韓国 の 歴史 悲惨 すぎ。 日本併合前の朝鮮の写真

慰安婦はただの売春婦!韓国人は嘘をつき歴史を歪めすぎだ!韓国人慰安婦の歌 韓国人はライダイハンについて学べ 海外の反応

韓国 の 歴史 悲惨 すぎ

朝鮮半島は、中国のバックアップを得た北朝鮮主導で統一されるんじゃないかなーと思ってます。 だって韓国、統一統一と叫んでますが、具体的な行動ぜんぜんおこしてませんし。 中国の支援を受けた北朝鮮が統一を唱える方が、よっぽど現実的です。 最近、韓国も中国や北朝鮮よりになってきてるし、あちらのグループに入るための日本バッシングもすごいことになってきてるし(内政の失策から国民の目を背ける目的もありますが)、統一宣言が出る日も近いんじゃないでしょうか。 だいたい、朝鮮半島は有史以来、ずーーーっと中国の属国のようなものだったのですよ。 第2次世界大戦から韓国は資本主義国で、長いあいだアメリカ陣営よりだと言われてきましたが、歴史的な背景というのは、たった50年100年で覆るものではないと思います。 朝鮮半島が、精神的にどれだけ中国に近いのかを、歴史的に見てみましょう。 【参考】 檀君神話 朝鮮半島の神話は「檀君神話」と呼ばれるものです。 太古の昔、桓因という天帝の庶子に 桓雄がいた。 天帝・桓雄は常に人間世界に深い関心をもっていたので、天符印三筒を与えて天降りさせ、人間世界を治めさせた。 部下3000人を率いた桓雄は、風伯、雨師、雲師をしたがえて穀・命・病・刑・善・悪をつかさどり、人間世界を治めさせた。 このとき 一匹の熊と 一匹の虎が洞窟で同居していて、「人間になりたい」とを懇願した。 桓雄は一把のヨモギと20個のニンニクを与えて、100日間日光を見ないように告げた。 熊は日光を避けること37日目に 熊女 (ウンニョ)になったが、虎は物忌みができず、人間になれなかった。 桓雄は人間に化身した熊女と結ばれ、 檀君王倹を産んだ。 檀君は1500年間も国を治め、周の武王が即位した己卯年に、箕子を朝鮮に封ずると、壇君はかくれて山神となった。 寿命が1908歳であった。 にんにくは当時朝鮮半島になかったので、1900年代に入ってから地方伝説をまとめた創作と言われています。 神話では「天帝の子である桓雄と、人間の女に変身した熊との間に生まれた子供が、朝鮮開祖の檀君である」とされていて、これはいわゆる獣祖伝説です。 獣祖伝説は「動物の不思議な力や生命力」を崇拝の対象とする内容がキモで、モンゴルのチンギスハンが「蒼き狼」を祖先としている例が典型的。 獣祖伝説を持つ民族は、たいてい祖先である動物を崇敬し、大切に扱っているものですが、現在の朝鮮半島には、熊に対する崇敬の念は特にありません。 この檀君神話の中では、熊も虎も、まったく崇敬の対象とは思えないどころかむしろ、明確に「人間より格下の存在」とされています。 なにしろ熊と虎が 「人間にしてくれ」と懇願するのですから。 獣神であっても、人と交わるために便宜上人間になることはあります。 しかし檀君神話においては、熊は最初から熊女に変身するまで、ずっと獣の熊で虎に至っては、人間にすらなっておりません。 檀君神話を知っている人は少なくないと思いますが、この内容から、熊や虎に対する崇拝の念がまったく感じられなかったのは、私だけではないでしょう。 この檀君神話について、私の仮説は以下のとおりです。 神話における天の国とは中国であり、桓因 天帝 とは即ち中国皇帝のことで、桓雄とはその臣下の一人ではないでしょうか。 桓雄を「庶子」と表現していることから、彼は皇帝の寵臣ではなく、むしろ化外の地 中華文明の及ばない僻地 であった朝鮮半島しか与えられない下級家臣か、高い位の人であっても左遷された家臣だったことを思わせます。 神話の中の天帝の庶子桓雄は、何不自由ない天の国に安住することを望まず、未開の人間の国に降臨することを強く望んだとされています。 華夷思想では、中国皇帝の教化の及ぶ範囲こそが「人間の国」であり、「中心の国」。 「天の国の住人の国から見た人間の国」とは、「中国から見た化外の地」のを表しているのでしょう。 これ以上の出世が期待できない中国で飼い殺しの人生を送るか、たとえ辺境の地であれ、一国の王として君臨するかの選択を迫られたとき、家臣「桓雄」は後者を選んだのではないでしょうか。 こう考えたとき、「風、雨、雲を司る三人の神」と「部下三千を率い」、「天符印三個」を持って朝鮮半島に降臨したというくだりからは、「桓雄」が天候や農業に詳しい知識人、そして一族と郎党を率いて、先進技術や農業器具を携えて未開の朝鮮半島に進出してきたことがうかがわれます。 桓雄率いる先進国・中国からやってきた入植者たちが、中国の最先端技術によって原野を開拓していくのを見た朝鮮半島の原住民には、桓雄が神のように見えたでしょう。 何しろ原住民は「穴ぐら」に住むような生活をしていたのです。 従来の解釈では、「熊」と「虎」をそれぞれ別の部族と解釈していますが、「同じ穴ぐらに住んでいた」とわざわざ述べられていることから、この二頭の獣(原住民)は違う部族とは思えません。 私はこの獣らは同部族で、「熊」を女性、「虎」を男性と考えています。 原住民たちは、ヨモギとニンニクだけという粗末な食物を与えられ「日に当たらず物忌みせよ」と桓雄に命じられます。 となると、原住民はあまり条件の良くない土地に押し込められたのではないでしょうか。 桓雄が武力を用いて侵略したのかどうかはわかりませんが、多少のいざこざはあったでしょう。 しかし文化の差はいちじるしく、原住民はあっさりと武力で制圧されます。 支配民族と被支配民族との関係においては、男子は根絶されますが女子は残され、支配民族と混血するのが歴史の常。 檀君神話は、支配民族と被支配民族との関係を投影したものではないかというのが、私の解釈です。 ペ・ヨンジュン主演の『大王四神記』です。 箕子朝鮮 ?~紀元前194年 もっと言えば、檀君神話にも登場する箕子こそが「桓雄」なのではないでしょうか。 箕子は、中国の王族の出身であり賢者でしたが、甥である殷の紂王に迫害され、狂者のふりをして逃れたといいます。 殷の滅亡後、周の武王は箕子を朝鮮に封じ、「朝鮮侯箕子」としています。 スポンサーリンク 衛氏朝鮮 紀元前195?~紀元後108年 衛氏朝鮮は、中国の春秋戦国時代の「燕」という小国に出自を持つ、中国人亡命者である衛満が建国した国です。 それはさておき、この衛氏朝鮮も同様に、中国人の貴種による亡命政権でした。 檀君神話と同じようなことが繰り返されたのでしょう、いえ春秋戦国時代を戦い抜いた燕国の軍隊が逃げてきたのですから、もっと血なまぐさいことになっていたかもしれません。 余談ですが、燕国の滅亡によってほぼ中国が統一され、秦王政は始皇帝となるため、ここで大人気漫画『キングダム』のラストを飾るのではないかと考えてます 笑。 ラスボスは燕に亡命した桓騎説を支持しています。 楽浪郡時代 紀元前108~紀元後313 秦を滅ぼした漢が設置した、朝鮮半島北部における出先機関で、他にも真番郡、臨屯郡、玄菟郡がありました。 箕子朝鮮と衛氏朝鮮の遺民は、半島の南部に押しやられます。 前三国時代 紀元前108頃~4世紀半ば 南方に追いやられた先住民族は南下し、馬韓、弁韓、辰韓の3国に分裂します。 朝鮮半島の北半分を占める楽浪郡から中国の文化を受容しつつ、南半分を分割統治していた三韓が、国家としての体裁を整えていく時代です。 三国時代 4世紀半ば~668 楽浪郡のかわりに高句麗が台頭し、馬韓、弁韓、辰韓はそれぞれ百済、伽耶、新羅になりました。 伽耶国はまもなく百済に吸収されて消滅し、この時代の三国時代とは、高句麗、百済、新羅を指します。 百済、高句麗、新羅の三国が朝鮮半島の覇権を争っていたこの時代、もっとも弱小だった新羅は、唐と連合して百済を破り、半島で最も強大だった高句麗さえ滅ぼしました。 その後の新羅は朝鮮半島は統一したものの、しかし唐の圧力に屈し、実質的な属国状態となります。 なお、現代の韓国では、白村江の戦いで日本軍を撃退した、第19代高句麗王の好太王が大人気です。 統一新羅 676~935 7世紀の新羅は、武力を増した高句麗と、伽耶を併合した百済からの圧迫により疲弊していました。 追い詰められた新羅は唐の支援を求め王族の金春秋を高句麗や日本に派遣したものの、成果はありません。 しかしその後の648年、唐に派遣された金春秋は太宗の厚遇を受け、新羅の支援を得て同盟関係を結ぶことに成功。 息子を人質として唐に残して帰国し、唐の恭順を示すため、650年からは新羅独自の年号を廃止し、 唐の元号を使用しました。 金春秋(のちの武烈王)は唐の冊封を受け、新羅王となって百済と高句麗を滅ぼし、半島を統一するかわりに、これを前例として以降の朝鮮半島の国家は、すべて中国皇帝の冊封下に入ることになります。 