の好きなものをさりげなく差し出せるという心遣いは 愛をさらに深めていきます。 しかし、ちょっと夢を見がちな一面も・・・ 現実をもう少し見つめて。 純愛の時代は過ぎ、現実の中で夢や理想ではなく愛する人を守るため 逞しく戦っています。 決してうしろを振り返らず未来を見つめていますが、 たまには足元の愛を再確認して下さい。 仕事や日常に追われ 気が付いているのに大切なものをつい見過ごしがち。 もう少し自分の 気持ちに素直になりましょう。 しかし過去のいい思い出をあまりに大切にしすぎ・・・。 新しい思い出作りをいま愛する人と。 ロマンチックな性格で すべてドラマチックに考えてしまいます。 勝手なストーリーを作り上げて 自分で自分に酔う場合も・・・。 さて、あなたは当たっていましたか? 来週も、お楽しみに。 投稿者 たまなび : 2010年01月20日 海外ひとり旅の匠 今回、お迎えした匠は、海外ひとり旅の匠 リエコ・J・パッカーさん リエコ・J・パッカーさんは世界5大陸56カ国を旅した 日本のバックパッカー、旅ドル他にタレント、レポーター、女優など 幅広く活躍中。 そればかりではなく、なんと本日、大島からその後輩たちが番組見学に いらっしゃっていて、1年ぶりの再会となったのです。 先週の武田鉄矢さんのスタジオ乱入同様、水曜日には何かが起こりますね。 写真は、後輩たちと一緒のリエコ・J・パッカーさんです。 今でもトラウマは消えません。 ビデオを盗られたくないと必死に抵抗したのがまずかった。 顔面を殴られ救急車で運ばれるはめに。 海外では、絶対に抵抗しないようにしてください。 「世界最大の鏡」と称されるボリビアの塩湖、ウユニ湖是非見て下さい。 その名前のとおり塩でできたている湖で、湖面に青空が広がり ここを車で走っていると空を飛んでいる気持ちになれます。 本当にお勧めです。 夕刊フジ「世界居候旅列伝」・ 楽天トラベル「日本列島チャレンジパッカー」こちら…1万円で行く旅です。 マガジンハウスWEBダカーポ「旅ミシュラン」 東京最高の店100選「世界の食卓から」 また女優としては 1月30日より渋谷ユーロスペースにて 初出演映画「おやすみアンモナイト」ロードショー また今月Vシネマ「破門」リリース予定です。 投稿者 たまなび : 2010年01月15日 チェック魂 今週の深層心理テスト、まずはこちらからチェック! あなたはフルーツショップにいます。 演じることでそのギャップを さらに過剰に演出します。 相手に合わせて自分もどんどん変化しますが、そのうち自分のほうが 疲れてギブアップするという正直なひと。 ただし苦手な人には 最初から対決姿勢なので、少しは相手への気配りも必要かも。 外側の赤く熟していても 実は中身は青いままという感じ。 冷静なので先まで見通せるからこそ出来る特技ですが親しい人とか 家族にまで演じる必要はないのでは・・・・ まして好きな人の前では本音を出しましょう。 食べてみたらものすこぐ栄養価が高いアボカド同様、 ありのままの自分を見てもらった方が特なのに、下手な演出をして失敗するタイプ。 自分に嘘をつけないので、たとえ上手に演じていてもすぐにばれてしまいます。 人の真似ではなく、あなたらしさで勝負。 見た目はいかついですが、素直で正直、いつもありのままで人と接します。 なんでもかんでも飾りなしでストレートなのでたまに周りが 引くときもあります。 だからもう少し謎とかミステリアスな部分で 自分演出してみて下さい。 相手のことを思いやり、尽くすという一途な性格ですが、 自分に対して疲れてきていませんか?繊細な桃同様。 そろそろ素顔で勝負です。 うそのつけない性格で、何事もストレートです。 その分、つまらないことで 衝突するケースも多い。 自分に嘘をつかない程度でちょっと自分を 演出したり相手の気持ちを考えることが必要かも。 しかしそれが 異性の相手の場合には誤解することも、パートナーや恋人の前でのみ 本音を見せて下さい。 周囲の人には中々本音を 見せませんが、本当に好きな人の前では創った自分ではなく、 ストレートに勝負。 しかし突然の豹変に相手が驚くことも。 うまく使い分けていますが、 周囲からはしっかりと見抜かれている可能性が高い。 年齢とともに 自分も成長していくことをそろそろ考えましょう。 さて、あなたは当たっていましたか? 来週も、お楽しみに。 投稿者 たまなび : 2010年01月13日 坂本龍馬の匠 今回、お迎えした匠は、坂本龍馬の匠 美甘子さん たまなびには2回目のご出演。 依然、諸葛孔明の扮装で登場していただきました。 今日は、NHKドラマ「龍馬伝」などで話題となっている 坂本龍馬の人間性について教えていただく予定でした。 が、 生放送ならではのサプライズ 龍馬の話題と聞きつけて、あの武田鉄矢さんがスタジオに乱入! 鉄矢さん原作の『お〜い!竜馬』を読んで歴史、 特に坂本龍馬に興味を持った美甘子さんは、 武田さんの登場に うれしくて、びっくりしてスタジオで号泣。 この写真は、放送終了後、ちょっと落ち着いたあとの写真ですが…。 会いたくて会いたくて仕方なかった方に はじめて今日、お会いできたということで 涙は止まらないし 腰が抜けて、 しばらく歩けなかった美甘子さんでした。 投稿者 たまなび : 2010年01月11日 オヤジ魂「東京スカイツリー・ビジネス」 2012年春、墨田区押上に 東京スカイツリーが完成します。 現在の高さは254m。 完成すると634m、 世界一高い自立式電波塔になります。 それに先駆け、地元商店街ではスカイツリーを盛り上げようと 名物になる食べ物やキャラクターを作って準備を進めています。 今回番組で紹介したのは、 洋菓子屋さんサンレモンの「タワーロール」 お店は押上駅から徒歩3分の所にあります。 お店に入るとショーウィンドー並んだ「タワーロール」 ロールケーキの上にスカイツリーの焼印が入っているのが特徴です。 1本1200円。 中身にはキャラメルと生クリームが使われています。 それでは、番組を代表して今週担当した 私・菅野が試食を。 パクパクパク…、モグモグモグ…。 うん、おいしい! 