ワトソン と クリック。 科学者事典/ワトソンとクリック

名誉欲で汚れた科学 〜ワトソンの二重らせん〜

ワトソン と クリック

この投稿内容は、以前、 に連載したものです。 このエッセーの主人公は、知らない人がいないほど有名な人物の内の一人、ジム・ワトソンと、類い希な才能を与えられ、優れた研究業績を上げたにもかかわらず、ワトソンたちに不当な扱いを受けて、短い一生を終えた優秀な女性科学者、ロザリンド・フランクリンである。 脇役は、ワトソンと並び有名なクリックと、ノーベル賞を共に受けているが有名ではないモーリス・ウィルキンスである。 二十世紀の重要な科学的発見として忘れることの出来ないことの一つは、遺伝物質の本体であるDNA構造の解明であろう。 1953年、権威ある科学誌「ネイチャー」に掲載されたDNAの二重らせん構造に関する一千語にも満たない論文は、評価については紆余曲折があったが、遂に生化学・遺伝学・生物学の分野に無数の研究を触発する大爆発を引き起こし、生物学の世界を変貌させたのである。 この論文を発表したとき、ワトソンは弱冠 25歳、クリックは37歳で無名の科学者であった。 二人が提出したDNAの二重らせん構造が正しいことが全世界で認められ、この二人と構造解明に別の貢献をしたとしてウィルキンスの三人に、1962年(ワトソン34歳)、ノーベル生理学・医学賞が授与された。 二人は偉大な科学者として称賛を浴び、ワトソン、クリックと二人がくっつけて語られたので、いつの間にかワトソン・クリックという一人の人だと誤解されるようになったほどである。 彼らがノーベル賞を授与された年、私は大学を卒業し、生物化学研究室で科学者の卵として歩み始めたばかりだった。 この研究室はタンパク質や酵素を研究していたので、DNAとは直接関わりはなく、私にとってワトソンは、遙か遠くの、尊敬に値する偉大な科学者であった・・・・彼が著した個人的回顧「小説」を読むまでは。 論文発表から15年、ノーベル賞受賞から6年後の1968年、ワトソンはDNAの構造解明までの経緯として、有名な「二重らせん」*1を出版した。 個人的回顧であるという建前になってはいるが、実在の人物を実名で書いた、つまり本音は「実話」として出版したこの本が好評を博し、ベストセラーになったのは不思議ではない。 若くして最高の栄誉を得た英雄的科学者ワトソンが描いて見せた研究にまつわる話を、大勢の人々が読みたいと思ったのは当然だろう。 私がこの本を最初に読んだのはいつだったか記憶が曖昧だが、そのときの感想をかなり鮮明に覚えているのは、この本に対する私の評価が、多数の人々の見解とは極端に異なったためだろう。 科学者の世界が世間の人々が期待するような美しい世界ではないのは、体験的にもすでに知っていた。 DNAの構造解析についても、ワトソンとクリックの様々な汚い噂、裏話が囁かれていて、その一部は若い私たちの耳にも届いていた。 功なり名遂げた最高峰にいるワトソンが、このような本を出版しなければならなかったそもそもの理由は何だろうと、私は訝しく思った。 全くの小説なら確かに面白いかもしれない。 登場人物は背広・ネクタイ姿、あるいは白衣姿の科学者ではなく、人間くささが溢れ出ている泥臭い人々で、赤裸々で騒々しいおしゃべりがふんだんに散りばめられた迫力ある語り口である。 興味深い科学の話を縦糸として、実在の人物の名前を使いながら、実は、ワトソンが創作した、実像とは異なる架空の人々の、盛りだくさんに詰め込まれた見苦しい姿、中傷、誹謗、ゴシップなど、嘘とまことが混然融和して、実に雄弁、巧みに、横糸に編み込まれている。 彼の周囲で同様に研究に携わっていた実在の人物をこき下ろし、自分だけが正しいみたいな論調は容認できないと思った。 