冊封とは、中国の周辺国の王様が、中国皇帝に貢ぎ物(税金)を贈り、皇帝の名の下にその国の王様であるとお墨付きをもらうこと。 中国皇帝の家臣として皇帝の保護下に入れば、皇帝の権威を後ろ盾にして、国内で王としての権力をふるえます。 そうすれば大国・中国に攻められる心配がなく、もし他国が攻めて来ても、皇帝の名の下に調停してもらえるし、それでも戦争になったら援軍を送ってもらえるのです。 中国にとっては僻地までインフラ整備の土木工事や軍隊を駐屯させる費用を節約しつつ『お前は俺の子分だ』と言っておけば、小国が珍しい貢ぎ物や美女を、税金がわりに納めてくれます。 そのかわり、貢ぎ物をしっかり送ってたくさんアゲアゲして皇帝の機嫌を取らないと王様になれません。 相続争いで弟が皇帝にたくさんの賄賂を贈り、王位に就けなかった皇太子もいっぱいいるのです。 日本古代史に出てくる卑弥呼も、中国の冊封下に入りました。 現代まで続く、中国冊封体制の基礎を作った人です。 高麗 918~1392 高麗はすごかった。 1259年にユーラシア大陸を征服したモンゴル民族の国・元が年に高麗を征服して以後、高麗王室は忠烈王が世子時代 即位前 には元国に人質として滞在することになります。 さらには高麗国王になるため帰国して即位すると、元国の王女の降嫁を受けることが習慣となりました。 何世代も元国王女を正妃として迎えたため、高麗後期には、高麗国はほとんどモンゴル民族になってしまったのです。 漢民族と違ってモンゴル民族は、朝鮮半島国家の内部に直接干渉してきました。 高麗は、事実上モンゴル帝国内の「封建領主の一人」となってしまったのです。 何巻かは忘れましたがこの中に、高麗の皇太子の描写が出てくるのですが、中国(元)に対するへりくだりぶりがものすごいです。 モンゴル語をペラペラに操り、服装も髪型もモンゴル風にし、身も心もすっかり「モンゴル人」になってしまった世子(王太子)が出てきます。 高麗のモンゴル化に反対していた自分の父親でさえ殺害し、フビライハンの王女を娶るまで気に入られますが、「私の隣に座れるにふさわしい男になりなさい」とまで言われ、その王女に隣に座らせてもらえません。 高麗王は元の王女より格下だったのです。 高麗は極端ではありますが、冊封体制とはこういうことなんですね。 モンゴル民族は、忠誠を誓った異民族にはたしかに寛容でしたが、いったいどういうドラマがあったんだろう……。 スポンサーリンク 李氏朝鮮 1392~1910 韓国ドラマの舞台として多く取り上げられているのが李氏朝鮮時代。 ドラマの中のフィクションは華やかですが、この時代の特色で有名なのが『両班 リャンパン 』という、王族以外の身分階級の最上位に位置していた貴族階級層。 しかし、500年ものあいだ、中国の冊封体制下にあったことはずっと変わりません。 事大主義(強い勢力に付き従うという考え)の影響で、中国にさえ頭を低くしていれば外圧は回避され、自分たちの身の安全は保証されています。 王族や両班たちの関心は自分たちの財産の蓄積にのみ向かい、身分・序列を厳しく守る儒教の教えをタテにひたすら 私権闘争に奔走、「民を大切にする」という気持ちを失っていきました。 身分が低い階層を徹底的に弾圧する両班と、餓死していく国民を放置しておく国王。 ロシア大蔵省が調査した朝鮮の資料を、日本の農商務省山林局が抄訳した「韓国誌」に次のように紹介されています。 両班は富裕な商人や職人を拉致監禁して身代金を要求する。 多少なりとも恥を知る両班であれば、借用という名目で金を巻き上げるが、それが返済されたためしはないので、誰もそれを信じない。 参考:『李朝社会の特権階層』(中公新書)より 普通の国だったら庶民を守るべき特権階級が、自国民の財産を収奪するのが日常風景だったということです。 カナダ人ジャーナリストのマッケンジーは、著書『朝鮮の悲劇』でこう書いています。 私は、十分に耕せそうな土地をほったらかしにしていながらも、飢えに苦しむ農民のさまが理解できなかった。 『どうしてそれらの土地を耕さないのか?』と聞いたところ、『耕せば耕すほど、税をとられるだけのことだ』という返事があった。 要するに李朝末期の朝鮮の状態は、一般民衆にとっては最悪だったということです。 儒教では君子は何もしないで本を読んでいるのが理想とされていましたから、職人は軽蔑される存在、これでは技術は発達せず技術者の養成もできず産業が成り立ちません。 両班は働かないどころかキセルですら自分で持たないし、水で顔を洗う時も腰をかがめず天をあおいで顔に水をかけていたなど、呆れるくらい徹底して何もしないのが「カッコイイ」という価値観。 国の半分の人口が、何もしないで食べているのですから。 李氏朝鮮末期の民衆は、泥と糞尿にまみれ、異臭の充満する不潔な環境で、絶対権力者から理不尽な虐待と搾取を受けるのみの生活を営むだけというありさま。 この事態を招いた原因は、儒教思想による身分制度の絶対性からくる、「民への慈悲の欠如」だったのです。 長くこのような時代が続き、民は未来への可能性を見い出せず、賄賂や身分詐称が横行しモラルも下がり、全ての気力を失っていきました。 身分違いの男女が苦難の末に結ばれる物語ですが、ヒロインの春香は身分の低い妓生階級出身だったため、いくら愛し合っていても確か正妻にはなれなかったはず^^;。 大韓帝国 1897~1909 1897年、日清戦争において日本が勝利した結果、下関条約により、朝鮮は日本の後押しで清の冊封体制から離脱しました。 これは日本の国防における視点から、ロシアの驚異から日本を守るためには朝鮮半島を独立させなければならない、という伊藤博史の優れた判断によるものでした。 国名を大韓帝国と改め、実に2000年の中国の影響下から抜け出し、日本の保護国となりました。 日本統治時代 1910~45 しかし、韓国統監府初代統監・伊藤博史の安重根による暗殺をきっかけに大韓民国は日本に併合されます。 しかし朝鮮民族にとっては、今まで中国に事大してきたのと同様に、日本に事大しただけです。 李朝末期の王族や両班による理不尽な虐待やあらゆる搾取が、日本の役人によって取り締まられるようになりました。 私たち「日本人的感覚」では、民の不幸の要素のいくつかを、多少は取り除くことができたと考えます。 しかし、現実の韓国人は、全くそうは思っておりません。 連合軍管轄期 1945~48 日本が太平洋戦争に負けたため、今度は連合国軍の管轄下に入ります。 北緯38度線以北をソビエト連邦軍が、同以南をアメリカ軍が管轄することに決定。 1948年には、朝鮮民族の分断国家である大韓民国(韓国)と、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)がそれぞれ樹立しました。 もちろん北はソビエト、南はアメリカの、それぞれ傀儡政権です。 大韓民国 1948~ 1950年には、この南北両国間で生じた、朝鮮半島の主権を巡る国際紛争「朝鮮戦争」が勃発。 1953年に板門店で休戦協定が調印、38度線で軍事境界線(DMZ)確定し、現在に至ります(休戦しただけで終了したわけではないんですよね)。 その後の大韓民国については、こちらをどうぞ。 かなり危なっかしいです^^;。 中国は、本心はずーっと昔から、朝鮮半島を自国の領土だと考えています。 現代においても朝鮮半島を自国領土と国際的に認めさせるには、北朝鮮と韓国それぞれを自国に組み入れるような強硬手段をとるよりも、北朝鮮をバックアップして半島を統一させてから朝鮮半島を吸収すれば、手間やコストは一度ですみます。 また、かなりの経済力を持った韓国を懐柔するのは、現在の中国の経済力でも少々困難ですが、北朝鮮なら懐柔するのは簡単です。 そして北朝鮮が中国と地続きというのも、中国にとっては大きな利点。 朝鮮に限らず半島というのは地形的に陸からも海からも攻めやすく、独立国家を維持するなら、陸軍と海軍をしっかり育てないとなりません。 しかし、石油でもガンガン出るのなら別ですが、半島国家が単独でそれをやるには負担が大きすぎます、大国の庇護下にあるのが一番コストがかからないのです。 特段資源が豊富な土地でもないため、朝鮮半島は長らく中国が気まぐれに収奪できるおもちゃだったのです。 それでも朝鮮半島的には中国に恭順しておくのが、いちばんコストのかからない平和の道でした。 朝鮮半島の処世術は、その地政学的な条件から、どこか力のある国の影響下にあることが一番安定します。 日本の国力は当分回復しないため、現在経済力がどんどん強くなっている中国に事大するのが、自然な成り行きではないでしょうか。 【参考】 スポンサーリンク スポンサーリンク.