玉ちゃん、ごちそうさま~! こういうコーナーなら、毎週でもいいよ(^^) 投稿者 たまなび : 2010年01月06日 買い物上手の匠 今回、お迎えした匠は、買い物上手の匠 金子哲雄さん もうすっかり御馴染み、とにかく安いものを追求する流通ジャーナリスト、 また値切りの匠としても活躍されています。 今日は、今年2010年で安くなるモノ、買い時を教えていただきます。 実は、この冬も鳥インフルエンザが流行して海外から鶏肉が 輸入できないのではということで鶏舎を増やして生産量を確保したのですが、 幸いなことに流行が広まらなかった。 そのため、鶏肉が余っていて、3~4割安になっています。 また、日本海側の雪の影響で野菜が高くなっています。 そのため、いまは冷凍のミックスベジタブルなどを購入して備えましょう。 それに合わせて関西旅行しようという人もいますが、「奈良のホテルは 観光客が増え、宿泊代が大幅に値上がり。 京都や大阪のビジネスホテルなどに 宿泊して、奈良に電車で向かうのが一番安く旅行代を済ませることになります。 【2月】2月は日帰りバスツアーが安くなる時期。 寒い季節でオフシーズンと なるので、食べ放題ツアーなどがかなり安い値段で出てくる。 また、バンクーバーオリンピックが開催されるが、ここは薄型テレビの価格が ピークになる時期。 まだ地デジをお持ちでない人は 「オリンピックはワンセグでしのいで、来月の買いどきまで待ちましょう」 【3月】決算のこの時期は1年で最も買い物のチャンス。 自動車を購入する場合、車庫証明やローン審査などの書類のことを考えると 連休となる祝日が最大の値切りが期待できるチャンス。 3月21日の祝日の「たまなび」の放送時間くらいが底値になる可能性大。 また、冬季五輪が2月28日で終了。 3月1日は薄型テレビの買い時。 値引きを期待して粘るのもいいが、家電量販店も3月が決算月なので、 契約を引き伸ばすのは得策ではない 地価が底打ちしたといわれる中、マンションもこの時期が狙い目。 中規模マンションでは売れ残りが多く、入居者がいないと管理費が 集まらないため、この時期大きな値引きが期待できる。 ただ、マンションの場合は引き渡しまで完了しないと決算内に 収まらないので、3月初旬が値引きのピークになる。 もちろん価格は何でもバブルとなる。 節約したい人は閉幕となる 10月31日まで近づかないようにしたい。 引っ越しのピークが終わったことで、ニトリなどの実用家具店や カインズホームなどのホームセンターなどでは一斉バーゲンを 行う可能性大。 また携帯電話はこの時期が買い替えの最大のチャンス。 夏モデルが一斉に発表されるため、旧型を中心にかなりのディスカウントが 期待できる。 「実質1000円や1円携帯が、この時期はかなり増えるはずです」 さらに、細かいところでは、4月の新入学の時期を過ぎて お弁当箱や文具も安くなります。 【6月】衣替えが終わり、春物衣料が狙い目となる。 特にスーツや靴などは、 5着単位でのまとめ買いを持ちかければ、1着分タダになることも。 【7月】6月中旬に開幕したサッカーW杯が11日に幕を閉じる。 したがって7月12日からは、薄型テレビの大バーゲンのチャンス。 夏モデルが新発売されるブランドがあれば、旧型に絞って 大幅値切りを狙うのが定石。 家に居て外出しないというのは同じですが、みんなで集まって デパ地下でちょっとリツチな食べ物を買ってきたり、安くなっている ワインなどでパーティをする人が増えそうです。 投稿者 たまなび : 2010年01月04日 オヤジ魂『2010年大予想!』 穴埋めクイズ形式にしてお届けしますので、 皆さんも一緒に楽しんで下さい。 《第1問》 1月からスタートしたNHK大河ドラマのタイトルはズバリ『(ほにゃらら)伝』? 《第2問》 2月12日、カナダの(ほにゃらら)にて冬季オリンピックが開幕。 開催地都市はどこ? 《第3問》 3月1日、ポーランドの作曲家・ピアニスト(ほにゃらら)さん、生誕200周年。 音楽の教科書にも出てくる何さん? 《第4問》 3月18日、2人目の日本人女性宇宙飛行士(ほにゃらら)さんが宇宙へ! さて、この人は誰? 《第5問》 6月11日、サッカーワールドカップ(ほにゃらら)大会開幕。 開催国はどこ? 《第6問》 6月から(ほにゃらら)手当支給開始。 さて、何手当? 《第7問》 7月に任期満了につき、第22回(ほにゃらら)議員選挙の投開票。 さて、何議員選挙が行われる? 《第8問》 10月に(ほにゃらら)空港に4本目の滑走路がオープン! さて、何空港? 《第9問》 12月に東北新幹線、八戸~(ほにゃらら)間、開通。 さて、どこまで伸びる? 《第10問》 2月1日、『たまなび』は放送(ほにゃらら)回を迎えます! さて、何回目を迎えるでしょう? 今年も色んなブームがやってきそうですね。 答え(上から順番に) 龍馬伝 バンクーバー ショパン 山崎直子 南アフリカ 子ども手当 参議院 羽田空港 新青森(青森) 1000回 投稿者 たまなび : 2010年01月01日 チェック魂 今週の深層心理テスト、まずはこちらからチェック! 想像してください。 夢の中で、あなたは自分の家へ帰っています。 家へとつくと、あなたの家の 玄関の扉の色が変わっていました。 今年は行動あるのみの1年。 がむしゃらに行動して次々と自分の夢ややりたいことを実現して下さい。 疲れたら一休みすることはもちろん大切ですが、 とにかく今年はフル活動の1年。 この年明けも寝正月ではなく初詣や挨拶回りにGO!です。 今年は少しのんびりとした1年にしたいので、仕事などは自分で 少しセーブをかけそう。 仕事をのんびりする分、友達や家族と過ごす時間を多くして、 いままでとは違うジャンルのことにチャレンジしてみて下さい。 それを潜在的に選んだあなたは、今年はお金にまつわるビッグビジネスが ついてまわるかも。 チャンスを上手に掴んで下さい。 自然に金運がアップしますが、金は天下の回り物、 貯金ばかりではなく使うことも心掛けて下さい。 今年は愛する人や 家族との愛情が深まりそうです。 また、新しい人と出会い、仕事や趣味などで 人脈がかなり増えそう。 