事実関係を知る由はなかったが、知人たちの人格を傷つけ、また結果的には自分自身を貶めることになるのに、何故、こんなくだらないことを書かなければならなかったのだろう。 特に、彼が「ロージィ」と蔑称で呼んでいる女性、ロザリンド・フランクリンへの露骨な悪意、軽蔑、否定、敵意は、彼が描いているとおりの女性であったと仮定してさえ、それでも、非常に不愉快に思い、ワトソンへの尊敬を失ってしまった。 この本は、ヒソヒソと囁かれていた黒い噂は本当だと語りかけているように思われた。 こんなにも、ある一人の人を蹴落とさなければならないのは、実は文字として表現されていない本当の狙いが別にあったのだろうと思ったのである。 ノーベル賞受賞後、彼の周囲で何があったのか当時全く知らなかったが、「あの業績は正真正銘、我々二人のものであり、他の誰かの助けを得たのではない」と、彼が絶叫しなければならない何かがあったのではないかと思ったのである。 とうの昔、1958年に死んでしまっている人をここまで叩きのめすのは、ワトソンは死者の亡霊に悩まされていたのかもしれないと、ふと思ったりした。 ともあれ、当時はこの問題を追求することはなく、完全に忘却の彼方へと追いやってしまった。 大学の生物学の教科書のカラム欄にロザリンド・フランクリンが取り上げられているので、ゆとりの宿題として数年前から学生たちに読ませていたのだが、不思議なことにワトソンの「ロージィ」と結びつかなかった。 つい最近、ブリッジス・フォー・ピース(BFP)の冊子「オリーブ」に、ユダヤ人科学者の特集記事を執筆させて頂くことになった*2。 調べている間にユダヤ人科学者という新たな装いを帯び、また忘れていた「ロージィ」と結びついて、彼女は私の脳裏に飛び込んできた。 DNA構造解析研究が行われていた頃、ワトソンとクリックはケンブリッジ大学に、フランクリンとウィルキンスはロンドンのキングス・カレッジにいた。 ウィルキンスとフランクリンが何故、犬猿の仲になったのかはわからないが、口を利くのもいやというほどの間柄であったようである。 「かのダークレディは、来週われわれの元を去る予定です。 」*3 個人的感想という隠れ蓑を使って歪曲した情報を小出しにする巧妙な手口は、まず「ロージィ」という呼び名の魔女の創出に始まる。 ひとつひとつは些細で、もしかしたらどうでもいいような小さな嘘八百や中傷を散りばめて、人物像を読者に強烈に植え付ける手法は、ワトソンの極めて豊かな文才を示すものだろう。 「ロージィ」はウィルキンスの助手であり、彼女をクビにする理由が見つからないので困っていると書かれている。 事実は、ランドル教授の研究室であり、ウィルキンスの研究室ではなく彼女を解雇する権限は全くなく、二人は独立した対等の立場の研究者であった。 DNAのX線回析の研究を本格的に立ち上げるために研究グループの責任者としてフランクリンは迎えられたのであって、彼女が機器類その他を一から購入して整えたのである。 彼女は我が儘で気難しく、野暮ったく、きつい顔立ちをしていて、頭が堅く、攻撃的で、横柄で、仕事が遅く、チームワークが苦手で、批判を受け容れることも想像力を使うこともできない。 一方、頭は良くて「地道」で「腕の良い実験者」と褒めることで、ロザリンドの知性や科学者としての才能を貶めた。 データを理解できないのに自分の研究データを蓄え込んで見せず、共同研究ができない、中性的で嫌な女をでっち上げたのである。 ワトソンにとって、才女は当然眼鏡を掛 けていなければならなかった。 眼鏡をはずし、髪型を整えたら結構美人だろうと想像していたとワトソンは書いて、眼鏡を小道具として使い、髪も整えない嫌な才女「ロージィ」に、眼鏡を掛けさせたのである。 