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朝鮮半島の悲惨な歴史の真実をわかりやすく解説 中国2000年日本50年

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アマゾンで調べていて、意外と朝鮮の歴史を扱った本が少ないのに驚きました。 高校の時に世界史を習った気がしますが、朝鮮の知識は今ではすっぽりと抜け落ちてしまっています。 日本人と、顔は似ているかもしれませんが、中身はまったくの別です。 がかなりの割合で信仰されている時点で思想にかなりの違いがあることがわかります。 肌の色が同じだからと言って考え方まで一緒とは限りません。 などの問題も、お互いの外見がはっきりと違っていたら、考え方の違いもはっきりと認識でき、お互いにとってもうちょっと幸せな関係になれたかもしれません。 著者は1000年前の朝鮮を考えれば、現代のの考え方がわかると説明しています。 韓国の歴史はあまり恵まれているとは言えません。 陸続きで超大国だった中国があっとが大きな影響を与えています。 中国にもモンゴルにも支配されていた時期もあるようです。 もしも朝鮮がまるっきり中国の一部だったら…という妄想をするのは頭の中だけにしておきます。 朝鮮の歴史を通じて、大陸とはを隔てて存在していた日本がどれだけ恵まれていたかがわかります。 ではないと冒頭にありますが、悲惨な内容だけを集めている時点で、この本がどういった内容なのかわかると思います。 ではないかもしれませんが正確な意味でのではありません。 朝鮮の歴史の中から、悲惨な事例を集めた本です。 悲惨な事例を分析して、朝鮮の思想をあぶりだそうとしています。 著者曰く、沈没で逃げた船長や問題も高麗やの歴史を見るとそこに源流があるそうです。 高麗(や)では、敵軍が侵入した時に、何度か国王が王宮や首都の住民を捨ててなりふり構わず、逃げ出した。 国王だけでなく、前線の将軍も勝手に逃げ出している。 このような事象の比較を通して、1000年もの長き間、一貫して流れている朝鮮の根源的な価値観や倫理観がくっきりと浮き上がってくることが分かる。 最後まで読むと嫌というほど、情けない歴史が紹介されています。 もちろん悲惨な情けない事例だけを集めているわけですから偏っています。 韓国の人たちに高麗の歴史は人気がないそうですが、歴史を学べば確かにそうかもしれません。 モンゴルのに置かれたモンゴルの血が入った辮髪の王族。 韓流のドラマではちょっと扱われないかもしれません。 韓流のドラマを見とはありませんが。 読んでいて非常に驚いとがある。 それは、高麗史と高麗史節要の両方に1334年の記事が全く見当たらないことだ。 さらにこの前後の年の記事もかなり欠けている。 この点については、何冊か読んだ朝鮮の通史の本にも全く出てこなかった。 具体的には、前年(1333年)7月から翌年(1335年)の4月まで記事が全く見当たらないのだ。 1333年の記事も極めて短い。 理由は分からないが、推測するに次のようなことではないかと考えられる。 この嘆願書を読むと、高麗の民がいかに悲惨な目に遭わされていたかということが切々と伝わってくる。 ひょっとして、その前年(1334年)にも酷い探しがあったのではないかと推測される。 つまり、記事内容があまりにも惨め過ぎて、の史官たちが書き写すに忍びなかったので、ばっさり削除したのではないかと想像される。 この辺りの事情を考えてみると、よく言われるように高麗史、高麗史節要の編纂のあとで元資料を湮滅した、という理由が朧げながら浮かんでくる。 私がいちばん興味深かったのがここです。 この1334年の空白については、ネットでちょこっと調べても特に何も出てきませんでした。 日本でもドリルでHDDを破壊したり、のビデオを公開しなかったり、都合の悪い情報をもみ消すことはよくあることですが、一年間にわたって情報が欠落しているのはよっぽどです。 捏造の源流が表れています、とは言う気はありませんが、もし仮に著者の推測通りに元に人さらいをされていたとしたら、朝鮮の人たちは見たくなかった現実を直視できなかったのかもしれません。 一旦権力の座から落ちたものは、過去の罪が容赦なく暴かれ、とことん弾劾されるのが朝鮮の伝統でもある。 最近の例で言えば、時に日本政府に協力したは戦後、反民族の元凶としてやり玉に挙がっただけでなく、死亡後80 年たった2005年に反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法で、子孫の土地が国家に没収された。 日本のように、死んでしまえばたとえ極悪人であろうとも、生前の悪行がほとんどの場合、帳消しにされて、供養の対象とされるのとは大違いだ。 のも消されました。 韓国の歴代大統領も権力の座から落ちたらかなりの割合で糾弾されています。 朝鮮にとってはこれらは普通のことなのかもしれません。 戦争中ならわかる気もしますが、今はもう21世紀です。 と、書いてからはまだ終わっていなかっとに気付きました。 結局のところ、朝鮮の王朝は高麗に限らず、上および軍事的に小国故に、止むを得ず強国に対外追従せざるを得ない、悲しい運命にあったと言える。 結局、朝鮮の歴史はこの一言に尽きると思います。 それでも、悲しい運命だったのは何十年か昔のこと。 今は鮮の統一が朝鮮の悲願だとは思いますが…はアメリカにやられることを恐れて核開発をしているのだと思いますが、南北で統一されたら攻撃される理由もなくなるはず…? それなのに、それ以上に、海の名前や像やミサイルの発射に熱心なのはなぜなのか?未だに私にはわかりません。

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韓国の古代史まで含めた歴史捏造を放置するな

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概説 [ ] では、などの発見から、数万年前から人が住んでいたと思われるが、現在のとの繋がりは明らかでない。 約10万年前のから8000年頃まで現在より海面が130mほども低かったため、の大部分は陸地であったが、紀元前4000年ころにかけてのにより当時の沿岸部は海中に没している。 最終氷期にとは対馬海峡で短期間漂砂によって陸橋が形成され繋がっていた可能性を指摘する研究がある。 によると、紀元前1万年以前の旧石器時代の遺跡は50か所程度しか発見されておらず 、紀元前1万年から前5000年までの5千年間はの年表では空白となっており、ほとんど遺跡が発見されていない。 名誉館長のの見解として、「1969年から1971年にかけて、東三洞貝塚での櫛目文土器の下層から、尖底・円低無文土器や平低流線文土器が発見され、先櫛目文土器と名付けられた。 これらの土器は、東三洞の他、や貝塚などからも発見されており、最古の土器文化が広い地域にまたがっていたことが推測される。 それらの中に含まれていたが、日本の遺跡やなどから発見される豆粒文土器と類似している」と長浜浩明は紹介している。 また長浜は、東三洞の対岸にあるのからは7000年前のが発掘されており、そこを経由して半島へ移り住んでいったことが想像され、縄文人が7000年前から無人の朝鮮半島へ渡り、半島北部まで進出していたと述べている。 さらに長浜は、朝鮮半島南部の貝塚から発見された古人骨(紀元前4000年)は縄文人の特徴と多くの点で一致しており 、韓国人とは似ても似つかぬ形態であり、最初に半島に住み始めた人々は日本からやって来た縄文人だったという考古学からの推論が、形態人類学によって裏付けられた、と述べており 、また、朝鮮半島南部のから弥生時代中期(紀元前100年)と推定される73基に及ぶ墓が見つかり、墓や北部九州のの出土、骨格の特徴や抜歯風習などから西北九州と密接な関係を示唆している ので、北部九州からやってきた人々か、その子孫が住んでいた遺跡であると述べている。 同様に、監修、、、編集の『韓国の歴史』によると、旧石器時代人は現在の韓(朝鮮)民族の直接の先祖ではなく、直接の先祖は紀元前約2000年前の新石器時代人からと推定されている。 