おそらく、今年出会った人のうちの何人かは一生付き合う人かもしれません。 そんなに悪いことはなく、そこそこの1年になりそうです。 なにか悪いことが起きそうでも上手に回避できそう。 ラッキーアイテムは 運気アップのための、ラジオから流れるとっても役立つ情報です。 小さくても幸せなことは がっちりと掴んで下さい。 それがやがて大きな幸せに替わります。 ラッキーアイテムは、女性パーソナリティーのラジオ番組。 その人と行動をともにすることで 運気アップ。 人との出会いがさらに幸せを呼びそう。 ラッキータイムは平日の午後3時30分から夕方6時。 ただし、あまりにいいことが続くので 気が付かずに見過ごすこともあります。 しっかりとチェックしてがっちりと 掴んで。 ラッキーナンバーは1と1と3と4。 さて、あなたは当たっていましたか? 来週も、お楽しみに。 投稿者 たまなび : 2009年12月30日 時代考証の匠 今回、お迎えした匠は、時代考証の匠 時野佐一郎さん 時野さんは、歴史作家であり、テレビや小説など多くの時代考証も 手掛けられていて、秋のドラマ『サムライ・ハイスクール』の 時代考証も担当されました。 また内職に精を出し、妻の不倫も示談で解決した。 その内職とは、朝顔を作ったり、金魚を育てたり、将棋の駒つくりなど。 驚くべきは、武士の資格は金さえ出せば、誰でも簡単に手に入れることが できた。 勝海舟も榎本武陽ももともと祖先は農家でした。 坂本龍馬に実は、こんな一面もありましたは? 三菱の創始者・岩崎弥太郎に金をせびって嫌われていた 身長が180センチ近くあったというのはウソ、本当は169センチ程度。 それでも当時からすれば大きかった。 日露戦争時の連合艦隊参謀 たちの意外なエピソード 秋山真之のマメ好きは知られているが、兄の好古は酒が大好き。 一日五合呑んだ。 戦争中も呑んでいた。 真之は戦後、宗教にはまって僧になろうとした。 昼はカフェとして 昼11時30分~4時30分まで。 夜はディナーとして 夜6時~10時まで。 深夜はバーとして 夜10時~翌朝5時まで。 イケメンおかかえ運転手が欲しいというあなたは、 おかかえ運転手株式会社 電話0120-787-518 まで。 それぞれの占いを使って、1人の悩みに対して同時に占ったり、 多くの人たちを一度に占うパフォーマンスや、音楽や映像、アーティストとの コラボレーションを行っています。 12月13日(日)、渋谷にプライベートサロンがオープン。 40分7000円にて、東洋占い師と西洋占い師の2人が見てくれます。 予約は03-3780-5536 営業時間は昼12時~夜10時まで。 投稿者 たまなび : 2009年12月25日 チェック魂 今週の深層心理テスト、まずはこちらからチェック! あなたは人気で超満員のラーメン屋さんに居ます。 悩んだ挙句、あるラーメンをある頼んだのですが注文した後になって、 味噌ラーメンを食べたくなりました。 さらに自分のどこがいけなかったんだろう、と深く反省して 中々次に進めません。 考えすぎて思い悩んでとことん自分を 責めてしまいます。 少しは自分を解放してあげてください。 やさしい人で周囲への 気配りが出来てしまうので、自分のことを差し置いてでも お店や相手のことを優先して考えてしまいますが、たまにはじっくりと 時間をかけて考えてから行動を。 平気、平気と振舞っていますが、結構見透かされて余計に傷ついたりします。 高すぎるプライドを少しは抑えてみましょう。 すでに忘れたものも あるのですが、中には何年たっても、ふとした言葉や出来事で 思い出したりして、一生引きずりそうなものもありそう。 ロマンティックな性格は判りますが、気持ちを切り替えて、 新しい環境にしばらく自分の身をおいてみては。 反省は深く立ち直りは早い!という性格。 気持ちの切り替えが早く、 いつまでも悩み続けるなんて時間の無駄、それよりも次の行動が 大切だと思っています。 あまり過去にとらわれない人。 だからときとぎ昔の知り合いにあっても 思い出せずに困った経験がありませんか?過去にこだわらず、常に 新しいもので来るもの拒まず、去るもの追わずに徹底しています。 思い出を勝手にどんどん ドラマチックにしてしまい、また自分も美化しがちです。 ただしいささか、思い出に固執しすぎて、人は時間とともに 変わるものという考えがありません。 人を勝手にイメージ付ける傾向が。 だからたとえ 辛くても思い出はかなり大切にしていますが、反面、過去に捉われすぎ。 過去ばかりを振り返らず前進することも大事ですよ。 さて、あなたは当たっていましたか? 来週も、お楽しみに。 投稿者 たまなび : 2009年12月22日 たまなびサンタからお知らせ 今年も残すところあと10日となりました。 実は今年1年を振り返るにあたって「た・ま・な・び」で言い表せてしまうんです。 忌野清志郎(歌手)58歳。 三沢光晴(プロレスラー)46歳。 マイケル・ジャクソン(歌手)50歳。 大原麗子(女優)62歳。 臼井儀人(漫画家)51歳。 中川昭一(政治家)56歳。 南田洋子(女優)76歳。 三遊亭円楽(落語家)76歳。 森繁久弥(俳優)96歳。 来年はどんなイベントが待っているのでしょうか? 投稿者 たまなび : 2009年12月18日 チェック魂 今週の深層心理テスト、まずはこちらからチェック! あなたは悪夢にうなされて目が覚めました。 あなたは追い詰められたり、 恐怖を感じた時、逆に思い切った行動に出るタイプ。 恐怖や危機は勢いで 乗り切れとばかりに突進しそう。 でも、度胸はあるけど、見境のない行動で痛い目に合う 可能性もあるので注意。 嘘のつけないとてもいい人なのですが、何事もすぐに悪いほうにばかりを 考えがち。 恐そうな人を見るとそれだけでビクビクしたり、 みんなに見られている場面ですぐプレッシャーを感じたり。 もう少し自信を持って、しかも冷静な行動を。 自分でもそれに気がついていながらすっかり諦めムードです。 努力することやもう一度やり直してみることで頑張ってみて下さい。 強がっていないで素直に甘えてみて下さい。 