本物のロザリンドは視力も良く、眼鏡を常用してはいなかったという複数の証言があり、事実、眼鏡を掛けていない写真が多い。 また、彼女の写真を見れば、身だしなみのおしゃれさえしない野暮ったい女性には見えない。 ファッションモデルではないのである、科学者としては普通の装いである。 さて、問題のDNAの構造解析であるが、ワトソンとクリックは、モデルを組み立てるというテクニックでDNAの構造解析を試みていた。 一方、キングス・カレッジではX線結晶回析による研究を進めようとしていた。 1952年5月、フランクリンのカメラは、英国学士院の会議に出席している間も作動していた。 そして、この時撮影された写真は十字模様を鮮明に示しているB型DNAの写真で、らせん構造の明白な証拠となったのだった。 彼女は「写真51番」と番号を振って脇によけ、ランドルと合意したとおりにA型DNAの謎解きに戻った*4。 1982年、ノーベル化学賞を受賞したアーロン・クルーグは、「二重らせん」の出版から数ヶ月後、「ネイチャー」誌にあてて長い原稿を書き、ワトソンは物語の片面しか伝えようとしていないと述べた。 念入りにフランクリンの実験ノートを調べ、彼女は、ワトソン、クリック、ウィルキンスが主張し続けたような「反らせん派」ではなく、1952年2月、研究助成金の報告書でDNAのらせん構造の証拠を提示していたと書いている。 1953年初め、DNAのらせん構造を決定づけることになった証拠写真、フランクリンの「写真51番」を、ワトソンが盗み見することになったという事件が発生した。 そして、2月4日、ワトソンは模型づくりを開始。 8日、ウィルキンスはフランクリンのメモ書きを無断でワトソン、クリックに全部話した。 一方、フランクリンはノートに:10日、B型:らせん構造が二本鎖(または1本鎖)の証拠?と記載し;23、24日、「写真51番」の写真を入念に測定し、A型、B型ともに二本鎖のらせん状であると記載した。 彼女は、自分の「写真51番」および寸法が34オングストローム*5の反復であるという情報が、ワトソン、クリックの手中に落ちてしまっていたことを全く知らなかった。 サイエンティフィックアメリカン誌の10月号の原稿のなかで、クリックは「写真51番」を示してフランクリンの写真だとして紹介し、その貢献に対して直接の謝辞を述べた。 何年も後にフランクリンのノートを分析したアーロン・クルーグは、彼女は解明の二歩手前にいた。 彼女なら、この二歩を3ヶ月以内に終わらせたはずだと発言している。 ワトソンとクリックは、発見の重要な鍵となった「ケト」型の助言を与えたドナヒューなど大勢の科学者に謝辞さえ書かず、フランクリンのデータを「盗んだ」とかなり厳しい批判が科学界に飛び交った。 DNA構造発見から二年後、1955年の山道での出会いのシーンが、「二重らせん」の冒頭に書かれているが、キングス・カレッジの科学者たちが「やぁ、正直ジム」*1とだけ痛烈な皮肉の一声を浴びせたというくだりは、キングスのデータを勝手に使って名声を勝ち取ったワトソンを赦してはいなかったことを示している。 ブルックリンポリテクニク大学のデヴィッド・ハーカーは、「不運な事故が重なったのもそうだが、この件の真の悲劇は数人の非常にいかがわしい行動である。 情報が普通ではない伝わり方をしたのだ。 ……これらの人物は、……科学倫理の外にいる。 」と言っている。 1984年、フランクリンの母校セントポール女学院で講演したとき、何も知らない若い聴衆の前でさえワトソンは自己弁護している。 「私とクリックはフランクリンから略奪していない」と宣言した。 そして、フランクリンの柔軟性のなさに触れ、「彼女は家族との関係が悪かったのです。 