頃にが出現する。 櫛目文土器の最古のものは地域の(紀元前6200年-紀元前5400年)の遺跡で発見されている ことから、の担い手である()が朝鮮に櫛目文土器をもたらしたことが考えられる。 朝鮮民族にはハプログループN Y染色体 が一定数見られることから、朝鮮民族の基層にウラル系民族がある可能性が考えられる。 (紀元前4000年頃から南部・西部で陸でのが始まったとする主張もあるが、証拠となる物は見つかっていない。 )一方で、長浜は、櫛目文土器は九州の(縄文前期)そのものであると述べている。 東三洞貝塚は3つの文化層からなり、最下層の1期層からは、隆起文・押引文・無文土器や磨製石器が、2期層からは櫛目文土器や黒曜石が、3期層からは無文平底土器が発掘されており、櫛目文土器にまじって九州の縄文土器片や、西北九州型の釣針・黒曜石が出している。 東三洞貝塚で大量の縄文土器と九州産が出土しており、縄文人がやってきた確かな証拠といえる。 朝鮮半島では銛や鏃に最適な黒曜石が産出されない。 紀元前1500年頃からが出現し同時にが多数建造されるようになる。 これに先駆けてから紀元前1500年頃、朝鮮半島より北方の流域から北朝鮮にかけてので、支石墓、無文土器や大規模な住居が出現しており、これらが北方から流入した可能性を示唆している。 には、紀元前1000年から前300年の朝鮮半島の様子が「蓋国は鉅燕の南にあり、それは倭の北であり、また倭は燕に属している」とあり、燕は遼東半島から南満洲辺りを指し、その南の蓋国とは辺りと考えられ、今の辺りは縄文人の子孫であるが住んでいた。 紀元前500年頃からが開始される。 水稲の栽培は中国から北方周りの陸伝いではなく、海を越えて半島南西部にもたらされたというのが定説となっている。 この水稲文化をもたらしたのはの集団と考える学者がいる。 朝鮮半島において文献に登場する最初の国家は伝説的なであり、その後が成立したと伝わる。 衛氏朝鮮は頃に人のがの王・を追い出して建国したという。 衛氏朝鮮は三代の時、漢の武帝に滅ぼされ、領地は・・・のとして400年間直轄支配(ともいわれる )されたが、移転や廃止により最後は楽浪郡のみが残った。 中頃に、の付近で興ったが南下して楽浪郡北部を征服、も楽浪郡や帯方郡の一部を征服するが、4世紀末までには高句麗が朝鮮半島北部を制圧し、南西部には、南東部にはが割拠した。 中国の史書による記録では、高句麗はと類似した言語を話したという。 高句麗は4世紀のの代に、南北に領土を拡大し最盛期を迎える。 その領土は満州南部から朝鮮半島北部にわたった。 なお、高句麗史をどのような枠組みで捉えるかについては議論がある()。 百済は漢城(漢山城、現:)を都としていたが、475年、高句麗の攻撃により落城し、に遷都した。 また、高句麗とその属国である新羅に対抗するため、倭国に人質を出して和通し、儒教や仏教を倭国へ伝えた。 南端部には諸小国の雑居する(加羅、)があり、その勢力争いにはも影響を及ぼした (旧説では「支配下」にあったとする )。 近郊の群はからに築かれたの庶民層の集団墓地であるが、北部九州や山口地方のやに近いという結果が得られた。 伽耶では特定の国(・など)が主導する形になったと言われているが、全域を統合する勢力は構築されなかった。 後に伽耶諸国は西側が百済に併合され東部も新羅により滅ぼされた。 朝鮮半島には中国大陸からの移住者が数多くあったことが古い史書に記録されており、「などの蜂起、天下の叛秦、・・の民が数万口で、朝鮮に逃避した。 (魏志東夷伝)」「はの東において、その耆老の伝世では、古くの亡人がを避けるとき、馬韓がその東界の地を彼らに割いたと自言していた。 (同前)」などと、秦や六国からの居住者が建国したように、中国人や北方異民族の移住があり、新羅自身も『』等に記載された伝説的な4代目の王()が倭国の北東 の伝説的な国に系譜をもつとされる王であるなど、周辺諸地域との密接な関わりがあった。 7世紀、新羅は唐と同盟を結び百済・高句麗を相次いで滅ぼし、朝鮮半島の大部分を統一した。 しかし、唐は旧高句麗の地に安東都護府を設置するなど、朝鮮半島を統治下に置こうとする。 そこで、高句麗復興支援を掲げた文武王の下、新羅軍の支援を受けた高句麗軍が唐軍を攻撃して、唐・新羅戦争が開戦する。 この戦いにおいて新羅軍は唐に圧勝し、唐を朝鮮半島から撤退させるも、高句麗遺民はツングース系とも言われる靺鞨とともに、大祚栄が建国した渤海国に合流していった。 唐を朝鮮半島から撤退させた時、唐の高宗に一時冊封を取り消された文武王は、謝罪使を派遣し、冊封は復活となった。 10世紀に新羅は地方勢力が自立して後高句麗・後百済を立てて後三国時代を迎えるが、やがて新しく興って後高句麗を滅ぼした高麗が勢力を持ち、新羅を滅ぼして統一を成し遂げ、鴨緑江南岸と豆満江付近まで勢力を広げた。 高麗はに()の侵攻を受け支配下に入った。 元の衰亡とともに失った独立と北方領土を回復したが、に元が北へ逃げると親を掲げるともいわれる が建国した(朝鮮王朝)が朝鮮半島を制圧し明に朝貢した。 李氏朝鮮の全盛期には、族に対する侵略がたびたび行われた。 遂には当時半島北部に勢力を持っていたの大酋が戦死し、建州女真は李朝の支配下に入った。 朝鮮は4代国王、の時、黄金期を迎える。 世宗は(:朝鮮語の文字)の制定、史書の編纂、儒学の振興などのほか、農業の奨励、対外的には倭館の設置、との戦争などで領土を拡張した。 科学の振興も図られた。 などを重用し、天文観測機構の設置や、機器(、)の製作、時間を表す、などを製作するなど、画期的な成果を挙げ、朝鮮の基礎を固めた。 にの侵攻を受け一時国土の大半を征服されるが、明の救援との活躍と秀吉の死去により国土を回復した。 には族が建てたの侵攻を受け、衆寡敵せずを築くなどの屈辱的な条件で降伏して冊封体制・羈縻支配下に入った。 に22代国王のが即位する。 正祖は即位初期には 重用し、当時、弱まり続けていた王権を掌握していく。 当時の政権はという一派が大きな権力を持っていて王権を上回るほどの実勢を握っていた。 正祖は王権を強化するため、政治の改革に着手し、を標榜する。 蕩平策は基本的に政治の人事がどこの政派にも偏らず、能力ある人物を登用することで、その裏には当時与党で、王権よりも強い政権をもっていた老論をけん制する狙いがあった。 蕩平策を通して、疎外されていた政派の者や中人、庶子とその子孫さえ抜擢し登用した。 蕩平策は老論をけん制する傍ら、政治的なバランスも崩れておらず、の治世を一貫する政策だった。 正祖の時期に、 世界遺産 の設計や建築に関わったや、、などが活躍した。 正祖は農業の整備や商業の振興、やを重用し、いわゆる朝鮮の復興期を導いたが、、正祖の死去と共に、改革の成果は消えていった。 半ばから欧米列強が来訪、開国を要求、そして日本、清、が朝鮮半島の権益をめぐって対立、後に結ばれた締結によって長きにわたる冊封体制から離脱し、に(朝鮮から国号を変更)として独立するも、をが暗殺し、に全土がにされた。 での日本の敗戦に伴い、によって朝鮮半島のほぼ中央を走るを境に南北にされ、その後に各々独立、南に、これに反抗する済州島はで鎮圧がなされ、北にはが建国された。 に北側からを目指してが起こるが、統一はならず現在も南北に2つの国家が並立しており、を如何に果たすかが両国間の課題となっている。 なお、李氏朝鮮末期から、、朝鮮戦争とその後の混乱期にかけて、様々な理由で清()、(後に)、日本など朝鮮半島外に相当数の人々が移住していき、在外韓国朝鮮社会が形成されていった。 先史時代・古朝鮮時代 [ ] 紀元前数世紀ころの朝鮮半島 考古学的考証のない事項はここに記す。 (神話) は上の人物。 『』に、『』からの引用(ただし、現存する『魏書』にはそのような記述は存在しない)として、の帝時代にに降臨した天神の子・桓雄と女の間に生まれた檀君が城で建国したと記されている。 (韓国)では檀君即位の年をB. 2333年とし、それから年を数える「」(檀紀)というも存在する。 近年(北朝鮮)では、製のを復元しているが、その的根拠は全くない。 