仲間や家族はすぐに気が付いてくれます。 改善に一緒に向かいしましょう。 最初は、勇気を持って自分で立ち向かうのですが、 どうにもならないとすぐに人に頼ってしまいます。 もう少し、自分を信じてみましょう。 恐いと感じた時も落ち着いて、 しっかり対処方法を整えたりしそう。 でもそれだけに、1分、1秒を 争う場面でもクールにマイペースを守り、かえって窮地に陥る 可能性もあるかも。 素早い行動と決断力を養って下さい。 あまり物怖じせずに色々なことにチャレンジするタイプ。 何事にもチャレンジしたうえでのハプニングや珍事件が大好き。 何事も経験してなんぼと思っています。 しかし、あまりに無謀なことは もう辞めて下さい。 しかし年齢と ともにチャレンジ精神が衰えてきています。 もう一度チャレンジ精神で 新しいことに立ち向かってみて下さい。 過去に痛い目にあったことは二度と同じ 過ちは繰り返さないとガードしすぎの一面も。 従って新しい出会いとかも面倒とばかり拒否。 だから最初から尻込み することも多いですが、その分、しなくてもいい経験は回避できています。 ただ、あまりに防戦一方なので、濡れ衣を着せられることも。 違うときは 違うという勇気を持ちましょう。 さて、あなたは当たっていましたか? 来週も、お楽しみに。 卵の黄身の横っちょについている白いヤツ(カラザ)を取り除ける道具。 スプーンの切り込みに上手にカラザを入れれば簡単に取れちゃう優れもの! お値段は735円。 nonoji. 5ミリのお箸。 竹製なので、細くても折れにくいので安心! 魚の小骨などもつかみやすいので、魚を綺麗に食べることが苦手な人に最適! お値段は1575円。 e-ohashi. 東北大学大学院のグループの研究で歯の数とボケの関係が判った。 噛むことで脳は刺激される。 昭和38年に施行されて、庶民が歯の治療を安い値段で出来るようになった。 保険で治療できる国は他にもありますが、治療費が高く 本当にお金持ちじゃないと治せないのです。 歯周菌の原因はまだ特定されていないが、タバコはその原因のひとつ。 ニコチンによって抹消血管が収縮し、歯肉の血液循環が悪くなる。 またタバコを吸う人は、歯周病の治療効果がなくなってしまう。 それで、臭かったら歯周病かも知れません 花田信弘さんが書かれた本があります。 「オトナこそ歯が命」 小学館文庫 本日、うかがった歯の本数とボケの関係、歯周病の話などが書かれています。 投稿者 たまなび : 2009年12月14日 オヤジ魂「訳有割引最前線」 今日のオヤジ魂は訳有割引のあるお店・ホテルを紹介しました。 その理由は海が見えないから。 10年ほど前に、ホテルの前の民家が建て替えをしまして、 今までは平屋の一軒家だったんですが、2階建てに改築。 それを受けて、1階の部屋から海が見えなくなってしまいました。 さらに、4階建てのホテルの屋上にある展望貸切露天風呂も40分無料。 今月25日までと、来年1月5日からのサービス。 そしてこのホテルで「たまなびを聞いたよ」と言うと、 更に「夕食時に2名様に1本300g相当の伊勢海老を付けちゃう」 そんなサービスもしてくれます。 投稿者 たまなび : 2009年12月10日 なるほど番長 男魂・女魂 なるほど番長・木曜日は街の声などを元に男女の違いを検証する「男魂女魂」! 今回のテーマは… 予算1万円で異性に何かプレゼントするとしたら 電通の調べによると、今年のクリスマスプレゼントの平均予算は、 昨年より1363円増えて、1万920円に。 どうやら婚活ブームなどで、 不況の中でもプレゼントにお金をかける人が増えているよう。 どこかに連れていくために使う。 ・花束 贈ったことないので ・洋服 ・イヤリング ・ディズニーランドのペアチケットクリスマスに連れていくので 女性はお菓子やワインなど現実的で、自分も一緒に楽しめるものが多め。 男性は「これを贈るオレって格好いい!」というようなものが多く、 意外にロマンチスト。 また、女性が欲しいと思っているものを かなりしっかりとリサーチしているようです。 また、男性は「どこかに連れて行く」という人が多いものの、 女性は花束やワインを贈るなど家で過ごす気満々。 お互いに予定を確認しておかないと、すれ違いが起きてしまうかも…。 ・(女性)夫は食いしん坊なので、松阪牛を。 もちろん一切れもらいます。 ・(男性)奥さんからバラの花を一本もらったことがあります。 以上、「なるほど番長」男魂・女魂、 「予算1万円で異性に何かプレゼントするとしたら」でした。 投稿者 たまなび : 2009年12月09日 ニットの匠 今回、お迎えした匠は、編み物の匠、ニット界の貴公子 広瀬光治さん 広瀬さんといえば日本を代表するニットデザイナー。 誰にでも簡単に出来る指編みついて伺いました。 互い違いの指に毛糸を互い違いに巻きつけていきます。 交互に絡めたあと、外側から、指に絡めない毛糸ををまわし リリアンの要領で、下から指を通して絡めます これを何度も繰り返して、編み上げていきます。 マフラーだと、30分くらいで編みあがりますよ。 出来上がったものを、引っ張って完成です。 来年3月まで毎月金沢に行っています。 10月にNHKおしゃれ工房 16年目に入りました。 玉ちゃんも、生放送で実際にやってみて、簡単に出来ました。 みなさんも、是非、チャレンジして見てください。 投稿者 たまなび : 2009年12月08日 サイズをすっきり 本日の「なるほど番長・すっきり魂」では、 身の回りにあるサイズをすっきりさせました。 ヤクルトがあのサイズなのは何で? みんな大好きなヤクルト。 美味しいんだけど、65mlと、なんだか物足りない・・・。 あのサイズになったのはなぜなのか? ヤクルト広報室お客様センターに問い合わせたところ、 ヤクルト1本が「65ml」なのは・・・ 乳酸菌を毎日取り続けて欲しいから。 1本の量が多いと、毎日飲むには飽きてしまうため、あのサイズに。 ヤクルト1本65mlには、1日に必要な乳酸菌が入っているので、 1日1本飲めば、その効果を期待することが出来るんだとか。 世の中には、気になるサイズがいっぱい! 