」などと誹謗し、当時の科学部長を激怒させた。 何年もの間ワトソンは、批判に対するコメントを繰り返し公に発言している。 1999年の著書「DNAへの情熱」では、「二重らせん」の出版を振り返ってこんなジョークを書いている。 「私は『ニューヨーカー』誌に『犯罪史』の見出しで紹介されるかと思った。 ……私たちがモーリス・ウィルキンスとロザリンド・フランクリンから二重らせんを盗んだ、とね。 「フランシスと私がキングスの人から構造を盗んだという説がある。 私はロザリンド・フランクリンのX線写真を見せられ、これはらせんだと思った。 そして、一月後、我々は構造のモデルを手にしていた。 私は引き出しに手を伸ばして盗んだのではない。 そして寸法についても34オングストローム*5の反復だと教えてもらった。 すると私にはその意味するところが大体分かってしまったわけだ。 しかしフランクリンの写真がやはり要であるのは確かだ。 」 「写真51番」を見た瞬間が、二重らせん発 見に極めて重要だったと認めたのである。 ワトソンとクリックは、ノーベル賞の栄誉さえかすんでしまうほどに、地上の大きな栄誉を冠せられたが、それが大きければ大きいほど、盗んだことの罪の重みに耐えかね、何とか罪を正当化し、自己弁護をしようとして「二重らせん」を書いて、新たな罪を重ねた。 創造主は人の心に良心を植えられた。 悪を行うとその良心が痛む。 肉体的生命が存続する限り良心はうずき続けて、悪を摘発し続ける。 しっかりと悔い改めて、新たないのちを戴かない限り、苦しみは生涯消えることはない。 あの不朽の二重らせん構造は、「ワトソン・クリック・フランクリン構造」と呼び直したほうが事実を反映しているのかもしれないし、三人の心の奥底の痛みが癒されるのかもしれない。 あまりにも若くして大きな栄誉に包まれたワトソンは、ハーバード大学教授にはなったけれども、後が続かなかった。 「ワトソンの名を冠した多くの論文を見てはいない。 …あれほどの論文はそう滅 多に書けるものではなく辛かったとおっしゃる。 」*6他人のデータと栄光を盗むようなことをしなかったら、後が続いたのではないだろうか、と筆者は密かに思う。 盗まれた人は、キングス・カレッジで過ごした27ヶ月が不幸だったと思われているが、多様で活気に満ち、実り多いものだったようである。 そして、DNAの研究から離れた後、新規にタバコモザイクウィルス(TMV)研究に打ち込んで、死ぬまで研究を続け、傑出した成果を上げ、さわやかに生きてこの世の短い命を終えた。 そして、研究者としての才能だけではなく、研究のまとめ役としての才能も、「彼女が回りに集めた小さな献身的な研究チームが証人である」と賞賛されたのは、ワトソンの誹謗とは真反対の評価である。 彼女の人生は科学研究に一意専心に身を捧げた見本である。 ロザリンド・フランクリンの墓碑銘:科学者。 しかし、嘲笑の的となり変更を余儀なくされた。 また、出版前に、クリック、ウィルキンス、有名なライナス・ポーリングなど、実に大勢の人々がこの本に強い拒否・怒りを表明した。 それで、ハーバード大学監査委員会は本の出版を却下したが、他の出版社から出版された。 );*2 オリーブ・BFP「ユダヤ人ノーベル賞受賞者たち」7月号、「逆風の中を美しく生きたユダヤ人女性科学者たち」10月号;*3 1953年3月7日、ウィルキンスからクリックへの手紙より;*4 多少専門的になるが、DNAにはA型とB型があり、最初にB型のらせん構造の証拠を得た後、A型についても証明された。 *5 オングストローム:長さの単位。 10 最近の記事• 1 安藤和子の紹介• Comment• Search Feed• Mobile.