韓国人の宗教上の崇拝対象である。 しかしながら、そもそも神という概念すら無かった事を鑑みれば、『魏書』に記述が存在していない事も頷ける。 長い歴史があったかのように近代になって創作したものと思われる。 (きしちょうせん、? - ) のを出自 とするのが建国したとされるの伝説的な古代国家。 韓氏朝鮮・奇氏朝鮮とも呼ぶ。 首都は王倹城(現在の)。 『』魏志書、『』などに具体的な記述がある。 現在の韓国では後世の創作として否定しているが、中国では実在したと考えられている。 『』『』および『 』には、建国当時の朝鮮はの子孫が代々朝鮮侯として治めていたが、後に朝鮮王を僭称するようになったこと、の代に至り亡命者衛満の手により王権を奪われたこと、箕準は残兵を率いて南方のの地を攻略し、そこで韓王となったという。 頃の東正アジア諸国と では、中国から朝鮮半島を経由して日本列島にいたる交易路ぞいに、華僑商人の寄港地が都市へと成長していく現象がみられた。 、は「朝鮮」(朝鮮半島北部)、真番(朝鮮半島南部)を「略属」させ、要地に砦を築いてを駐在させ、中国商人の権益を保護していた。 代はの保護下にあった。 秦末初の混乱の中、復活した燕国は官吏と駐屯軍を中部・南部(以南)から撤退させた。 紀元前197年、は燕国を大幅に縮小して遼東郡を直轄化したが、その際、燕人のがを南にこえ、仲間ともに中国人・元住民の連合政権を樹立した。 漢の遼東大守は皇帝の裁可をえてこの政権を承認し、が成立した。 (えいしちょうせん ? - ) 的に証明できるの最初の。 建国者から名乗って衛満朝鮮とも。 のを出自 とする亡命者であるが北部に建国した。 は三代の時のにのに滅ぼされた。 その故地には、、、のが置かれ、中国王朝はおよそ400年もの間、朝鮮半島中・西北部を統治した。 (BC108 - 2世紀中葉)• (・・) による国家。 東部都尉()• (・)• ただし、まで含むとする説もある。 (ワイ)()• (京畿道・・・・。 ただし、京畿道・忠清北道・忠清南道を含まないとする説もある。 (・) からのとする説もある。 古くは辰韓=秦韓と呼ばれ、の労役から逃亡してきた秦人の国という。 辰韓十二国があり、その中の斯蘆国が発展して、国家の態をなしたものが新羅と見られている。 (全羅南道・慶尚南道。 ただし、全羅南道を含まないとする説もある。 () 三国時代 [ ] 詳細は「」を参照• 433年• 612年• 642年• 644年• 660年 唐が百済を滅ぼす• 668年 唐が高句麗を滅ぼす• 670年 ・・の三国が並立。 はに百済を滅ぼし、には高句麗を滅ぼした。 唐は高句麗の故地にを設置、百済の故地にを設置する。 さらに、新羅をとして半島全域を藩属国からとしたため、一時的に朝鮮に国はなくなった。 しかしその後、新羅が唐の残留部隊を襲撃して唐の領土を掠めると、唐の支配地はにまで後退せざるを得なくなり、朝鮮半島では統一新羅が誕生する。 新羅がその後属国の立場を取ると、改めて唐からを許された。 ( - ) 伽耶諸国はその時々の状態から「六伽耶」「浦上八国」「任那十国」などという名でも記され、その領域の所有を巡って百済と新羅とが争ったが、最終的には6世紀中頃に新羅に吸収された。 伽耶諸国の呼称については、新羅においては伽耶・加耶という表記が用いられ、中国・百済・日本(倭)においては加羅あるいは任那と表記されることが多く、文には「任那加羅」という並列表記も見られる。 日本の学界ではかつてはという呼称が支配的であったが、1980年代後半からは「伽耶諸国」と呼ばれることが一般的となっている。 伽耶諸国の地域(半島南部)は史書 や碑文 の記録から日本()の強い影響力があったことは有力視されているが、その影響力の範囲を巡って多くの説が存在する。 宋書倭国伝では478年、倭王武が宋の順帝に上表文を奏上し「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王」に任命されたと記されており、倭が六国の諸軍事に少なくとも影響力を行使している状況を認めている。 詳細は・を参照。 ()( - ) 耽羅はにに服属し、百済が滅びた後はに服属した。 に高麗に服属した。 に「耽羅郡」で、「済州郡」に改称、ここで「耽羅国」としての歴史は途切れた。 ()( - ) 于山国は6世紀初めに新羅に服属した。 がを領土化するために設置した地方機関。 都督府制度は唐が周辺の国々を征伐した後、征服した国に都督府を設置する統治制度。 が設置し現在の北部からに相当する旧域の経営を目的に設置された地方機関。 が設置し、現在のに相当する旧域の経営を目的に設置された地方機関。 後半から半ばに、のものと同じが築造されており、日本の影響力が朝鮮半島に及んでいた重要な証拠とされている。 では、日本にしかない原石からつくられたをつけた装飾品が出土している。 また、新羅の金冠にも硬玉製勾玉が付けられており、新羅が当時、日本の後ろ盾により権威を得ていたことを示している。 統一新羅時代、或いは南北国時代 [ ] 詳細は「」を参照• が高麗を建国。 のを受ける。 の、高麗に国を譲渡し、滅亡。 を滅ぼし朝鮮半島統一。 の創設。 の侵入を撃退。 の再侵入。 の活躍により契丹軍を殲滅()。 の建設開始。 ( )。 に服属。 ( )。 以後が続く。 によるクーデター。 の始まり。 高麗の(のちの)がに降り、()の属国化。 は、大ハーンに即位したフビライのとなる。 これ以来、代々のの(世継ぎの太子)はモンゴル貴族や時には皇族の婿となって元朝の宮廷で暮らし、父の死後、高麗王に任命されるのが習慣となる。 4代の高麗王は皇族のとなる。 - 武人派の軍隊のモンゴルに対する反乱。 日本に対し軍事的援助を要請。 ・ の要請に応えた元の協力を得ての2度の日本侵攻(、)への侵略出兵により、逆に甚大な被害を受ける。 元のが常設され、元朝の領土化。 この頃よりに悩まされるようになる(「前期倭寇」〜15世紀前半)。 即位(〜1374年)。 恭愍王によるが始まる。 元軍が高麗から撤退(を回復)。 による改革政治(〜71)。 恭愍王が暗殺される。 が即位(〜88)。 親明派の武将(ともいわれる )がクーデターを起こし実権者になる()。 の制定。 が暗殺される。 (征東行省) がを服属させた後に設置、当初は政治と軍事を統括する臨時の機関で、の一つ。 の前線機構とされたことから日本行省または征日本行省とも称される。 後に常設され、朝鮮半島全土に及ぶ行政・政治・軍事の執行機関となった。 にが朝鮮半島北西部を支配するため設置した統治機構。 以北を管轄し、高麗支配の拠点とされた。 に高麗に返還。 に元が和州(現在の近く)に設置した統治機構。 に奪還。 近世の朝鮮半島 [ ] 詳細は「」を参照• (ともいわれる )が高麗のから王位をし、高麗王に即位。 よりとして認められる。 李成桂がに冊され、国号が朝鮮となる。 明の皇帝から、新たな国号を「」と「和寧」の2案から選んでもらうという形式的手順を踏んだ。 と国交回復、日朝貿易盛んとなる。 が譲位して、が即位(〜1450)。 倭寇征伐を理由としてに遠征する()。 の制定(公布)。 首陽大君(のちの第7代国王・)による政権奪取。 (死六臣が処刑される)。 の制定。 世祖が崩御し即位(に崩御)。 が起こる。 の治世に『』頒布(に施行)。 に対する弾圧が始まる()。 が起こる。 がクーデターにより失脚し、が即位()。 の活動等を統制したため、3港で日本人と援軍の宗軍による暴動が起こる()。 が起こる(の改革政治が挫折)。 崩御(在位-1545年)。 が起こる。 己卯倭変(全羅道)。 謀設置。 - ( )。 1565年 文定王后死去。 尹元衡、鄭蘭貞が自決。 の終焉。 以後、士林派同士の対立が続く。 東人・西人の党争の始まり()。 ( )。 -来朝。 京畿道でを実施。 以後、約100年をかけて全国に拡大。 李氏朝鮮と対馬の宗氏との間で(慶長条約)が結ばれ、貿易が再開される。 により紅夷砲製造伝わる。 のが朝鮮に親征()。 朝鮮国王、に篭城。 仁祖降伏()。 明に替わり、清の皇帝を認める()。 、 ()。 