第2弾、第3弾が行われるかも!? お楽しみに!! 投稿者 たまなび : 2009年12月07日 オヤジ魂「Jリーグの地域貢献」 先週の土曜日にJリーグの最終節・第34節が行われまして鹿島アントラーズが史上初の3連覇で通産7度目の優勝を決めました。 選手の皆さん・ファンの皆さん、おめでとうございます。 さてJリーグと言えば優勝争い、選手が魅せるプレー、サポーターの応援といったところに目が集まりがちですが、1993年発足当初から百年構想を掲げ「地域密着」を目指してきました。 という訳で今日は「Jリーグの地域貢献」についてお勉強したいと思います。 農作物豊かな茨城を応援に来た人たちに味わってもらう・知ってもらう。 地元で採れたものを地元で消費する地産地消の取り組みを応援しています。 場所はさいたま市を流れる荒川岸にある秋ヶ瀬公園。 サポーター側からすれば、ホームゲームのチケットを提示することで、お店から(10%OFFや飲食店であれば1杯・1品サービス)特典やサービスを受ける事ができます。 地元商店街側としてもお客さんが来るようになるという活性につながります。 高齢化社会の訪れに伴い、介護が必要な方が増えてくることが予想されます。 そこでサッカーというスポーツを通じて培ったリハビリテーションの知識や 経験を、地域の人たちがいつまでも健康で楽しく生活が送れることに生かせるようにと、教室を開いています。 ジェフの選手のリハビリ指導などを手伝っている東京メディカル・スポーツ専門学校の講師が専任となって指導します。 この2チームの対戦・ダービ-マッチを「多摩川クラシコ」と呼んでいますが、エコ活動に対してもこの2チームは対決しています。 それが「多摩川エコラシコ」。 FC東京の選手会は、多摩川への日頃の感謝と、「多摩川クラシコ」の勝利を祈願して、多摩川エコミュージアム共催による多摩川の清掃活動を行っています。 チーム結成当初のメンバー数から「WITH32」というオフィシャルマーク。 選手会もサポーターもお互いに手と手を取り合って何かをしようという取り組み「WITH EACH OTHER」の1つです。 在京チームを中心に「Jリーグの地域貢献」について勉強してみました。 投稿者 たまなび : 2009年12月04日 チェック魂 今週の深層心理テスト、まずはこちらからチェック! あなたは引越しを考えています。 その引越し先のリビングを見て思ったことがあります。 もうすこし家族で話し合う必要がありそうです。 お互い考えていること、 改善して欲しいことなどを言いあっても信頼や絆があるので大丈夫。 新しい年は、新たな気持ちと、リフレッシュした気持ちで迎えましょう。 どこかにぬくもりを感じていて、寂しさや平凡さも感じてはいないようです。 いつまでもつづきますようにとお互いが自然に気配りし合ってとても幸せです。 ただし、あまり細かいことは多少目を瞑りましょう。 全体的にはうまく行っていますが、これまで築いてきた家庭の中で、 何かを忘れているかも。 それに気がつかないので ちょっと淋しい思いをしたりしています。 満ち足りないものを早く見つけて、 さらに愛の溢れるあたたかい家庭を目指して下さい。 以前は至極当然にあったこと、していたことが最近は お座なりになっていませんか?灯りを照らして見つけ出して下さい。 家族で協力し合えばすぐに見つかると思いますよ。 自分でもそれに気がついていながらすっかり諦めムードです。 努力することやもう一度やり直してみることで頑張ってみて下さい。 強がっていないで素直に甘えてみて下さい。 家族です! すぐに気が付いてくれます。 改善に一緒に向かいましょう。 もう少し会話をしましょう。 お誕生日、お互いが遠慮して、あるいは 気を使いすぎて、ほったらかし状態となっています。 いくら絆が強くても話さないと判らないことがあると思って下さい。 しかし、いささか照れがあって、最近は愛情表現を怠りがち。 クリスマスプレゼントはお互い決めていますが、本当に欲しいものか どうか悩み中。 どちらが裏切らない限り、このままハッピーな 家庭生活をつづけられます。 クリスマスプレゼントは完璧に相手の 欲しいものがチェックされています。 周囲の人の見本で、あなたがたを 真似る後輩などがたくさんいます。 ただし人前では多少抑えて下さい。 クリスマスプレゼントは、完璧の上にプラスアルファのサプライズが ありそう。 さて、あなたは当たっていましたか? 来週も、お楽しみに。 立ち飲み店といえば、かつては完全に中高年男性の聖域でしたが、 ここ2,3年で女性客が一気に増えているよう。 最近ではテーブルの下に荷物入れが設置されていたり、 トイレが男女別々になっていたりと、様々な工夫が施され、 女性でもぐっと入りやすい雰囲気に。 また、ラーメン店も同じように、髪の毛を留めるヘアゴムをおいたり、 スープの飛び取りを防ぐ紙エプロンを用意したりと、 女性客が入りやすい雰囲気を作るところが増えているそう。 彼女を連れて行かないと行けない。 結界があるとしか思えない。 でも行ってみたい。 ・モデルさんの着替え室。 だって全裸で着替えるんですよね? ・OLさんの給湯室。 会話をきいてみたい。 ・ラブロマンスなどの映画。 男性で多かったのが「おしゃれな場所」。 アサヒビールが行った「一人で行きづらい場所」というアンケートでも、 女性の1位が「焼き肉店」だったのに対し、男性は「フランス料理店」。 また、スイーツ男子が流行しているようですが、 「スイーツバイキング」もまだまだ行きづらいようです。 以上、「なるほど番長」男魂・女魂、今日のテーマは 「足を踏み入れてみたい異性の聖域は?」でした。 投稿者 たまなび : 2009年12月02日 渋滞解消の匠 今回、お迎えした匠は、渋滞研究の匠、東大大学院教授の 西成活裕さん 年末年始の帰省ラッシュの予測とアメリカで行われている渋滞吸収隊の お話を伺いした。 速度50キロから55キロで走行し、ペースメーカーとして 先導しています。 ワシントンとか西海岸で実施されていて、はじまる他のドライバーも 「あ、この先で渋滞があるんだ」と納得して走行しています。 車間距離を十分空けることです。 