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二重らせん

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ジェームズ・デューイ・ワトソンはシカゴに生まれました。 子どもの頃から、彼は明晰で探求心旺盛でした。 彼はそのお金で野鳥観察(彼と彼の父親の真剣な趣味)のために双眼鏡を買いました。 ワトソンは、優れた若者のためのプログラムによって、15歳でに入学しました。 彼は、生物学や動物学のような興味のあるコースでの成績は優秀でしたが、他のコースではそれほどでもありませんでした。 彼は大学院に進んで、自然史博物館で鳥類学の学芸員になるために勉強しようと決心しました。 彼は遺伝子と染色体が生命の秘密を握っているという考えに魅了されました。 で、バクテリオファージの研究の先駆者である、の元で、博士課程に進むことになった時、ワトソンは、これらの問題のいくつかについて研究するのに、この上なく良い機会だと思いました。 1950年に博士号を取得した後、ワトソンはヨーロッパで時を過ごしました。 まず、コペンハーゲン、それから、の で、です。 その頃にはもう、ワトソンはDNAが生命を理解する鍵であると知っていて、彼はその構造を解くことを固く決心していました。 DNAの構造に興味のあった博士課程の学生のと研究室が一緒だったのは、彼にとって幸運でした。 2人は他のプロジェクトを担当すると思われていましたが、1953年に、彼らはDNAの最初の正確なモデル : まれに見る偉大な科学の進歩のひとつを作り上げました。 1962年に、ワトソンはフランシス・クリックと、ロザリンド・フランクリンと共に構造決定の元になったデータを提供した、モーリス・ウィルキンスと一緒にを受賞しました。 ワトソンは、1968年に出版された 二重らせん:DNAの構造を発見した科学者の記録を執筆しました。 この本は科学者の世界の内部事情を雑談するように説明したもので、その類の本として初めてのもので、決して絶版になることはありませんでした。 1956年に、ワトソンはの生物学部に職を得て、RNAとその遺伝情報の伝達に果たす役割に焦点を絞り、研究しました。 ワトソンは1976年までハーバードの教授を続けましたが、1968年からはの所長職を引き継ぎました。 ワトソンは長らく、コールド・スプリング・ハーバー研究所に関わってきました。 ワトソンはコールド・スプリング・ハーバー研究所を、がん、神経生物学、基礎分子遺伝学の世界有数の研究施設にしました。 ワトソンは2004年にコールド・スプリング・ハーバー研究所を定年退職し、今は名誉総裁です。 ワトソンは、がんとの戦いから、組換えDNAの使用についての論争、ヒトゲノムプロジェクトの推進に至るまで、科学政策の構築に重要な役割を果たしました。 1988年から1992年まで、彼はコールド・スプリング・ハーバー研究所で指揮を執りながら、 で、を進めました。 彼の主要な関心のひとつは教育です。 彼の最初の教科書、 遺伝子の分子生物学は、生物学の教科書の新しい標準となり、 細胞の分子生物学と 組換えDNAがそれに続きました。 彼は、マルチメディアを利用した教育の方法と、コールド・スプリング・ハーバー研究所の教育部門であるで展開しているプロジェクトを通したWEBの可能性を積極的に探っています。 彼は、このDNA入門プロジェクトの主要な推進者のひとりで、今でもそうなのです。 ワトソンは多くの人から、明晰な、歯に衣を着せない、変わり者といわれていました。 彼は知的な人たちから活力を与えられ、愚か者に寛容ではなかったのです。 彼は熱心なテニスプレーヤーで、大学院時代からずっとそうでした。 いまだに毎日テニスをしようとしています。

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概説 [ ] 二重らせん構造は、1953年、分子模型を構築する手法を用いてとによって提唱された。 当時、DNAが遺伝物質であることの証拠は既に発表されていた。 例えば、らによるの実験(1944年)やらによるブレンダー実験(いわゆる、1952年)からの証拠である。 しかし、複雑な遺伝情報を単純な物質である DNA が担っているという考えには批判も多く、こそが遺伝物質であろうという意見も強かった。 二重らせんモデルの提唱によって、がDNAの複製によって起こることやが遺伝情報を担っていることが見事に説明できるようになり、その後のの発展にも決定的な影響を与えた。 1962年、この研究により、ワトソンとクリックはとともにを受賞した。 二重らせんの主要な特徴 [ ] DNA二重らせんのいくつかの特徴を示す模式図 二重らせんモデルでは、以下の7つの特徴が強調されている(なお、以下の特徴はB型DNAのものである)。 二重らせんは2本の鎖から成る。 2本のポリヌクレオチドはそれぞれ方向が逆である(反平行である)。 二重らせんは、である。 は二重らせんの内部に、リン酸基をもつバックボーンは外側に配向している。 一対の塩基は相補的な関係にあり、によって結ばれている。 