の『朝鮮幽囚記』により西洋世界に存在が知られる。 即位(在〜1720年)により、南人が政権を握る。 の治世に起こる。 ()(が賜死)。 白頭山にを建立。 - の治世に、壬寅の獄起こる(、)。 即位(在〜1776)。 ( )。 を実施。 の治世に老論に対立していたが政界の陰謀 デマ により、王命により米櫃の中に閉じ込められ、餓死する。 即位 〜1800。 がの書籍を持ち込む。 による(世界遺産 建設。 朝鮮後半の全盛期。 カトリック弾圧。 の治世、による権勢政治( - )。 士林派の終焉。 (地方差別に反発した一揆)。 軍艦が立ち寄り、翌年から乗務員のらが朝鮮航海記を相次いで出版。 政権の成立(-)。 1月にロシア船現れ通商求める。 3月にフランス人司教などキリスト教徒大量虐殺()。 8月にアメリカとの間に。 10月に軍により江華島の一部占拠()。 (ドイツ商人による大院君恐喝未遂事件。 シャーマン号事件の賠償と門戸開放を求めて来朝した軍艦5隻のアメリカ大遠征軍と交戦し、江華島が占領される。 朝鮮大飢饉。 高宗が成人し親政を宣言、大院君を退ける。 日本の軍艦に向けて朝鮮が突然発砲して、応酬合戦となった事件。 明治新政府とを結ぶ。 大院君扇動による壬午軍乱()が失敗し、清政府とを締結。 ゜米朝の友好関係構築のためアメリカへ初の朝鮮政府訪問団を送り、朝鮮にはが駐在する。 (甲申事変)、のクーデターは失敗に終わり、の勝利となる。 (第一次)。 (第二次)。 (東学党の乱)。 大院君派と閔妃派の対立が深まる。 で陸上戦闘の主戦場となる。 (〜)。 朝鮮が独立国であることを確認。 朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止される。 親露反日政策をとった閔妃(明成皇后)が暗殺される()。 高宗が自主的にロシア大使館に軟禁され施政を行う(〜)。 近代 [ ] 詳細は「」を参照• を結び、にされる()。 韓国から朝鮮に国号を戻し、京城にが設置される。 1919年。 ・・らがのでを設立。 1920年 朝鮮を日本の食料供給地とするが始まる。 1920年 東部のでが激化し、が日露住民を虐殺するにが協力する。 1920年 がに嫁ぐ。 1920年 東部のに朝鮮人亡命者が集まり、中国人の馬賊と結んで、が起こすが、翌年で壊滅。 1929年。。 1931年 で朝鮮人のが高まり、朝鮮華僑の虐殺事件()が勃発する。 1933年 がを発表する。 1934年 施行。 1937年。 1937年 が発布される。 1938年 施行。 1940年 2月から8月にかけてが行われる。 1941年 日本がやに宣戦布告。 (()勃発)• 1942年。 1944年 施行。 1945年 にともない、が。 1945年 で朝鮮を分割し、を分割武装解除することを内容とする「一般命令第一号」を、がソビエト連邦に通告。 ソビエト連邦も命令内容に同意した。 後にで設立される。 に移転し、を創設。 現代 [ ] との韓米貿易協定に抗議する数十万人の市民() 連合軍軍政期 [ ] には「北朝鮮」およびに「南朝鮮」との表記が出現するが、この時代における「北朝鮮」はソビエト連邦軍政下の朝鮮地域を、「南朝鮮」はアメリカ軍政下の朝鮮地域を意味する言葉として用いられている。 がの受諾(の)を表明()し、朝鮮半島での日本の統治終了が決定。 大日本帝国がに調印し、第二次世界大戦が終結。 朝鮮が正式に軍の管轄下に入る(北緯38度線以北をソビエト連邦軍が、同以南をアメリカ軍が管轄)。 でらによって結成された「」、「」樹立を宣言。 米陸軍中将の米第24軍団第一陣、に上陸。 9日、が降伏文書に調印。 アメリカ合衆国が南朝鮮でを宣布。 10月 アメリカ合衆国が「朝鮮人民共和国」および「朝鮮建国準備委員会」の承認を拒否する。 10月 北朝鮮で北朝鮮共産党臨時人民委員会樹立。 12月。 朝鮮半島の英米ソ中の4か国による最長5年間の信託統治の必要性決定。 30日、韓国民主党党首の宋鎮禹が金九系の民族主義者により暗殺される。 でも加わったが発生。 北朝鮮で北朝鮮臨時人民委員会樹立。 南朝鮮で勃発。 北朝鮮で樹立。 南朝鮮で勃発。 南朝鮮で勃発。 米ソ両国が、南北にそれぞれ自国のを樹立する(に南側で初代大統領率いる「大韓民国」(以下、韓国)、に北側で首相率いる「朝鮮民主主義人民共和国」(以下、北朝鮮)が樹立宣言。 ) 朝鮮戦争 [ ]• (韓国では「韓国戦争」「韓国動乱」「六二五事変」、北朝鮮では「祖国解放戦争」と呼ばれる。 北朝鮮のがを南侵することで勃発。 6月〜。 米軍を中心に結成されたが参戦。 1950年9月15日• 10月 のが戦闘に参加。 7月〜 停戦会談を実施。 でが調印、(DMZ)確定。 大韓民国(韓国) [ ] 詳細は「」を参照• 政権…初代 - 第三代( - )• 政府樹立を宣言。 李承晩、初代大統領就任。 領有宣言。 日本に返還を要求。 北朝鮮のがを南侵、韓国への先制攻撃を発端に勃発。 夏から。 の宣言(参考:、)。 でが調印、北朝鮮との(DMZ)確定。 で政権崩壊。 政権…第四代大統領(1960年 - )• この時期は議院内閣制のため、実質的な権力は首相のにあった。 ()、、• 政権…第五代 - 九代大統領( - )• により政権を奪取。 1963年 の座に就く(第三共和国)。 を締結する。 1965年 に参戦。 1965年 (第一次)が発生。 国家非常事態を宣布。 北朝鮮と同時に(七・四共同声明)を発表。 1972年 を構築(第四共和国)。 が発生。 朴正煕大統領が側近に暗殺される()。 政権…第十代大統領( - )• 政権…第十一代・十二代大統領( - )• 1987年。 政権…第十三代大統領( - )• 北朝鮮と同時加盟。 政権(文民政府)…第十四代大統領(1993年 - )• が発生。 米国の対北戦争を水際で回避。 全斗煥、盧泰愚を光州事件などに関して訴追。 政権(国民の政府)…第十五代大統領(1998年 - )• (北朝鮮宥和政策)を開始。 との初のを実施(2000年6月)。 日本大衆文化開放を開始。 政権(参与政府)…第十六代大統領(2003年 - )• 国会がを可決。 が大統領職務を代行。 第17代国会議員総選挙で圧勝。 国民、弾劾拒否の意思を示す。 2004年 憲法裁判所、弾劾訴追を棄却。 盧武鉉が大統領職に復帰。 政権…第十七代大統領(2008年 - )• 四江(、、、)整備事業を始めた。 首都・で首脳会議が開催された。 政権…第十八代大統領(2013年 - )• 国会でが可決、が大統領職務を代行。 政権…第十九代大統領(2017年 - 現在)• 2月 開催。 2018年 北朝鮮のとを実施。 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮) [ ] に臨む韓国の大統領と北朝鮮の朝鮮労働党委員長(2018年4月27日)• 体制( - )• 首相率いる 建国宣言。 南北朝鮮の主要政党団体の集結により、「」が結成される。 1949年6月 成立。 金日成が中央委員長に就任。 (北朝鮮軍)がを南侵、韓国への先制攻撃を発端に勃発。 でが調印、韓国との(DMZ)確定。 休戦後、金日成がなどを粛清。 4月 第3回大会開催。 1956年 、の、のなどが金日成に粛清される。 8月 制度が確立される。 9月 朝鮮労働党第4回大会開催。 11月 朝鮮労働党第5回大会開催。 大韓民国と同時に(七・四共同声明)を発表。 1972年 金日成の反対勢力への粛清が完了。 が制定され、新設ポストのに金日成が就任。 金日成の後継者問題が浮上。 「朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法」における国家の公式理念が、「」から「」に変更される。 10月 朝鮮労働党第6回大会開催。 1月 第3次7ヵ年計画(事実上最後の経済開発計画)の遂行に着手。 (に未完遂で終わる。 7月 首都・平壌でが開催される。 加盟(大韓民国と同時加盟)• ()、実子・長男のへの世襲による権力継承。 体制( - )• 韓国の大統領との初めてのを実施。 15南北共同宣言」を発表。 