高速道路の場合、車間距離40mが 大きな分岐点になります。 40m以上空けていれば、後続車にブレーキが弱まって伝わるため、 渋滞は発生しないということになります。 それと、目の前に渋滞があったときは、そこになるべくゆっくり近づくことです。 90キロで走行していたら70キロ、70キロで走行していたら50キロなど 大体20キロスピードを落として下さい。 こうすることで、前方の渋滞を小さくすることができ、 また1km以下の長さの小さい渋滞ならば、消すこともできます。 昔から子供は寒い風の中でも平気で遊び、大人は火のそばでジィ~… さて、子供は本当に寒さに強いのか? 結論から言うと、「そうとは言えない」とのこと。 たしかに、生まれたばかりの子供は体温調節機能が未熟で 体温は高く、寒さにも強い。 でも、次第に寒さに弱くなって、思春期を迎えるころには、 大人と同じように寒さに弱くなってしまうんだそうです。 子供の薬が甘いのはなんで? 子供用のタミフルが不足する中、 大人用を代用しようとしても苦くてダメ… 甘みをつけるのも手間がかかって大変… 医療の現場では困惑の声が上がっているそうです。 辛いのも。 なぜか? 味覚が大人に比べてとても敏感! 味を感じ取る味蕾(みらい)という器官が 大人は2000個ほどなのに、子供は1万個。 一説によると3倍も敏感なんだそうです。 だから薬はもちろん、ピーマンやニンジンが苦手なのも、 こうした理由があったから。 大事な日の前日に体調が悪くなるのは何で? 遠足や運動会、家族旅行の前に限ってね… と思いきや、行事と体調の悪化にはなんら因果関係はないのだとか。 最先端の統計学からしても、因果関係はゼロ。 ではなぜ、大事な日に体調が悪くなる…と言われるのか? 理由は「思い込み」。 子供のころは年に何度も風邪をひくそうです。 そのうち1回は特別な日に当たることもあるでしょう。 普段は風邪をひいたことすら忘れてしまうのに、 特別な日は「やっちまったぜ」…とずっと覚えている。 それが思い込みに繋がるのだそうです。 投稿者 たまなび : 2009年11月30日 オヤジ魂「南極観測の歴史」 1957~58年に計画された国際地球観測年。 未知の世界だった南極大陸を各国が協力して、観測・調査を実施する事が大きな目的になっていました。 日本は第2次世界大戦が終わって10年。 ようやく国際社会に復帰を始めたころでした。 主食のお米も十分でなかったこの時代に、国際共同観測の大事業に参加することを決めました。 日本が基地を設けるために割り当てられた大陸沿岸地域は人跡未踏の地。 何もかもが手探りの状態で、1956年11月8日、観測船「宗谷」で第1次南極観測隊は出発しました。 1957年1月29日、南極大陸にあるオングル島に上陸した観測隊は、「昭和基地」を置き、越冬しました。 これが日本の南極観測の第1歩になります。 ところで、南極観測ってどんな事をしているんでしょうかね? 南極観測についていくつか紹介しましょう。 白クマがいるのは、北極です。 オーストラリア大陸の面積はおよそ760万平方キロメートル。 世界に2番目に小さい大陸。 地球の全陸地面積の8.9%を占めます。 日本から真下(真南)に行った所にありそうなイメージですが、 オーストラリアと南アフリカの間。 この下を南に行った所にあります。 その他にも、あすか基地、みずほ基地、ドームふじ基地の3つがあります。 日本はおよそ1万6200個の隕石を保有し、世界一を誇っていましたが、アメリカがおよそ1万7300個に達し、抜かれてしまいました。 今回の採集にあたって「世界一を取り戻したい」「水星や金星からの隕石が見つかったら大変な騒ぎになる。 難しいが発見を目指したい」と話しています。 南極大陸で隕石がよく見つかるのは、氷床上で目立つほか、氷床の流れに運ばれて山地付近に集まるため。 全員がそうという訳ではありませんが、最初から船で行くのではないんですね。 菌を持っていってはいけないので、食材に「まつたけ」を持っていくのも禁止されています。 南極大陸の中心部にあるロシアのボストーク基地の近くにボストーク湖という湖があります。 大きさは1万4000平方キロメートル。 琵琶湖の20倍もあります。 分厚い氷が断熱材となって熱を閉じ込めているので、凍ってはいません。 最も深い所で1000メートル。 3500万年~10億年も前にできたものと考えられています。 今回の観測隊に教員2名を同行させ、昭和基地から衛星回線を使い「南極授業」を実施します。 南極の自然や隊員の姿などを全国の小中学校、高校に向けて発信します。 派遣されるのは、千葉県習志野市立大久保小学校の長井秀子先生と奈良県立奈良高校の森田好博先生。 南極への国民の理解を深めてもらおうと、南極から授業をしてくれる現役教員を初めて募集。 全国から18人の応募がありました。 「南極」という特別な自然環境で暮らしながら、隊員がどんな夢を見るのか、南極では日時計の影はどのような軌跡を描くのかなどの実験も行われます。 南極大陸の平均標高はおよそ2300メートルもあり、南極大陸は標高の高い大陸となっています。 昭和基地ではマイナス10度。 最低気温ではマイナス90度という記録も出ています。 これであなたも南極通! 投稿者 たまなび : 2009年11月27日 チェック魂 今週の深層心理テスト、まずはこちらからチェック! あなたは、誕生日に猫をプレゼントされました。 しかし、その猫を見てあなたは、びっくり! そんな余裕とゆとりは人に安心感を与えたり、冷静に行動するように 促したりします。 人望も厚くあなたを慕っている人が多いはず。 ただし、あまりにクールで異性からは冷たい人と誤解されることもあります。 雨が降るからと人には 傘を忘れないでと忠告しておきながら自分が忘れてしまいます。 人におせっかいを焼く傾向が強いのですが、まずは自分の 慌てんぼうな性格を直しましょう。 雨が降りそうだからと傘を用意するのですが、 持っていったその傘が日傘で使えなかったり・・・という具合。 頭がいい人なので先を考えるのはいいのですが今一度じっくりと 確認してから行動を。 