二重らせんは約10塩基対で一回転する。 二重らせんには、主溝(major groove)と副溝(minor groove)がある。 の特徴を証明することに最も困難があったと言われている。 の研究で有名なもDNAの立体構造について研究し、ワトソンとクリックの論文の数か月前にモデルを提案している。 後にDNA密度測定により二重らせんが正しいことが証明された。 の特徴は反平行の二本鎖DNAのみが二重らせんを構築できることを説明している。 の5'側の配列を上流、3'側の配列を下流とする。 の特徴には、左巻きのZ型DNAという例外が知られている。 の特徴はプリン、ピリミジン環が内部であると同時に-に関しては外部に配向していることを説明している。 なおプリン、ピリミジン環はらせん軸に対してほぼ直角に傾いている。 の特徴はによって提案された塩基存在比の法則()をうまく説明することができた。 後に Adenine と Thymine の間に2本の、 Guanine と Cytosine の間に3本の水素結合が存在することが示された 詳しくは。 一般に、この相補的塩基対は発見者の名前にちなみワトソン・クリック塩基対と呼ばれている。 の特徴は二重らせんは完全に規則正しいらせんを描いているわけではないことをあらわしている。 塩基の積み重なりと糖ーリン酸骨格のねじれの関係上、完全に規則正しい二重らせんから鎖がずれ、らせんには幅が異なる2種類の溝が存在する。 大きなほうを主溝、小さなほうを副溝という。 多くのは、主溝からアクセスすることによって特異的な塩基配列を認識する。 様々な二重らせん構造 [ ] 左から、A-DNA、B-DNA、Z-DNAの構造 DNAは異なる形状の二重らせん構造をとることが知られている。 例えば、DNAの周囲に存在する水分子を減らすことによって、塩基の位置が変化することにより立体構造が変わってくる。 現在、A-、B-、C-、D-、E-、Z-の6つが見つかっているが、中でも重要なものはA-DNA、B-DNA、Z-DNAである。 、1回転あたり塩基数11、塩基対間距離2. B-DNA 、1回転あたり塩基数10、塩基対間距離3. 生体内では最も一般的な構造は、このB-DNA である。 、1回転あたり塩基数12、塩基対間距離3. 二重らせんモデルの歴史的背景 [ ] ワトソンとクリックがDNAの二重らせん構造にたどりつく背景には、2つの重要な研究があった。 第一は、による『DNAの塩基存在比の法則』である。 彼が明らかにしたのは、DNA中に含まれると、との量比がそれぞれ等しいという至極単純な法則である。 しかし、ワトソンとクリックの仕事以前にはこの法則をうまく説明できるような着想は存在しなかった。 第二は、モーリス・ウィルキンスとによる『』である。 X線結晶構造解析は、1912年のによる現象の発見以降主として低分子の物質の構造解析に使用されてきたが、やがて高分子の結晶化が可能となり生体分子の解析にも応用されるようになった。 例えば、のようなのについては早くに立体構造が判明していたが、の決定は1958年のらによるのを待たなければならなかった。 二重らせんモデル構築の参考となった写真はフランクリンが撮影したものである。 彼女自身は、その写真もとにして『DNAは2、3あるいは4本の鎖からなるらせん構造をとっているだろう』というレポートを残している。 当時のフランクリンとワトソン、クリックの研究環境と人間模様については数多くの出版物に描かれている。 フランクリンの研究の公表が遅れた理由のひとつとして、B型以外にも取りうる構造(A型)があることを発見したため、その両方を比較解析したうえで公表することを意図していたとされている。 ワトソンとクリックが提案した二重らせん構造は、B型のモデルのみであった。 なお、ワトソンとクリックがX線結晶構造解析を行ったと誤解されることも多いが、彼ら自身は構造解析を行っていない。 彼らは、当時入手可能であった多くのデータをすべて満足させるモデルを構築することによって歴史に名を刻むこととなったのである。 脚注 [ ]• Watson, J. ; Crick, F. 1953. Nature 171 4356 : 737—738. Leslie AG, Arnott S, Chandrasekaran R, Ratliff RL 1980. Mol. Biol. 143 1 : 49—72. 参考図書 [ ]• Watson 著(・ 訳)『二重らせん』、2012年。 Watson他 著( 訳)『DNA - 二重らせんの発見からヒトゲノム計画まで』講談社、2005年。 Judson 著( 訳)『分子生物学の夜明け - 生命の秘密に挑んだ人たち』東京化学同人、1982年。 Alberts他 著(中村桂子・監訳)『細胞の分子生物学 第6版』ニュートンプレス、2017年。 Alberts他 著(中村桂子・松原謙一 監訳)『Essential 細胞生物学 第4版』、2016年。 関連項目 [ ]•

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