2002年 、• 2004年 日本からの人道支援の残りの15万5,000トンが停止される。 製造・保有を公式に認める。 が決議第1695号を採択。 核実験実施を発表。 が決議第1718号を採択。 、実子・三男のへの世襲による権力継承。 体制( - 現在)• 5月 祖父で初代最高指導者体制下の以来、36年ぶりの(第7回)を開催。 金正恩が北朝鮮の最高指導者として史上初めてのを超えてを訪問し 、とを実施し、「」を発表。 金正恩がアメリカ合衆国大統領と、にてを実施し、共同声明を発表する。 アメリカの現職大統領と北朝鮮の最高指導者が直接対面し会談を行うのは史上初。 脚注 [ ] []• 松井裕之, 多田隆治, 大場忠道、「」 『第四紀研究』 1998年 37巻 3号 p. 221-233, :• 『日本の誕生』p. 長浜浩明『韓国人は何処から来たか』pp. 16-21• 長浜浩明『日本の誕生』pp. 54-55• 長浜浩明『韓国人は何処から来たか』 2014、pp. 28-33• 小片丘彦「朝鮮半島出土古人骨の時代的特徴」『鹿児島大学歯学部紀要』 18 , 1-8, 1998• 長浜浩明『韓国人は何処から来たか』 2014、pp. 34-38• 小片丘彦「朝鮮半島出土古人骨の時代的特徴」『鹿児島大学歯学部紀要』 18 , 1-8, 1998• 金両基監修『韓国の歴史』 2002、p. 長浜浩明『日本の誕生』p. 金両基監修『韓国の歴史』 2002、pp. 4-5• 『日本人はるかな旅 4 』NHK出版、p. 長浜浩明『日本の誕生』pp. 59-62• 松菊里遺跡の水田跡• 崎谷満『DNA・考古・言語の学際研究が示す新・日本列島史 日本人集団・日本語の成立史』(勉誠出版 2009年)• は、「前漢武帝が元封三年に朝鮮半島の北部を植民地として楽浪・臨屯・玄菟・真番の四郡を設置」と記している( 『人物』・ [ ]編、大修館書店〈日中文化交流史叢書 第10巻〉、1996年10月。 記者は、「楽浪郡は前漢が前108年に設置した植民地( 渡辺延志 2009年3月19日. 朝日新聞. 2011年6月1日閲覧。 )」「中国の前漢が朝鮮半島に置いた植民地・楽浪郡( 渡辺延志 2010年5月29日. 朝日新聞. 2011年6月1日閲覧。 )」「漢字が植民地経営のために、朝鮮半島にまで広がっていた( 渡辺延志 2010年5月29日. 朝日新聞. 2011年6月1日閲覧。 )」と説明している。 は、「は、朝鮮半島にあったの植民地、から邪馬台国にいたる道筋を詳しく記している」と述べている(武光誠「古代史最大の謎邪馬台国の21世紀的課題」『』2008年6月号 87頁)• 『日本の誕生』岩波書店〈岩波新書〉、1997年6月。 74-78. 『任那興亡史』31P-200P• 小片丘彦「朝鮮半島出土古人骨の時代的特徴」『鹿児島大学歯学部紀要』 18 , 1-8, 1998• 70)、、玉名郡などに比定する説がある。 35)。 『三国遺事』では龍城国とされる。 『満鮮史研究 近世編』 中央公論美術出版• 「朝鮮王朝の成立と両班支配体制」 編集『朝鮮史』山川出版社• 『日韓がタブーにする半島の歴史』• 『哀しき半島国家韓国の結末』、、160頁「李氏朝鮮は、元が衰退したのちに親『』であった女真族の李成桂が建国し、コリア半島をほぼ制圧したあと、に明に・した。 父の李子春は、元の直轄領となっていた咸鏡道地域の双城総管府に使える武人であった。 この地域は女真族が多く住んでいた。 李成桂が武臣として台頭するにあたっても、その配下の女真人の力が大きく作用した。 研究室『』• 『朝鮮史』武田幸男編184頁• 箕子朝鮮の建国者である箕子については、『』巻38宋微子世家に「武王既克殷、訪問箕子、於是武王乃封箕子於朝鮮・・・」とあり、殷を出自とする中国人となる。 『』には「初、朝鮮王準為衛滿所破、乃將其餘衆數千人走入海、攻馬韓、破之、自立為韓王。 (初め、朝鮮王準が衛満に滅ぼされ、数千人の残党を連れて海に入り、馬韓を攻めて、これを撃ち破り、韓王として自立した。 )」と記されており、がを滅ぼした際にの最後の王、は数千人を率いて逃亡し、馬韓を攻め落として韓王となって馬韓を支配したという。 岡田英弘『日本史の誕生』筑摩書房,2008., pp. 38-42• 岡田英弘『日本史の誕生』筑摩書房,2008., p. 岡田英弘『日本史の誕生』筑摩書房,2008., p. 岡田英弘『日本史の誕生』筑摩書房,2008., p. 25-27• 衛氏朝鮮の建国者である衛満については、『』朝鮮伝に「朝鮮王満者、故燕人也」とあり、燕を出自とする中国人となる。 シロコゴロフ、・訳『シロコゴロフ 北方ツングースの社會構成』(1942年、岩波書店)p285-p287「鳥居龍蔵氏は彼らを北朝鮮の強国、夫余及び高句麗の建設者と見做し、彼等をツングースであろうと考えている。 『白鳥庫吉全集 第4巻』(1970年、岩波書店)P536「『濊貊は果たして何民族と見做すべきか』濊貊の言語には多量のTunguse語に少量の蒙古語を混入していることが認められる。 想うにこの民族は今日のSolon人の如く、Tunguse種を骨子とし、之に蒙古種を加味した雑種であろう。 、他訳注『東アジア民族史1-正史東夷伝』(1974年、平凡社)p103「(高句麗、夫余の)両族は、ともにツングース系と考えられている。 両族が同系であることは始祖神話(東明・朱蒙伝説)の類同によっても推測できよう。 『北東アジア民族学史の研究』(1986年、恒文社)p156「高句麗は北扶余から発したというが、その北扶余がツングース・満州語族に属することは定説となっている」• 『古代朝鮮と倭族』(1992年、中央公論社)「高句麗は紀元前1世紀末、ツングース系の濊族によって建国」• 『日本大百科全書』「【濊貊】前3世紀ごろモンゴル系民族に押し出されて朝鮮半島北東部に南下し、夫余、高句麗、沃沮を構成したツングース系の諸族を含むのである」• 『日本大百科全書』「【夫余】古代中国の東北地方に割拠していたツングース系と思われる民族が建てた国名」• 『日本大百科全書』「【満洲族】夫余と靺鞨はツングース系の民族ではないかと考えられている」• 『日本大百科全書』「【騎馬民族】高句麗は東北アジア、満州にいたツングース系民族」• 「朝鮮で高句麗や百済を建国した夫余族はツングース系の遊牧民族()」• 『韓国は日本人がつくった』(2002年、徳間書店)「遼東や北満の地は、かつて高句麗人、渤海人などの(中略)ツングース系諸民族が活躍した地である」• 「【高句麗】紀元前後、ツングース族の扶余の朱蒙の建国という」• 「【高句麗】紀元前後にツングース系の扶余族の朱蒙が建国」• 「私の見解では、高句麗は、建国の始祖である朱蒙がツングース系(満州族)であり、韓民族を被支配者とした満州族による征服王朝であつて、韓民族の民族国家ではないと考へている。 ()」• 『古代史の謎は鉄で解ける』(2015年、PHP研究所)「高句麗はツングース系の騎馬民族がつくった国家で、定住化によって遊牧から次第に離れたが、騎馬による戦力は絶大なものがあった。 『哀しき半島国家韓国の結末』(2014年、PHP研究所)p160「高句麗は紀元前三七年、マンジュ地方の鴨緑江付近で興ったツングース系国家であり、四世紀中ごろに南下して、楽浪郡北部を征服した。 『日本古代の貴族と地方豪族』(1992年、塙書房)、p259「今の北朝鮮に当る部分にはツングース系の高句麗」• 『日本人と日本文化の形成』(1993年、朝倉書店)p211「歴史時代に興亡した扶余も、靺鞨も、高句麗や渤海も、濊や沃沮などもツングース系だといわれている。 『世界史研究』(1953年、績文堂)p128「高句麗(北満の半農半牧のツングース族が漢代以後中国文化の影響により興り建国)」• 『ことばの発見』(1975年、中央公論社)p87「東洋史の上で遼とか金とか高句麗とか渤海とか清とか言うのもツングースである。 『古代東北アジア史研究』(1966年、吉川弘文館)p87「広く東北アジアに居住する諸族を当昔にわたって見わたすと、東部シベリアから、東満洲、北朝鮮の山岳森林地帯には、古の貊や高句麗、中世以後の女真、満洲など、いわゆるツングース系の語族が変らない大勢力を擁していたことがわかる。 