人の話をよく聞いたり、 よく調べもしないで、先入観と独断で物事を判断する傾向が…。 雨が降ると言う予報を聞いて、傘を人に持っていくように勧めますが、 その予報が海外の予報だったりします。 あなたは人のために良かれと思っての言動ですが、 かなりはた迷惑なところもあります。 何かに追われていたり、違うことを考えていて パニック状態で、つまらないミスを引き起こします。 周囲の人があなたに かける言葉は「大丈夫か?」「落ち着け」が多くないですか? 大物の可能性もありますが、とにかく心を落ち着けて行動しましょう。 かなり冷静沈着な人。 行動の前には決まって沈思黙考するタイプ。 あまりに落ち着いているのでたまにボケる!とか、わざとドジを踏んで 人間らしさを見せたりしましょう。 プレッシャーにも弱いので、ひとりで勝手にネガティブには考えず 一度深呼吸して行動するように。 それにスーパー勘違いな迷惑な言動も あります。 また自分のほうがが間違えているのに怒ったりして恥の 上塗りをしたりします。 人が慌てているのではなく自分が そうなんだという自覚を。 周囲の人まで巻き込むので 要注意人物です。 ひとりでタネをまいて育て、刈り取って収穫までする タイプ さて、あなたは当たっていましたか? 来週も、お楽しみに。 ・流れ(シーンによる?)であれば良い。 悔し涙でも良い。 ・好感が持てる 大好き ・大好き。 その人が抱えてる裏にあった努力とか色んな思いを 自分もその涙によって共感できるから 今回話をきいたのが30,40代と比較的若めの世代だったこともあり、 男性の涙に対してはかなり好意的。 ただし好意的なのはあくまでも「やむを得ず泣いてしまった」という場合で、 「めそめそ泣く」というのはNGなよう。 むしろ大好き。 昔の彼氏が別れる時に泣いてドン引きした。 ・結婚して25年。 夫の涙を見たのは舅が死んだ時だけ。 ・夫が父が死んだときに「なんでだよ…」とつぶやいていて 格好いいと思った。 毎日泣く人だったら好きじゃなかったかも。 ・男なら涙を堪えるのが「大和魂」! では、最後にちょっとだけ女の涙について。 インターネットのポトラが男性を対象に行った 「女性の涙をどう思うか?」というアンケートによると、 一番多かった答えは「守ってあげたい」でも「うっとうしい」でもなく、 なんと「何で泣くのかわからない」という答え。 これについてはおそらく女性自身もなぜ 自分が泣いているのかわかってないと思います…。 以上、「なるほど番長」男魂・女魂、 今日のテーマは「男の涙をどう思う?」でした。 投稿者 たまなび : 2009年11月25日 文房具の匠 今回、お迎えした匠は、文房具の匠 土橋正さん 土橋正さんは文具コンサルタントとして活躍。 国内・海外の文具メーカーを対象にコンサルティングを行っています。 特に手書きの良さ。 今、ひとつの流れを感じるのは「ノート」。 ビジネス書でも「ノート術」を テーマにしたものが、たくさん出ています。 考えてみますと、 これまで「ノートの取り方」というものを正式に教わってきていません。 ですので、皆さんが悩まれているのだと思います。 最近は、東大生のノートを研究して生まれたものや、コーネル大学のもの、 そして私も先日コクヨS&T社と協同開発した 「ハック!ノート」というものもあります。 これはアイデアの発想を促したり、新しい使い方を提案したものです。 どんなノートかといいますと このノートを開くとこうなります。 と言いますのも、ライフスタイル、ワークスタイルがそれぞれ違うからです。 あえてアドバイスをするとすれば、自分に近いライフスタイル、 ワークスタイルの方のスケジュール帳を見せてもらって 参考にするのもいいかもしれません。 筆記具では、万年筆を一度使ってみるのもいいと思います。 折しも年賀状シーズンも到来しますので、使う機会もありますので。 ちなみに土橋さんんのスケジュール帳には、いろいろと面白い アイテムがたくさんありました。 そのひとつが、ポケット付箋。 名刺や、簡単なメモをスケジュール帳やノートに貼ることが出来ます。 これは仕事をしていく上で、最適なステーショナリーをシーン別にご紹介しています。 「整理」「アイデア発想」「環境」「表現」「時間管理」で 合計236点ご紹介しています。 油がいっぱいの美味しい焼き魚を食べるとき、 一緒に食べるとちょうどいいわけ。 紅茶にレモン 紅茶にレモンを入れるのは、アメリカと日本だけといわれている。 はちみつにレモン 疲労回復にも相乗効果が期待できる。 シュウマイにグリーンピース 説1:数えやすさ説 中華料理屋さんでシュウマイの数を数える時、緑色が目立って数えやすいから。 説2:蒸し加減のセンサー説 グリーンピースの豆の皮のしわの状態で判断できるから。 もちろん、微妙な蒸し加減を判断するには熟練の技が必要なようですが・・・ 説3:学校給食が発端説 「給食を楽しく食べてもらいたい」との願いから、 ケーキのようなシュウマイを目指した。 イチゴを乗せるわけにはいきませんから、グリーンピースを乗せたそうとか。 ただ、いつ、どこの学校で始まったかは分かっていないのですが・・・。 投稿者 たまなび : 2009年11月23日 オヤジ魂「日本の夫婦別姓について」 民主党が出した政策集の中に「選択的夫婦別姓の早期実現」という項目があります。 実現するために、法務大臣の千葉景子さんと、男女共同参画担当大臣の福島瑞穂さんらが話し合い、早ければ来年の通常国会にも選択的夫婦別姓を導入する民法改正法案を提出しようとしています。 選択的夫婦別姓とは「夫婦同姓(同じ苗字)でも夫婦別姓(違う苗字)でも、どちらでも選べますよ」という制度のことです。 例)玉ちゃんが小栗旬くんと結婚した場合 夫婦同姓ならば、小栗旬・小栗美沙(または玉川旬・玉川美沙)となりますが、夫婦別姓を選択すると、小栗旬・玉川美沙とそのままになります。 夫の姓を選び、妻が改姓する夫婦が圧倒的で、昨年は96%を超えています。 しかし、日常生活ではパスポートや運転免許証などの表記は原則として戸籍の名前を使わなければならず、2つの苗字を使い分ける不便さを感じている女性を中心に、夫婦別姓が法的に実現することを望む声が上がっています。 実は苗字を持ってからまだ140年ぐらいしか、たっていないんです。 私たちが苗字を持ち始めた明治時代の前半は、妻が実家の姓(苗字)を名乗る夫婦別姓でした。 ところが1898年(明治31年)に施行された民法で「家」の制度を導入し、夫婦がともに「家」の姓(苗字)を名乗ることになりました。 夫婦同姓になってもまだ110年ぐらいしか、たっていないんですね。 韓国、イラン、カナダ・ケベック州、クウェート、サウジアラビア、シンガポール、スペイン、中国、フランス、ベルギーなどが夫婦別姓です。 日本と同じように夫婦同姓の国は、ドミニカ、インドの一部、スイス、タイ、トルコ、パキスタン、オーストリア、ギリシャなど。 という考えもあります。 また、家制度を基本としてきた墓碑銘(お墓に彫る名前など)や表札に混乱が生じるとも言われています。 法務省が出した案によると、「複数の子の苗字は統一する」としているのに対し民主党などの案は「兄弟姉妹で姓(苗字)が異なるケースを認める」内容になっています。 しかし2001年の内閣府世論調査で賛成42%・反対30%と賛成派が反対派を上回り、2007年の世論調査では賛成37%・反対35%と拮抗しています。 日本の夫婦別姓の動き、来年の1月末に召集される通常国会に注目しましょう。 投稿者 たまなび : 2009年11月20日 チェック魂 今週の深層心理テスト、まずはこちらからチェック! 動物園で子供にこう聞かれました。 また人間は対等だと思っているので気を使ってマメに連絡するような事は ありません。 しかし、だからと言ってパートナーや恋人を大切に 思っていない訳ではありません。 もう少し気にしてあげると歓ばれますよ。 だから大切な人のことは かなり気に掛けているので、少しの変化も見逃しません。 顔色や体調などの変化にすぐ気が付きます。 ちょっと古風な タイプなので、マメに連絡したり、ご機嫌伺いのような連絡を 取るようなことはありません。 しかし、人が本当に困っている時には 何をおいてもその人を助ける頼もしい人です。 人の夢や希望などに対しても 温かく応援できる人で惜しみなく援助も出来ます。 だからお互い周囲の人とは何とか助け合って生きて 行きたいとかんがえます。 かなり周囲に気の利く人ですが、パートナーや恋人に対してだけでなく、 全ての人に親切なので、誤解されないように。 かなり考えてから動くという慎重派。 だからあまり行動派ではありません。 言われて気がつき、はじめて動くタイプ。 もう少し先を読んで自主的に 動くと認められ感謝と感動されるのですが・・・。 もう少し空気を読んで接しましょう。 自分で決めずに人からの情報収集を徹底してその人を喜ばせましょう。 人の好みや性格を覚えていてサービスできます。 しかし、ちょっと押し付けがましい点も。 あと、勝手な思い込みが 激しすぎます。 少し反省も必要かも。 人に対して一生懸命なのですが、 肝心の自分のことは置き去りです。 だから周囲の人は反対に 遠慮してしまいます。 まず、自分が喜ぶことを考えて人につくして下さい。 さて、あなたは当たっていましたか? 来週も、お楽しみに。 会ってる時は楽しむけど 会っていない時の事を根掘り葉掘り聞かない。 ・日々のコミュニケーション。 笑顔を絶やさない ・長く一緒にいること ・ありがとうと口に出して言う 男性の意見の中で多く見られたのが、コミュニケーションに関するもの。 「出来るだけコミュニケーションを多く取る」という意見がある一方、 「干渉しすぎない」という意見もあったりと、なかなか複雑なようです。 ・できる家事は黙って手伝う。 ・同じ趣味を持つこと。 ・思いやり。 口論しても逃げ道を残す。 ・記念日をちゃんとお祝いしてあげる。 では、続いて女性の意見。 博報堂が58~62歳のベテラン夫婦を対象にとったアンケートでも 「夫が妻に望むこと」の2位に「自分を責めないようにして欲しい」がランクイン。 うちの場合は山登り。 ・相手の好きなものをけなさない。 うちの場合はガンダム。 ・アホだのバカだの言わない。 言われた方かストレスになる。 ・日常のことは私、大事なことは旦那が決める。 決定権をわけているからもめずに済む。 ちなみにイギリスで最長婚姻カップルとして知られるミルフォード夫妻は、 今年で結婚81年目。 夫のフランクさんが101歳で、妻のアニータさんが100歳。 二人が語る結婚生活の秘訣は… 「小さなケンカは毎日のようにするが、それは健康である証拠。 ただし、もめ事は寝る前に解決するようにし、 寝る前には毎晩キスを交わしてから寝るようにしている」とのこと。 …参考になりましたでしょうか? 以上、「なるほど番長」男魂・女魂、 今日のテーマは「夫婦円満の秘訣は?」でした。 投稿者 たまなび : 2009年11月18日 仏像の匠 今回、お迎えした匠は、仏像の匠 仏像ガールさん 仏像ブームのなか仏像と言えばこの方、日本中の仏像をご紹介してくださるほかに 奈良国立博物館の文化大使としてもご活躍。 たくさんあるのですが、ぜひお会いしていただきたいのは…。 聖徳太子ゆかりのこのお寺には、 たくさんの古い仏像がいらっしゃいます。 その中でも、明治時代くらいまで ずっと長い間、お寺の人たちでも見ることができなかった秘仏が救世観音。 この救世観音さまはとっても有名人で、「大和路の仏像」だとか 「飛鳥の仏像をみる」だとかそんなような感じの本には、 必ずと言っていいほど、写真が登場するくらいの方。 なので、虚空蔵さまにお参りすると いいかもしれないですね。 今がんばって作っています。 また、来月12月2日には、新宿の朝日カルチャーセンターで1日講座を 開催します。 投稿者 たまなび : 2009年11月17日 みかんの謎をすっきり! これからの季節、「こたつ」の上には欠かせないみかん。 みかんに衝撃を与えると、みかん自身が、 酸っぱい成分「クエン酸」を消費する。 みかんの中から「酸っぱさ」が減るので、甘く感じるというわけ。

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