『民衆と戦争』(1978年、東明社)p40「オロッコ-ツングースなどから成る高句麗が次第に南進して百済を圧迫するに至った。 『世界史の意識と理論』(1997年、岩波書店)p116「すなわち、五胡が中国の華北に侵入し、騎馬民族の高句麗が朝鮮に勢力を拡大したころ、高句麗と同じツングース系の騎馬民族」• 『辺界の輝き』(2002年、岩波書店)p32「ツングース族などの騎馬民族系は、南下してきて朝鮮の北部に高句麗を建国します。 話が長くなるので略しますが、それから百済王朝を攻め滅ぼします。 『広開土王碑文の研究』(1993年、古川弘文館)p49「『言語法俗大抵与句麗同』というから、高句麗と同系で、恐らくツングース系の民族であったろう。 『古代の出雲』(1972年、吉川弘文館)p300「朝鮮半島へ南下した大陸系北方民族が、高句麗にしても、扶余にしても、濊にしても、いずれもみな満州に原住したツングース系統と考えられている。 『松永安左ェ門の生涯』(1980年、松永安左ェ門伝刊行会)p1073「朝鮮には、西暦紀元頃、ツングース系の高句鹿と、そして漢民族の移民とが住んでいたという。 『地域と農耕と文化』(1998年、大明堂)p317「高句麗や渤海も、濊や沃沮などもツングース系の民族だといわれている。 『日韓がタブーにする半島の歴史』(2010年、新潮社)p193「(中国の史書には)高句麗などのツングース系民族と韓族との間には、比較の記述がない。 (民族が)違うことが大前提であり、わざわざ違うとは書いていない」• (辰韓は馬韓の東、そこの古老の伝承では、秦の苦役を避けて韓国にやって来た昔の逃亡者で、馬韓が東界の地を彼らに割譲したのだと自称している)」によると、新羅は古くは辰韓=秦韓と呼ばれ、の労役から逃亡してきた秦人の国という。 また、『』新羅伝には、「新羅者、其先本辰韓種也。 地在高麗東南、居漢時樂浪地。 辰韓亦曰秦韓。 相傳言秦世亡人避役來適、馬韓割其東界居之、以秦人、故名之曰秦韓。 其言語名物、有似中國人。 (新羅とは、その先は元の辰韓の苗裔なり。 領地は高麗の東南に在り、前漢時代の楽浪郡の故地に居を置く。 辰韓または秦韓ともいう。 相伝では、秦時代に苦役を避けて到来した逃亡者であり、馬韓が東界を割譲し、ここに秦人を居住させた故に名を秦韓と言う。 その言語や名称は中国人に似ている)」との記述がある。 は、辰韓の民の話す言語は秦の人に似ており、辰韓は秦韓とも呼ばれていたため、実際にからのと考えて間違いない、と述べている(『謎の渡来人秦氏』2009年、文春新書 36頁)。 そのため、中国政府のであるは、公式研究書で新羅に対して、「中国のの亡命者が樹立した政権」であり、「中国の藩属国として唐が管轄権を持っていた」と記述している• 鈴木靖民ほか著『伽耶はなぜほろんだか』、大和書房、1998 (初版1991)• 『三国志』東夷伝、『宋書』夷蛮伝• によると、『日本書紀』512年条に「任那四県」の百済への割譲が記載されるなど、任那は日本の影響下にあったとされる。 『日中韓2000年の真実』扶桑社新書• 北朝鮮も渤海を朝鮮の歴史の一部とみなしているが、「南北国時代」なる用語は使わず「渤海及び後期新羅時期」と表記している。 『日本大百科全書』「【渤海】現在の中国東北地方、ロシア連邦の沿海州、北朝鮮の北部にまたがる広い範囲を領有して栄えた満州ツングース系の民族国家」• 『日本史事典』(1990年、東京創元社)「【渤海】7世紀末から10世紀前半にかけて、中国東北地方にあったツングース系民族の国家。 高句麗の同族である靺鞨から出た大祚栄により建国された」• 『日本大百科全書』「【シベリア】7~10世紀には極東地方から満州、朝鮮北部にツングース系の渤海国が建てられた」• 『韓国は日本人がつくった』(2002年、徳間書店)「遼東や北満の地は、かつて高句麗人、渤海人などの(中略)ツングース系諸民族が活躍した地である」• 『日本大百科全書』「【満洲族】夫余と靺鞨はツングース系の民族ではないかと考えられている」• 『世界史用語集』(2014年、山川出版社)「【靺鞨人】中国東北部に東部にツングース系諸族。 6世紀半ば勿吉の崩壊後の部族の総称」• 『日本大百科全書』「【靺鞨】6世紀後半から中国東北の松花江流域を中心に、北は黒竜江中・下流域、東はウスリー川流域、南は朝鮮半島北部に勢力を振るったツングース系諸族の一派」• 「【靺鞨】ツングース族の一。 粟末靺鞨の首長大祚栄は渤海国を起し、また黒水靺鞨は後に女真と称した」• 「【渤海】698年、ツングース系靺鞨族の首長大祚栄が建国」• 「【靺鞨】中国、隋・唐の時代に、中国東北部から朝鮮半島北部に住んでいたツングース系諸族の中国側からの呼び名。 七部に分かれ、その一部である粟末部は、渤海国を建国。 黒水部はその支配下に入らず、のちに女真と称された」• 「【靺鞨】中国、隋唐時代に東北地方から朝鮮半島北部に居住したツングース系諸族の総称。 勿吉崩壊後、有力な七部に分立、粟末部を中心に渤海を建てたが、黒水部は対立してのちに女真族となった」• 『いっきに学び直す日本史』(2016年、東洋経済新報社)「7世紀に満州で建国したツングース族の渤海は、唐や新羅に対抗するため、727(神亀4)年に朝貢してきた。 『中國征服王朝の研究』第1巻(1964年、東洋史硏究會)「渤海人はもともとツングース系の狩猟民であるが、かつて渤海國をおこし尚文化を掃取したので、キタイ族・奥族よりは定著し農耕化していたようである。 『ことばの発見』(1975年、中央公論社)p87「東洋史の上で遼とか金とか高句麗とか渤海とか清とか言うのもツングースである。 『日本人と日本文化の形成』(1993年、朝倉書店)p211「歴史時代に興亡した扶余も、靺鞨も、高句麗や渤海も、濊や沃沮などもツングース系だといわれている。 『東洋史要説』(1960年、吉川弘文館)p176「渤海も唐の制度、文物を輪入し、唐にならって三省六司の制を設け、十五府六十二州の地方区画や五丹江の上流域に拠り、ツングース系の半狩猟半農耕民の靺鞨人を統合して独立し、唐から渤海郡王に封ぜられ」• 『中国年鑑』(2002年、大修館書店)p393「古くからツングース系の諸族が興亡をくり返した地であるが、周王朝の時代から朝貢をおこなっていたとの記録もある。 靺鞨族により創建された渤海国」• 『民族文化史概説』(1943年、全國書房)「遼の契丹族に遂はれたツングース系渤海の後身で女眞族」• 『地域と農耕と文化』(1998年、大明堂)p317「高句麗や渤海も、濊や沃沮などもツングース系の民族だといわれている。 『高麗史』一百四 列伝 巻十七 伝「十五年、帝欲征日本、詔方慶與茶丘、監造戰艦。 造船若依蠻様、則工費多、将不及期。.. 用本國船様督造。 『元史』 卷十二 本紀第十二 世祖九 十九年七月壬戌(8月9日)の条 に「高麗国王請、自造船百五十艘、助征日本。 新聞集成明治編年史第一卷、林泉社、1936-1940• 国号改称(明治43年8月勅令318号)- 韓国ノ国号ヲ改メ朝鮮ト称スルノ件ヲ裁可シココ二之ヲ公布セシム韓国ノ国号ハ之ヲ改メ爾今(じこん)朝鮮ト称ス• (2015年11月9日付記事)]• 2018年4月19日. 2018年4月28日閲覧。 2018年4月27日. 2018年4月28日閲覧。 2018年4月27日. 2018年5月1日閲覧。 AFP BB NEWS Japan 2018年4月27日• 2018年4月27日. 2018年4月28日閲覧。 参考文献 [ ]• 『日本の誕生』岩波書店〈岩波新書〉、1997年6月。 『古代朝鮮』日本放送出版協会〈NHKブックス172〉、1972年。 『古代朝鮮』講談社〈講談社学術文庫〉、2004年10月。 『韓国の歴史』監修、、2007年9月。 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。

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